IBMはSOA(Service Oriented Architecture)を提唱し、サービス科学なる分野が米国で勃興しつつあるという。中身が固まらないうちにこっちも考えてみようという話だ。こっちは研究の産業化におけるサービス・オリエンテッド・プロセス(SOP: Service Oriented Process)という概念を提唱する(2006/12~)。

さらに、概念を広げて、研究の産業化というコンテキストに限定せず、社会全体がサービス・オリエンテッドになっている状態を想定して、Service Oriented Society: SOSと呼ぶ事とする。仮に社会がProduction Oriented (生産指向)から、User Oriented (消費者指向)へと変化し、これがService Oriented(サービス指向)へと向かうとすれば、我が国はP.O.からU.O.へと転換する途中であると考えると、日本社会をよく見通すことができる(2009/2/23)。

本文

産総研の新しい動きーSOPへの流れ(2006/12/28)

昨日(2006/12/27)、経済産業省の産業技術政策講演会を聞きに行ったら、産総研理事の山崎正和氏が「イノベーションの促進を担う産総研の役割」と題した講演を行ったのだが、なかなか聞くに足るものだったし、新しい見方だと思ったので、忘れないうちに書き留めておこうと思った。

話は、産総研も曾ては、よくあるように研究のシーズを陳列して、産業化に結びつけようとしたが、さっぱり実にならなかった、ということから始まって、「単一のディシプリンから生まれた研究成果は、製品化・産業化と結びつかない」という分析結果に基づいて、今年から産業技術構成者(産業技術アーキテクト)の新設などにより、研究結果の産業化を強化しようとしている、ということだった。この産業技術アーキテクトとは、一体何だということで、講演終了後に氏に聞いてみたが、産総研らしく走りながら考えるんだ、という答えで、確かにその通りなのだと思われる。ただし、氏のプレゼンは産総研における新しい流れの例を主に示すものだったが、その中に、答えがあるように思われた。個々の事例から、産総研が何を考えているのかを探ってみることとした。まず、プレゼンに示された例を挙げてみる。


例1 ミニマル・マニファクチャリング・コンセプトに基づく産業革命
エントロピー生成を指針として、最小限の資源とエネルギーから最小限の廃棄物と廃エネルギーを出しながら、マキシマム・ベネフィットを生む製品を製造する
産総研の新しい動き:新奇な指針の提案

例2 ロボット用ミドルウェアの標準化
標準化したRTミドルウェアを用いて、ロボット技術のシーズとニーズを迅速に結びつける
産総研の新しい動き:製造の中流に着目

例3 密閉型植物工場
動物の遺伝子を植物に組み込み、例えばインターフェロンを製造する。これをクローズドな植物工場で生産する
産総研の新しい動き:最終製品から研究を構築

例4 MRAM量産技術の開発
不揮発メモリであるMRAMをデバイスメーカーに採用させるために、製造装置メーカと技術融合して、量産技術を確立する
産総研の新しい動き:製造の中流に着目

例5 企業トップ層との懇談会企画
産業界の経営の立場からの課題や意向をくみとる
産総研の新しい動き:企業トップ層との直接対話

例6 LLPによる技術融合
SiCをデバイスメーカーに採用させるため、LLPによるベンチャー企業を設立した
産総研の新しい動き:LLPに人材を派遣

例7 医療機器審査の迅速化
産総研の開発した医療機器の承認審査を迅速化させるため、審査を担当する医薬品医療機器総合機構と連携した
産総研の新しい動き:人材の派遣による制度の実質的改革

例8 医療機器の迅速な産業化
産総研の開発した医療機器を医師に使ってもらうために、トレーニングシステムを開発・販売
産総研の新しい動き:利用者の立場に着目

例9 ポスドク人材の育成
大学で博士号を取得したばかりの人材を産総研の民間共同プロジェクトに参加させ、人材育成と企業への提供の同時展開を図る
産総研の新しい動き:ポスドクと企業のミスマッチに着目

例10 産総研ナノプロセシング施設の開放 施設を中小企業の技術者に解放し、人材育成を図る 産総研の新しい動き:中小企業の意欲と費用・技術のミスマッチに着目

こうしてまとめてみると、通底するものがあることが明らかに分かる。つまり、研究の産業化におけるサービス・オリエンテッド・プロセス(SOP: Service Oriented Process)の重視だ。最終的なサービスの、コンテンツや、提供される場を考えた時、そこに何が阻害要因として存在するか、という分析からの出発で、確かに、単一のディシプリンから生まれた技術では、サービスに結びつかないのが明らかだ。IBMはSOA(Service Oriented Architecture)を提唱しているが、このSOPに近いところが多くあるような気がする。

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サービス指向とは何か(2007/1/4)

まず、サービスの定義が必要と思われる。辞書によれば、1. service について、(1)尽力、奉仕、勤務、軍務、(2)給仕、(3)(交通・通信などの)施設およびその便、(4)(教会や寺院の)おつとめ、(5)(テニスの)サーブ、とある。で、2. serve については、(1)(使用人として)働くことおよび仕えること、(2)役立つ、間に合う、(3)(食物を人に)だす、給仕する、(4)服務する、(5)供給する、(6)取り扱う、等とある。

