モノキュラーというのは単眼鏡のことで、双眼鏡を持ち出すのは仰々しいが、少し遠くで細かいところをよく見たい、と思った時に便利なものだ。数十糎(センチ)の距離にあるものをクローズアップするという、一寸変わったこともできて、切削中のドリルの先端を危なくない距離から観察する、というようなことにも使える。
このページは田舎から出てきて大手町勤務となった私がまるで「田舎の鼠と都会の鼠」ばりに、東京の中心を眺めよう、目についたことを書き留めよう、という日記だ。
迷彩スーツ(2004/4/27)
大手町界隈は、環境を形成している要素がビルディングと人間だけという単純な生態圏の故か、環境の主構成要素である人間が、(外見上)単純化されるという現象が起きている(内面もかも)。例えば、地下鉄の通路を歩くと、反対側を流れるように歩くビジネスマンは全員と言える程、紺、黒、灰色等の暗い色のスーツを着込んでいる。目の子で勘定しても、茶系のスーツを着込んでいるビジネスマンの割合は1%以下だ。紺、黒、灰色等のスーツ姿は、特に地下道の古い部分で少し照明の落ちているところなどで眺めると、全員真っ黒と言っても過言ではない。じゃビジネスウーマンはどうよ、と問われると、男性ほど単純ではないものの、大同小異であると答えたい。
大手町地区は丸の内の再開発の影響で、地下道もリフォームされている場所が多い。新しい地下道の壁面には、蛍光灯で眩しく照明された広告ウィンドウが、点々と配置されている。広告を目立たせるためには、内容と無関係に、若い女性の写真を加えるのは常套手段であるが、大手町周辺ではこれに少しひねりを加えている。ビジネスウーマンが海外との間でビジネスを展開する、というイメージが、全面に出されているのだ。曰く、西欧人と書類片手にディスカッションしているイメージ。曰く、都市の遠景写真を背景に上海、北京の文字を見つめるイメージ。等々。
この類いの広告のビジネスウーマンはおしなべて、暗色のビジネススーツを着ているが、実際の大手町の歩道、地下道を歩いている女性は殆ど明るい色の上着を着ている。紺色のビジネススーツの女性は新入社員だけのように見える。どうやら、最初は暗色のスーツだったビジネスウーマンが、途中で衣替えをしたのだと推測される。原因が、見えない天井にぶち当たったのか、オヤジと同じ色のスーツが嫌になったのか、スーツだと肩が凝るからなのか。判然としないが、おそらく色々の原因が混ざった結果なのだろうと思われる。
さて、暗色のビジネススーツを脱ぎ捨てたから、ビジネスウーマンがビジネスマンより個性的かと言うと、そうでもなくて、皆、ベージュを基本とした色遣いの洋服、少し茶の入った中途半端な長さのシャギー、先の尖った靴、モノグラム入りのバッグを抱えている。頭蓋骨に貼付けたような薄い皮膚の顔を痩せた肩に載せて、今日も地下道を歩いているビジネスウーマンは、どこかしら広告の女の雰囲気を持ち、そして区別のつかない程、皆よく似ている。
古くて薄暗い地下道で、狭い通路でぞろぞろと、この黒い服装のビジネスマンが流れていくのを眺めると、かつてサラリーマンの群れが、ドブネズミと呼ばれていたことを思い出す。尤も私もそのドブネズミの一匹になっているので、この人々の群れに紛れ込んでいることには、安心感さえ覚える。こうして大手町という環境は、安楽だがますます単純化されていくのだと思われる。
皇居の雀(2004/4/28)
畏れ多くも皇居内堀の南東の端、和田倉門にて昼食を取る事が多い。大手町、丸の内界隈はピカピカのビルが立ち並んで、人間が中にぎっしりと詰まっている。詰まっている人間の熱気と想念がこの界隈には渦巻いている。昼時くらいにはこれから離れて、緑を見たいと思うからだ。
和田倉橋のたもとの交番の前を曲がって橋を渡ると和田倉門だ。この和田倉橋、欄干は木製で少しは昔の風情を出そうとしているところが好ましい。お堀には大体白鳥と鵜が居て、鵜は羽を広げて体を日に暖めているし、白鳥は尻を上に持ち上げた、みっともない姿で水面下の餌をあさっている。
なかなか気持ちよい橋の真ん中をゆっくりと渡るとよい。橋を渡っても現在は門があるわけではない。作法通りに二度程直角に道を曲がると広場に出る。和田倉門噴水公園と名付けられていて、なんとも言いようのない噴水装置が並んでいる。この噴水装置、決められてシーケンスに沿って、水を吹き上げたり、高い棚の上から滝のように水のカーテンを垂らしたりするのだが、少し風が強いとしぶきを広場一杯に撒き散らす。循環式噴水の水中で培養されたレジオネラ菌がしぶきとなって、老人の広げる弁当に降り掛かっているんじゃなかろうかと、余計な心配をしてしまう。自分のことなんだが。
広場の北と東の縁にはけやきが植わっていて、四月の始めにはまだ、枝の先に緑がぽやぽやと固まっていたのだが、月の末にはすっかり緑がそろって木らしくなっている。普段はこの木の下に設えられた大理石の腰掛けで弁当を使うのだが、公園の入り口にはレストランとこれに併設したオープンデッキがある。このオープンデッキ、天気のよい日は置かれているプラスチックの椅子もテーブルもサラリーマンで埋っているのだが、ある寒い日、人気がなかったので、このデッキに上がり、椅子を公園に面するプランターの所まで曵いてきて、昼飯とすることとした。
かの噴水を眺めながら握り飯を食っていると、チュンと鳴く声がする。むろん雀なのだが、足元わずか数十糎のところ、木のデッキに舞い降りていて、横顔をこちらに向けて、つまり雀は両眼視でないので、片眼をこちらに据えて私をみつめているのだ。飯粒を落としてやると早速啄(ついば)んだ。これを認めてたちまち他の雀が二三羽集まってきた。
雀が人を恐れずに、こんなに間際にやってくるというのは初めての経験なので、こちらも雀をじっと見つめた。背中の茶と黒と白の羽の模様の具合や、胸元の黒い飾り、白い耳元等、さすがに皇居の雀とみえて、薄汚れてはいない。少し頭が大きくて不格好な気もするのだが。この二三羽の雀、すぐに飛び去るかと思ったが、今度はプランターのバンジーの植え込みの間に潜り込んで、こちらをしばらく窺っていた。飯粒を待っていたのだが、こちらも皇居のやんごとない人々と違って、意地が悪く、残りは自分の胃袋に収めてしまった。
二三日経って、また昼飯を使いに行ったら、また雀がやってきたので、また飯粒を与えた。鳩もやってきた。鳩は、皇居住まいではなく、神田の生まれの疑いが晴れなかったので、餌は与えなかったのだった。
コンビニの店員(2004/5/7)
各ビルの地下にはコンビニのあることが多い。昼休みになるとレジの前に長い列ができる。住宅街のコンビニと違っているのは、皆、篭を持たず、弁当、おにぎり、飲み物、菓子パン等を手に持って並んでいるところだ。品揃えも少し違っていて、午後遅くなって小腹の空いた時のためのスナック類が多く取り揃えられている。中には、お腹が空いてもお腹の鳴らないようにする、コンニャク芋由来のビスケットだの、一箱千円の値札のついた、カロリーオフだが、満足感の得られるダイエット食品、等も並んでいる。
各コンビニの店員が、殆ど中国人だというのも特徴的だ。皆、胸にカタカナで中国名を記した名札をつけているし、いらさいませ〜、と挨拶するのでそれと判る。これらのコンビニの売り上げは、昼休みに集中しているに違いない。短時間で集中的にやってくる客をさばくためには、店員の数が必要だが、店の入っているビルは、夜間は閉鎖されるし、朝早くに客はいないので、そんな時には店員は少なくてよいとなると、人件費の安い外国人を雇うようになるのだと思われる。
同じ経済原理が、大手町界隈のレストランや飲み屋にも働いていて、この場合には昼時と夕方に(夜ではない、サラリーマンは帰宅しなければいけないからだ)客が集中するのだが、注文とりにやってくるのは中国人が多いと判る。いらさいませ〜、と言うからだ。しかしながら、一仕事終えて酒でも飲もうかという時に、持ってきた銚子をテーブルにドンと置いていかれる、というのは興醒めでもある。
だからどうなのよ、と言われても困るのだが、ビジネスマン/ウーマンは日本人と西洋人、食い物屋は中国人というカーストが導入されるのは如何なものか、ということだ。カーストは宗教という場があることにより存続されるのだが、大手町には宗教施設が皆無なので、カーストは容易に差別に移行し得る。
ところで宗教施設が皆無と言ったが、平将門の首塚が大手町の、ど真ん中にあって、宗教施設と言えなくもないただし将門が怨霊を鎮めるためのものだから、一般の町に神社があることを思うと、大手町がかなり特殊な場所であることに思い至る。町ではなくて大手門前仕事所というのが相応しい。
弁当ワゴン(2004/5/7)
正確には、お持ち帰り弁当を販売しているワゴン車が、あちこちに出現する、という話だ。大手町では、新装成ったサンケイビルの東側、逓信総合博物館に挟まれた通りに面した広場に、このワゴン車が集まる。平日の昼時にはこれが四、五台も広場に停まって、バラエティに富んだ弁当を売り出している。値段は四、五百円から七百円程度で、ビル地下のレストランのランチよりは二、三百円安い。
車列(2004/5/18)
先日、昼休みに例の和田倉門方面へ歩いていたら、見慣れないものを見た。遠目で残念であったが、確かに馬に騎乗した衛視と馬車の列である。これが名高い信任状奉呈式に向かう車列かと気付いた。ちなみに信任状奉呈式とは、外国から赴任してきた大使が自国の元首から預かってきた信任状を、皇居で天皇陛下に奉呈する儀式のことで、このために、各国大使は、東京駅から馬車に乗って、皇居へと向かうのだという。
残念ながら僅かのタイミングのずれで遠目となってしまったが、確かに白馬を先頭に四五頭の騎馬、引き続く二台の馬車、後を守る白馬の衛視という車列が確かめられた。馬は速歩(トロット)で走っていたので、追いかける間もなく二重橋の方面に消えてしまった。馬車が二台続いていたのは大使夫人だろうか、どんな馬車だったのか、もう一度出会って確かめたい。少し調べたら写真があって、こんな具合だ。
だが、実物がビルの端から突然現れる、というのもなかなかインパクトがある。近くによっていたら蹄のアスファルトを打つ音や車輪の音までも聞こえた筈なのに惜しいことをした。
こういう車列を見つけてよい気持ちになっているところで、先日(5月16日)、NHKスペシャル「疾走ロボットカー」という番組を見た。DARPAの予算でロボット自動車を開発するために、そのコンテストを開いた時の様子だ。砂漠を走るロボット自動車の開発を目標として、ラスベガス郊外がコンテストの会場だ。
コンテスト会場は砂漠と山岳地帯がミックスした地形で、ゴールまでは200数十kmあったのだが、最も遠距離まで到達したのが、カーネギーメロン大のチームのロボットだったのだそうだ。NHKの番組もこのチームをメインに放送していた。このロボット、HUMMER(ハマー)を改造して、車の前方をレーザ・プロファイラで確認して走るようになっている。条件のよい場合には時速60kmは出るようだ。スタート地点から約12kmの山道でスタックしたのだそうだが、スピードの出し過ぎと思われる。
DARPAの目的はずばり、中東地区へのロボット車両の投入で、番組の中では輸送車両の自動化などと言っていたが、当然、戦闘車両に応用されるのは間違いない。ターミネータの現実化だ。カーネギーメロン大のチームを率いる教授がまだ若くてイケメンで、いかにも家族を大事にし、妻を愛するよきアメリカ人にみえたのが余計に不気味だった。彼らがそのうち、米国本土から衛星回線経由で、これらのロボット戦闘車を駆使する様子を想像するのは容易だ。チェーンガンの連射でバタバタと倒れる敵兵を見て歓声を上げる、映画のようなシーンが目に浮かぶ。
実に禍々(まがまが)しい。日本に生まれてよかった。アメリカ人に生まれなくてよかった。
p.s.(2007/11/12)DARPAは砂漠を走るだけでは満足していなくて、今度は市街地を走るロボット・カー・コンテストを開催した。Urbar Challenge Final と題されたコンテストは以前に空軍基地(George Air Force Base on 18374 Phantom in Victorville, Calif.)で、現在はビルや家屋を配した市街地を模した陸軍の訓練基地だ。この街中をロボット・カーとロボット・カーに一台づつ付いたチェイサー・カーが、交通規則通り走り回って、行き先指定されたミッションをこなす、というものだ。完走したのは、上位から、カーネギーメロン大学、スタンフォード大学、バージニア工科大学、ペンシルバニア大学、マサチューセッツ工科大学、コーネル大学のロボットで、有名どころが勢揃いした格好だ。三年前までは手作りだったレーザー・プロファイラーが、もう製品化(Velodyne社HDL-64E)されていて、上の完走車6台のうち5台がこれを搭載していたのだという。戦場投入ももうすぐだな。
通勤の痛苦(2004/6/9)
本格的な電車通勤というのは、私が大手町に異動して初めての経験の一つと言える。本格的と試験的、予備的なんて違いがあるかどうかは不明であるが。
さて、朝の通勤電車というのは独特の雰囲気がある。混んでいる程、人々は息を潜める。私の息が見知らぬ男の肩にかからないように、私の息が見知らぬ女の髪にかからないようにと。こうして各駅停車から急行に乗り換えた通勤の男女の、僅かに上下していた肩の動きは、にわかに押さえつけられたように鎮まり、その息は凝らされるのだ。
こうなるのがなぜか、というのは色んな解釈があるだろうし、大体のところは、人間の周りのプライベート空間の大きさ、なんぞの話で説明されるのだろうが、説明されたから楽になる、というのではないことも、また当然の話だ。こうして、毎朝、混んだ電車に紛れ込んで私は通勤しているのだが、先日、恐ろしいものに出会った。途中の乗換駅では一旦多くの人々が電車から吐き出され、また詰め込まれるのであるが、皆が降りかけたその矢先、背後で只ならぬ気配がする。周りの人も皆、顔を向けた。振り返ってみると男がふたり必死の形相でつかみ合いをしている。つかみ合いをしながら電車からもまれ出た。別の一人が一方の背中からなだめにかかっているが止まらず、つかみ合いはホームでも続けられている。駅員が駆けつけてきて仲裁にかかろうとしている。というところで自動ドアが閉まって、電車は何事もなかったように出発した。
何が恐ろしかったといって、喧嘩自体ではない。つかみ合いの間中、二人が無言であったことだ。喧嘩というのは、最初に言い合い、罵り合いから始まる筈なのに、二人は息を荒くしつつ、黙ったままでつかみ合いをしていたのだ。二人が喧嘩慣れしていたわけではない。片方はよく見えなかったが、片方は小太りの三十代、ごく普通の人に見えた。今までの常識を超えた事が始まった、のだと考えた。直ぐに先日の小学生女子児童殺人事件を思い出した。今までの世の中なら、こんな行動は怒鳴り合うことで、アドレナリンが高まってから起こるはずなのに、息をころして危害を与えることのできるのはプロだけの筈なのに、別の何かが起こって来ている、と感じた。
