人口減に資源枯渇、異常気象に温暖化、個々の問題ではなくて総合的にこれに対処すべきであること言(げん)をまたない。そこで私が勝手に日本のグランドデザインを考えた。

p.s.   後づけになってしまうのだが、話を進める上で、私の考えるシナリオというのが始めに設定されている、ということは述べておかなくてはならない。どういうことかと言えば、未来は常に不定だから、科学的に理由付けられる態度をとるべきであるという観点に立つならば、現在から未来に向かってあり得るイベントツリーをいっぱいに書き並べて、それぞれの可能性のある未来のありようのそれぞれについて、実現可能性を推定するべきだろう。その中から、ある閾値を設定して実現し得る可能性の高い未来のツリーのセットを選び出した上、重み付けを考えながら可能性のあるイベントのネットワーク上に、グランドデザインを構築すべきだろう。

だが、そんなことをしていれば、日が暮れてしまうし、実現可能性の高い未来、という話も、現在という状況を初期値とした話である以上、現在に近いある状態の未来しか抽出できない、という初期値問題と局所最適値への落ち込み、という問題からは逃れられないのは明らかだ。ということで、ここでは私の主観により推定したシナリオの上、にグランドデザインを敷衍することとした。で、どんなシナリオかと言えば、「ない袖はふれない」、「いつまでもあると思うな親と金」という俚諺を下敷きとし、という現代の文脈における、というシナリオで、これと違う考えを持つ多くの人に対しては、残念ながら、別のシナリオを提起するつもりはない。(2006/10/3)

p.s.  その前に資本主義について述べておく必要があろう。Wikipediaによれば、資本主義とは、資本の運動が基本原理となる体制のことであり、この場合の資本とは、社会に投下され、社会内を運動してより拡大されて回収される貨幣のことである、という。

では貨幣とは何だろうか。貨幣については様々な定義があるとされるが、Wikipediaにその機能からみた定義の一つとして、「貨幣はあらゆる商品の価値を統一的に表現することができるため、これを逆算すれば一定の貨幣量で購買可能な商品量を表現することもできる。この貨幣の能力を『購買力』と呼ぶ」とある。現代社会の商品の源泉を辿れば、それが資源であることは明らかであり、貨幣が人間の使用できる資源の総体を表すものであると考えることができる。

そこで、貨幣が地球資源の総体を表すものであれば、資本主義社会とは、貨幣が社会内を運動することで自身を拡大する、つまり貨幣を仲立ちとして人間の使用できる資源量を増加させる社会である、ということができる。当然のように経済学者はここで、資源が無限であることを仮定している。あるいは私が何度も指摘しているように、現在を零点とした時の貨幣の増減だけを論ずることにより、資源の有限であることから我々の目を隠しているのだ。だからWikipediaの資本主義の説明に資源の有限についての話は一切登場しない。

逆に言えば、資源が枯渇した時、貨幣は自ら増加することができなくなって、資本の蓄積、簡単に言えば利子の存在、が不可能となったとき、システムとしての資本主義も存在できなくなる。しかし、誰もがこのシステムの存在を否定することはしたくないだろうから、いわゆる下方硬直性により、ぎりぎりまで矛盾は拡大し、終にクラッシュが到来するだろうと私は考える。(2006/10/10, 2007/4/27)

p.s.  本稿では、資本主義社会の原動力が人間の欲望であることについて、何の説明もなく記述の前提としている。人間の欲望については、それが資本主義の原動力であることを経済学の中では当然のこととして認めているのだが、欲望そのものについては経済学の範疇ではない、ということで議論されない、という不思議な関係が存在する。本稿では、欲望について記述するが、その記述が何らの引用なしに行われるので、不審を抱く読者もいると思われる。

両者の関係については、また別項の議論ができる程、広くまた深いものであるようなので、ここでは言及しない。ただ、松岡正剛の「千夜千冊」第五百三夜に、ヴェルナー・ゾンバルト「恋愛と贅沢と資本主義」(講談社学術文庫にあり)について言及しており、その記述がイカしていると思うのでリンクをはって置く事とした。(2007/11/8)

p.s.  下方硬直性についてもう少し詳しい説明が必要と思われる。そもそも下方硬直性は経済用語であり、商品価格や賃金が、市場の需要と供給の関係を反映して上下する筈なのに、実際には下がらないという現象を言うものである。この言葉は経済学の範囲にあるものだが、ここでは、この下方硬直性という言葉を社会全般に拡大して適用するつもりである。経済学的には、下方硬直性の原因について種々議論されているが、これを人間の欲望という切り口で考えてみると単純に説明される。賃金について言えば、たとえ、賃金切り下げ対象の披雇用者に、労働力市場の中で相対的に高いことを管理職が示したとしても、誰しも自らの賃金が下がることを納得しないのは明らかで、披雇用者本人に限らず、その給与決定に係る管理職層も波及をおそれて賃金切り下げに抵抗するのが至極当然であり、欲望、言い換えれば生存の権利が、これらの態度・姿勢の原因であると考えるのは自ら省みても納得できる。そこで、この人間の欲望という切り口で考えると、賃金の下方硬直性ばかりではなく、多くの事象に対する人間の対応に、この下方硬直性を見る事ができる。一言で言えば「失いなくない」という動機とその結果だ。(2008/6/10)

p.s.  このページは日本の将来がどうなるかについて考えたもので、海外については、もうどうにでもして、という感じに書いてある。一つは資源が枯渇した未来においては、人間の移動や争闘はよりローカルなものとなるものと考えられ、かつ最後の資源活用国である米国の即応軍事力が、諸国内外の紛争を地理的に拡大することを許さないであろう、という推論によるものだ。二つ目は、筆者が地球上の他国の将来にあまり興味を持たないことにある。
 勿論、全く無関係だ、などとは思っていないので、イスラームは今後どうなってしまうのか、等については更に考察を深めるべきだと思っていた。というところで、新潮社「波」の2009年1月号に、塩野七生と池内恵の、「パクス・ロマーナ」が壊れるとは、どういうことなのかと題した対談が掲載されていて、やっぱりね、塩野さんて大したものだと思った。私の中で、この話と共鳴したのが、「ユース・バルジ」(たぶん、Youth vergeと書くと思われる)の話で、人口の爆発に伴う地政的変動をどのようにモデル化するか(将来を予測するという意味で)、という観点から考えたいと思った。
 イスラムについては最低限、岩波文庫のコーラン全三冊を読んでおくことをおすすめする。尤も、日本の女性がこれを読むと、途中で腹立ちのあまり文庫本を投げつけるかも知れない。人間の性のあり方、という観点からも、非常に興味深い考察結果が得られる。(2009/1/30)

p.s.  2009年1月30日付け日経新聞夕刊、「明日への話題」に、国際エネルギー機関(IEA)事務局長、田中伸男氏が、カナダのオイルサンド、石炭液化、メタンハイドレードの例を挙げて、「石油は十分にあって、足りないのは投資である。金さえかければ石油が採れる」と言い切っていた。IEAの事務局長という肩書きは重く、皆、彼の言う事を信じるのだと思うが、EPR(Energy Profit Ratio)については言及していない。本当に彼はそう思っているのだろうか?それとも政治的な発言をしているのだろうか?IEAはもちろんピークオイルについて何度も言及していて、その発表は世界から常に注目されている。当然、田中氏も政治的な立場から発言していると普通には思われる。
 ところが、この夕刊のコラムに「可愛い姪に、石油はなくならないから大丈夫と話した」と述べていることや、氏の出自や経歴「1992.03 経済協力開発機構(OECD)科学技術産業局長、1997.06 通商産業省通商政策局総務課長などを歴任し、2007.09にIEA事務局長」、そして係った事件、その他をみてみると、どうも本気で石油はいくらでもある=取れると思っているらしい。(2009/1/30)