上記のうちで、SOPの概念に最も適合するのが、1の(3)交通・通信などの施設およびその便、であろうと思われるが、SOPはもっと広い範囲を対象とするので、これを、現代社会システムおよびその便宜、くらいに定義し直すのがよいと思われる。
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次になぜ、今サービスが言われるのか、を考える必要がある。時系列的に言えば、Service Oriented の前には User Oriented (消費者指向)なる言葉があったことに注目する必要があろう。ついでに言えば、User Oriented の以前には、Production Oriented (生産指向)があったに違いない。日本語で言えば「もの作り」、と云えよう。人類の歴史から言えば、その殆どが供給不足が常態であって、これが資源の利用による生産拡大、ついで経済を減速させないための消費者指向、そして、この歴史的発展経緯の見直しである、サービス指向となったと言える。

この歴史的な発展経緯における消費者指向が、なぜサービス指向となるのか、には説明が必要だろう。まず、消費者指向の限界が近年、あらわになってきたことに注意する必要がある。消費者指向は生産指向、すなわち人間が大量生産システムの構築に成功して、資源とエネルギーを潤沢に費やして商品を市場に投入した後に始まった。人間は直ちに市場に溢れる商品に飽きて、消費者指向と呼ばれる人間の欲望へのおもねりに身を委ねることとなった。消費者指向は、人間の欲望の高いレベルを満たすこととなったが、その反面、使い捨て、に見られる資源の浪費を導くに至った。こうして、資源とエネルギーそして廃棄物の捨て場所が充分にある限り、消費者指向は生産指向を従えて、人間の欲望を満たし続けることが可能であるのだが、世界の限界が認められるに従って、消費者指向にも限界があることが理解されてきたのだ。こうして、欲望の追求と資源の枯渇という矛盾を解決できないにしても、より効率的に人間の欲望を満たすシステムとしてサービス指向が登場sする、いや、登場せざるを得ないと云うべきだろう。

サービスという概念をもう少し狭く、所謂、第三次産業に重なるようなもの、と看做してその 動向をとりまとめたものがある。内外動向がよく分かるので参考となる。また、IBM自身が説明するサービスサイエンスに関するパンフレットもある。両者は、サービス産業が主要な産業となってきたにも関わらず、サイエンスの対象として見られることがなかったので、そこにビジネスチャンスがある、ということを述べている。



p.s.(2007/5/30)
昨日WBSを見ていたら、サービスとは何かについてよく分かる例があった。話は熱海の再生計画で、熱海の市長が雑誌じゃらんのリサーチを担当していた腕利きの女性を、市の観光再生の特別職に就任させたというのだ。で、その腕利き担当者の言う事には、熱海全体としての入れ物、観光客がどのように熱海を見るか、を考え直すべきだ、というようなことを言っていた。例えば、海と温泉街を分断する交通量の多い道路を浴衣がけの観光客が、小走りに渡るのを見て、彼女は、「これでは、熱海にやすらぎを得ることはできないのでは」というようなことを言っていた。

つまり、
(1) 最初に温泉というシーズがあって、観光客をよんでいた時期
(2) 次に、料理や芸者によって他の温泉街と観光市場において競争していた時期
が続いていたが、段々に街がさびれていって、「観光客の喜ぶ」花火大会を始めたものの、段々にその効果がなくなって、今では、年がら年中花火大会という状態になっていたのを、腕利き担当者は、
(3) 熱海という土地が唯一提供できるサービスとは何か、を考えるべきだ
と提案したわけだ。「もの作り指向」、「消費者指向」から、「サービス指向」への転換がよくわかる事例で、思わず「そうなんだよ」と叫んだ。

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イノベーションという危うさ(2007/1/5)

我が国では政府あげて、イノベーションという言葉が大流行りであるが、これには危うさを感ずる。これは、サービス指向が生まれる必然を示す上図との対比により、説明されよう。
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サービス指向が必然であるのに対し、イノベーションには、現実の認識に対する分析の不十分さが表れているように見受けられる。つまり、社会における近年の、環境やエネルギー問題に起因する漠然たる不安を、打破したいという「思い」が、イノベーションなる「超兵器」の誕生を願っているように思えるのだ。イノベーションが「思い」であるので、必然的にイノベーションが作り出す世界については、漠然とした「明るい未来」しか描くことができないのだ。