ついでに、毎朝、各車輛で、無言の喧嘩が起きるようになったらどうなるだろうかと、想像したが、恐ろしくなったので止めにした。だが、この日の夕方、バーの止まり木でバーテンにこの話をして、恐ろしがらせてやったのだった。
地下大迷宮ー日本橋方面(2004/6/10)
大手町の地下道が日本で一番長いかどうかは知らないが、長い事に間違いはない。あまり長くて実態が掴めないので、もぐら地図なるものまで用意されているのだ。これを見ると大手町ビルは地下大迷宮の北東の鬼門にあって、地下巡りに相応しい位置にあることが分かる。迷宮に出かけるためには、普通それなりの準備が必要なのだが、大手町から出発する場合は財布以外、何も持たずに済ますことができる。
まずは東西線の上、永代通りの下を続く地下道なんだが、ところどころ屈曲していたり、一ヶ所断面が二米四方くらいの狭苦しい場所のある他は、比較的単調だ。この通路はサンケイビルから東西線に向かう通路と途中で合流している。特にこのサンケイビルとの間の通路は何時も人並みが絶えず、きっちりと左側通行を守ってサラリーマン、サラリーウーマンの列が行き交う様は、哀しくも壮観だ。 さて、永代通りのこの地下道、東京駅八重洲口への分岐を過ぎて、ホームレスの方々が床に出現するようになると、通路の壁もぐっと寂しくなって、間もなく終端となる。鉄鋼ビルあるいは大和証券ビルから、地上に出て右手に曲がれば、八重洲の飲み屋街はすぐ近くだ。帰り道は、雨さえ降っていなければ、永代通りを歩いて戻る方が快適である。
よく使われるのが東京駅へのルートであるが、この図によれば東西線のルートの他に、和田倉門の反対側、東京海上ビル新館からのルートがあることがわかる。
地下大迷宮ー銀座方面(2004/6/16)
今度は、大手町ビルを起点にしてとにかく西に向かう。和田倉門を過ぎ、二重橋前を過ぎ、馬場先門を過ぎてもまだまだ歩く。二重橋駅のあたりは人通りも少なく、使われていない階段が暗闇の地下鉄駅に吸い込まれている場所もあって、夜は不気味と云って良いくらいだ。女性の一人歩きなら心配かもしれないが、真っ直ぐな地下道なので、物騒な連中にいきなり出くわす心配はない。
大手町から十五分程も歩き続けて、やがて東京会館への入口を過ぎると、有楽町線の上の地下道の分岐が左に現れる。これも通り過ぎる。あとわずかで日比谷線の分岐に出るので、この地下道に進路を取る。日比谷線は地図でも分かるが、日比谷通りと直角ではなく、やや西側へと開いている。
有楽町のあたりから、地下道の雰囲気は違ってくるが、銀座に入ったあたりではっきりと、明るく華やかになる。地下道から、地下街に変身するのだ。銀座四丁目で地上に出れば、サラリーマン/ウーマンの割合はぐっと減り、和服の婦人も通りを歩いている。歩道を歩けば、街角の鮮やかな色遣いが眼の隅に捉えられると同時に、風に香りが附いているのがわかる。この街では、足元の足袋の色や草履の形や、着物の柄で、人々の違いが表わされているので、首にぶら下げたIDカードは奇異の目で見られることになる。私もカードは胸ポケットにしまった。だが紐は首にかかったままなので、「私はここではない別の街のビルからやってきました」と云っていることに替わりはないのだ。
大手町からここ、銀座四丁目まで、歩いておよそ30分かかる。ここで昼食をとると、歩いて帰るのには時間的に間に合わなくなる。もちろん地下鉄を使えば、あづま通りから地下にある、小綺麗な寿司屋のランチを取った後でも、昼休みの時間内にぴったりと帰着することができるのだ。
地下大迷宮ー新丸の内ビル(2004/6/29)
大手町ビル北の、千代田線上の地下道を歩いて、三田線大手町駅を過ぎたあたりで左側の階段を上がる。途中の踊り場から、東京海上ビル新館の地下商店街に入ることができる。そのまま右手に進むと短い通路を挟んで同じく東京海上ビルの本館に入ることができる。そこにも地下商店街があるのだが、今回は、新館の地下商店街の奥へ進んで、東京駅を目指す。
新館の奥に目立たない通路があって、新丸の内ビルから東京駅北口の地下コンコースに通じている。階段を昇り降りして、新丸の内ビルの地下通路は、シャッター通りと化している。掃除が行き届いていなかったら廃墟にもう一息、という風情だ。地下通路から少し奥に、この新丸の内ビルの階段室が見えていて、古めかしいタイル張りの内装が、薄暗い照明に照らされているのを見つけることができた。
ビルの地下一階は、貸し会議室に供されていることが通路の広告ウィンドウで分かる。後で調べたらこのビル、2004中に建て替え工事が始まるという。ビルが竣工したのが昭和26年で、この界隈では最も古いビルの一つらしい。古いといっても、私の年齢より新しいのだから、ビルと言われる建物が、如何に無計画に作られ、僅かの間に廃棄物になっていく運命のモノ、であるかが分かる。
というわけで、一番古い新丸の内ビルをくぐり、東京駅に至るこの通路は間もなく閉鎖されるものと思われる。閉鎖されて残念という路では全然ないのだが。ついでに時間があれば、やみくもに広い東京駅北口コンコースを通って、新丸ビルより新しい丸ビルに、足を踏み入れるのがよかろう。このコンコースだが、どういう目的でこんなにだだっ広いのか、理解に苦しむ。床面が僅かに、おそらく意図的に湾曲しているので、その広さが強調されるようにできている。
さて丸ビルに入ってみる。丸ビルは、東京駅北口の再開発のための、集客センターとして計画されたものなので、現在の消費動向をどのように仕向けるか、銀行とデベロッパーがどんな風に考えているか、を感ずることができる。地下の商店街は、消費者に一番なじみの深いコンビニを、マスターモデルとして、各商店が形つくられている。従って、まず第一にやたらと照明が明るい。コンビニと同じサングラスの必要なぐらいの照かるさとしているのだ。第二には、商店の前面に比較的安い商品を並べている。だからサラリーマン/ウーマンには馴染み易く、作られている。
地下から地上に上って、丸ビルの一階より上の売り場は、女性向けなのは誰にも分かる。紳士用品が全くないからなのだが、どういう考え方で、このような店ばかり集めたのかは、私にはよく分からない。出来る限り日本の風俗から離れた位置に居たい、という日本女性の気持ちに訴えているのは、理解できるのだが、その先をどう考えているのだろうか。ガラスを多用した、明るいフロアに並べられている、可愛らしく、高価な品物に対するのと同じく、その先にも興味が持てないので、そうですか、へえー、と言うしかない。
地下大迷宮ー丸の内から八重洲へ(2004/6/29)
東京駅の丸の内入り口から、八重洲への通路を探し当てる、というのは結構大変なのだが、大手町から辿っていくと、分かり易い。大手町から東西線の上の地下通路を歩いて行くと、途中で、東京駅へ通ずる通路が現れるので、表示に導かれるままに歩くと、丸の内地下の機関車動輪広場へとでる。この広場の縁を左にぐるりと歩くと、八重洲への通路が現れる。ところで、通路を出て、この広場につながる縁は、坂になっている。広い場所がたとえ緩やかでも坂になっている、というのは、何とはなしに落ち着かないものだ。何かが、まさか動輪ではなかろうが、転がって来るような気がする。
さて、八重洲に通じるこの通路、自由通路、という表示がある。なぜ自由なのか、と勘ぐれば、入場切符を買って駅を横断してほしいのだが、仕方がないので只で(freeで)駅構内を通してやっているのだ、という本音が出ているのだと思われる。この通路、昔はもっと狭かったような気がするが、現在は明るく広い通路となっていて、直ぐに八重洲の地下街に出ることとなる。
八重洲の地下街は、近年のデパ地下の繁栄というか狂騒というか、その賑やかさからみれば少し落ち着いた感じだ。通路の出口から右手に真っすぐ歩く、とどん詰まりに東京ブギ、という立ち飲み屋があって、昭和30年代をテーマにしている店なのだとか。ただ、赤玉ポートワインが飲める、なんて店はそうそうない筈なので、覗いてみても悪くはなかろう。ランチもやっていて、安い。オムライスとライスカレーが490円だ。
ところで、東京ブギと言えば東京ブギウギのことで、ブギウギと言えば三味線ブギウギだろう。三味線ブギウギを唄っているのがうめ吉で、私もファンだ。つけ加えれば、うめ吉の師匠が桧山さくらで、桧山さくらは、端唄の藤本秀(本当はたまへんに秀の字)丈に習っていたことがある。私の師匠も若い頃、この端唄の藤本秀丈の内弟子だったことがある、というので、私とうめ吉は、まるっきり無関係という訳でもない、のかなと。
暑中お見舞い申し上げます(2004/7/26)
記録やぶりの猛暑が続いておりますが、貴兄、お元気にお過ごしでしょうか。小生、都心の大手町へ通うこととなって、早四ヶ月、毎朝の通勤ラッシュにも慣れ、背中のOLに肘でぐいぐい押されても腹たてず、隣の兄ちゃんに足踏まれても顔あくまで平静にと、日々安心(あんじん)を心がけております。
とは言っても、この暑さにはたまらず、ネクタイも取り外して、上着なしの半袖ワイシャツ、言わば、下着姿で通うこととしました。歩道を歩く同朋サラリーマン諸氏も、数えてみますと一割程はネクタイなしで汗ふきふき、あるいは歩きながらネクタイ引っこ抜く姿も見つけて、なるべく目立たずの私も、風景に馴染んでいるようで、気兼ねなく通勤できます。
これまでは、昼は和田倉門の噴水公園で弁当をつかう、こととしていたのですが、本日はあまりに暑く、朝の強い雨(夏の日の雨は、夕立、と決まっていたのに、このところの異常気象、朝の強い雨は、何と呼ぶべきか。朝××でしょうか)の跡もすっかり乾いてしまいました。そこで予ての計画を思い出して、今日の昼は大手町シャトルバスに乗ってみました。
このバス、大手町の名だたる企業が資金を出し合って運行する、大手町をぐるりと巡る無料バスで、大手町ビルに一番近い乗り場は読売新聞社前ということになっております。ビル前の歩道、地下鉄の入り口で待っておりますと、15分に一回程、やって参ります。バス停の印はビルの壁に貼ってあるので、なかなか気付き難いかも知れません。
酷暑の歩道から冷房の効いたバスに乗り込みます。乗り降りのステップも低く、なかなか奇麗なバスでありました。ルートは左廻りで、まずはパレスホテルの入り口に停車いたします。パレスホテルのドアマンは、灰色のズボンに白い燕尾服を着て居りまして、なかなか涼しげでございました。お堀に沿って、東京会館辺りに参りましたら、街の様子も変わってきて賑やかになってきます。乗客もビジネスマンに交じって、買い物袋を下げた年配の御婦人連も乗ってきましたので、目立たぬこのバスをよく知っているものと、少し驚き、すぐにさもあらんと、納得致しました。
東京駅を右手に過ぎれば、間もなく大手町ビルで、これを過ぎ、JAビルと経団連会館の間を通り抜けると、元の読売新聞前に戻って参ります。この間、約30分。バスは15分毎に各バス停にやって参りますので、都合、二台のバスが走っていることが分かりました。涼しいバスの後ろの高い席に座って、大手町を一周してみるのも、貴兄、一興かと存じます。
手の内を見せない女(2004/8/10)
朝から晩まで、机にしがみついているのもどうか、と思われるので、昼休み位は、例え自動ドアを出た途端、今日も続く真夏日に、頭がヒートショックでぐらつこうとも、表の空気を吸いに出る事にしている。あまり、顔を上げて歩くのも日差しが目に痛いし、元々暗い雰囲気の私なので、大手町を歩く時は俯き加減に歩く。
そうすると、嫌でも、すれ違う大手町の女性の足元を見る事となって、夏の所為もあるのだろうが、サンダルを履いている割合が非常に高い。大抵は踵に紐がついているのだが、全くのつっかけ状態で、しかも高いヒール、というのが結構な割合で居て、地震や火事が起きたとしてもファッション一途の私、死んでも構わない、と考えている、と思わざるを得ないサンダルを履いていない場合でも、ヒールの細くて浅い婦人靴を履いているのが残りで、ウォーキングシューズを履いている、というケースはこれまでの観察では、皆無だ。
昔々には、職場は戦場、なんて言葉があったのを覚えているが、今時の女性にとって、大手町は足元を固めるなんてのは二の次で、上っ面で歩けばよい、という場所なのだと思われる。尤も、朝夕の通勤時には、サンダルの足の数が減っているようなので、大手町女性の幾分かは、会社で履き替えているらしいことが推察できる。
あまり、下ばかり見ていると、こいつは金でも落ちていないかときょろきょろしているのか、と思われるので、目線はぼんやりと上方にも向けていると、大手町女性の手元が気になった。手の内を見せる、という言葉があるが、大手町で出会う殆ど全ての女性は、手の内を見せていないことに気付いたのだ。この場合、内面的な話では全くないので、大したことではない。つまり、見た目、大手町界隈を歩く女性は、常に何かを手に握っている、という話だ。
すれ違う女性は、殆どの場合、ハンドバックを手にぶら下げているか、店でもらった紙袋を下げているか、であることに気付く。男性の場合、特に昼休みは手ぶら、が多いのだが、すれ違う女性を数えると、弁当を買いに出かけるだけの身軽なOLであっても、財布とハンカチを重ねたものを、手に持っている。握りしめ過ぎて握力のなくなった場合には、これを腕にかける場合があるが、これも何かを手に持っているケースに加えると、ほぼ九十数パーセント以上の割合で、何かを持っている。そうでないケースは、ショルダーバッグを肩にかけて、両手が空いている、というのがあるのだが、極めて見つけるのが難しい。つまり、大手を振って歩く女性がいない、ということだ。
何故なのだ、と聞けば、おそらく洋服にポケットがついていないから、というような答えが返ってくるに違いないのだが、一寸違うように思われる。ウェストポーチ、あるいは体に張り付くようなポシェット、というような方法があると思えるのに、そういう女性を見ない、ということは、女性は何かを握っているのが好きだ、あるいは、大手を振って歩くのが嫌だ、というのが大手町の女性なんじゃなかろうか。握力の強い女、という言葉があるそうなので、大手町の女性にも、何かを握ったら離したくない、という気持ちがあるのかも知れないが、これとは別に、大手を振って歩くのが嫌なのではないか、という推測もできる。前にも言ったようにヒールの細い、かかとに何もなしのサンダル、というのは、歩くのが嫌だ、と主張しているのと同じと思われるから、こちらの推測の方が当たっているのかもしれない。
萌えBooks(2004/9/6)
大手町に暮らしていると、この変化はまだ目に入らないので、世の中が日々着実に動いているように思えるが、少し離れた所では何か大きな変化の前兆があるように思える。この話は私にも理解不能なので、分析することもできず、とりあえず、ここに覚え書きとして書きたいと思った。