p.s.  年来の金融危機については、ドルを基軸とする貨幣システムが、石油を主とする資源の高騰による不安によって、連鎖的に不安定となった結果と考えることができる。近年の貨幣システムは市場という、レバレッジ機構による通貨の増幅と、その量の巨大さによるバッファ機能によって資源枯渇という問題を覆い隠しているのであるが、実際には、中国と日本がドルを引き受けていることで、かろうじて安定が保たれてきたに過ぎない。
 米国はさらに国債を発行して金融システムを安定化させようとしているのだが、最終的にはこれを中国と日本が引き受けてくれることを期待しており、また、中国と日本および世界もこれに応えることによって、世界は、取りあえずの安定を得ることであろう。だが、資源枯渇が回避されたわけではないのに、貨幣量が増えたことになるので、現実には、よりクラッシュのリスクが高まった、というべきだろう。
 中国と日本が、米国債を買い続けるのは、生産システムの増強による冨の拡大が、今後も続くという、もの作りを国是とする国家のメッセージであり、そこにはモノ作りに必須である資源の枯渇が、全く触れられていない、という点で、アイロニカルである。(2009/2/23)

p.s. 世の中、持続的発展というキーワードが古くなったものだから、低炭素化社会というのが新しいキーワードになっているようだが、何度も何度も何度も書いているように、資本主義社会が化石燃料とその他の地下資源を成長の糧にしている以上、資本主義社会の存続と低炭素化社会の実現は両立しない。だから経済成長を望む限り絶対に地球温暖化は阻止できないのだ、というのが私の主張だ。だが、何故これほどまでにジレンマに陥っていながら世界の人は発想の転換ができないのかという疑問については、解答を得た気になっている。つまり、人間が世の中で一番偉いという絶対的な思考のあり方がジレンマを脱出できない理由だ。ここで、人間と鳥あるいは哺乳類と鳥類というような相対的な思考をすればジレンマを解決することができる。哺乳類としての人間が生態系の頂点から滑り落ちる可能性があるとする相対的立場だ。相対的立場に立てば経済成長というのはある確率の基で生起することが理解できるし、地球温暖化を阻止する確率が極めて低いことを許容できるのだ。尤もセムに端を発する人間は神の子であるとするコンテキストにおいては人間を鳥などと相対化することはできないであろうことは容易に理解できる。これはジレンマを解決できないままクラッシュに向かうであろうとする私の予想を強化する理由の一つでもある。(2009/9/15)    

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とっかかり

「公研」の2005年12月号に「『異常気象』の真実−温暖化防止をめぐる国際的駆け引き−」という住明正/米本昌平の対談が掲載されていて、興味深く読んだ。住さんの考え方はわりと聞いているので、「おー、またぶちかましてるな」という感じだったが、目を引いたのは東大が、「サステイナビリティ学連携研究機構(IR3S)」、「地球持続戦略研究イニシアチブ(TIGS)」というのを立ち上げていることだった。

東大が霞ヶ関の動向などに目端がきいていることはよく知られているが、霞ヶ関官僚の政策立案能力が近年減退していることを看てとって、日本のグランドデザインを考えていこう、というものらしい。政治家がアメリカポチとなって、何も考えないものだから官僚もグランドデザインなんてものとは無縁の存在になっているが、世界で起きている事象を考えればそんなことを言っていられなくなるのは自明のことで、東大としては先に手を打っておこうと活動を開始したのだと思われる。

ところでこの「公研」、公益産業研究調査会というHPもないような機関の、しかも会員にしか配布されない小型の月刊小冊子なのだが、なかなかおもしろい内容で無視できない記事があったりする。例えば2006年2月号には哲学者木田元の無頼の人生なんぞが自伝として紹介されていて、昔は文学者=無頼だっただけでなく哲学者=無頼であったのかと、新たな感慨を得た。(2006.3.15)

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グランドルール

計画を作ると言っても、何から始めたらよいだろうか。プロジェクトの話にも書いたように、この計画がプロジェクトを達成するためのものであるならば、話は分かり易い。つまり、プロジェクトとは一般に「特定の目的・目標・ねらいを持って、特定の実施課題を解決するために、特定のメンバーによって期限付きで行う一度きりの活動」と定義されるから、このグランドデザインが何かを実現するための計画であるならば、それに沿って計画すればよいのだ。丁度、明治政府の「富国強兵」というようなプロジェクトなら、これに従って「富国強兵計画」を作り上げるのはそう困難なことではないだろう。もちろん一朝一夕の話でないのは勿論だ。

しかし、このグランドデザインが内包する困難さは、「果たして目標があるのか?」という点にある。我々は特に近年、「何かを達成するために」、「何らかのリソースを使いながら」、「活動する」、という手順にあまりにも慣れすぎたので、目標がはっきりしない場合には何らかの目標をたててしまう、ということになりがちになってしまった。地方空港を作る時に空港の必要理由がはっきりしないので、予想利用客を水増しした評価結果に飛びつくようにだ。

減少する人口という状態にあって資源の枯渇を目の当たりにした時に、「xxを目指す」という目標設定の仕方は、我々にとってあまりなじみのないやり方だ。有り体に言えば、我々が慣れ親しんだ「目標」ではない、なんらかの状態を目指してこれを「実現」するためのグランドデザイン、あるいは、「非目標」を実現するためのグランドデザインと考えることができる。

「非目標」を実現するというのは今、思いついたばかりだが、面白いかも知れない。どんな「非目標」があると言えば、例えば「森林面積が減らない」、「殺人が増えない」、「寿命が短縮しない」、などだ。(2006/3/16)

p.s.
 後付けになるのだが、よく考えるとグランドデザインといっても、その意味が漠としている。デザインという単語を辞書でひけば、(1)下絵、(2)計画、の二つの意味がある。グランドデザインの意味するところが、下絵であれば、今は存在しないが将来のある状態を示す意味となろうし、計画であれば、下絵とその下絵に到達する手順の両方を意味することとなる。あれこれ書き続けていると、ある時点における到達状況と到達状況に至る手順の両方が、混在してくることに気付いた。書き上げた内容を手直しする時には、これらを分離するとして、とりあえず混在させることにした。(2006/7/3)

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グランドスコープ

グランドデザインを作るためのグランドルールをまず決めたとして、次に必要なのはどの範囲を考慮の対象とするか、すなわちグランドスコープの話だ。「日本の国」に決まってるではないか、と言う声が聞こえるが、よく考えるとこれが単純でない。まず「日本」というのはそれを認識する人間がいるから、それら複数の人間が形づくる共同意識上の実態として認識されるのであって、誰もこの島国にいない場合は、外国の人間にとっての「日本」ということでしかなく、グランドデザインを敷衍すべき「日本」ではなくなってしまう。

日本人が住んでいるじゃないか、という声も出るだろうが、これまたそう単純ではない。例えば外国生まれの外国人が多数を占めた時、それは「日本」と言えるだろうか。私の考えでは否である。では、外国生まれの両親の元に日本で生まれ日本で育った人間が、日本生まれの両親の元に日本で育った人間と見かけ上区別のつかない「アイデンティティ」を持ち、かつ日本に住む人間の大多数を占めた場合はどうだろうか。私としてはこれはグランドスコープに包含できる、と考える。これには既に実例があって、縄文人、アイヌの祖先だな、大陸からの渡来人である弥生人と混交して、この場合、遺伝子的というばかりではなく、言語的にも混じり合ったという前例があるからだ。専門的な議論は読者が勝手にして頂くとして、私の理解では、混じり合うというよりハイブリッドになったと言った方がよくニュアンスが伝わるように思うが、二つの異なる「アイデンティティ」を持つ人間集団が溶け合うのではなく、互いに組み木のように組み合わされて、「日本」という「アイデンティティ」が形成されたのだと思う。

縄文(アイデンティティ)と弥生(アイデンティティ)のハイブリッドについての例に対する、私の理解は以下のように述べられる。まずは言葉で、単語が縄文から、文型が弥生からとられて日本語になったという説が有力だそうだが、沢「サワ」なんて言葉は私の好きな単語なので実感できる。アマツカミ、クニツカミなんてのがあって、出雲大社が厳然と存在しつつ、伊勢神宮が主神の場としてあるというのも感慨深いものがある。千木の切り口が、出雲が垂直で伊勢が水平、というのも両者がはっきり違う(しかし見かけは似ている)ことを示していて、両者は依然として融合しているのではないことをアピールしているのだ遺伝子的にも日本の中で違うタイプが各地域に特徴的に存在していることも明らかだと言われているので、日本人だから同じ、ということにはならない。日本に住んでいる人々が共有する宗教も自然崇拝と仏教のハイブリッドと言える。