しかも、イノベーションがしばしば、生産技術を革新する科学的・技術的発見もしくは発明と看做されている点で、その意義が生産指向に強く結びついていることがさらに大きな問題と思われる。なぜなら、それは供給不足を解消するための生産指向であり、かつ、供給不足は既に解決されている、という観点で歴史的な必然に抗うものであるからだ。歴史的必然という見方をするば、サービス指向は、リソースの枯渇に対する方策という点で、これまでのリソース無限を前提とした生産指向と消費者指向とは、全く違う概念と云えよう。あるいはパラダイム転換と云えるかも知れない。パラダイム転換であるとすれば、そこには大きなルールの変更が予測される。ルールとプレーヤーによる歴史の展開がコンテキストであることに注意すれば、ルールの変更が新しいコンテキストを生み出す場になっていることが、直ちに理解できて、プレーヤーとして我々が残れるかどうか、が日本の重大かつ今まで達成できなかった課題であることが分かる。



p.s.(2007/3/14)
先日、「イノベーションとその取組みをめぐる国際動向」(2007/3/12-3/13、主催:内閣府経済社会総合研究所、共催:文部科学省科学技術政策研究所、協賛:知的財産戦略本部)なるフォーラムが開かれて、その中で「イノベーションの促進ー日米欧の挑戦」、「イノベーションと知識社会」、「イノベーション政策及びイノベーション政策研究の動向」を聞いてきた。何か本質的な事が言われるのかと期待していたが、どうにもならなかった。最も基本のイノベーションとは何であるか、が相変わらず曖昧なままだったからだ。

最初のセッションの座長というのが、内閣のイノベーション25の座長の黒川清なる人物で、経歴をみると腎臓が専門の内科医らしい。医師が、政策に関わるというのは昔からある話だから、どうこういう話ではないのだが、座長の話もよくまた分からない。で、まずイノベーション25とは何かから調べてみた。ホームページがあって、イノベーションとは何か?について、以下のように説明してある。
「・・・イノベーションとは、これまでのモノ、仕組みなどに対して、全く新しい技術や考え方を取り入れて新たな価値を生み出し、社会的に大きな変化を起こすことを指します。(行換え)例えば、内燃機関(エンジン)や半導体の技術は、他の技術と組み合わさって自動車やパソコン・インターネットとして世に現れ、我々の生活を大きく変えました。これらは典型的なイノベーションの例と言えるでしょう。」とある。

まあ、そりゃそうだろ。1860~1920あたりの内燃機関の出現は、出現するべくして出現して世界を変えたし、半導体のIC化は大きなインパクトをもたらした。だが、これは皆、後付けで成功の歴史を語っているのに過ぎないのだから、これをイノベーションの例として挙げても、決して、何をすべきかを語っているわけではないのだ。上のイノベーション25の話が情けないことには、述べている事がシュンペーターの引き写しで、自分で考えたものでないところだ。Wikipediaによれば、シュンペーターのイノベーション について、以下のように記述している。
「イノベーションはシュンペーターの理論の中心概念である。初期の著作『経済発展の理論』(1912)では新結合と呼んでいた。イノベーションとは、経済活動において旧方式から飛躍して新方式を導入することである。日本語では技術革新と訳されることがあるが、イノベーションは技術の分野に留まらない。シュンペーターは、イノベーションとして以下の5類型を提示した。
1. 新しい財貨の生産
2. 新しい生産方法の導入
3. 新しい販売先の開拓
4. 新しい仕入れ先の獲得
5. 新しい組織の実現(独占の形成やその打破)

同じくWikipediaの説明によれば、シュンペーターの社会科学的アプローチについて、以下のように記述している。
「・・・この分野の主著『資本主義・社会主義・民主主義』(1942)は、経済が静止状態にある社会においては独創性あるエリートは官庁化した企業よりは未開拓の社会福祉や公共経済の分野に革新の機会を求めるに至る。持論のイノベーション理論を軸にして、経済活動における新陳代謝を創造的破壊という言葉で表し・・・」とある。

イノベーション25の考えたがシュンペーターの引き写しである、とする根拠は、例の黒川先生のメッセージにあって、そこには以下のように記述されている。
「・・・イノベーションは研究開発や製造プロセスだけでなく、組織やサービス、マーケティング、ブランドつくりなどあらゆる社会の仕組みの革新を指すものです・・・どんな社会も、組織も成長してくると保守的になり、安住してしまう。成長を持続させるには内部から新しくする(イノベート)創造的破壊が必要です。それはいったん力を持った組織や人には難しく、担い手は少数派の中からしか現れない。『改革なくして成長なし』と基本的に共通した認識です・・・」とある。

何度も述べているように、経済学者は現在時点における変化の方向について議論する人々であり、かつシュンペーターが如何に素晴らしい才能の持ち主であろうとも、1920年代の地球とは全く異なる様相を示す現在の地球に、その考え方があてはまると考えるのは、イノベーション25の貴方、いかにも能天気すぎるのではないか。座長も、少なくともシュンペーターと同じ言葉を同じ文脈で使うべきではない。考え方が引き写しであることが、子供の嘘のようにばれてしまうからだ。ちなみに、大量消費時代の始まりを端的に示すT型フォードの発売が1908年、ステンレスの基となったクロム合金の発明が1913年、ソビエト政府樹立が1917年、第二次大戦勃発が1939年で、地球資源の大量消費が始まったのがこの辺りであることは重要だ。シュンペーター理論は、石油資源の大量消費に代表されるエネルギー・カスケードの中で、いかに経済を刺激するか、を述べた程度であると単純に考えた方がよいのではないか。ここでいうエネルギーカスケードというのは、太陽から放出される莫大なエネルギーの流れの一部を地球が受け取り、そのエネルギーが再び宇宙へと放出される中で、生物がエントロピーを逆転させている場のことを言う。生物がエントロピーを逆転させて存在するためには、如何に大きなエネルギーの流れ、カスケード、が必要なことを考える必要がある。もちろん、人間が経済の維持のためにエネルギーあるいはリソースのカスケードを維持することは、もう無理なのだ。