萌え、なんて言葉は2チャンネルだけの隠語かと思っていたら、この間の朝日新聞夕刊の文化欄に、少し的外れな説明が載ったように、次第に普通の社会にじわじわと浸み出して来たようだ。数年前から秋葉原にフィギュア専門店だのメイド喫茶だのが出現して、まだ、明らかにおたくの世界だったのに、先日、神田の書泉ではっきりとした変化を見つけてショックを受けた。
書泉には計算機関連や理系の本が割合に揃っているので、たまに出かけるのだが、こんな本を見つけたのだった。中身は全くこれまでの解説本と変わりはないのに、全く無関係にgalゲーのキャラクタが表紙に止まらず、中身にばらまかれているのだ。コンピュータ好きな人間がおたく、と呼ばれて人間関係を形成するのが得意でない、ことは理解できるが、この現象は明らかに従来と異なる。おたくと呼ばれていた人間の数が増えて、お宅に籠っているだけではない、ある性向を持つ人間グループが、この社会に確固とした位置を保つようになった、ということだ。
なぜ私がショックを受けたかと言えば、若造の考えていることなんぞは丸見えだ、と高をくくっていたのに、この現象については、さっぱり理解できないからだ。女子小中学生、大きい目、メイド、エプロン、リボン、革靴、大きい胸、舌足らずな喋り、等々を総合したものに対して、萌え、という言葉でその反応を示すらしいのだが、彼らは何に喜びを感じているのだろうか。ロリータ・コンプレックスという古典的な心理があるが、概ね老人向けのものだった筈だ。彼らは若くして老成ならぬ老化しているのだろうか。明らかにこれらの性向は無抵抗なものに対する愛情なのだが、どうして多くの若い男性がこのような性向を持つに至ったか、が不明だ。
確かにその徴候はあって、芸術家は世界を先取りすると言われているが、村上隆がこのムーブメントを取り上げて、Project koko なんぞと名付けて、ニューヨークあたりから売り出したのが、これにあたるのかと考えていた。だが、これ程までに広まりつつあるとは思わなかった。手鏡を持って破廉恥行為に及んだ、某経済学者が居直って、自宅に女子高生の制服を収集していたのは、資本主義の原理である個人の欲望の充足で、人にとやかく言われる筋合いではないと強弁していた。これも同じ根なのかも知れない。とすれば、この現象が秋葉原、神田を越えて、大手町に現れるのも時間の問題のような気がする。
昼休みの遠出ー水天宮方面ー(2004/11/8)
健康は人生の恩恵なのだそうだが、然り。恩恵に与ったものとして、昼休みは散歩をすることにしている。暑い夏や、秋の長雨にあっては薄暗い地下道を歩き回ったのだったが、漸く外を歩くによい季節となって、やわらかな光を浴びる事ができるのが嬉しい。おまけに近頃は小春日和が続いて、上着はなくともよいのも都合がよい。
ところで、大手町の人々が、昼食を取りに出かけるのは存外に早い。窓際の私が下の歩道や交差点で待つ人を眺めていると、早くも11時30分頃になると、ワイシャツ姿の二三人連れが交差点で信号待ちしている姿が目に入ってくる。上着を持っていないし、手ぶらであるので、昼食に向かっているのに間違いない。おそらく、早めに出なければレストランに入るのも、売店で弁当を買うのにも混雑を覚悟しなければいけないから、という理由と考えられる。一方、遅いグループと思われる人々が、13時をかなり過ぎても歩いているから、結局のところ、自主的に昼休み時間を前倒し、および延長しているのだと思われる。
さて、大手町はビジネスの中心とも云われているように、交通の要所にあり、逆に言えば、あちこちに出歩くのにも都合がよい。そこで、今回は、大手町ビルの東口を出て、常盤橋をわたり、三越前を通り過ぎて、さらに道なりに進んで人形町に向かうことにする。すれ違う女性会社員も朝夕と違って、心なしうきうきしているように見える。
大手町周辺はサラリーマンばかりなのだが、日本橋あたりは、これに買い物客が交じって、雰囲気が明るくなる。ものの20分も歩くと人形町に到着する。人形町の交差点を右に折れると、甘酒横丁を始め、サラリーマンと買い物客と地元の年寄り子供が歩き回っていて、さらに和んだ雰囲気となる。この辺り、昼食代も安くあがりそうで、大手町界隈よりは100円程度は安いようだ。
人形町の交差点から二丁あるくと水天宮に至る。水天宮は一階部分がコンクリートの土台で、敷地が最初から二階になっているところに建っている。で、一階の通りに面したところが、昔ながらの土産屋で、あんこ玉なぞも売っている。水天宮は安産の神様となっているので、この日も、妊婦や、子供を連れた母親が多かった。天気もよし、賽銭をあげて、安産を祈願する理由もないがお参りした。境内には安産祈願の物売りもあるが、一、五、十五日の月次祭には、水天宮の氏子と思われる人が甘酒を出している。どういう加減か、甘酒と一緒にうで玉子も売っている。
甘酒とうで玉子の両方を頼んで、テントの下にしつらえられたテーブルで食したが、この組み合わせは、やはりミスマッチだろうと、食べながら思った。甘酒が100円、ゆで玉子が30円なので、好きな人はうで玉子を三四個も食べたらどうか。私のことなのだが。
通勤の呪い(2004/12/2)
さて、この話は一度読んでしまうと、背筋に冷たいものが奔って、その後は混雑した通勤電車には足を踏み入れることができなくなる、かもしれない。君の目の前でザッと開いたドアの向こうで、君に背をむけた、薄暗い色のスーツを着た通勤の男と女が、君に見えないようにして、薄笑いをするようになるかも知れない。恐ろしい目つきで、上目遣いで君をねめつけるのかも、知れない。
秋とはいえ、なま暖かい朝で。各駅停車を乗り換えて、急行に乗り込む。今日もまた、電車はのろのろと進み、じわりと止まったり、また僅かに動いたり。混んだ社内では単行本も広げるのに億劫で、つり革につかまって、ドアの窓にみえる家々の屋根や、枯れ葉のこびりついたような木々や、遠くのビルを見るしかない。脇に立つ若い男や、目の前でドアのガラスに凭れて外に顔を向けている、この髪の長い女は何を見ているのだろうか。
ふと、女が肩からかけたトートバックの、大きく開いた口のあたりで、小さく細いものが動くのが目の端に入った。するりとバックの中から抜け出たそいつは、茶色で、長さは、そのよく動く触角を除いて二糎(センチ)くらいか。いやもっと大きい。するすると動いたそいつは、白いバックの上を動き回り出した。バックから落ちるだろうか。いや、そいつはまた這い上がって、バックに戻って見えなくなってしまった。
この女、独身の掃除できない女なのだろうか。部屋は散らかり放題で、昨晩、買って帰ってきたケーキの、二個目がやっぱり余ってしまって、テーブルの上に置きっぱなしになっているのじゃなかろうか。今、バックに戻った茶色の虫は、朝、女の出かける前に、ケーキの皿からこのバックに潜り込んだのじゃなかろうか。女の薄色のセーターやシャツのえりも、別に汚れてはいないが、この女はクリーニングの袋から今朝、着ていく分を引っ張り出したのじゃなかろうか。と考えているうちに。
そいつはまたバックから這い出して、今度はバックのベルトを伝って、上に登りだした。私が手を僅かに動かすと、そいつは止まった。が、ちょっと躊躇した様子を見せてから、また動きだして、そいつはついに、女の肩までやってきた。「お嬢さん、あなたの肩に、今、茶色いアブラムシが乗っています」と声をかけるべきだろうか。ろくな結果にならない。最初いぶかしげな顔つきで一呼吸の後、叫び声をあげるかも知れない。肩から、手ではたき落とすべきだろうか。ろくな結果にならない。痴漢と間違えられて恐ろしい目で睨みつけられるのがオチだ。虫の行き先をじっと見つめていると。
そいつは、女の肩からおりて、またバックのベルト伝いに降りてくる。バックの底に向かって降りてくる。このあたりで、隣の若い男も気がついた。虫の行き先を見つめている。虫は白っぽいバックの底の角に一瞬止まり、触角を動かしている。いまだ。バックを叩かないように、角をこするようにして、そいつを叩き落としてやった。そうしたら、そいつは、私の靴先と、隣の若い男の黒い革靴の靴先と、その女のかかとの真ん中あたりに落ちた。隣の若い男のももが、ぴくりと動いたところで、そいつはカサカサと動き出して、ドアに向かったドアにぶつかって、丁度、そのあたりからドアが左右に開くべきあたり、そこにある水ぬきの小さな孔から、床下へ去っていった。やっと一件、平和裡に事は収まった。軽くたまった息を吐き出して、外を眺める。そうして。
収まった筈だったのに、そいつは、暖かい車内に戻るために、やっぱり、孔から這い戻ってきた。孔に触角が見えた。すぐにまた全身を表わしたそいつは、今度は、真っ直ぐ男の足元に向かっていく。男のズボンを這い上がるつもりだ。その革靴のつま先に着く寸前、男はそいつをグシャリと、踏みつぶした。男も私と一緒に、そいつの消え去った孔と、また這い戻ったそいつをじっと見ていたのだ。男はそいつを、そして、そいつをバックに入れて来た女を憎んでいるに違いなかった。こいつのおかげで、踏みつぶさなきゃいけなかった。こいつのおかげで、靴の底にそいつの体液が染み付いてしまった、と。
やがて急行は地下鉄の乗換駅に到着して、私の隣で立っていた男は、降りたホームのコンクリートで靴底を何度がこすったのだった。そして、若い男は、何も知らない平和な、すたすたと歩いて行く女に、呪いを投げつけたに違いないのだ。
リーマンの初詣(2005/1/5)
あけましておめでとうございます。
今日の大手町の昼休みは目先を変えて北に向かうこととした。余裕をみて(何の余裕か不明だが)正午の10分前にビルを出て、神田方面に向かう。顔を上げて空を仰げば、仕事初めから二日目の今日もおおいによい天気で、風は冷たいが日差しが暖かく、よい気持ちだ。
そういえば、元旦の朝も実によい天気で、銭湯の朝風呂にむかう道筋は前日の雪に自転車のタイヤをとられそうになりながらも、気分爽快だった。どうして雪が残っていたのかといえば、大晦日には丁度雪が降ったのだった。年の最後の銭湯の帰り、馴染みの飲み屋を覗いてみたら、店の親父が今夜は店を開こうかどうしようかと、寒い店の中で帽子をかぶっててのひらをこすり合わせていたところだった。無理に店を開けさせて風呂あがりの体にビールを流し込みながら、引き戸の外の道に雪が降り積むのを眺め、よい風情だと客もいないカウンターで親父に話かけたのだった。
さて、神田橋を渡る。わたる橋の反対側、右岸の橋のたもとにはまだ、寒桜が一本うっすらと咲いている。冬の陽を背中に浴びるために、道の曲がりに合わせて反対側の歩道にわたる。昼飯時なので、勤め人がぞろぞろと歩き、私も背中を暖めながら歩く。直ぐに小川町の交差点に出て、ここから本郷通りの坂道となる。ニコライ堂の脇は、石積みが高くて、ニコライ堂は首をねじ曲げて丸いドームが僅かに見え隠れする程度だ。一度は入ってみようと思っているけぬき寿司の前は、値段を見るだけにして、さらに坂を登る。
坂を上りきったところが聖橋で、ここまで大手町から二十分程度。橋のたもとの案内標識を見たら、神田明神まで三百米とあったので、迷わず向かうこととした。医科歯科大学の交差点あたりに着くと、異様にサラリーマンが多い。右手に折れて神田明神の参道は、参拝するサラリーマンで一杯であたりが黒々としていた。聞くともなしに耳にはいる話からは、同僚同士や、上司に連れられたグループが多いことがわかる。
わたしもその黒々とした人並みに埋もれて、賽銭を上げてきた。境内に立ち並んだテントの下ではおみくじや破魔矢、商売繁盛の熊手などが並べられていて、見ていると熊手がよく売れている。千円と三千円のがあって、おおきい方のがよく売れているところをみると、サラリーマングループが持ち帰って職場に飾られるのだと思われる。巫女の前に長くならんでおみくじをひくのも皆サラリーマンだった。境内のすぐそとで、おでんをつつきながら昼間っからコップ酒を飲んでいるのもサラリーマンだった。酒を飲んでいる連中は向こうを向いて座っていたのだが、甘酒を飲んでいる連中はみな、こちらを向いて立ち飲みしているのだった。
聖橋まで戻って、このまま戻ろうかとも思ったが、ちょっと腹が空いたので、駅のならびの立ち食い寿司、とちぎ屋に入った。¥820の握りで小腹を満たすつもりだったが、シャリがいやに大きいじゃないか。満腹になったので、地下鉄で戻った。職場に五分前には到着したのだった。
萌えbooksいやさ萌え人類よ(2005/3/11)
萌えbooksの項で、なぜ若者が"萌え"ているのか理解できない、と書いたが、この話、実に奥が深い、深いどころか人間の文明に仕掛けられた核地雷のごとき破壊力を秘めているように思う。この問題は程なく社会を揺るがすことになるだろう。
きっかけは、発刊されたばかりの新書だ。森岡正博、感じない男、ちくま新書521で、人間社会の仕組みにどうしても理解できない部分としてもやもやと黒く踞っていた部分が見えた。どうしても見つからなかったジグソーパズルの最後のピースがぴったりと最後の穴を埋めた。勇気ある著者の素晴らしい著作だ。
かつ、この話は自分自身の性向とも深く係り、これを読むあなた自身の問題でもあり、私とあなたとの関係にも大きな影響を与える。よほど用心して話すべき話題であり、しかし、決して避けて通るべきでないことは明らかだ。我々だけの問題ではなく、クリスチャンとムスリムに深く係っており、しかも彼らは絶対にそれを認めないであろうから、根は人類全体に繋がっており、かつなぜ未来がそうなるかに関連している。
著者、森岡正博、の名前は人類に潜んでいた生物学的、文化的、社会的知識に係る大鉱脈を発見した人間として、長く記憶されるに違いない。読んだら後悔するかも知れないが、一読を勧める。そして君がこれを理解したら、一緒に酒を飲もうではないか。
ところで、君は「愛ルケ」、を読んでいるか。渡部淳一の日経新聞の連載小説で、正しくは「愛の流刑地」、上記の著者も渡部淳一が"感じない男"の代表であることに言及しているが、2005年3月6日の「愛の流刑地 風花二十二」に、その本質が表現されている。
渡部淳一と云えば、全くもって不思議なのが、あるいは男の本質のカウンターバランスとして進化してきた所為なのかも知れないが、多くの女が男の本質に鈍感なことだ。渡部淳一の世界にあこがれる女性は、完全に男の本質を誤解している。尤も、この「愛ルケ」、男からみてもかなりの勘違いな主人公なので、そのうちファンのおばさんからも見捨てられるかも。
大手町ビル屋上の観音様(2005/4/18)
コンビニの店員の項で、”大手町には宗教施設が皆無なので”と書いたが、微妙に違っていたのでその顛末を書くこととした。先週、大手町ビルの1階、南口のエントランスホールに、小さな立て看板が置いてあって、4月18日に屋上で観世音菩薩法要があるということが、ごく簡単に記されていた。というわけで、今日、屋上に出かけてみたのだ。第一、大手町ビルに屋上出口がある、ということ自体、初耳で、観音様があるというのもちょっとした驚きだった。