ここで、今まで何の説明なしに使っていた「アイデンティティ」を説明する時が来た。まず最初に結論を言えば、グランドスコープの範囲は、この「アイデンティティ」を共有する人々の認識する「日本」としたい。で、この「アイデンティティ」は何かと言えば、神代からあるいはさらに遡って、縄文と弥生から現代に引き継がれてきた無形の共同意識とそれを支えるこの島国の自然だろう。取りあえず、「福音を拡げることをミッションとしている人々」の持つ「アイデンティティ」は私の考える日本人の「アイデンティティ」ではない。話が発散しそうなので、一休みとする。次はタイムスパンの話だな。 (2006/4/26)

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タイムスパン

エネルギー調査会電気事業分科会原子力部会の第7回議事録というのを読んでいたら、最後の方に発言していた神田委員(京大名誉教授)の話が目を引いた。話というのは、「インドと中国がこの先経済発展を続けると早晩、世界中の資源の奪い合いが起きてしまう、インドと中国はこのことを自覚していて、(問題を回避・緩和するため)少なくとも高速炉については2035、2040年には実用化する年次計画を持っている」という話だ。

つまりインドと中国は、自国の行動を拘束しあるいは強要する要因は資源とエネルギーであることを十分認識していて、30~40年というスパンについては明確なスケジュールを持っている、ということだと思われる。インドと中国がそう考えるなら、日本のグランドデザインの対象とすべきタイムスパンが同じレベルでは、グランドデザインとは呼べないだろう。100年は長過ぎるとしても最低60年くらいは必要なのではないか。60年というのは自分の経験でも長いようで短い。人間に限らず、植物でもそうで、けやきだって、60年もあれば苗木が大木になり得る。昔は女子が誕生すると桐を植えて、二十歳前後の嫁入り道具をこの桐で作るというような話もあったぐらいで、桐なら60年で二回半のライフサイクルがあるということだ。

ということで、話のスパンは一応60年、100年も視野に入れると、こういうことにしたい。次はグランドデザインを規定する要素の話だ。要するに、ない袖はふれない、腹がへっては、いくさはできぬ、という話だ (2006/5/31)

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前提としての半分の人口

グランドデザインは人間が考える、人間のためのものだから、人間の頭数(あたまかず)は、グランドデザインを規定する第一の要素であることに間違いはない。2006年の出生率、本来は合計特殊出生率というらしいが、この数値が過去最低の1.25に落ち込んだ、という発表が話題になった。ある予想によれば、今後の生産年齢(15〜64歳)は減少の一歩を辿り、2050年には4800万人くらいになると予想されている。年少(0〜14歳)を加えても5500万人程度であろうとされている。人口明治維新の頃の人口が約3300万人と言われているので、明治末期のあたりの人口だ。

いやいや、政府の人口増加策で、こんなには減らないだろう、という声もあるかも知れないが、政府の政策で日本の女性の考え方が変わるとも思えないので、数値の方が未来を予測していると考えるほうが自然だ。話は変わるが、「どうして日本女性がこんなにも日常と歴史から脱出したいと願っているのか」について、研究の対象だ、と書いたことがあるが、おぼろげながら、考えがまとまってきた。

一言で言うなら、明治以降の近代化と第二次大戦敗戦までの期間、日本女性が社会と男性に虐げられてきたことに対する怨念と復讐の結果だと考える。つまり侍がいなくなったと思ったら、薩摩風の教えが広められて、侍の代わりに社会と男が女に対して威張るようになって、近代化の成果については貧乏くじを引いた、と明治の女が思い、明治の女に育てられた昭和の女が、大東亜共栄圏の分け前を得るはずで社会と男の言う事を聞いて頑張ってきたのに、なんの報酬も得られないどころか、重荷ばかりしょわされたあげく、ひどい場合は家と財産どころか、夫と子供も失ってしまった、というわけだ。こんな歴史を考えれば、昭和の女が社会と男に復讐をしない筈がない。

明治大正の母親に育てられた昭和の母親がどんな風に社会に働きかけたか、というとあらゆる場所にそれが見て取れる。例えば「♪ツタのからまるチャペルに、祈りをささげた日〜」なんて歌があるが、ミッションスクールに対する憧れは、米国文化に対する憧れにストレートに繋がっていて、今や、クリスチャンでもないのに、結婚式は教会でするのが普通になってしまった。

例えば、我が子大事が第一という思いは小学校というシステムに強烈に働きかけられて、完全平等、および完全な危険回避を学校に要求する結果に結実して、これ以上どうするのか、という程に完成している。当然のことながらこういう教育を受けて育った日本人は、危険やリスクに対して平静な態度をとることができず、危険とリスクを悪と看做すようになった。

例えば、母親と娘は、旧来の男社会とは一線を画したピュアな関係であるべき、という想いは、子供のペット化と成人した女の母親への従属として表れ、かつ、この関係が再生産されて、母親ー娘ー母となった娘ー娘、という関係のみが社会を形成するようになった。

例えば、家族が第一という思いは、社会的な義務と責任との関与からはますます離れるようになって、人間のグループ、リーダー、メンバー、責任、というようなメンタリティがなくなり、なくなったどころか、このようなメンタリティを形成する土壌、例えば子供同士のグループ遊び、を破壊する結果となった。

例えば、女が自立すべきという思いは、経済的独立には向かわなくて恋愛至上主義に向かい、見合いというセーフティネットを失った社会は、アッシー、メッシー、貢君を経て、喪男を生み出すに至った。適齢期女性が、恋愛至上主義に疑問を抱く状況に至っても、既に喪男はオタク化して、適齢期女性に応えることをしなくなっているのだ。結局この流れは全てのベクトルにおいて出生率を高める方向に働かず、逆に適齢期女性の恋愛至上主義をより技術的に高度化、精神的に純粋化させることとなって、喪男を拡大するに至っている。

問題とすべきは、このような母親システムが再生産を通じて日本社会に根付いているので、これを変更することは極めて困難、あるいはもう後戻りできない、という点にあろう。母親システムはリスクを取らないので、資源が枯渇するような事態には、社会全体としての対応が取り難くなっているところが問題点だ。

ここで最初の話に戻ってみると、このような状況では、何十年経った後でも人口が減り続けることになる。どうしたらよいか、ということだが、私の案を述べるとすれば、今の状況は明治・大正・昭和にわたる女の怨念である、ことを公に認めること、そして怨念を晴らすために天皇を女性にして「女の復讐は終わった」という詔勅を出してもらうのがよいと思う。

ということでグランドデザインを規定する人口は5000万人程度とする。ここまで、老齢人口について触れていなかった。別に老人を無視しているわけではない。それほどに厳しい時代になるだろうと、最悪のパターンを考えているだけだ。(2006/6/9)

p.s. この母親システムに私はmaternalism (マターナリズム)の名を与えたい。maternalism の概念は医学の中で医師と患者の関係というコンテキストにおけるpaternalism (パターナリズム)に対比するものとして使われることが多いのであるが、これをもっと意味的に拡大して、現代の日本の状況を示す言葉として使っていきたいと思う。(2007/6/28)

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前提としてのエネルギー供給

さて、5000万人の頭数がいるとすれば、一番大事なのはどうやって喰って行くか、だろう。江戸末期には3000万人くらいはいたのだから、外国からの大量の輸入エネルギーがなくとも、おおよそ、米を喰って生きて行くことぐらいは可能だろう、と思われる。しかしながら乳母日傘で育った顎の細い人々がいきなり江戸時代の生活を暮らすのは、あまりに不憫。どの程度のエネルギーが利用できるかは示しておくべきだろうと、私も思う。