と言う事で、政府のいうイノベーションがますます危ういものであることが明らかとなった、シンポジウムであった。無料(ただ)だったからいいんだけどね。蛇足なんだが、医者という人種は一種独特の考え方をするようで、ものごとを構造的に捉えることをせず、種々のできごとから帰納的に、あるいは言い方を変えれば、症例を思い出しては対処するという言わば、場当たり的に、結論を導きだす人々のように見える。そう考えると、政府のイノベーションという政策は、なにか調子のよくないように見える日本にあたったパッチのように見えるのも合点がいく。

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サービス指向社会における文脈とは何か

Service Oriented Society: SOS におけるコンテキストとは何だろうか。直ちに、Standard と呼ばれる、ISOやIEC等の国際標準が挙げられよう。法律や指針、指令なども挙げられる。

ただしコンテキストはこれだけではない。2006/12/15に開催されたエコプロダクツ2006の特別シンポ「環境金融が生み出す新しい社会の潮流」において、国連環境計画金融イニシアティブの特別顧問であり、三菱銀行の出身である末吉竹二郎は、欧米金融機関が生き残りをかけて、環境を旗印とした活発なルール作りを始めていることを指摘した。これら金融機関の環境に対するコミットメントとして末吉は以下のように述べた。

Citi Gr: 地球的課題に取り組む
Bank of America: 地球の健康こそ重要
JPM Chase: 財務と非財務のバランス
Goldman Sachs: エコロジカルサービスを守る
HSBC(HongKong-Shanghai Bank): 気候変動は今世紀最大の環境問題

言うまでもなく、世界における最も強力なコンテキストは銀行集団の行動であり、彼らの目的は金儲けで、その手段がルール作りであることは明白である。銀行だから、その動きは限定されるのでは、などと考えてはならない。ダボス会議に見られるように、銀行は西欧というコンテキストにおいて常に主要なプレーヤーであり、その影響力を拡大するために、様々なルールを作ってきたのだ。ダボス会議が、しばしばサロンに例えられる意味合いは、非常に重要だ。つまり、ルール作りに加担できるのは、限定された仲間内のプレーヤーである、ということだ。決して、「民主的」に運営されているわけではない。

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サービスにおける科学技術の役割 (2007/1/9)

サービスを「現代社会システムおよびその便宜」と定義した時、サービスとこれに関わる科学技術の役割を以下の図のように関連づけることができる。あるいは関連づけることができると、私は提案する。

順に説明していこうと思う。最初にサービスを構成する要素について考える。サービスは、サービスの「供給者」と「システム」、およびサービスの「受給者」から構成される。ここで「受給者という言葉を使ったが適当な言葉が思いつかなかったので、とりあえずこれを使う。provider とprovidee の関係だな。また、「サービスのコンテキスト」とは、「供給者」と「受給者」およびこれを管理する行政というプレーヤーが、あるルールの下で形成する歴史である。 例えば「郵便」というサービスは、郵政公社およびこれに関連する人的なグループが「供給者」であり、個人と組織がその「受給者」であり、配送路、配送のための自動車、宛先による分類システム、切手、等々がその「システム」であり、我々の「郵便」に対する認識・信頼性は、この「サービスのコンテキスト」に向けられているのである。

例えば、「宅急便」というサービスは、小包の翌日配達という「ニーズを検出」し、それを「阻害している要因を分析」して、トラックによる小口輸送という「解決案を提示」したが、前例のない提案ゆえの不許可、という「阻害要因」を独力で排除した結果、「郵便」というサービスの進化ではなくて、「宅急便」という「サービスの定義」を通じて、「ニーズの創出」を行い、「クロネコヤマトの宅急便」という「新サービスを提供」し、その結果「サービスのコンテキスト」を社会に認知させたのだと言える。