12時15分前、屋上に通ずる階段のところまでいったら、警備員がいてこっちだと、案内してくれた。確かに屋上への階段があって、屋上へ出てみると、何もないのだが、丁度機械室のような感じの部屋があって、そこに案内のための虎ロープならぬ、ベルト付きの案内ポールとが立てられている。私の行った時には、室内に10人程、焼香の人が焼香順を待っているだけだったが、案内ポールの数からいうと、かなりの、おそらく百人を越す人間のための準備がしてあったようだ。
係員に、一応誰が参拝してもよいのか、確認をとってから、室内に入ると、確かに一方の壁の天井近くに龕が彫り込まれてあって、その中に菩薩像が安置してある。丈は五十糎くらいか。手前には蝋燭と花が供えられていて、焼香のための台と、賽銭を入れる折敷が置いてあった。早速、列の後ろに並んだが、気楽な格好のOLと若手のサラリーマンばかりだった。最初は五百円程も出そうかと思っていたら、先の折敷を覗くと千円札が数枚見えたので、負けじと奮発して、こっちも千円をお供えした。
焼香して出口に回ると、お供物のお下がりを頂いた。出口の若い係員に、お経は終わったのかと尋ねると、えらく神妙な態度で、11時から始まってもう終わったのだと言う。お供物を頂いたおりに一緒にもらったパンプレットに、観音様の由来が書いてあった。これによれば、昭和33年の大手町ビルの竣工に合わせて、当時の三菱地所の社長が、同郷の平櫛田中に頼んで作ってもらった観音像を、屋上のこの場所に安置した、ということらしい。パンフレットには像の台座に以下の文が彫られているのだと書いてある。
謹敬造金銅観世音菩薩尊像一躯奉安供養
願為永保建基無窮堅固諸業豊栄皆得其福
維昭和三十三年四月十日大手町大厦巍然竣成
願主三菱地所株式会社取締役社長渡辺武次郎
この場所、三菱地所のためのプライベートな空間で、誰でも自由に入れるわけではないので、宗教施設というより、一族のお守りと言えるのだが、観音様を安置しよう、というだけでも偉いものだと言えよう。ところで、案内係や、参拝する三菱地所の社員、いやに白っぽい花のかざりつけ、蝋燭の立て方なんぞに、どうも違和感がある、案内係などは声を潜めて話すものだから、こっちもつられて小さな声になってしまった。要するに、観音様を誰も拝んだことがないので、法要と葬式を混同しているのだ。観音像を納めた社長の思いは、どうも現在の三菱地所の社員には正しく伝わっていないようだ。
ところで、いただいたお供物を、昼休みの散歩の途中、皇居外苑でベンチに腰掛けて食べたのだが、日本橋栄太郎の菓子で、開けてみると、もちろん観音様の法会の引き出物だから、紅白の饅頭だった。赤の方が白のこしあん、白い方が黒のこしあんで、なかなか上品な味が、よろしゅうございました。
昼休みの遠出ー神田多町方面ー(2005/5/9)
神田多町は、靖国通り、外堀通り、それに中央通りと、そろいも揃って交通量の多い道路にかこまれていて、どうにも遣る瀬無い町だ。古い、よくぞ残ったというべき建物がところどころ残っているので、余計にしみじみする。おまけに多町は二丁目しかなくて、いったい一丁目はどこに行ってしまったんだ、と言いたくなる。
今日、訪ねてみたら、どこも神田祭りの準備で、家の軒先には御神灯がぶら下がっている。神輿の休み場のための仮小屋ができあがっているのを見たりすれば、 サアーエ 格子づくりに御神灯さげて 兄貴やうちかと姉御に問えば 兄貴や二階で 木遣りのけいこ 音頭とるのがありゃうちの人 エンヤラヤ エンヤラヤレコノセ サノセ アレワサ エンヤラヤ なんて、端唄が浮かんできたりして、他所ものの私でも何となく気が浮き立つ気がする。さて多町は二丁目しかない、と云ったが、この神田祭りの神輿の順番がポスターに書いてあって、多町一丁目の神輿の名も並んでいて、こりゃどういうことか、と思ったが、そりゃ、それぞれに事情があるに違いないんだろうと、勝手に納得した。
ところで、しみじみ感を出しているところで、有名な店と言えば"ミルクホール"で、ご存じない方に説明すれば、通りに面して下がっているノレンが、白地に、ミ、ル、ク、ホ、ー、ル、と黒字で染められている食堂で、古びた店先のショーケースには、いなり寿司なんぞが、置かれているが、実際にはラーメン屋なのだ。メニューには、ラーメンの他にもカレーライス、安倍川、それに加えてミルクホールであることを証明するためなのか、ミルク、ミルクコーヒー、なんてのがある。ミルクホールという喫茶店が昭和初期にあって、メイド姿の女性が給仕をしていた、という書物からの知識しか私にはないが、このミルクホール、その時代の生きる化石なのかも知れない。あるいはノレンだけ残して、進化する過程であまり用のなくなったいなり寿司を、今もくっつけている、ラーメン屋に進化した、と云うべきか。
さらに多町で驚くべきは、このミルクホールの並び、五六軒も離れているところに、瓦葺きの屋根の間口は狭いが立派な店構え、今は単なる個人住宅だと思われるが、その表札に"伊勢御師"と書かれた店(たな)があることだ。これはこれは、よくぞ残ったと、これは世界遺産の候補(になるかもしれない)ではないかと、店の住人に失礼ながら、じろじろと眺め回してしまった。伊勢御師、と言えばお伊勢まいりを勧誘したり、先達となって地域の人を伊勢に連れて行く人のことで、全国にはまだ幾つかの場所で残っている、という話は聞いていたが、大手町と目と鼻の先の神田に残っているとは、いや驚いた。
そうこうするうち、多町から中央通りに出る一歩手前で、そば屋を見つけたので、天もりそば、を喰った。例の昭和通りのそばよし、と同じ類いの安い店で、安いけれど色々なトッピングが揃っていて、かつ不味くない。とってもよいそば屋だ。
老耄の執着(2005/6/24)
日経新聞文化欄に、例の村上隆が、怪物アートと題して、彼がインパクトを受けた作品と作家についてコラムを書いている。今日付けのコラムは葛飾北斎についてで、彼、村上隆が芸大にいた若い頃に、老齢の教授から、北斎の不能になってからの画業に対する凄まじさについて滔々と語られて云々とあった。
イマジネーションと画業に対する熱意には、到底およびもつかない私だけれど、"不能の実現"がどこかの爺の話、こっちとは無関係なあっちの世界の話ではなくて、足下にひたひた寄せる満ち潮に似て、さもありなん、から、間違いなく、という表現に変わってくる、事実の話と真剣に語るべき年頃となって、老耄の執着について何となく理解できるような気がする。同時代の人間になっていたら、北斎と居酒屋で偶々隣り合わせに座り、相手を知らないままに不能の話に盛り上がり、互いに肩を叩いて、酒酌み交わすことがあったとしても、そう不思議ではない気がする。
ただ、この執着が人の中にどんな風に居座っているかについては、頭をかち割っても分かる筈もなく、腹を割って話したところで腹が割れているかどうかも分からない。せいぜい、酔っぱらってくだをまいているうちに、腹を探るのにも飽きて、終いに尻がわれるのがおちだ。結局のところ、自分の考えが相手を鏡として見えてくる、という程度が一番もっともらしい、ようだ。
つい先日、ある男が酒の席で、初めてキャバクラ嬢と同伴出勤をした話をして、「いやー、店に入る前にいい加減、酔っぱらってしまって、ただ、金を取られただけだったよー」と、その感想を、口からタバコの煙を天井に向かって吹き上げながら語ってくれたが、ただ、金を取られた、という割には楽しそうだったな。つまり、私も同伴出勤したら、楽しいだろうな、という気持ちが、かの男の話を楽しいものとして受け取ったのだ。
どんなに頭をめぐらせようが、若い女と二人きりになる可能性は、年とともに限りなくゼロに近づく漸近線上にあって、それでも数十年も前ならば年に数回はあったろうに、今となっては数十年に一回の可能性、だろう。頑張って生きたとしても数十年だろうから、ゼロとなる可能性が高い、ということだ。同伴して、ただ話をするだけで花をつけなきゃいけない(1)にしても、これが実現することは確かな事実で、これをもってゼロに近づく漸近線の、その線の上にいる私は、本当はもっと若い時間に存在するに違いない、という妄想を抱くことができるわけだ。だから、そのある男と同じく、私も「金を取られただけだったよー」と楽しく吹聴するに違いない。
かの男は、素直に、あるいは自分の品性を隠そうとしても何時かは露(あらわ)となるものであり、老惨を晒し晩節を汚すよりも、予めぶちまけておく方が気が楽だと思って、話したのだが、世の同世代の人々を見ると、大勢はかの男と異なるようだ。職場の近くに居るある人間に焦点をあてて、言動を注意深く眺めていると、なるべく良き品性を保とう、と努力している姿が見える。ただし同時に執着も見え隠れするので、基本的には私と変わらないように見える。もっとも、矜持を保つ、という言葉もあるぐらいで、私とて品性高く保とうという努力を貶めようという気は、さらさらない。ただ、死ぬ間際に、品性を保ったままでいるか、高い品性を保とうと努力をし続けたが終に下劣な性(しょう)を露にしまうか、あるいは下等な性そのままに息を引き取るかの違いがあるので、私もどうするか決めなければいけない。
ところで、今日付けの村上隆のコラムのある文化欄下段には、渡辺淳一の、例の愛ルケが連載されていて、今日は、主人公が女との情交の様子を後で楽しむためにレコーダーを隠しておいた、という話だった。実に老耄、下劣な品性で、こう書くだけでも筆が汚れる、キーボードだからキーが汚れる、というのか。これに比べれば、団鬼六の”不貞の季節”の方が余程ましだ。編集者と妻の不貞をその編集者の告白で知り、妻の自分には見せない一面を編集者から聞かされて、嫉妬と自虐のあまり、その編集者に妻の情事を録音させる、という筋で、作家の老耄の執着が、明らかになっていく。一方、妻が曾て学校教師であり、紺のスカートを翻して自転車に乗っている、という爽やかな情景の記述もあって、老耄の無惨ではあるが人生の真実である、という気もして、愛ルケとは比べ物にならないと私は思っている。
老耄の執着なんて話は、これを読む人に対するセクハラとなる可能性もなきにしもあらず、しかしこれは、セクハラやパワハラの遠因となるやも知れないので、これを防ぐ意味で敢えて書いてみたけれども、どうだろうか。
クールビズ対応(2005/7/21)
大手町で働く以前は田舎の勤務だったので、クールビズ、なんて言葉がなくてもずっとノーネクタイで通していて、というよりワイシャツを着ていたかどうかも怪しいくらいで、自分が何を着ていたのかも定かではない。さらに昔にさかのぼれば、冷房のない時分は短パン、下手をすれば上半身ハダカ、なんて輩(やから)もいた程で、今の世の中のきついこと、苦しいこと、人間ではなくてネクタイが主役のような時代だ。
エネルギーはじゃんじゃん使え、という世の中もそろそろ足下が危うくなってきて、ノーネクタイ運動、今や言い換えてクールビズが、少し日の目をみるようなこのごろは、もともとネクタイの嫌な私のような人間にとっては、やっと少し住み易くなったなと実感できる。ところで、ネクタイは男の服装にとって、他人の目線のキャッチングポイントであるのどぼとけを中心にある、ので、これを外すと、直ちにしまりがなくなってしまう。これは、ワイシャツのネクタイを外しただけ、というサラリーマンを見れば、すぐに理解することができよう。
だから対応策はそんなに難しくなくて、締まりがない、という状態から抜け出すためだけだったら、簡単だ。例えば、ボタンダウンにする、なんてのが新聞などでは推薦されているようだな。ただ、他人(ひと)がそう言っているから、それに倣う、というのでは少し情けない、と私は思って、いくつか考えてみた。以前には、ネクタイの代わりにあごひげを生やせばよいと提案したことがあるが、これは時間がかかる。そこで最初に実行したのが、ワイシャツのボタンを、あのチンケな色と形のボタンを、取り替えることだ。少し大きめの黒のボタンに付け替えてみた。もちろん、家人の冷たい目と、蔑みの声を浴びながらなんだが。これは予想通り、ネクタイをしていなくても、それなりに見える。それなり、というのはワイシャツからネクタイを外しただけのしまらない格好に較べて、ということなんだが。これは続けている内に、家人も私もなじんで、どうとも思わなくなった。ただし、これに気づいてくれるような同僚は発見できなかった。
で、もう一歩これを進めようと考えた末、ネックレスをすればいいんじゃ、と気づいた。むろんこの年で若者の付けているようなのは似合わないだろうし、その筋の人のような金ピカの類いは、通勤に使うわけには行かないだろう。このところ、銀の細工ものを始めていたので、初老の男がしていてもおかしくない、だろう、と思われるデザインにして作ってみたのがこれだ。銀の板を二枚重ねにしてロウ付けし、四角いオニキスをはめ込んだものだ。チェーンの部分は1粍(ミリ)の角線から作ってある。
評判はどうかと言えば、嫁さんは「いいんじゃないの」と珍しく褒めてくれだが、その他からは、「今イチ」という声が聞こえる。職場ではどうかといえば、ほとんどは気づかないようだ、私が目立たないせいもあるんだが。気付いても、「この人、あやしい宗教に入っているんだろうか?」と思うらしく、口に出しては言ってくれないようだ。ただし、先日、他所での会議の終わりに「いや、いいですね、クールビズ対応?」と褒めてくれた人がいたので、大いに気をよくした。その後も飲み屋のネーちゃんに、「いいわん、私にも作ってエ。石を買っておくから、作ってくれる?」と言われたので、「もちろん」とヤニさがって答えたのは言うまでもない。
キーワードは愛ルケ(2005/8/29)
これを読んでいる君に(君が男性の場合だが)忠告したい。間違っても周りの女性に「日経の愛ルケね、愛読してるんですよ」なんて言ってはいけない。ついでにフォローしたい「日経の愛ルケね、あれはヒドい」と言わねばいけない。仮令、君が日経を読んでいなくて「愛ルケ」がなんだか解らなくともだ。
トリンプの社長が、何の気なしに社長朝食会に渡辺淳一を呼んで、大型地雷を爆発させてしまった、という話だ。別に私がトリンプ社長のブログ ("http://www.kakumeishacyo.com/archives/2005/08/post_24.html#comments")を読んでいたわけではないのだが、ネットをスキャンしていたら引っかかってきた。地雷を踏んだ場面はこうだ。社長は自分のブログにこう書いた。長いけれど引用してみる(こんなおもしろい見物(みもの)はめったにないから、削除される可能性を考えると、リンクだけでは心もとないのだ)。
『005年08月24日
渡辺淳一さんも好きなんです
さて、先日このブログに土光さんの本のことを書きましたが、ビジネス経済書はもちろん、僕はその他にもいろんなジャンルの本を読みます。日経新聞に連載されている渡辺淳一さんの「愛の流刑地」も欠かさず読んでいて、実はけっこう楽しみにしていたりするんですよ。「愛ルケ」流行ってますね。ちょっと僕のイメージと違いますか?