何度も述べているように世界の石油資源は大国(中国、インドを含むのはもう常識となっているらしい)間の争奪アイテムなので、武力を使うつもりがなければ、日本は争奪のリングには入り込めないだろう。石油の話をすると、いや石油というのは後から後から油田が見つかるし、掘削技術も進歩するから(すぐには)なくならない。という意見や、(すぐには)という前提条件を無視して、石油は後から後から油田がみつかるし掘削技術も進歩するからなくならないのだ、と言う人が多いのだが、この話は何度もした。第一、石油を一番必要としている国、米国と中国の行動を眺めていれば、両大国がそう思っていないことは明らかだ。みんなで仲良く分け合って、あまり使わないように話し合ってはどうか、という意見もあろうが、囚人のジレンマに書いたように経済的に合理的に行動すれば、つまり石油を使って経済発展をするという行動を各国が合理的に取る限り、可能な限り速やかに石油は消費され尽くしてしまうのだ。

NEDO海外レポート No.956, 2005.6.1 に日本のエネルギー需要について簡便に示されている。これによれば、2004年時点で、日本の総エネルギー需給は石油換算で517*10^6 トンである。石油が使えないとすれば、残っているのは原子力とまだ埋蔵量が十分あると考えられている天然ガスしかないだろう。現時点で原子力の供給エネルギーは同じく石油換算で77*10^6トンである。発電所の寿命の延長や建て替えに大きな問題が生じないとすれば、現在我々が享受しているエネルギー量の約15%を供給できる。一人頭に直せば、15% *1.3 億人/5000 万人 = 39 %なので、現在の4割方は使えることになる。全然足らない、と思う人のために、天然ガスと水力と、地熱、再生エネルギーを加えると66*10^6トンの天然ガスが効いてきて、総量で161*10^6トンとなり、現在の30%を供給できる。この場合、一人頭に直せば、30% *1.3 億人/5000 万人 = 78 %なので、人口が少なくとも天然ガスを買う金があれば、現在の8割を使えるので十分だろう。

現状と同じ程度でなくては嫌だ、という人々に対しては、エネルギーについてあまり適切な答えを提示することができないように、思う。現状と同じレベルを要求できるのは、資金に余裕のある人々であろうから、米国あるいはカナダあたりに移住してはどうだろうか。いやマジな話。

ということでグランドデザインを規定するエネルギー需給は、
シナリオ1として現状の40%
シナリオ2として現状の80%程度とする。

蛇足なのだが、ウランをどうするかという問題ももちろんあって、海水から現在の鉱山ウランコストの5~10倍で捕集することができる、という研究成果がある。さらに付け加えれば、考えるべきはコストではなく、エネルギー効率、つまり利用可能なエネルギーを、どれだけのエネルギーを投入して生み出せるかであることに、注意する必要がある。つまりエネルギー比率であれば、将来のドル価値がどうであろうと的確な計算ができるのだ。上の原子力と天然ガスの話は、このエネルギー比率が60年後でも十分に高いだろう、という暗黙の予測がその底にあるのだ。だから、本来は細かく計算しなければいけない。特に天然ガスについては、本当に高いエネルギー効率で、今後も採取し続けることが可能なのか検証する必要があろう。近頃のガスプロムに関するニュースをみていると、確信的な答えが得られない気がするのだが。(2006/6/13,29)

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前提としての経済ー輸出入と与信

素人のせいなんだが、経済というのはどうもよく理解し難い。しかし、グランドデザインを規定する中で、経済の話に言及しないことにはどうにもならない。世の中、江戸時代から金だからだ。で、経済の話、目に見える人間活動だけではないので、実に捉え難い。そこで、いつも考えのとっかかりとして採用している、宇宙人の視点、を導入してみる。つまり、地球生物とは無関係の宇宙人が外からみたとき、人間とその活動がどのように見えるか、また、どのように理解されるか、を考えてみる、という視点だ。

国内経済の話の前に輸出入を考えてみる。60年後の天然ガスの話がよかろう。さて宇宙人になって円盤から日本を観察すると、LNG船が入ってくるのが見える。タンクにはLNGが一杯で、港に着いたLNGがパイプで荷揚げされ、種々の形で利用されているのも見える。末端の中華料理屋でチャーハンを炒めるのに消費されているのも見える。で、目を転じて船の来た先を眺めれば、LNGの積み出し港も見えて、パイプだらけの工場の先にはガス田があるのがわかる。宇宙人、ここまで観察して、LNGを積み出す土地の人間が日本に住む人間と若干異なっていることもわかる。話す言葉が違うからだ。宇宙人、ここで考える。天然ガスは日本に無償でプレゼントされているんだろうか?と。宇宙人には金の流れが目に見えないので、そう思うしかない。しかし、もう少し観察を続けると、日本から機械類が船にのってやってくるのが見えた。宇宙人ここで納得する。なるほど、作業を分担してどんどんガスを吸い上げて燃やしているのか、と。ガスを吸うことで地球人は生きているのか、と誤解が生まれるかも知れないが、宇宙船から見る限り、そう見えてもおかしくない。

とすれば、金(カネ)、そして金の回り、というのは人間独自のもので、宇宙人とは無関係なもの、ということが明らかだ(当たり前か)。では、その人間独自の文化とも言うべき経済について、考えてみる。現代の複雑な経済を理解しようなんぞは、徒手空拳の蟷螂の斧。単純に理解するにはやっぱり江戸時代を知るのが手っ取り早いだろう。調べてみると、 在郷商人の最適販売戦略ー近世における都市特権株仲間および非特権仲間との木綿取引ーというのがあった。大学院の博士論文らしい。金回りとこれを保証する与信を理解する上で、役にたった。江戸時代には、国内の経済活動が活発になって、その結果の資本の蓄積が明治時代を作った、というのはよく知られた話だ。この論文は、畿内の綿を扱う在郷の商人が、どのようなリスク管理のもとに取引を行っていたかが、分析されている。この論文によれば、
1. 幕府のお墨付きをもつ大阪株仲間は売買価格は低いが売り掛けの割合が低い
2. 在郷商人間の取引において売買価格は高いが売り掛けが年を越えて残る場合、あるいは回収できない場合があった
3. 調査対象とした在郷商人は、リスク対利益の最適化を目指して、公的なバックアップをもつ大阪株仲間、およびそれ以外の在郷商人との取引のミックスを実行していた
4. 大阪のお墨付きの株仲間との間の取引リスクが少なかったのは、幕府権力とお墨付き株仲間を背景とした与信システムがあったからだ などの事実を指摘し、その結果、リスク最低化を目指しつつも、在郷における資本蓄積が進まなかったのは、在郷において財産権の不可侵と契約の自由を保証する近代的な司法権力の不在のため、と結論づけている。

上の話は、現在も通用する話で、現在の全ての経済活動に対する与信がドルをベースにしているのは言うまでもない。ただし、ドルに与信を与えているのが、米国のプレゼンス、はっきり言えば武力であると私は考える。それでは60年後に、海外貿易量はどの程度となって、その貿易活動に与信を与えるものは何であるか、をどうデザインするかが問題となる。このような観点からみると、例えば、中国ー韓国ー日本の間で、元ーウォンー円がリンクして地域内の貿易に与信を与えられるだろうか、また、この地域外との経済取引に対してこのリンクは与信を与え得るか、を考えればよい。EUのような経済圏を可能としてのが、キリスト教をベースとしたほぼ同質の社会が背景となった与信システムであることを考えれば、60年程度の期間で、東アジアに新たな与信システムが生まれるとは少し考え難いのではないか。

ただし、60年後に地球の石油をはじめとする資源が枯渇し始めることを考えると、日本が包含される多国間の交易が与信を必要とするほど活発なものであるかどうか、という見積もりが必要で、例えば昔のように金(きん)で決済できる程度の取引量であれば、世界的な与信システムはなくとも、自国の金を防衛するだけの武力があるだけでよい、という考え方も成り立つ。

私の考えを整理すれば、海外との経済取引を与信という形でとらえると、前項のエネルギー需給に係るシナリオに対応して、海外との間の取引について二つシナリオが導かれる。
シナリオ1: 海外との経済取引は金を仲立ちとする程度の大きさである。
シナリオ2: 海外との経済取引は与信を必要とする大きさである。