大学発の多くの「シーズの提案」が役立たないのは、この供給者とシステムおよび受給者から構成される「サービスの定義」をせず、あるいは「サービスの存在」の認知活動なしに、「ニーズの創出」を実現しようとしたためと考えられる。大学発の「シーズ提案」が役立ったという例は、ほとんどの場合、サービスの「供給者」もしくは「受給者」が「ニーズ実現を阻害する要因検出」を行った後、自らの「研究・開発」によっては「阻害する要因の解決」ができなかった時に、大学の「シーズの提案」者が、「シーズのツール化」を行ってこの阻害要因を解決し、これが「サービスの進化」につながった場合であったと考えられる。
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例えば、「青色発光ダイオード」というのは、小型の発光体という「サービスのコンテキスト」(ここにおける「供給者」はメーカーで、「システム」は電球やLEDであり、「受給者」は装置メーカーである)、において、青色の発光体が充分でないという「ニーズの検出」の下、「ニーズ実現を阻害する要因検出」に窒化ガリウム素材という「シーズの提案」を行い、これを「実用化研究」を通じて「阻害要因を解決した」結果、小型発光体というサービスを「進化」させたのだと言える。だから、青色発光ダイオードの実現というのはSOP(サービス指向プロセス)の観点からは最終的な成果ではなくて、小型発光体サービスの「進化」によって、明かりという「サービス」を提供していた、電球や蛍光灯を駆逐しつつあるというのが、最大の成果なのだ。それ故に、青色発光ダイオードから派生した青色ダーオードレーザーではなく、同じく青色発光ダイオードから派生した白色発光ダイオードが、最大の経済的成果と最大の社会的インパクトを与えているのだと言える。

以上のように考えると、サービスとこれに関わる科学技術の役割、というより、科学技術のサービスへの係わりは決して、その中心ではないことが分かる。世界を変えつつあると考えられるGOOGLEが、大した特許を持っていないことからも、この考えが裏付けられるのではないか。

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ケーススタディ-産総研の動き- (2007/1/9)

「産総研の新しい動きーSOPへの流れ」にインスパイアされてSOPモデルを提案した。次にこのモデルがどの程度現実を表現できるか、産総研の例をとりあげて、簡単なケーススタディを試みる。とりあげるのは、どちらも医療に関係しかつ関連性が深いとみられる、例7と例8である。
例7 医療機器審査の迅速化
産総研の開発した医療機器の承認審査を迅速化させるため、審査を担当する医薬品医療機器総合機構と連携した
例8 医療機器の迅速な産業化
産総研の開発した医療機器を医師に使ってもらうために、トレーニングシステムを開発・販売
産総研の新しい動き:利用者の立場に着目

ここでは、産総研の開発した医療機器が「サービスのコンテキスト」である。ルールとプレーヤーによりサービスの存在が認知された以降、サービスの「供給者」は産総研のライセンスを受けた医療機器メーカーであり、「受給者」は医師および病院で、「システム」は××検査・治療機器である。医療機器を研究するなかで、産総研は「ニーズの検出」を行い、「シーズの提案」を行った。

ここまでは、従来の大学や国研の行動パターンである。産総研はこれを一歩進めて、「ニーズ実現を阻害する要因抽出」を行って、医療機器の承認審査機関の情報不足等に由来する遅延がその要因で、「阻害する要因の解決」のために、審査を担当する医薬品医療機器総合機構と人材交流などの面において連携して、自らの開発した機器の情報を十分に提供することとした。

さらに、「サービスのコンテキスト」を社会に認知させるために、開発した医療機器のトレーニングシステムを開発・販売した。「サービスの存在」を社会に認知させる活動は、「サービスの進化」と看做すこともできるが、より「サービスを定義」する活動の意味合いが強いことを考えると、これを「新サービスの提供」とした方が、「サービスの進化」に比べてさらに大きなリターンが得られるであろう。

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ケーススタディ2-ホンダジェット- (2007/7/25)

ホンダジェットの例をとりあげる。ここまで、モノ作りには厳しい見方をしてきたのだが、筆者が別にモノ作りが嫌いなわけではない。むしろ好きだと言っても良いくらいだ。ホンダジェットは、CMにも目立つようになって、いよいよビジネスとして軌道にのってきたと、ホンダ自身が手応えを感じているんだろうと思われる。このビジネスをSOPの観点から分析してみる。

ホンダのエア・ビジネスは二つのレベルから構成されている。VLJ(very Light Jet)と呼ばれるプライベートジェット機用のエンジンHF120の供給サービスと、VLJそのものの販売サービスだ。ホンダには、昭和39年に本田航空を設立しているように、航空機への強い思い入れがあるのは間違いない。しかしスタートは思い入れであるにしても、VLJを「サービスのコンテキスト」とするホンダのエア・ビジネスは、明らかにSOPであると言える。

第一のレベルとして、ホンダはVLJ用エンジンの供給を開始した。当初ホンダは、自力でHF118エンジンを開発した。ホンダは、独自の数値流体計算ソフトの適用と、高性能燃焼器の開発、およびエンジン一体型FADEC(Full Authority Digital Electronic Control)の開発により、従来より低燃費で、低NOx排出量、低騒音、かつ低メインテナンスコスト、という特徴を持つエンジンの開発に成功したのだ。しかしシーズの開発だけでは、SOPの観点からビジネスとして確立するために不十分な部分のあることを認識したホンダは、GEとGE Honda Aero Engines LLCを設立してHF118をHF120エンジンに進化させ、かつ型式認定を含む、VLJ用のエンジンとしての販売とメインテナンスサービス体勢を整えた。こうしてホンダは、HF120エンジン「システム」を、VLJ用エンジン供給という「サービスコンテキスト」という舞台において、近年の燃料の高騰と環境影響の低下要求環境という「ルール」の強化の中で「サービスの進化」として表現したのだと言える。