この前、私も世話人になっている経営者の朝食会に渡辺淳一さんをお呼びしてお話をうかがったんですが、「何か質問は」と聞かれ、手を挙げて、 「連載の続きはどうなるんですか」と質問をしたのは、何を隠そう、この僕です(笑)。
お話の中で最近の下着はいやらしいのでよくない。だから“冬香は白いスリップ”というお話をお聞きしたので、弊社の可憐な感じのする、しかもセクシーな商品をいくつかお送りしたところ、いろいろ参考になりましたというお礼状と一緒に『風のように女がわからない』という著書を頂きました。
今、その本を一生懸命読んでいるところです。』
君は、この社長の話を読んでどう思ったか?「なるほどね、この社長と気が合うかもしれないな」なんて思ったら、危ない。社内の対セクハラ秘密チームの女性に『愛ルケ読んでます?』なんてにっこりと尋ねられて、『僕も愛ルケを楽しみにしているんだ』なんて答えたら即、逮捕されてしまう。へたをすると銃殺刑に処せられるかもしれないと、覚悟するべきだ。「なんでだー。俺は何にもしてないぞ」と言っても後のまつりだ。
どういう反応が女性から出ているかと言えば、次のようなこのブログへのコメントが代表的なものと思われる。引用するぞ。
『おえぇ?あの愛の流刑地を愛読しているバカ社長がトップの企業の製品なんて、今後一切買わない。
実は結構トリンプ製品って持っているのだけど、もう絶対身につけたくない。もったいないけどゴミ箱に捨てます。
投稿者 信じられない! : 2005年08月28日 05:08』
こんなのもあるぞ。
姉に教えられてこの日記を拝読しました。
私も今後、御社の製品は買いません。
渡辺淳一氏があの小説の中でいかに女性を侮辱した表現をしているか、それをお読みになっている上で下着をプレゼントされたとのこと。怒りに身体が震えます。 身体に直接つける商品を作っていらっしゃる会社のトップがこういうお考えとは本当に情けなく、不快です。
投稿者 姉妹で不買:2005年08月27日 23:52
で、このブログには上記のようなコメントが嵐のように投げつけられて、社長は弁解したのだが、これが恥の上塗りとなってしまった。またまた引用するぞ。
『2005年08月28日
いろいろコメントを頂き有難うございました
8月24日の私の書き込みが、一部の方々に不快な思いをさせたようです。 それについては真摯に受け止め、深くお詫び申し上げます。
「愛の流刑地」は女性の立場から見れば確かに許せないものなのかもしれません。 最近は、その具体的な性描写には私自身、もう充分といった感じです。
私が「愛の流刑地」で追っているのは、最終的に離婚した奥さんとの関係と その時々のやり取りとか、冬香のご主人に対する激しい反発がどうなるのかという点 です。
過激な性描写ばかりに目がいきがちですが、この小説が描こうとしているのは、 男女の関係を通じた人生のありようであり、いまは、そこに至る階段の踏み場を あえて作っているのかもしれません。
この小説が最終的にどんな評価で終わるかどうかは、もう少し時間をかけて 見守ってみてはどうかな、という気がしています。』
解説すれば、愛ルケが書いているのは、は社長の考えているような離婚した奥さんとの関係でもなければ、男女の関係を通じた人生のありようでもない。つけ加えれば、世の女性に嫌悪されているのは過激な性描写(実のところ全然過激じゃないんだが)そのものではないのだ。萌えbooksいやさ萌え人類よ(2005/3/11)で、言及しておいたように、ただひたすら、渡辺淳一が『感じない男』ゆえに、70数年の時間をかけて溜めてきたものを垂れ流しているだけなのだ。で、世の女性は渡辺淳一の垂れ流すものを、「身の毛もよだつ」程に嫌っている訳で、このトリンプの社長、そこらあたりを全然、理解していないようだ。トリンプの不買がすすむのは避けられまい。
しかしながら、この社長のように、ごく普通の男が、渡辺淳一がどうしてこれほどまでに嫌われるのかを理解するのは、もしかしたら非常に困難なのかも知れない。生真面目で、奥さんと子供を愛する立派な家庭人、会社では立派な社会人が、本質のところで、渡辺淳一と相通じるところがある可能性を、私は否定しない。君はどうだ?
これからは、世の本質を知り始めた女性が渡辺淳一をキーワードにして、男を分別する時代がやってくるかもしれない。大手町の街角にも、魅力的な女性がアンケート調査を装って、歩道を歩く男をチェックし始めるかも知れない。『新聞の調査してるんですが、日経新聞の愛ルケ読んでます?』。実は彼女らは、『大手町セクハラリーマン抹殺センター』の秘密エージェントで、スクリーニングにひっかかった男は、隠れていた別のエージェントに撮影されてネットにばらまかれるかも知れない。
写真をばらまくのではないぞ。個人識別システムの顔パラメータがばらまかれるのだ。君の人物識別パラメータは、『セクハラ反対女性連盟』のデータベースに登録される。この連盟に加入した会員に配られる『セクハラ男識別カメラシステム 携帯電話プラグイン』ソフトウェアで、君はチェックされ、センターのデータベースと照合され、君は『渡辺淳一型セクハラ男』の烙印を押されてしまうのだ。
ヤマアラシの長いトゲ(2005/10/27)
ヤマアラシのジレンマ、というのがあってハリネズミのジレンマとも言うらしいが、二匹のヤマアラシ、互いに恋しいのかそれとも寒いのか、互いにくっついていたいのに近づき過ぎるとお互いのトゲが痛いので離れなくてはならない、つまり、くっつきたいのに離れたいというジレンマを言うのだという。人間の場合、加齢とともにトゲがとれてしまったのに、もうくっつきたくもない、という夫婦が多くなっていくのだ、そうだが、これが他人同士の場合、ヤマアラシの話とは別にパーソナルスペースというものの存在が認められている。つまり他人同士が公共空間にいる場合、互いに無意識的にある距離を置くようになる、ということだ。
ところが、このパーソナルスペース、ここでは他人との間の距離ということにするのだが、近年、ひろがってきているように感じる。例えば、朝の大手町ビル。地下鉄を降りて大手町ビルに入りそのまま通用口を入ってエレベータに乗る、というコースがここの勤め人のスタイルなのだが、エレベータの前が以前と異なるのだ。どういうことかと言えば、エレベータの前はエレベータを待つ人のために設計上若干の空間があるのが普通で、この大手町ビル通用口に連なる二基のエレベータ前にも狭いながらこのエレベータホールがある。異変、私の考える異変なのだが、はここからで、僅か十人程度がエレベータを待っているだけなのに、ホールから通路まで人間が溢れている、というのをよく見る。この場合十人程度なので占有している、の方が正しいか。
つまり、パーソナルスペースが、昔このビルを設計した設計者の予想を遥かに上回っているのだ。観察してみるとエレベータを待っている人同士の距離が一米程度、いやもっとか、離れているので、十人程度の人数がエレベータの前のホールに入りきらないのだ。私の場合、毎朝階段を使うのでこのエレベータ待ちの人々の間をすりぬけなければいけないのだが、すり抜けるのではなく、普通に人の間を通る程度だったといえば、状況が理解できるだろう。若い人が多いところをみると、今の日本人のパーソナルスペースは、曾ての日本人のパーソナルスペースよりかなり広いのではないかと想像される。
こういう現象は、ビルの中のATM前の行列にもみることができる。若い人には普通なのかもしれないが、私からみると異様に人と人との間隔が空いているのだ。逆に若い人からみれば、このオヤジ、いやに近くに寄って来てキモイなんて思われていると想像されるのだが。これから人口減少に向かって、パーソナルスペースが広がっても問題はないのだろうが、資源の節約という観点からみると全然逆行していると言える。
ノース2号(2006/6/12)
先日エレベータに乗っていたら、足首の見えないような長いスカートを着けた、おそろしく背の高い女が乗り込んで来て、「ああ、ノース2号だ」と思った。ノース2号は鉄腕アトム、「史上最強のロボット」シリーズでプルートーに破壊されてしまうロボットの名前だ。このシリーズは、最近、浦沢直樹の翻案で「PLUTO」として描かれたので知ってる人は知っている。解説すれば、浦沢直樹のノース2号、手塚治虫がごく簡単に描いたのに対し、浦沢ワールドの住人らしく丁寧に描かれている。ノース2号も原作にはなかったロボット同士の戦争で電子脳にトラウマを受けて、帰還後、盲目のピアニストの執事として仕えている。ピアニストの罵倒を受けながら、ピアノを弾きたいと願うノース2号が、ピアニストの和解の声を聞く寸前に高い空の上でプルートーと戦うために飛び立っていく、というエピソードだ。
で、話はノース2号のことではなくて、職場の女性の話だ。・・・・読んでるあんた、楽しみ?・・・・。私の職場は役所の下部機関なので、女性差別のない(ジェンダーフリーだな、詳しく言えばジェンダーに起因する差別があってはならない、という和製英語ということなんだが)、職場ということになっていて、一般の会社より女性がリラックスしているように見受けられる。服装も自由で、自由というより、よりプラス側に寄っているようにも見える。
どんな風にプラス側かと言えば、デコルテ、胸元のことだな、これが大きく開いていて、谷間がよーく見えるプラス側や、ヒップボーンジーンズに丈の短いカットソーを組み合わせているので、こっちにやってくるとへそが見えて、屈んでいるところに近づくと下着が見えそうになる、というプラス側だ。背中が大きく開いたタンクトップなんてプラス側もあるので、あまりきょろきょろする訳にはいかない。
この後、この職場の雰囲気がどんな展開になるかを予想すれば、ジェンダーフリーだから、寿退社を強要あるいは仕向けるようにはならないから、全体的に年齢が上がっていくのだと推測される。地球温暖化が進んで石油が枯渇していくから、室内温度の設定は現在の28℃から30℃位になるのではないだろうか。そうするとジェンダーフリーの年齢不問の女性達の肌露出の割合が、ますます高くなるだろう。こういう職場が楽しいのか苦しいのか私には分からない。第一その頃にはいないし。
町に歴史あり(2006/8/29)
昼によく行くそば屋の更級の近くで解体工事が始まっていて、もう殆ど更地に近い。なぜ気にしているかと言えば、数ヶ月前まで、ここ九段に二七不動院、真言宗醍醐派関東修験三宝宗務所なる建物があったからだ。最初に訪ねた時は、入り口と小さな祠があるだけで、その後ろが工事テントで仕切られていた。尋常でないので、よく見ると張り札があって、今般、不審火を出して本堂を半焼してしまったのは、誠に申し訳ない、地主の何やら会社さんにも済まない、云々の文字が並んでいた。建て直す、の言葉は見つからなかったので、近所の信者が居ないんで金がないのか、宗教施設なのに土地が別会社のものなんだ、なんて思っていたのだ。で、案の定、更地になっていたのだ。再建されるかどうか危うい。いつかは山伏にと考えているので、残念な気がする。実際には何の関係もない身なんだけどね。
ちょっと調べてみると、この二七通り、江戸時代は表六番町という名で、この二七不動院は明治の初頭にできて商店街はその縁日がもとで発展したらしい。ほら、近所も関係あるじゃないか、ほっといていいのか。しかも、毎年五月三日に東郷公園で、柴燈護摩火渡修行なんてのも開かれていたらしい。おまけに、この不動院の最後の院主が、近くの小学校の出だったそうな。どうもこの院主が亡くなってから、落ち目になったようだ。地元商店街との関係だとか、信者との関係だとか、地主との関係だとか、色々あったんだと想像されるな。
九段やら麹町やら何となく堅い感じのする町なんだが、実は花街だったこともあるらしい。なぜ気付いたかといえば、以前、昼飯を喰った後にぶらぶらと時間をつぶしている途中に、小さな葬儀のお知らせの紙が貼ってあるのを見つけて、これに、某さんは、九段の三業の発展と維持に力をつくし云々、の文字があったからだ。これも調べてみると、三番町の反対側、九段の今は南二丁目あたり、以前は富士見町と言ったらしいが、このあたりに招魂社(もちろん靖国神社のことだ)の境内の茶店に端を発する三業地があって、九段花町といったらしい。ものの本じゃない、もののホームページによれば、明治二十九年に検番が設置されたという。そういう目で見れば、このあたり、ところどころにそれらしい風情が僅かに残っている。近くのうなぎの宮川も、今は唐突な感じの木造の建物なんだが、花街はなやかな頃は、そのはずれあたりに、ぴたりとはまっていたんだろうと思われる。
おでんの季節(2006/10/24)
「や、にいさん、お元気っすか?」
「こちらね、ここの飲み屋でよくお会いする方なんだよ。他の口の悪い連中はジジー、なんて言ってるんだけどね。こっちもいい齢なんで、にいさん、て呼んでるんだ」
「この前、倒れたって聞きましたけど、大丈夫すか?え、救急車が来たって?そうなんですか、でもおとついのきのうで、今日も飲んじゃってますけど、いいんですか?え、飲みたいからいいんだってんですか。そうですね、そこまで言うなら飲んじゃっていいと思いますよ、私も」
「いや、こちらのにいさんね。つい先日倒れられたんだよ。こっちも話は聞いてたんだけど」
「で、おにいさん、一体どうしたんですか、あ、糖尿ですか、それで飴、口に入れるの間に合わずに気が遠くなったと。なるほどね、でもすぐ気がついてよかったスね」