国内経済については、警察権力は60年後にも健在だろうから、経済活動に係る与信は十分に与えられるので、原子力発電所の建て替えを含む、原子力発電に係るエネルギー効率が十分高ければ、資本の蓄積は着実に進むであろう。あるいは、経済活動レベルを一定に保ったまま、エネルギー需給量を漸減させることが可能だろう。次は与信を与える根底である武力についてだな。(2006/6/21)

p.s. 2006/6/23日付けの日経新聞にロシア政府が保有外貨の内ドルの割合を減らしユーロの割合を増やす、という方針をとるというニュースがあった。ゆくゆくは海外との決済、つまり天然ガス輸出の話だ、をルーブルにしたいという思惑もあるのだという。米英の銀行筋はルーブル決済には懐疑的だ、とも書いてあったな。昔々、ソビエト崩壊前後にモスクワに行った時、実質的にドルが流通していたことを思い出す。ロシアの銀行と政府で近隣諸国を包含した与信システムを構築できるかどうか、私にはよく分からないが、天然ガスの埋蔵量を考えるとこのロシアの動きは無視できないだろうと思われる。ただし、ソビエトとロシアは金融に強いユダヤ人を追っ払い続けてきたので、人材ネットワークの点が弱点になるのでは、と思われる。インサイダー取引で私腹を肥やす人物が頂点にいるような、金融システムを持つ日本が、大きなことは言えないのだが。(2006/6/23)

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デザインとしての武力

まずは米国の方針を知らなければ話にならない。日本の大学でもこういう話をしている例がある。よくまとまっているので分かり易いと思われる。神保謙というSFCの先生らしいが、生徒からは軍事オタクと思われているんじゃないかと思われる。どういう話かと言えば、2001年のブッシュ政権の成立とともに、ラムズフェルドが始めた米軍の改革、「US Force Transformation」があって、これが9.11を契機に一気に具体化し、直後に出された「Quadrennial Defense Review: QDR 2001」に結実したという話だ。

QDR2001というのは、第一に米軍方針の「Threat-based approach」から「Capability-based approach」への転換の表明で、つまりは、「脅威が発生したら対処する」方針から「脅威の保有する能力を常に上回る能力を米国が保持する」方針への転換だ。この中で、軍事技術の発展を基礎に「米軍のグローバルな配置の見直し( Global Posture Review: GPR)」が始まったわけだ。早い話が世界のあちこちに兵力を常駐させると金がかかるから、圧倒的な兵力を短時間に世界中どこへも展開できるようにする、ということだ(実際にどのように展開されるかは、トム・クランシーの「大戦勃発」に詳しい。小説としてはくだらないのだが)。在日米軍再編もこの文脈で行われているわけだな。米軍の引っ越し代金の見積もりと値引き交渉の話ではないのだ。

イラクで泥沼にはまっているじゃないか、緊急展開しても無意味だ、という声があるかもしれない。これについては、私は以下のように考える。イスラム圏でイスラムをベースにした与信システムが発達する可能性はあるし、イランとイラクはそれに呼応する武力は準備していたと思われる。しかし、米軍が緊急展開して武力システムの一つは破壊し、もう一つについても脅しをかけているので、米国の与信システムの保証という観点からは十分な結果が得られたと思われる。石油の利権については、米軍が存在する必要はない。おそらく、米国の石油企業が私営の軍事システムを準備して、石油利権の防衛に充てることになると思う。

閑話休題、米国が60年後に消滅してしまう、という可能性は極めて低いと思われるので、米軍の存在とその方針もあまり変わらないだろうと思われる。このような状況の中で、日本の経済シナリオが、先に述べた、
シナリオ1: 海外との経済取引は金を仲立ちとする程度の大きさである。
シナリオ2: 海外との経済取引は与信を必要とする大きさである。
であるとすれば、大体の方針は導きだされよう。グランドデザインとして、現在の経済を支える与信システムを崩壊させないように、シナリオ1であれば、相手は海賊レベルであるから、限定された武力、おそらくハイテク化された、かつ米軍式に問答無用の攻撃を許された海上保安庁レベルで十分だろう。シナリオ2なら、米軍の現地軍たる統合化された日本軍となるだろう。この場合もあまり長い槍は必要ないだろう。米軍が緊急展開される数日程度もてばよいからだ。シナリオ2で中国に対抗できるだけの武力を持つべし、という意見があるかも知れないが、狭い国土で縦深陣地を取れない事は明らかなので、意味がない。原子力潜水艦隊と搭載ミサイルによるMAD(Mutual Assured Destruction)戦略をとることも可能ではあるが、今度は米国が許さないだろう。

外交機能は武力システムに従属させる程度でよいと思われる。戦後の外交により日本が得たプレゼンスは羽より軽いし、外交と背中合わせになっているはずのインテリジェンスおよびコミュニティは皆無だからだ(一人くらいはいるらしいんだが)。ここで言うインテリジェンスとは、 「外交・安全保障における政策決定とデザインの素材となる情報プロダクト」のことだ。 (2006/6/23,29)

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デザインとしての食料生産

エネルギーが十分に供給されていれば、大方の食料生産にそう苦労はしないだろう、というのがまず前提にある。しかし、エネルギーを買う金が60年後にも日本に十分あるかどうかという点については、どうだろうか。日本の資産は結局のところドルにリンクしており、そのドルに信頼性を与えているのが米国の武力だとしても、米国の経済システムを支えているのは石油であり、かつ金というのが人間の利用し得る自然リソースを代表している以上、自然リソースの基盤である石油が枯渇し始めたら、ドルの価値は低下するのは避けられない。ドルの価値が下がれば円が下がるは道理と考えられる。さて前項にデザインとしての武力、というタイトルに武力整備にしろ、削減にしろ、時間がかかるから「グランドデザイン」が必要だというニュアンスを込めたのだが、食料生産も同じだ

どういうことかと言えば、食料生産体制を整えるのには時間がかかるということである。言うまでもないが、食料生産にはそれなりのインフラ整備が必要で、かつ、エネルギー供給コストが上昇した条件では、より安価な食料生産を目指さねばならない。有り体に言えば、明治以来日本が歩んできた道、つまり、エネルギー供給の増加 -> 農地の高度利用(温室農業なんぞが分かり易い例だ) -> 農地の商工業地への転換 -> 商工業発展 -> エネルギー需要増大サイクルはもう維持できないから、これを逆に回さなければいけない、ということだ。どんなふうに回すかと言えば、エネルギー供給の減少 -> 農地の粗放利用 -> 工業商業地の農地への転換 -> 商工業の縮小 -> エネルギー需要削減、ということだ。問題は経済発展の時には農地の商工業地への転換は、農業者の心的な束縛さえ外れれば極めて容易に実行されたのだが、商工業地からの農地への回復には生産設備という資本の破棄に加えて多大な資金が必要なことだ。

現在の我が国の経済システムが、60年後の資源枯渇時代にどうなるかは不明にしても、現在のままである筈はない。一方、資源枯渇時代に軟着陸するためには時間が必要なのに対し、経済システムを徐々に変更するというのはかなり困難なことと考えられる。土地の下方硬直性や生産設備の下方硬直性があるから、実際には60年後の資源枯渇時代は、カタストロフィックな経済システム転換あるいは破壊とともにやってくる確率が高い。つまり、食料の自給率を徐々に上げる、というようなことはできなくて、いきなり、一人当たりカロリーが現在の食料自給率である40%になる、ということだ。で、人口が、1.3億が0.5億になるという前提だったので、田んぼが現在のままであるとすれば、カロリーは全部米でとるとして、一人あたり現在の2.6倍のカロリーが供給されることになって、40%* 2.6≒ 1となるから、まあまあ、米を喰っていれば何とかなるということになるもちろん、現在、米生産に投入されている石油エネルギーの話や、食料自給率には輸入エネルギーの変換された結果である高級和牛肉なんてのも勘定に入っているので、話は複雑なんだが、飢え死にのでる心配はなさそうだ。