もちろんGEと組むことによる、ハードの進化も著しくて、4%の燃費向上と8%の重量軽減を達成したという。主にGEの技術によって性能向上が図られたのは、単結晶金属を用いた高圧タービン、GE90-115Bで実証済みのファンとされている。蛇足だが、低燃費と低騒音、低NOxは、ホンダのもともとのHF118の燃焼器の設計に負っていると考えられるので、私は最初、HF118のreverse-flow combustor の採用によるものと思っていた。しかし、競争相手であるP&WのVLJ用エンジンの事をちょっと調べてみると、P&Wの低圧コンプレッサがオプションであること(HF120は2段)や、P&Wの低圧タービンが3段(HF120は2段)の違いが目立つだけで、後は同様な構成であるので、主に流体設計の違いによる差が、HF120の上記の特徴に現れていることが分かった。

こうして、エンジン供給という第一のレベルの「サービス」の確立に確信を得て、ホンダは第二のレベルである、VLJであるホンダジェットの提供に始まる「サービス」に踏み出したのだと言える。では、ここにける「サービスコンテキスト」は何であるかと言えば、エア・タクシー事業者やプライベート・ジェットによる旅客サービスを利用する大企業や富裕層を中心とする「プレーヤー」と、近年のテロの危険に対する安全性の要求や、運用コスト低減要求という「ルール」等から構成される。実質的には米国連邦航空局(FAA)を頂点とする「ルール」と米国企業と米国の富裕層を中心とする「プレーヤー」が「サービスコンテキスト」を形づくっているのだ。

ところで、ホンダジェットが提供する「サービス」は、「サービスの進化」として表現されなければ、米国中心のVLJ「サービスコンテキスト」に入り込むことはできないのであるが、この点において、ホンダジェットは、エンジンの特徴と機体の特徴に、より明確に「サービスの進化」を表現していると考えられる。主要な特徴が、他のVLJを凌ぐ速度と畿内スペース、そして快適性だろう。これらは、エンジンの低騒音と低燃費、低い環境影響に基本的に由来しているのであるが、さらに、ホンダ独自の主翼上のエンジンナセル取り付けという設計により他との差を明確化している。ホンダジェットが他のVLJに抜きん出て737に匹敵する速度を持つという特徴は、VLJが持つ「サービス」に"fun to fly" という実にホンダ的な「サービス」を付け加えたのではないかと、私はさらに思う。ホンダジェットが受注初日に、年間製造予定機数70機を上回る100機以上の受注を獲得したのは、このVLJにおける"fun to fly service" をホンダジェットが提供したためではないのか。

私とてショーファー・カーならぬ、ショーファー・ジェットに乗ってみたい。エネルギーの浪費を承知の上で。

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ケーススタディ3-ソニーの凋落- (2007/9/26)

ソニーは嫌いな会社ではない。フィリップスとCDの規格を作り上げたり、3.5インチフロッピーを実用化したりした功績は賞賛すべきである。世に送り出されたトランジスタ・テレビは、そのキュートさで多くの人を魅了したし、ウォークマンは歩きながらでも音楽が聞けるという喜びを人々に与えた。私自身もソニー製品のいくつかは愛用してきた。

一方、いつのころからか、ソニー製品がやたらと壊れやすいことに気付くようになった。世間ではこれを「ソニー・タイマー」と呼んで揶揄しているらしいが、確かに実感する。多くの場合、ネジの欠落から始まるような気がする。ソニーのMDウォークマンは何台かを使っていたが、気付かないうちにネジがなくなっていって、そのうちに本体がおかしくなる。私個人の場合だけなのかも知れないが、故障の仕方が気に入らない。つまり、はっきりと部品が壊れているのではなく、例えば、内部を清掃すれば一時的に直るのだが、そのうちに全く働かなくなる。つまり、同時にあちこちに不具合が発生するようなのだ。だから、ある時は動くのにある時は突然動かなくなるという、いかにも「こいつは修理に出しても、結局、どこが壊れているのか分からないと言うことで戻ってくるだろうな」という予測のたつ壊れ方をするのだ。

ソニーにきつくあたるのは、録再型MDとCLIEが相次いで使えなくなった所為だ。どちらも重要な場面で使っていたから故障が大きなダメージになった。CLIEについては、長い話がある。CLIEはPalmの規格をベースとした電子手帳の事だ。電子化される前、私の手帳は、SYSTEM DIARYで、これを長いこと使っていた。中でも月単位の予定を見開き2ページに書き込めるC-1という用紙を愛用していたのだが、どうも今ひとつ紙の厚さや枠の大きさが気に入らない。一番の問題だったのは、SYSTEM DIARYを扱う文房具屋が減ってきて、段々とこのC-1用紙が探さないと手に入らなくなってしまったことだ。