「こっちも気が遠くなること、あるよな。特に面倒な仕事をしてる時だね。パソコン見てる時なんかだね。そんなことない?ないか」
「こっちに来いって?じゃここにお邪魔してと、こっちね、この店の話したら一度来たい、っていうもんだから、連れてきたんですよ。汚ねー店だからよしたら、って言ってたんですけどね。や、店のオヤジに聞こえたかな。おい、オヤジ気にすんなよ。さ、どっこいっしょっと。ここ座れよ」
「おやじー、取りあえず生ね。何にする?ビール?ジントニック?大体、何でもあるよ、この店。じゃ生ね」
「にいさん、このまえの馬券取りました?負けた?こっちは買わないけど、テレビで見ましたよ。勝てば二万だったんですか。ま、勝てばね。惜しかったですね。じゃ、どうもー、乾杯。・・・・んぐっ・・・・、いやビールはいつ飲んでも旨いスね。にいさん、何飲んでるんですか。焼酎お湯割りね。いつものやつですね。このところ、寒くなってきたんで、そろそろ酒もいいですかね。ところでね、自動販売機でおでん売ってるの知ってます?そうそう、秋葉で売ってるやつ、あれがね、こっちの仕事行く途中で見つけたんですよ。場所ですか?麹町。麹町ってどこだって?ほら、日テレのあるところですよ。そうそう、あすこ」
「おでんが売ってるのうそだって?これがほんとなんだよ。有名なんだぞ、秋葉原じゃ。夏でも売ってんだから。ほんとだって。じゃ見てみなよ、これが証拠」
「な、おでん、売ってるだろ。つまみも売ってるんだぞ。どうもね、この自販機置いてる会社が、そのたぐいの卸をやってる会社らしいんだよ。こっちも毎日通ってる道なんだけど、気がつかなかったよ、でね、見せてやろうと撮ってきたんだよ。へー、だって?」
「にいさん、これ喰ったことあります?なんか玉子なんかも入ってるらしいじゃないですか。そうですか、ま、缶詰ですからね。そんな旨いもんじゃありませんよね。でもカップ酒とぴったりですよね。そうですか?じゃ今度買ってきますよ。試しに」
「ところでさ、この自販機なんだけど、シガレットチョコも売ってんだぜ。え、知らない。ほら、タバコの格好したチョコで子供のお菓子だよ。子供がタバコ吸う、まねするやつだよ」
「にいさん知ってますよね?」
「ほら、知ってる人は知ってるだろ。あたりまえだって?まあね。でもそれも撮ってきたんだ、ほら」
「これがさ、シガレットチョコよ。ココアシガレットって名前になってるな。以前はさ、このシガレットチョコしかなかったのに、ほら、こっち側、ブルーベリータイプもあるんだってさ」
「ね、おにいさん、懐かしいですよね?いくらでしたっけ。そうそう、そんなぐらい。昔はピースにそっくりなのも、ありましたよね。そう、青い箱の両切りのピース。ピースのデザイン、あれってローウィって名前のアメリカ人のデザイナーなんですってね。私、この前調べてみたんですよ。そうですか、にいさん缶ピー吸ってた。あれまだ売ってるんですかね?あれね、缶ピー吸ってるってのは、格好いいんですよね。机の上に置いてあるってのもいいし。缶がピースとおんなじ深い青で。いやー(遠い目)」
「ふーん、だって?お前聞いてなかったろ。」
都会の廃屋(2007/2/7)
「何かご用ですか?」。いきなり声をかけられたので、ちょっと驚いた。もちろん、あわてて逃げ出すわけではない。こういう場合は、ゆっくりとした口調で、警戒されないように話す必要があるのだ、というのは、少ない経験で得た、人とのつきあいのやり方の一つだ。別に泥棒しようというわけではない。
昼食の後、天気はよし、陽射しも暖かくなって、麹町界隈をぶらぶら散歩するにはよい季節となった。で、歩いている途中、ふと路地の奥を見ると、二階の屋根からも枯れ草が垂れた、尋常な様子ではない個人住宅が見えた。こういう面白そうなのを見逃す私ではないので、路地に足を向けた。
その家は、通りからはその半分も見えない。近くによって見上げてみると、二階建ての、割合に大きな家で、塀の向こうに、通りからは見えない建物がある。結構な土地の広さとみえる。ただ、もう、草茫茫たる敷地で、ツタと草が、地上からも屋上からも、這い登りあるいは長く垂れて、壁といわず窓といわず、覆っているのだ。夏になれば、この家全体が、植物に覆い隠されて、緑の長方形になるに違いない。都会の奇観である。
というところで、声の主に話を戻すと、この廃屋に一番近い一軒家の主らしい、中年男だ。窓を開け、顔を突き出している。
「いいえ、あんまり、この家が凄いものだから」
「すごいでしょ。猫屋敷になってるんですよ」
「いや、本当。草茫茫ですなー」
「そう、迷惑してるんですよ。この前もね、近くのデザイン学校の学生が写真を撮りにきてました」
「確かに、これほどだと、面白い写真が撮れそうですよね。でも、あれでしょう。夏になると大変じゃないですか?虫が」
「そうなの。酷いんですよ、もう、窓を開けられないんだから」
などと、話が続いて、この一軒家の主、いろいろと話をしてくれた。この廃屋には所有者が居て、年に何回か見回りに来ること。所有者は五十前後で、母親のいること。母親は中国人で母親の代に日本に帰化したこと。等々。
「でも、この一等地で、もったいないですよね、空けて置くのは」
「そうでしょ。変わり者なのよ」
「はあー、なんか事情があるんでしょうな。・・・いや、どうもお邪魔しました」
「どうもー」
億単位の土地をただ、放ってある人物。荒れるがままになる家。その男、おそらく独身に違いない。母親の財産がたっぷりあって、気ままで、かつ、気難しく生きている中年男。この都心の廃屋に母と息子のどんな気配が残っているんだろうか?・・・なんちゃって。ところで、声をかけてきたその男。やはり五十過ぎと思われるのだが、昼ひなかから、自宅で、何をしてるんだろうか。麹町は謎の多い土地といえる。
傾いた商家(2007/5/30)
「カシャ」と音をたてるのは、少しばかり恥ずかしい。通勤電車の中というのは、皆押し黙っているのが普通だから、いくら車輪のたてる騒音が大きいといっても、別の種類の音は乗客の耳をそばだてることになるんじゃないかと、気になる。もっとも、こちらはドアにぴったりくっつくように立って居て、カメラをドアのガラスにつけて外を撮っているのだ、ということを廻りの乗客にアピールすることを、私だとて忘れてはいない。一体、何を撮ったのかと聞かれれば、ずばり、これだ。
一目瞭然、「え、何が面白いの?」と考えた貴方、もう一度よく見て欲しい。真ん中の家が傾いてるでしょ。
この小さな二階屋、電車の窓からいつも見ているのだが、少し遅い電車に乗った時には、一階のシャッターが開いているのを見るので、ちゃんと商売はやっているらしい。他人事(ひとごと)ながら気になる。二階に住んでいるんだろうか?でもあの傾きでは、布団は敷けないだろうな、とか、一階で商売をしていて二階が崩れないか心配じゃないんだろうか?とか、この前の地震のときにはどれだけ揺れたんだろうか?一階に居て気にならなかったんだろうか?とか。台風が心配じゃないんだろうか?とか。まあ、実際の話としては、工事が進んだ後には、この家も周辺整備に合わせて取り壊されて、その跡地に補償金で立派なビルが建ったりするんだろうと思われる。立派なビルに建て替えられたら、「うまくやりやがって。でも、壊れそうな二階の下で恐怖に耐えながら商売を続けたアンタ、エラいよ」と言うつもりだ。心の中で。
市ヶ谷の陶芸展(2008/4/24)
市ヶ谷に勤め場所があるので、昼休みは東西南北、足の届くあたりは毎日散歩するようにしている。メタボ対策もあるが、基本的にふらふらと歩くのが好きだから、と言える。今日は靖国通りを市ヶ谷の駅から東に向かうこととした。何にも予定がないにしても、間もなくゴールデンウィークがやってくると思うと、この陽気もあって、この年になっても楽しい。気がする。靖国通りはほぼ、東西に走っているので、詳しく言えば市ヶ谷から靖国神社へは東北東の方向だが、通りの北側によく日が当たり、南側はビルの陰で、今日の陽気では、陽当たりの道は暑いくらいだ。というわけで、通りの南側を歩くことにする。
市ヶ谷あたりは、割と小さな商店やレストランが多く、近くの番町は有数の高級住宅地であるのだが、どれもみな地味と言ってよいくらいだ。もちろん、近くに住んでいるから、こっちのよく行くような店に行くとは、全く、限らないし、金持ちが普通の店を使わないかと言えば、それもあり得ないのだが。それはそれとして、この通りをふらふらと歩いていくと、一口坂の反対側に位置するということか、一口坂ギャラリーという貸し画廊があって、色々な展示をしている。どちらかと言えば、プロ向けの画廊ではない。今日も今日とて、前を通りかかると陶芸の展示をしていた。ここでも、またもふらりと入ると、決してプロではないが、色と形に好感のもてる焼き物が並んでいた。
貫入いりの青磁、黒釉、黄瀬戸、が並んでいた。こっちも素人だが、作り手もいかにも素人くさい。しかし、素人が張り切って展示会をするというのは、こっちも同じなので、連帯感が生まれるのが自然のなりゆきで、応援のつもりもあって、一つ購入した。
何を入れたらよいか、中々考えつかなかったが、近く、親戚連中が来るので、スパゲティでも作ったらこれに山盛りにして出してやろうと、思いついた。そうそう、作り手は茅ヶ崎の松風窯だ。
出勤途中の拾い物(2008/5/16)
段々に仕事で思い悩むようなことはしなくなって(悩むような仕事をしていないと、言い換えることも可能)、通勤途中の道端に咲いている花だとか、街路樹の様子だとかに目が行くようになった。基本的には悪い事ではないと自己判断している。
冬の終わりには、道沿いの畑の隅に蝋梅が黄色い花をつけているのを見つけて、その香りを思い出そうとしたり、春の初めには梅の二三輪もほころびているのを、他人様の庭に見つけて嬉しくなったり、梅が咲いた後は、白木蓮の蕾みを見て、いつ花が開くか案じてみたり、桜はまだかいなと、余計な気を回してみたりと、通勤の途中とても、なかなか楽しみを見つけることはできる。
というわけで、今日は、通勤電車の中で宙吊り広告を眺めていたら、座っている座席の位置と広告の位置と吊り革の位置の三者が、マッチして面白い光景に出会ったので、携帯で撮ってみた。
所有の携帯のカメラは、ないよりマシの代物なので、よく判じ得ないかも知れないけれど、心眼も援用して面白いと思って頂ければ幸いだ。
電子雲の中へ(2008/8/5)
cloud computing なる言葉が出て、まだ数年も経過していないと思うのだが、世の中に浸透してきた。浸透してきたので、こっちも身を投じてしまった。別に身を投じなくとも良かったのだが、携帯を購入した時点で、こうなるのは必然的な、なりゆきだったように思える。おそらく、近いうちにこの電子雲に、皆さんも包まれてしまうと思われるので、解説を残しておいて、自分の考えが的を得ていたかどうか、後で検証したいと考えた。
情死ではないけれど、身を投じるまでには長い道のりがあるものだ。その始まりが手帳という、サラリーマンにはなくてならない小道具のことだ。紙の手帳から電子手帳への長い道のりの話は横に置いておいて、ここで一旦立ち止まって、手帳の役割を考えてみるとよい。その前に、もちろん、手帳の本質は人間の記憶能力の外部化である。外部化なんて偉そうに書いたが、要するに、記憶が完璧な人には必要ないのが手帳で、直ぐに何でも忘れてしまう人間にとって、記憶を体の外部に置くための仕掛けだ。
外部化された記憶は、以前は紙の上にあったので、普通に考えて火事などの事故に遭わなければ、消失することはないと思われてきた。ただし、記憶が紙の上に記録として移されてしまうと、頭の中にあった時のような、柔軟な取り扱いができなくなってしまう。そこで、電子的に記録することで、並べ替えだの、検索だの、関連づけだの、或る場合には、頭の中にあるよりも強力な扱いができるようになったので、(私の場合も含め)紙の手帳から電子手帳へと乗り換えが起きたのだ。その一方、電子的な記録は、紙ほどには、環境の変化に対して耐性を持たないので、いつもバックアップを取る必要も生じた。こんな風に、本質的には必要のない記録のバックアップのために、電子手帳そのもの、その中身をバックアップするパソコン、そして両者のインターフェース等に、余計な考慮を継続的に強制されることになったのだ。
記憶の外部化の仕掛けの話はきっかけであり、主役はmobileである。mobileとは一体、何であるのかと考えれば、人間の他人との関係性の強化への願いであり、強迫神経症的とも言える現代社会に住む人間の、不安に対する、緩和システムと言えるかも知れない。図にあらわしてみよう。
強迫神経症的な状態へ導いたのが、情報交換あるいは取得システムの著しい発展で、電子メールシステム、WWW、そして携帯電話の便利さに違いない。これらのシステムの利用は、基本的には固定されたコンピュータあるいは電話機を通じて、達成できるものであり、それで十分であったのに、個人の欲望を刺激し続けるのに十二分な性能を持つに至って、そのシステムに接触する人間に、例えば、メールが来ていないか常にケイタイを取り出して確認する女子高生にみられるように、システムに接触していなければ不安であるという、強迫観念を植え付けたのだ。
さらに電子化は、情報記録媒体の進化が極度に進んだために、所持という欲望にも刺激を与えた。これに応えて、電子化された、百冊、千冊の書籍、百曲、千曲のCDを単に、所有するに止まらず、肌身離さず持ち歩く、という手段が現れて、所持しているものが失われるのではないか、という強迫観念への対処までが、可能となったのだった。同様に超小型電子カメラも、目にした情報を外部化したいという欲望に応えるとともに、従来のカメラでは満たし得なかった、肌身離さず持ち歩いて何度でも撮り直しが可能という、より生身の目玉に近いものへと変化して、写真を撮り損なうのではないか、という強迫観念への対処手段となって誕生したのだ。