グランドデザインは取りあえず飢え死にする日本人を出すことを非目標とする。考えられるシナリオとしては、経済クラッシュの後に日本人全員が休耕田や放擲された畑にとりついて、取りあえず糊口をしのぎ、数年〜数十年かかって農地を拡大していく、という展開だと考えられる。このとき重要なのが、与信システム、この場合は社会システムに対する信頼、ということになる。何を言っているかと言えば警察権力が瓦解していないことが必要だ、ということだ。この前の敗戦に伴う経済クラッシュの時には警察権力に対して日本人も信頼を寄せ、警察権力もこれに応えたのだが、今度の場合もこれが必要だ。まあ、警察力が弱体であっても、どこかの国のように災害の度にご立派な市民による略奪が起こるのでなければ、与信システムはなんとかなるだろう。与信システムが残っていれば、あとはブートストラップ式に食料生産を拡大していけばよい。順番としては次のようになるだろう。

  1. 警察権力を守る
  2. 地域的な農業生産システムを守る
  3. 農業生産システムを拡大する
  4. 他地域との流通システムを拡大する

重要と思われるので繰り返すのだが、食料生産に関してはグランドデザインありき、ではないことだ。経済クラッシュに伴う食料供給システムクラッシュなので、「お助け米」程度の準備しかできないだろうということだ。だからここでいうグランドデザインとは、クラッシュからいかに新規構成するかの手順のこととなる。(2006/7)

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デザインとしての社会資本

前提条件から社会資本がどうあるべきかは、ほぼ明らかになるのだが、注意すべき点がある。エネルギー需給のシナリオとして原子力が使える場合と、原子力に加えて天然ガスが使える場合を挙げたが、これは天然ガスもしくは原子力が永久に使えるという条件を言ったのではない。特に天然ガスの場合にこれが石油の肩代わりをするから、現在の社会システムの一部変更で石油枯渇時代に対処ことができる、という考えを私はとらない。基本的に何であれ使えばなくなるのは明らかなので、石油枯渇時代において社会の根源的なシステム変更のインパクトを緩和するために天然ガスが使える可能性があり、原子力であっても、基本的には資源枯渇時代のインパクトを和らげるために利用できるだろう、ということを主張しているのだ。

上記の観点から、ハード的な社会資本は、人力と電力をエネルギーリソースとして利用できる範囲で、蓄積とメインテナンスが可能な施設と設備、となるだろう。例えば、旅客機を蓄電池で飛ばす、というのは工学的に大いに困難であろうから、航空施設と関連システムはグランドデザインに含まれない。鉄道網はグランドデザインに含み得るが、自動車道路網が含まれるかどうかは、エネルギーコストと人口減少時代の利用頻度を考えると検討の余地があるように思われる(あるいはないとして考えた方がグランドデザインを考える上で簡明かも)。自動車道路網の維持がエネルギーバランスの観点から困難な場合には、電力網、ガス配管網、なども縮小せざるをえない。上下水道網は基本的に重力で動かしているので維持にそれほどの困難はないだろう。

電動機サポート付き自転車、というのは電池が切れても人力でハンドリングできる、という点でグランドデザインに流通を担うシステムとして含むべきである。早い話が江戸時代にどのように社会資本が形成されていたか、それはどのようにメインテナンスされていたかを考えて、これに電気エネルギーが使える場合を考えればよいと思われる。また既存のハード的な社会資本はしばらくの間は利用できて、メインテナンス不足のために徐々に廃用されていくと思われるので、新規の社会資本を、前項の食料生産程には急いで展開する必要はないと思われる。

さて、社会資本にはソフト的なものも当然存在する。例えば、江戸時代にないソフト的な社会資本としてITがあるが、これは以前に言及したことがある。再掲すれば、「話は簡単で、光ファイバーなりの伝送路を全国津々浦々にはりめぐらせることだ。また、現在の幹線道路ではなく、昔の街道に沿ってつけたい。将来、エネルギー事情が江戸時代レベルになって、人々の移動がもと通り、自分の足に頼るようになってもメインテナンスできるようにだ。これに関連して高速なバックボーン重視でなく、ネットワークの字義通り、適当な太さ(情報量から見て)を編目のように張り巡らし、できれば太陽電池程度で動かすようにしたい」、と。これに尽きるな。

その他のソフト的な社会資本、学校制度や医療制度、官庁システム、などは大きなエネルギーリソースが必要とされるわけではないので、この項では述べない。

社会資本のデザインにおいて最も大きな問題となるのは、到達目標でなくて、どのようにそれに到達するか、この場合には現在ある社会資本のうち、必要性の失われたものをどのように経済的に償却するか、なのだが、これについても、経済システムの転換が現行経済のクラッシュとして起きるのであれば、あまり問題ないかも知れない。償却というより、経済システムの転換後の燃えないゴミの処理問題に還元されると考えられる。 (2006/6/30)

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デザインとしての行政機構

エネルギー供給が制限される以上、食料の移送は現在に比べて限定されたものになる。少なくとも海外から航空機で食料を輸入する、ということは不可能となろう。食料の移送が限定されたなら、日本人の住む場所もこれに規定される。食料生産場所に近い場所に住むことになり、これに従って日本人の住む場所も変わらざるを得ない。住むパターンが変わるなら、これに合わせて行政機構もデザインしておく必要があろう。できるならば経済と食料供給システムクラッシュの前に、行政機構が転換し終わっていることが望ましい。

食料生産場所に人間が住むとなると当然のように江戸時代の藩、しかし藩ではサイズが小さすぎると思われ、電気エネルギーが利用できるので流通範囲がもう少し拡大できて、道州制あたりが適当なサイズの行政単位となろう。これまでの議論からも東京に全てを集中する必要性は挙らないので、武力を除く全ての行政機構が道と州に分割されるのが最も効率的だろう。このあたりは、国会はいらないのでは、という話の中で既に書いた。ただし国の与信システムのシンボルとして天皇は京都に住んで頂く必要があるし、東京には武力システムの中枢が必要だろう。その他を各道州で独自に行政機構を組織化すればよいのでは、と考えられる。各道州で公共的に必要なのは、エネルギー供給システムとしての原子力発電所とそのメインテナンスシステム、及び警察権力とこれに付随する裁判システムくらいで、残りは全て民間でよいのではと思われる。

行政機構の変換の前後では、法制の変更も若干必要となろうが、あまり手直しはいらないのではないだろうか。少なくとも行政機構の変更にそれほどの電力エネルギーは必要としないと思われるので、変更も迅速に行われるだろうし、行うべきである。(2006/7/3)

p.s. 天皇は京都に帰って頂く、ということを主張してきたのだが、先日、中沢新一の「アースダイバー」(講談社)、を読んだ。そこで著者が「都市(京都)に住んでいて、その霊力を高める時に森に籠るというパターンを繰り返していた天皇が、東京に移り都市の真空中心となっている森(皇居)に百年近く存在しているという奇跡」について述べるくだりを読んで、確かに西洋文明の大転換の時期に日本と世界の関係まで妄想するならば、そういう考え方もあるのかと納得した。(2006/7/12)

p.s. 現行の行政組織の再編成が簡単に行くような絵を描いたが、地方行政はいざ知らず、霞ヶ関の硬直性は、(私が)以前より接触する機会が増えたせいもあるのか、より強く感じる。どうにもなりそうもないのが、「行政の無謬性」に係る強い自信で、その物理的根拠のない点からは「信仰」とさえ言えるのではないか。卑近に経験した例では、役所が設定した事業(ここではプログラムと呼ぼう)の実施を、近年はやりの「公募」により募集するという例がある。重要なのは、プログラムというのは、ただ一つの要素から構成されるのではなく、複数の「課題」から構成されるという点にある。