そうこうしている内にBindexの052という用紙がSYSTEM DIARYの金具にぴったり合っているのを見つけて数年の間、使っていた。尤もこのBindexの052、SYSTEM DIARYの幅より若干大きくて、鋏で外側を切り取らなければうまく収まらなかったのだが。これで数年を過ごしてきたら、今度はBindexの用紙が見当たらなくなってきてしまった。

丁度このころ、Palmが出てきたので使い始めた。パソコンとデータの同期ができるのが手に入れた最大の動機で、これが電子手帳の使い始めで2000年の1月だ。最初がPalm-WorkPad c3で、1年程してからかPalmベースのカラー液晶を用いたIBM製m505が出たので買い替えた。で、これを使い続ける予定だったのが、そのうちにPalmの会社そのものがおかしくなって、IBMも販売をいつの間にかやめてしまった。

m505そのものには故障もなくて快適に使っていたのだが、文字をGraffitiで書き込む液晶の部分の表面が擦り傷だらけになって、なんとなく不安になってきた。つまり、メーカからの必要なサプライがいつの間にかなくなってしまう、と言う紙の手帳と同じことが、電子手帳に起きてきたというわけだ。パームタイプの電子手帳の売り上げが日米とも頭打ちだというニュースが流れるようになって、不安がますます募る。

というわけで、ソニーのCLIE PEG-TJ25という薄型のが、2003年に出た機会に乗り換えることにした。以前にもソニーのPalmを買おうかどうしようかと、店に出向いてはためつすがめつしていたのだが、やたらとオタク向けの機能が満載されていて、到底、仕事に使えるようには思えなかったのだ。このPEG-TJ25をm505と同時に使いながらデータとソフトの移行作業をしてみたのだが、結論からは、まあ、使えるだろう、ということだ。勿論、不満はたらたらで、例えばスタイラスが細くて使い難い、本体から直ぐに滑り落ちる、付属のカバーがすぐ外れてしまう、といった、言わば実用本位の設計からは外れているところが、今になって思えばソニーの問題を示していたのだ。

で、このソニーCLIEを4年程使っていたのだが、やはり壊れた。この類いの電子機器は別に可動部分があるわけではないので、普通は電池がへたる。へたるのが普通なのだが、おかしな振る舞いをし始めたのだ。充電したばかりなのに週明けの朝、電池容量が0となっていて起動しない、というのがしばしば起きるようになった。そういえば、夜中に明日の予定が気になって手にとってみるとバックライトがついている、というのを見つけたことがある。たまたま手に取った時に電源が入ったとも思われるが、どうも、使っていないのに勝手に動作がスタートするようなのだ。結果として液晶照明がつきっぱなしになって、電池容量が0となると思われる。月曜の朝、今日の予定を確認しようとしたら電子手帳が起動しない、というのはいかにもイタい。

どうも電源コントローラーがおかしいらしい。この症状もいかにも「こいつは修理に出しても、結局、どこが壊れているのか分からないと言うことで戻ってくるだろうな」という予測のたつ壊れ方だった。電池のへたりの可能性も捨てきれないので修理に出したら、思ったとおり、そのまま帰ってきた。朝、今日の予定がわからない可能性がある、というのではどうにもならない。このころ、例の使い難いスタイラスをなくしてしまっていたこともあって、CLIEはあきらめることにした。そしてIBMのm505に戻すこととしたのだった。保存してあったIBM製品を手に取ってみて、確かにIBM製品はビジネスの道具として信頼が置けることを実感した。普通に使えて、ポロリと知らないうちに落ちてしまうことなどあり得ないスタイラス。しっかりとして外れないカバー、そして二三日の休暇中くらいはしっかりと保つ電池。どれをとってもソニー製品はオタク向けのおもちゃであった。

Sony Historyというソニー自らの沿革を紹介するページがあって、1945年の会社設立から1996年までのソニーの歩みが述べられている。ソニーの設立趣意書という、設立者である伊深大の文書もあるので、ソニーがどういう会社であり、その結果どうなったかを理解することができる。この中に「会社設立ノ目的」という項目があって、ソニーという会社が基本的には、「戦争を技術的に捉えていた技術者が戦後も技術的に生きたい」という意識により設立されたものであることが分かる。

結論を先に述べれば、ソニーとは、新規なサービスを社会に提供することによって社会から認められることによって発展した会社であるにも拘わらず、自らは技術の力により社会に認められたと自身を誤解した会社であると言える。

フィリップスとの共同により規格を作り上げたCDは、安価でロバストなデジタル媒体の提供というサービスであったし、同じ文脈にある3.5インチフロッピーは、安価でロバストで記録・再生可能な磁気媒体の提供というサービスであった。最も成功したのが、歩きながらでも音楽が聞けるというサービスを実現したウォークマンである。遡れば、スタイリッシュな生活を表現する、というサービスを実現したのがトランジスタ・テレビであったのだ。