こうして、人間の願望が無限であることに対応して、個々の願望の実現結果あるいは願望との接触の喪失に係る強迫観念も無限であり、バックアップのバックアップ、コピーのコピー、間断のない情報確認が拡大し続けることとなったのだ。
このような、強迫観念を緩和できる、という触れ込みで、人間の不安を薄めるのがcloud computing であることがわかる。そして、このような文脈において、Apple はiPhoneとネットワーク・ストレージ・サービスであるMobile meを発表したのだと言える。上記の図において、情報身体化の強迫観念を緩和するのがiPhoneで、情報保存と情報確認に対する強迫観念を緩和するのがMobile meである訳だ。Appleがどれほど考えたのかは分からない。しかし、おそらくは感覚的に、このあたりの現代の強迫神経症への緩和手段を、商品化したのだろうと言える。
ちなみに、私もiPhoneとMobile meを購入し、これまで持ち歩いていた、外部ディスク、USBメモリ、携帯電話、電子手帳、をiPhoneに集約するとともに、バックアップと同期をmobile meに任せ、あちこちに分散しているコンピュータとiPhoneを通じて、電子雲に包まれることとなったのだ。ここにおいて、本人自身も強迫神経症であったのが、明らかになったわけである。
イタいサラリーマン(2008/9/23)
近頃のアキバでは、「イタ車」がはやっているのだという。もちろん、アキバだから、「イタ車」は、イタリア製の車、ではなくて、「イタい」車のことなんだという。イタい、というのは、痛々しいくらいに世間からズレている、オタクのことであったのだが、オタクという言葉を皆が知るようになって、オタクが存在理由を確立することとなった。存在理由を確立したと考えたオタクは、自己肥大化して、イタい、絵をペイントした車で、アキバに乗り付けるまでになったのだという。
先週、いきなり、足の親指の付け根がイタくなって、次の日には歩くにやっとの状態になった。医者に行けば、ろくに診察もせずに、受付で書いたアンケートを見ただけで、病名を告げてくれた。「痛風ですね。秋になって、涼しい風が吹くようになると出るんですよね。酒、飲みますか?」「飲みます」「薬、出しときますからね。あと、血液検査もしときますか?」「お願いします」、てなわけで、1分もかからなかったんじゃないの。
そういう訳で、イタいサラリーマンは、よくある、痛風のサラリーマンとなったのだった。”家庭の医学”にも書いてあるような、古典的な飲み薬を飲んでいたら、書かれている通りに4日目で普通に歩けるようになった。
薬と一緒に薬局でもらった冊子には、体重を減らすように、酒を控えるように、というのと、高尿酸値を下げるために、よく水分を飲む事、なんてのが書いてあって、十日ほど、大人しくしていて、酒も一滴も飲まずに過ごした。飲まないと決めると、結構飲まずに済むものだ。その間に、一つ飲み会があって10数人の参加者があり、こっちはウーロン茶を飲んでいたのだが、成る程、下戸はこんな風にして、酔っぱらいを眺めているのか、ということを知る事ができた。
飲む方と飲まない方と、どちらがよいかと、一瞬、思ったが、結局どちらでも、大きな違いはないように思う。尿酸値について、改めてここ数年の健康診断の結果を引き出しの奥から、引っ張り出して見たところ、たしかに、要注意が続いていた。これからは、素直に、もらった冊子に従うこととしたい。
おっと待てよ、これ、六十にして耳従う、ってことか?いや、偉いもんだね、昔の人は。こっちの事情をお見通しだね。するってえっと、七十にして心の欲する所に従って矩をこえず、てのがあることを考えると、そこまでは、好きにしていいってことかも。
サラリーマンの生産性向上について(2009/1/27)
これは、日本のサラリーマンおよびサラリーウーマンの話で、外国のことは知らない。ホワイトカラーの生産性が低いという話はもう随分昔から聞くことで、改善されたという話はあまり聞かない。私の経験で、なぜかを考える糸口を提供したいと思う。
現状はこうだ。
多くのホワイトカラーは(ブルーカラーもそうかも知れないが。第一、ブルーカラーなんてクラスがあるかどうかも不明)第一に、現在の自分の抱えている仕事でいっぱいいっぱいだと考えている。いっぱいいっぱいがどういうことかと言えば、新規の仕事を受け入れたくないと考えている、ということだ。つまり何かを改善しようとする働きかけ、内的にも外的にもだが、を(受け入れる余裕がないと考えている)ということである。
新規の作業を受け入れる余裕がなければ、仕事自体の改善作業を行うことができない。全てのトライアルはエラーの起こる可能性があるから、その仕事量は、確立されたと考えられる仕事量より常に大きいからである。こうして、いっぱいいっぱいの仕事を抱えていると考えるホワイトカラーは原理的に生産性向上の端緒を、自動的、他動的に開くことができないのだ。従って、なぜ、いっぱいいっぱいの仕事を抱えていると、彼あるいは彼女が「考えるように」なったか、がキーワードとなると考えられる。
「考えるようになった」というキーワードからは、種々の事実あるいは傾向を掬い上げることができる。まず、サラリーマンおよびサラリーウーマン、面倒なのでサラリーパーソン、SPと以後呼ぶ事にする、は工場労働者と違って、ストップウォッチ片手の上司に作業をモニタされたことがないので、彼らSPの「考えるようになった」というのは、多くの場合、経験則あるいは他人の言説に基づく事実群から、何らかの方法で抽出し取りまとめたものである、ということができる。
また、多くのSPの観察結果、もちろん私の観察に過ぎないが、によれば、事実群からの抽出においては、リストなどを作成しているようには思えないので、主観的にこの作業を実行しているのだと思われる。主観的作業というのは、当然のようにその場の情動に強く影響され、かつ日本の職場で毀誉褒貶のSPに与えられる割合を考えれば、殆どの場合は毀と貶であろう。
「奴隷労働にも達成感がある」通り、働く者の多くは自分の仕事に愛着を持っているし、これを洗練しようという気持ちを持っている、というのが私の基本的考え方だ。この立場でSPを観察すれば、確かに彼らは、日々の仕事を嫌々行っているとは言い難いと思われる。ところが、多くの場合、このような小さな改善は上司に認められることは少なく、逆に作業手順の小さな逸脱として指摘されることが多いのも、私が観察するところである。観察結果によれば、彼らSPに対する毀と貶は、SPがある程度作業結果に自信を持っている時に、より強い負の効果を与えるであろう。従って、SPが「考えるようになった」のは、毀と貶を伴う自らのネガティブな経験あるいは他人から伝えられた情報を、その基盤としているのではないか。
こうして、SPは小さな改善や洗練に達成感を覚えると同時に、上司からのネガティブな反応に対する喪失感を覚えるという、二律背反的な感覚の間に日々を過ごし、この状態に対する自己肯定も否定もできないというなかで自分を守るために、「私はいっぱいっぱいに仕事をしている」という観念を形成するのだと思われる。結論を言えば、上司は誉と褒をもっと部下に与えて、生産性向上への取組む気持ちの整備から始めなければならないだろう。
会計検査院っておもしろいかも(2009/1/27)
仕事柄、たまに会計検査院の仕事に思いを馳せることがある。イメージとしては、またおそらく、その通りと思われるのだが、毎日、毎日、帳簿をめくる仕事。今日も明日も、そして明後日も。というところで、会計検査院のホームページを眺めていたら、会計検査院平成17年度検査報告というのがあって、この中に、環境省の不当事項「二酸化炭素排出抑制対策事業で設置した小型風力発電機の発電量が消費電力量を下回っていたため、二酸化炭素排出量が削減されず、交付金交付の目的を達していないもの」というのがあった。
これがどういう事業かと言えば、お察しのとおり、「二酸化炭素排出削減の取組を強力に推進することなどを目的として、風力、太陽光等の石油に代替するエネルギーを利用した発電設備等を設置する市町村等に対し、国が必要な経費を交付する」という事業で、つくば市が「二酸化炭素排出抑制対策事業として、市内19校の小中学校に23基の小型風力発電機等の設置を工事費約3億円(交付金1億8500万円)で実施」ということで提案したものだ。
この話は、つくば市と風力発電の設置のコンサルタントと業者を紹介した早稲田大学の訴訟になっていて、あちこちで面白可笑しく書かれているのでご存知の読者も多いものと思われる。会計検査院によれば、さすがに彼ら、核心をついていて、上記のページには、こう書かれている「…同市では、事業計画において、10kW出力するのに風速11m/sを必要とする小型風力発電機を設置することとして、年間発電量を1基当たり平均約7,900kW/h、23基合計で約181,800kWhと試算し、約69tの二酸化炭素排出量の削減効果があるとしていた。しかし、同市が実際に設置した小型風力発電機は、10kW出力するのに風速15m/sを必要とするものであり、これにより年間発電量を算定すると1基当たり平均で約1,800kWh、23基合計で約42,500kWhとなる。また、小型風力発電機は制御盤等で消費される電力(以下「消費電力」という。)が年間1基当たり平均で約2,600kWh、23基合計で約60,400kWhが必要であるのに、このことを考慮していなかった。その結果、小型風力発電機設置前より二酸化炭素排出量を約6.7t増加させることになっていた。したがって、本件事業は、小型風力発電機の発電量が消費電力量を下回っていたため、二酸化炭素排出量を削減するという目的を達しておらず、交付金185,000,000円が不当と認められる。このような事態が生じていたのは、同市において事業計画を策定する際の小型風力発電機の発電量等についての検討が適切でなかったこと、環境省において交付金事業の審査、確認が十分でなかったことなどによると認められる」。発電どころか、電力を消費することになった、というのが馬鹿らしくも情けない。
早稲田大学のダリウス・サボニウス風車というのも相当怪しい、ダリウスタイプは起動にモーターが必要だ、そこで抗力タイプのサボニウス風車を組み合わせて、起動モーターを省略するというアイデアなのだろうが、両者を合体させると当然ながら風車全体としての効率が下がってしまう。風車の出力は風速の三乗に比例するから、とにかく風速の高い場所を風車の設置場所として選ぶのが第一条件である。早稲田のこの先生、風速が低いところでも働くようにという考えでこの風車を作ったのであろうことは、理解できる。理解できるが、風速が低い場所は、風速の高い場所に比べて三乗で効いてくるような低い出力しか得られないのだから、「風車ありきで、効率は二の次」というのは、工学的には倒錯的であると言わざるを得ない。
<NEDOのページからマッシュアップしたダリウス・サボニウス型風車>
どう考えても定格出力を発電するのに必要な、15m/sの風が、つくばの山の天辺ならいざ知らず、学校の校庭で吹くとは考えられない。昔々、私も日本の風力発電ポテンシャルの推定という研究をしたことがあって、調べてみたら、実に30年前だった。世の中、進んでいるのではなくて退化しているのではないかと疑いを持たせるに十分な事例である。
で、会計検査院の仕事の話だが、上記は検査官の舌打ちが聞こえそうな検査例で、役人にとって身内のアホさ加減を思い知らされる自虐的な仕事として、もしかしたら、面白いのではないか、ということだ。
p.s. (2012/1/24)
この顛末は、市に対する住民訴訟が最高裁で市側の敗訴の決定により終了した。この決定により、元助役と元担当職員に約770万円の損害賠償を求めた二審判決が確定した。
続 イタいサラリーマン(2009/3/9)
痛風でイタいサラリーマンとは、何を隠そう、私のことだ。改めて説明すると、いわゆる痛風というのは、痛い症状のことで、本当の病名は高尿酸血症というのだ。血液中の尿酸分が高くなって、体温の低い場所に針状結晶となって析出し、これが原因となって、主に足の親指側の中足趾関節の関節炎として発症するのが、痛風なのだ。
長年の思い当たる節のある不摂生の所為でこうなったのは、自業自得で、反省したサラリーマンは、酒を含むカロリーを制限して暮らしている。しかし、ただ暮らしているだけではつまらないので、痛風について研究的調査を行った。ことの始まりは、ある獣医師による「ヒトの尿pHが絶えず目まぐるしく変化している」という記事で、血中の尿酸が尿から排泄されるのであれば、尿のpHと血中尿酸値の間には、なんらかの関係があるであろう、という話だ。なるほどさもありなん。pH試験紙なら費用もかからず、自分の尿を調べてみるのも面白かろうと、pH試験紙をこの獣医師の事務所から購入し、調査を始めてみたわけだ。(この後、若干、尾籠な話が続くがご容赦願いたい)