審査で通った応募(ここから課題となる)には実行開始後、設定期間の途中で評価が行われ、それ以降の予算配分に関連させる。ここまでは十分理屈にあっている。ところが、この課題の実施完了後、さらに評価を加えるという仕組みがある。この一見良さそうな評価のどこに問題があるのかと言えば、完了した課題についてあれこれ評価しても仕方がない、という事実があるからだ。終わってしまったことは変えることができないからだ。完了した課題について評価を加える必要性というのは、実は課題そのものではなくて、課題を実行したより上のレベルである、プログラムが適切かどうかを判断するためにあるのだ。評価の結果、プログラムに不具合があればその結果を反映して、次の課題の公募に活かすことができるからだ。確かに米国の例は全てこのような仕組みになっている。で、霞ヶ関の役人を観察していると、驚くべきことに、役人が設定したプログラムに対して、評価を加えるべきである、それ以前に評価が加えられるかも知れない、という意識が全く見られない。この態度は民間から見ると非常に不思議で、自分達が設定したプログラムは、無謬であると信じているのだ、という仮定を置かなければ理解できない。将来に対して設定したプログラムの価値が環境の変化の影響を受けざるを得ない、というのは明らかな事実なので、彼らが自らの無謬性に対して「信仰」を持っていると、私がみなす理由だ。で、つけ加えると、役人にこの事後の評価は何に使うのかと尋ねると、きちんとした答えが返ってこない。応募者一人一人に点数をつけて後でまた参考にする、なんてとんでもないことを言い出す奴もいるぐらいだ。

「信仰」を持つ人間を回心させるのは、メソッドがない以上、困難なのは明らかなので、結論としては現在の霞ヶ関を頂点とする行政組織を変更することはできず、全てを(警察はしようがないので除外して)民営化するしかないだろう。(2006/8/9)

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コンテキストとしての外交ーメソッド以前

石油枯渇の起きた場合のシナリオを二つ提示して、キビシイ方のシナリオを、シナリオ1:エネルギー需給量は現状の40%で海外との経済取引は金を仲立ちとする程度の大きさ、であるとした。当然、このような事態には、世界の各国が、あるいは存在していない国もあると思われるが、日本と同様あるいはそれ以下のエネルギーしか使うことのできない状態になっていると思われる。とは言っても鎖国状態に安住することももはやできないであろうから、貿易その他の諸外国との交流は残っているに違いない。

そこで何らかの基本的なポリシーの下で交流を続けなければならないのだが、気になるところがある。どういうことかと言えば、現在の職場は官庁の関係団体なのだが、そこからみていると殆どの日本人職員の、外国特に米国に対する理解に根本的な欠陥があるのでは、と気付いたのだ。一つには、これは以前から述べていることだが、リーダーシップとメンバーシップの関係に理解が及ばないような人間を製造する教育を受けてきたものだから、米国人を主とする西欧人の責任のあり方、を直感的に理解できないようなのだ。だから、西欧人が何かをなす時に個人すなわちリーダーあるいはメンバーがどう行動するか、という点に興味の焦点が集まらず、常に、個々のプロセスを規定している規則あるいは手順は何か、に興味が集中する。この現象は外国人の講演に対する日本人職員の質問パターンに明確に読み取ることができた。

さらに我々の西欧文化に対する理解にも大きな欠陥がある。この点について明確に示したのが、村上隆の「芸術起業論:幻冬社」で、私も目からウロコが落ちた。つまりなぜ、F1をホンダとトヨタが牛耳れないのか、なぜジャンプ競技で日本は勝てないのか、なぜ京都議定書で日本は大失策をしたのか、を村上隆は定理として説明しているのだ。村上隆のエライところは、彼が身を以てこれを内的定理とし、金という形でこれを証明した点にある。どういうことかと言えば、西欧社会はコンテキスト(文脈)によって成り立っている、ということだ。文脈は何かと言えばルールとプレイヤーで形づくる時間的経緯である、ということだ。つまりF1という文脈においてホンダはプレイヤーの勝者になったことはあってもルールに接触することができなかったし、国際ジャンプという文脈においては知らない内にルールを変えられてしまい、京都議定書では、日本代表がルールとプレイヤーの関係をついに把握できなくて、ルールと思っていたものがいつの間にか借金証書になってしまっていた、という話だ。

もちろん日本人でもうまくやっている例はあって、大相撲なんかはルールを相撲協会が確保しているから、プレーヤーが外国人であっても、神事に源を発するこの大相撲という文脈が、日本のものになっているのだ。柔道なんぞは西欧の「スポーツという文脈」にとりこまれて、結果として日本のものではなくなりつつある。この観点にたてば、「ものづくり日本」というキャッチフレーズが実に危ういもので、中国に脅かされるのも道理だと考えられる。もの作りという言葉は、工業化社会という文脈を理解できなかった日本人が、「なぜ我々は排除されるのだろう」という疑問に、文脈にその答えがあるという観点に思い至る事ができず、「よきプレーヤー」であれば文脈に馴染むに違いない、という間違った思い込みが生んだものだ、とさえ言える。「イノベーション日本」という一般にはあまりなじみのないキャッチフレーズにも同じ誤りが存在していて、これは科学技術の関係者の間の言葉なんだが、革新(イノベーション)的発明があれば、日本が科学技術において世界にプレゼンスを示すことができる、という主張だ。科学技術の文脈という観点にたてば、単発的な発明発見が文脈を構成するルールやプレーヤーに影響を与えることができないのは明らかで、村上隆が言うように、自分の文脈がないなら、相手の文脈によりそってこれを理解し、文脈を引き寄せることをしなければならないのだ。「ものづくり日本」、「イノベーション日本」を信じている人間はノータリンだ、と言わざるを得ない。

日露戦争を上手く戦い抜けたことを考えると、将と兵の関係に対する理解や、西欧文化の文脈に対する理解が明治の人間にあったことは間違いないだろう。この二つが現在の日本人から抜け落ちているのは、大いなる問題で、あるいは外交ポリシーを云々する以前の問題とさえ言える。まあ別に悲観する必要もないのは、明治の人間のDNAを受け継いでいるのも我々だから、ごく短期間の間にこのような問題点は解消できるだろうという点にある。あるいは外国との交流を最小限にして我が国だけの文脈、日本文化を次の千年紀のために温存する、という考え方もある。(2006/8/10)

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ターゲットとしての未来予測

最初の頃、「非目標」を実現するためのグランドデザイン、ということで、各種の前提条件の下、いくつかの視点からみたデザインとそれらに付随するメソッドを提案してきた。しかしながら、グランドスコープで定義した「日本」を維持させるための「非目標」が、考えているタイムスパンの範囲で「非ー未達成」されるとして、その後、どうなるだろうかを、このあたりで考えることとしたい。年代的には現在の百年後あたりだ。考えの方向性を確認するためのターゲット、あるいは目印、の予測結果から今なすべきことが逆に照射できないか、という話だ。

つまり、資源の消費を原動力とした経済発展に伴う個体数の拡大、という生物としての人類の成功の後、現れる資源の枯渇による経済の減速を契機とする資本主義のクラッシュと、これに伴う人口の縮小という時代における、「日本」のあり方である。すでに、その極端な例として、外国との交流を最小限にして我が国だけの文脈、日本文化を次の千年紀のために温存する、という提案はした。もちろん、この案は、私自身が日本人であることから、日本文化にそれだけの価値を認めているからなのだが。そういう点からはイスラムも、この縮退する時代に適合できると考えられる。彼らの目的は、来るべき最後の審判に備えて、アッラーの意向に沿うように日々の生活を送る、ということであり、基本的に資本主義とは無縁だからだ。ここで社会主義ならよい、という話にならないのも明らかで、その成立過程とその後の推移からみても、社会主義というのは資本主義の反対概念ではなく、より単純化した概念に過ぎないからだ。