一方、CDドライブを小型化する技術を商品化したのがCDウォークマンであり、記録可能な小型CD技術を商品化したのがMDウォークマンである。自らの技術が社会に受け入れられた結果がソニーの現在である、とする考え方は、ベータとVHSの規格の衝突に向かって行く。VTRが提供するサービスとは何かという観点を失って、技術的にどちらが優れているかという近視眼的な方針は、ベータの敗退として現れたのであり、ビデオカメラが提供するサービスは何かを考えるのではなく、小さければよいとする技術至上主義は、結局のところ記録媒体の混乱と会社同士の技術リソースの浪費としての歴史が残ったのである。ゲーム機械こそが技術のドライブ力の源泉であるとする意識は、Cellマイクロプロセッサの開発という袋小路に迷いこんだし、ブランドに翳りが見えるようになってから、技術力を注げば社会に認められるというのではないかというあせりは、QUALIAという目を覆うばかりの自滅的なシリーズを生み出してしまったのだ。

音響電子ガジェットという文脈において、サービスとは何かをiPodが示してなお、ソニーは技術至上主義という主義に自らを閉じ込めていることに、気付いていないように見える。そうこうしている内にソニーはrollyなる自ら転げ回る音楽プレーヤーを発表した(2007/9/10)。どういう道筋で開発から発表に至ったのだろうか。失笑を過ぎて力なくうなだれて口元を歪めるしかないシロモノと言える。ここに至って、ソニーが自らを頼む技術力にも懐疑的な見方ができる。ソニー最新型デジタルウォークマン(NW-S710F)と最新型iPod nanoを比べれば、パッケージの質に既に大きな差があるのが分かるであろう。こうして、サービスとは何かを見失ったまま、ソニーは凋落の道を歩んでいるのだ。

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役所ーサービスから最も遠隔地にあるもの (2009/2/19)

役人あるいは役所。昔は、公僕という最もふさわしい呼び方があったのに、いつの間にか公務員になってしまっている存在である。で、日本の公僕あるいは公務員の間には、serviceを行う人あるいは組織であるという認識がない、あるいは百歩譲って、薄いのではないかというのが、私の提言だ。

さて、公僕を和英辞書をひけば、 a public servantとなっており、公務員でひけばこれも、a public servantで、公務員全体は the public service、となっている(新和英中辞典)。つまり、SOPというコンテキストに立場を置くと、少なくとも英語圏における a public servantもしくは the public serviceが、私の主張するSOPの概念にオーバーラップする部分があることは明らかだ。そこで、公僕を国語辞書でひくと、公衆に奉仕する者(大辞林)、であり、公務員をひくと、国または地方公共団体の職務を担当し,国民全体に奉仕する者(大辞林)、とある。ここまではいいだろう。で、問題となることがある。

奉仕、をひくと、国家・社会・目上の者などに利害を考えずにつくすこととあり、奉仕には、利害を考えない、無償という意味が含まれていることがわかる。一方、serviceには無償という含意はない。つまり、日本における、サービスと奉仕、というコンテキストにおいては、本来のサービスの意味が失われて、(無償の)奉仕という概念が大きな位置を示しているのだ。これが日本人全体の認識となっている証拠に、商店のオヤジが言う「サービスしときますよ」に、「もうけ分を考えずに安くしますよ」という意味が含まれている様に、日本では、サービス=奉仕という誤解によって、サービス=無償という、誤解の拡大解釈が行われているのだ。

このような背景を考えると、なぜ、役所あるいは役人が、公僕から公務員へと呼び変えられるようになったかが、理解できる。当然ながらpublic serviceは、無償では提供できず、役人の給与を含むコストがかかるからだ。しかし、この呼び変えが引き起こした最大の問題は、役所あるいは役人からservice の概念が失われたことだ。公僕には、僕、という奉仕するもの、という含意が残っていたのだが、公務員は公(おおやけ)の仕事に務めるひとであって、serviceを実行する人あるいは組織という、概念が失われたのだ。そもそも、service は奉仕ではないのに、無理矢理に、奉仕、にserviceの意味を押し付けたところに問題があったことがわかる。

役人のために付け加えれば、公奉仕役、とでもしておけば良かったのに、奴僕、を連想させる、公僕、を使用したのも不適切であった。僕は下男と同義であるので、公僕と呼ばれるのは確かに嬉しくあるまい。しかし、これをもって役所もしくは役人を弁護するつもりはない。以上に述べた経緯によって、役所および役人が、私の提唱するSOPにおけるサービスからは、最も縁遠いシステムとして、日本に君臨しているのは事実だから。

サービスは何かを最も深く考えるべきシステムにおける、サービス概念の無理解とこれから生じる不都合は、人事院総裁の反乱、紅海の海賊退治、等々、至るところに見る事ができて、こりゃもうダメかも。

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