ということで、トイレに購入したpH試験紙をおいて、早速、尿検査を始めた。トイレの壁には記録表を張り、鉛筆をぶら下げた。気分転換で小用を足すことも多いので、ある程度、膀胱にたまったところで検査を行うこととする。また、検査する時刻は決めず、むしろ色々な時刻に検査を行うこととする。さて、件の(くだんの)獣医師事務所から購入したpH試験紙はスティックタイプになっていて、紙のスティックの先端に、アドバンテックNo.20(メチルレッド・ブロムチモールブルー混合:測定範囲 pH5.0-8.0)の小片を貼付けたものだ。この貼付け方が特許となっているようだ。測定は放出している尿のラインをこのスティックで切るようにして、先端のpH紙に尿を浸透させる。立ったままでは、手元が狂って家人の顰蹙を買う畏れがあるので、座ってこの作業を行う。発色させたpH試験紙を印刷された発色サンプルと比色して、pH数値を決定する。決定したpH値と同時に、日付と時刻も記録する。明け方の眠たい時は若干面倒であるが、普通には簡単な作業だ。2009年1月7日から、二ヶ月間、これを続けた。下の図だ。
縦軸はpH、横軸は開始からの日数
件の獣医師が云うように、pHは大きな変動を繰り返している。私の場合、5.0から8.0まで、pH試験紙の測定範囲の上から下まで数値があるので、実際には測定範囲外の数値もあるに違いない。さて、話はここからで、二ヶ月も毎日、自分の尿のpHを眺めていると、色々なことが判ってくる。まずは、この二ヶ月間で全体的な変化傾向は見えない。さらに細かく観ると、例えば、明け方のpHがアルカリ側に偏っているようだ、夜は酸性の場合が多いようだ、酒を飲んだからといってpHが変化するわけではない、痛風の発作の前兆をpHから読み取ることはできない、等だ。痛風の予兆を捉えることができない、というのは、図で云えば、43日目から48日目まで痛風の痛さで足を引きずって歩いていたのだが、尿のpHにこれを示す変化があるようには見えない、という結果による。
じゃ、pHの測定は止め、ということにしてもよかったのだが、一旦始めたものなので、二ヶ月間位は続けようということでデータをとり続けた、というのが実態だ。このままでは終われないので、上記のトレンドの解析を試みた。まず、尿のpHには日変化がある、というのは間違いがないであろう。そこで、上記のデータを0時から24時までの日変化のグラフに作り直してみる。下の図だ。
縦軸はpH、横軸は24時間の0時からの各時刻
確かに明け方にpHの高い測定例が多く、夜、pHの低い測定例が多い。ただ、測定値はかなりばらついている。ばらついてはいるが、日変化をしている筈だ、ということで、この変化を強制的に24時間周期の関数で表現することを試みる。データのばらつき具合からみて、わざわざフーリエ級数展開するまでもないだろうということで、単純なサインカーブにフィッティングしてみた。フィッティングした結果を元のデータのプロットの上に重ね書きしたものが、下の図だ。
縦軸はpH、横軸は24時間の0時からの各時刻。関数型は6.0 Sin[2Pi t/24-0.3]+6.0となった(tは時刻)。すなわちpHの平均値は6.0であり、pHの最高値は朝の7時から8時にかけて出現して、6.3程度となり、最低値は午後の19時頃で5.6程度となる
測定時間帯に抜けがある、つまり寝入りばなの、丑三つ時のデータがない、お昼前後のデータが少ない(会社に行っているから)、等があるので、このあたりのデータを増やしたり、あるいは、データの測定期間をもっと長く例えば半年ほどにすれば、もう少しデータのばらつきが減って、より正確な日変化の傾向を捉えられるかも知れないのだが、まあ、予備的調査ということから云えば、こんなものだろう。で、この結果から何が言えるのかと言うと、なかなか、難しい。ひとつには、尿は排泄物であって、体のホメオスタシスを反映しているわけではないから、直接的に体内の状態を推定するのは、困難であるのだ。ただし。
虎の門病院人間ドックの長年の集積データによる尿pH、および血清尿酸値のトレンドという結果があって、これが、興味深い。下の図だ。この図はもともとは、日本人の血清尿酸値が、年々増えていて、尿のpHもこれに関係しているようだ、ということを言っている。
(出典)辻,原ら:人間ドック, 2007, 22(3), 55-60(日本ケミファ)
この図と、私の尿pHの平均値である6.0を比較すると、私の状態は虎ノ門病院の人間ドックを受診した男性の1995年以前の平均値とほぼ等しく、また、同じく血清尿酸値のトレンド図の1995年以前の数値を推定すれば、5.8mg/dL以下であろう、という結果が得られる。で、この推論からすれば、私が高尿酸血症である筈はない、のだが?よく解らない。例えば、尿pHが低いのは、このところの節制した結果が現れているもので、それにも係らず通風発作が起きたのは、以前に生成された尿酸結晶がまだ残っていたのだ、とも解釈できるが、判然としない。血液検査の結果とこれからの様子をみれば、そのうち、結論が出るだろう、ということで。
上記のデータ解析にはMathematicaを用いている。プログラムは以下の通り
ph=Import["~/Desktop/urinPh.csv"];
ListPlot[ph,PlotJoined->True,AspectRatio->0.2];
daytrend=Transpose[MapAt[24.0 Map[Mod[#,1.0]&,#]&,Transpose[ph],1]];
dplot=ListPlot[daytrend];
ans=FindFit[daytrend,a+b Sin[2Pi x/24.0+c],{a,b,c},x];
fittrend=Plot[a+b Sin[2Pi x/24.0+c]/.ans,{x,0,24}];
Show[dplot,fittrend];
p.s. その後2月末日に病院で採血された時の結果が出て、尿酸値は6.0mg/dlだった。上の尿pH値からの推定値と近い。尿酸値が低くなったのは薬の効果でもあると言えるので、薬を止めて尿pHが酸性化するかどうかと、その時の血清尿酸値を改めて調べれば、推論がよりはっきりするのであるが、本人にその積もりはない。医者に、これから四月、五月はビールを飲む機会が増えるから、薬は止めない方が良い、との助言を受け入れて、ビールを飲める体勢を整えるつもりだ。(2009.3.15)
サラリーマンの視野狭窄症(2009/8/26)
このページの前回のアップからもう半年近く経っているし、このページの最初の記事から指折り数えると6年近くになるのだ、ということに今更気付いた。もうすぐ定年なので、このページの更新をどうしようかとエディタでファイルを開いてみた今日のことだ。さて、金の目処はさっぱり立たないが、遊びの目処なら何とかなりそう、という今日この頃。…綾小路きみまろのような語り口になってしまったが、周囲のサラリーマンの行動に違和感を感じるようになった。周囲といっても、同僚だけの話ではない。昼ご飯を食べているとなんとなく耳に入って来るサラリーマン同士の会話、居酒屋で酒を飲んでいると、大声のサラリーマン同士のいやでも耳に入って来る会話、道を歩いている姿、等を聞いたり見たりしていて感じる違和感のことだ。
もうすぐサラリーマン生活をはおさらばする身で、部下もおらず上司に直接指示されるようなポジションにもいないことで、余計にこの違和感を感ずるのかも知れない。あるいは単に出世することのできなかった定年間近のサラリーマンの僻(ひがみ)という可能性も否定できない。
どのような違和感かと言えば、我らが日本のサラリーマンの特徴である、群れたるサラリーマンへの違和感である。例をあげると、店主が少しでも売り上げを上げようと頑張っている狭い居酒屋のランチに、五六人も団体でやってくるサラリーマン群。例えば会社の金で出かけた海外出張の時のレストランやホテルや町中で自分が経験した出来事を、延々と話すサラリーマン二人連れ。ベルトの上に突き出た腹を載せてだらだらと歩道を歩く昼飯帰りの三四人連れ。この類いの群れに感じるで違和感である。近頃になってから、こんな違和感を感じるようになったのは、自分自身がサラリーマンとして成功しなかった原因をあれこれ考えて、得た結論によるのかも知れない。どういう結論かと言えば、サラリーマンとはボーイズクラブのメンバーである、という事だ。
男性が少年の頃からグループ行動をする傾向、即ちボーイズクラブを形成する傾向にある事はよく知られた事実で、会社というのはこのボーイズクラブの発展形である、というのが私が得た結論だ。大人になった男は一人で生きて行くんだ、という社会的には少数派の考えを自分が持つに至った経緯は自分でもはっきりしない。経緯はどうであれ、私のこのような性向がボーイズクラブの発展形である会社にあまり馴染む事ができなかったのは、明らかな事実と認めざるを得ない。つまりグループへの忠誠だとか、年上メンバーに対する無批判的服従、年下メンバーに対する面倒見、等はボーイズクラブの維持に必要な性質であるからだ。あまり先輩になつかず、後輩を先輩の立場で見ず、グループ行動を忌避しがちなサラリーマンに出世の道がある訳はなかったのだ。
とは言え、サラリーマンとして曲がりなりにも数十年も過ごせば、このボーイズクラブたる会社に知らず知らずに馴染んでいる筈で、しかしながらも、定年が近づくことによって、この馴染みという臭いや外見や行動パターンが我が身からはがれ落ちつつある、というのが今の状況であり、それ故にサラリーマンの群れと行動に違和感を感じるのだ、というのが自分としては尤もらしい説明のように思える。
だからどうなのよと言われても答えるべきものは持っていないのだが、自分自身としてはこれから以下のような行動指針を持ちたいと考えるようになった。ポイントはボーイズクラブに馴染む行動様式は、一般に生産に携わる層から外れた人間にとってあまり適していないのではないかということだ。これはまず、ボーイズクラブに長く留まるとどのような性向を持つようになるかを列挙すればよい。ボーイズクラブたる会社はどのような会社組織であれ、社会全体ではないので、ある限定された様式や考え方を備えており、そのメンバーもある限定された性向を持つに至る。ボーイズクラブたる会社に長く留まると対人関係の維持構築様式が特定化される。ボーイズクラブは少年が主体であるので、女性や少年の(心)以外を持った男性との馴染みが薄くなる。会社に長く留まると会社勤めと言われるように時間的空間的な行動様式が定式化される。で、これらの性向はサラリーマンが生産に係っている場合には、よくその生産に寄与することが明らかだが、それ以外の社会状況にはあまり合致しないであろうことも明らかだ。つまりサラリーマンは心的に視野狭窄状態にあるので、生産システムから離れても心的な視野狭窄状態にあると、今度は他の社会システムに馴染むことが不可能となるのだ。
この心的な視野狭窄は社会的生活には不利なので、改善しなければならない。少なくとも経営層レベルとして会社に残留することが不可能であり、十分な資金という社会生活をバックアップする蓄えを持たず、OB会や嘱託と称するボーイズクラブ参加権を持たない私にとって。では、どのように心的な視野狭窄を改善するかと言えば、ある仮定の下に実験的にこれを改善しようと考えている。心的な視覚障害が現実に存在するという事実がある。器官的には何らの障害がないのに、心的なストレスにより視力低下、色彩感覚の低下、視野狭窄などが生じるというものだ。ここで、人間の心的状態と器官の状態が可逆的であると仮定すれば、この仮定はかなりの割合で正しいと信じているのだが、器官を、この場合、私の眼が見る状態を従来と変化させることによって、心的な視野狭窄を改善できるのではないかという考え方だ。
この考え方に沿えば、キョロキョロと挙動不審に見られない程度に廻りを広く見る。今まで眼に入らなかったものに気を配る。例えばそれを写真に取る。今まで存在することは認識していたものを改めてよく見る。今まで見た事のないものを観てみる、等々、私の眼が見ているあり方を拡大すれば、これと連動している筈の私の心的な視野狭窄状態が緩和されるであろうと期待できる。
ということで、自分自身の近頃の行動を見直せば、今まで殆ど見る習慣のなかった映画に通ったり、散歩の途中で見つけたものをiPhoneで写真を撮ったり、デッサン教室でモチーフの見方を習ったり、ヌードデッサンで女性の肌をまじまじと見たりするのは、私の心の視野狭窄によい影響をもたらすのではないか、という自画自賛の話だった。
p.s. 2005年6月12日にSteve Jobsがスタンフォード大で講演していてさすがに良い事を言っている。中でも「今日が自分の最後の日だとして、今日することになっている事は自分が今日したいことだろうかと自分に問うて、これが続くようだったら何かを変えるべきだ」という話は気に入った。(2009.9.15)
サラリーマンこれでお終い(2010/3/18)
という訳で、何がという訳だか、よく解らないが、定年の日がやってくる。私が勤めてきた会社は六十才の誕生日月の終わりを以て定年となるので、あと十数日というわけだ。再雇用は選択しなかったので、年金の給付が始まるまでは自分でなんとかしなければいけない。この点については「稼活」というページで新たに書き始める予定にしている。このページでこれまで書き綴ったものを眺めると、自分思った以上にサラリーマン生活に適応しているじゃないか、というのが感想だ。尤も100%の適応ではないので、どうしても適応できなかったのが幾分かあって、その心理的な不適応部分が今や蠢動を始めたと、そういう訳だ。