このような時代、すなわち資源、主に化石燃料の枯渇の末の資本主義社会のクラッシュ後の、現在から百年後の、それぞれ固有の共同意識を持つ、多数の人間集団から構成される世界とはいかなるものか、そこから考えて考えを逆に現在に巻き戻してみたい。それでは、「日本」のありようをどのような観点からみるべきだろうか。既に「日本」を、この島国の自然と、縄文と弥生から現代に引き継がれてきた共同意識をもつ人々の複合体として定義した。ここでは、生物として適者生存競争が、この時代の地球上において「日本」として定義したような人間集団同士にも存在すると考えて、話を進めることとする。過去に夢想されてきたような世界共和国が実現されているだろう、という考え方をここでは取らない。なぜならば、生物進化のアナロジーが適用できるとすれば、多数の生物群間の競争が地球生物を進化、より良くなるという意味ではない、させてきたことは事実であり、生物に起きて来た事実のアナロジーを、人間の集団同士にあてはめることは、そうおかしなことではないに違いない。世界共和国の実現が不可能であることは、エネルギー資源が枯渇してしまえば、平等な地球社会を下支えするべき物資の流通が不可能になることから明らかだ。エネルギーを含む資源の流通が無くなってしまえば、あるいは縮退するならば、人間の集団は自ずからある地域環境に束縛されることになって、その当然の結果として、人間の集団の間には利用し得る資源の面において差異が生じるからだ。つまり、「日本」なる人間集団と、他の人間集団とが、各々の地域環境を足場に、対立と協調を繰り返している世界を基本と考える。

人間集団のありようは、エネルギー等の資源が枯渇している状態にあっては、資源を基盤とする個体の保護システムや、他の個体および個体群からの緩衝システムがなくなってしまって、個人というレベルがむき出しとなっているであろう。出発点からして個人の宗教観や人生観を抜きにしては始まらないと思われるのだ。では、個人はこの時代、どのような動機付けにより生きているだろうか。話を分かり易くするために、対象を「日本」の人間集団に限る。「日本」人間集団に限ると、百年後の予測において、現代の人間の本質をそのまま外挿することができて都合がよい。どういうことかと言えば、個人の欲望を奨励しているのが、化石燃料により社会システムが駆動される現代資本主義であるとすれば、個人の欲望をそのままに、百年後の社会システムに適用できるからで、「日本」の人間集団は、個人の「欲望」を先史以来、否定していない社会であるからだ。「日本」の人間集団は、個人の「欲望」を先史以来、否定していない社会である、と述べたが、もちろん「日本」の共同体が欲望を奨励してきた訳ではない。常に欲望を押さえるシステムは一方で存在してきたからだ。しかし、家康以来の禁欲的統治がその基本であった江戸時代でさえ、富貴は人の願いであった。

さて、江戸時代が資本主義社会かどうかと問えば、言下に封建社会に決まっているじゃないか、という答えが返って来そうなのだが、よく考えると話はそう単純ではないように見える。なぜかと言えば、現代の我々が資本主義としてイメージするものが、必ずしも資本主義の純粋な形ではないように思えるからだ。江戸時代の話に戻れば、一部を除いて土地が市場商品でなかったことが、封建社会だったとする根拠なのだが、現代でも国有地(行政財産というらしいな)は市場商品ではないし、江戸時代にも田畑永代売買禁止令があるにも係らず、質流れ等で実質的に売買されていた事実がある。一方で、貨幣の投資による資本蓄積は行われていたので、「体制」をどう定義つけるかにより見方は異なることとなろうが、実質的には江戸時代においても、その定義から見れば資本主義の特徴が存在したと言えるだろう。

何が言いたいのかと言えば、資本主義社会には二通りあるのではないか、つまり化石燃料を代表とする外部エネルギーが社会を駆動している資本主義社会と、人力を主とする再生可能エネルギーが社会を駆動する資本主義社会があるのではないか、という主張だ。どちらも個人の富貴を求めるという心的エネルギーにより動機づけられた社会であるが、経済の規模拡大が個人の人生の間に認められかどうか、という観点から、経済成長を見越した投資が存在するか否かに大きな違いがある。つまり経済成長の成果を個人が享受するのか、偉大な支配者としてその記憶が讃えられるかどうかの違いだ。

しかし、江戸時代が完全なリサイクル社会であったわけでは決してない。その社会をドライブするエネルギーそのものは、太陽光を源とする米であったとしても、資本の蓄積に金銀、銅鉄などの資源が必須であることを無視することはできない。佐渡の金山、石見の銀山は、江戸時代の資本蓄積のための資源だったのだから。ここでも、貨幣の増大を支えているのが資源である、あるいは貨幣は人間の利用できる資源の総体を表すという定理は生きていて、富貴を欲望する人間集団は、資源を枯渇させる、という図式は、資本主義社会を駆動するエネルギー源の種類に関わらず、成り立っているように思える。(2006/10/10)

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ターゲットとしての欲望容認

さて、「非目標」を「非未達成」した「日本」における人間集団の社会を、百年後にできるだけシームレスにつなげるために、「日本」の人間集団の欲望に対する肯定姿勢を容認することとしたい。すると、社会は既に述べた、人力を主とする再生可能エネルギーが社会を駆動する資本主義社会、がこの人間集団によく合致するであろう。江戸時代、という前例があることもこの考えを強化するであろう。とすれば、百年後のこの時代、エネルギーとして化石燃料は枯渇しているとしても、その他の金属を主体とする資源は、富貴を求める「日本」の人間集団の社会を維持するために必須である。

一方、資源が枯渇したと言っても、それが失われてしまっているわけではない。放置された社会資本、埋め立てゴミあるいは放置されたゴミとして、存在するのだ。資源としては低いポテンシャルの状態であるにしても、物質不滅の法則は厳然と存在するので、総量としては膨大に存在している。だとすれば、これを鉱山とみなすことにより、この資源を用いた資本蓄積は可能であると思われる。つまり人力を主とした再生可能エネルギーを用いた、ゴミ鉱山からの資源の精錬である。

先に述べたように、この資本主義社会では、冨の蓄積が個々の人間の寿命内ではなかなか進まないであろう。つまり、個人が社会の単位でなくなって血族を中心とする集団、家と呼べばよりイメージしやすいだろうが、が社会の単位になると考えられる。基本的には個人の欲望を肯定する資本主義社会であるにしても、その外見的な特徴は現在とかなり異なったものとなるだろう。

さらに話をすすめれば、この人力を主とする再生可能エネルギーが社会を駆動する資本主義社会、はどの程度の期間、継続するだろうか。「日本」の場合、全てのゴミ鉱山からの資源の抽出が終了するまで、と考えれば、佐渡の金山の寿命を参考にして、五百年というところか。今のところ何の根拠もない数字であるが。その後はどうなるだろうか。まだ、考えていないし、本来の目的、つまり、ある程度の見通しを得ておいて、現在の方針、そもそもグランドデザインの話だったな、これに反映するという考えだったから、あまり追求してもしようがない。(2006/10/12)

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社会転換におけるクラッシュは緩和可能か

平成19年4月26日に、宇宙航空研究開発機構の主催する「気候変動予測と衛星観測の未来シンポジウム」というのが開かれ、演題の一つとして、持続的社会と気候変動−気候変動と我々の社会−東京大学 サステナビリティ学連携研究機構 地球持続戦略研究イニシアティブ−住明正、があったので出かけた。講演の中身は、人口や資源の消費が爆発的に増加した二十世紀は、変化がエクスポーネンシャルに起こった時代である。エクスポーネンシャルな変化を示す系は不安定であり、調整局面が現れる、というごく真っ当なものだった。ただし、クラッシュを避けるためには、ソフトランディングが必要で、そのためには人間相互の信頼関係が必要だ、という苦しい結論だったな。住さん今イチ。

前にも述べたように、「ない袖は振れない」という原理により、石油エネルギーを基盤とした現代社会は転換せざるを得ず、かつ、人間社会には下方硬直性があるので、社会の転換にクラッシュもしくはハードランディングが伴うのは避けられない、というのが私の持論である。今までの論説はクラッシュが起きた後に日本は存在可能であるか、という話と、クラッシュが文明崩壊にまで及ばないように最低の基盤を守るためには、警察力と原子力が必要だ、という話から構成されている。そこでは、今のあるいは私の子供を含む日本の未来の住人がどのような苦しみを受容しなければいけないか、などという話は、ない。それぞれの時代を生きるのはそれぞれの意思だから、私がどうこう言うべきことではない。私はただ、少女漫画家が作品内でよく主張しているように、「転んでいいんだ。起き上がれば」と言う言葉を伝えるのみだ。

しかし、そうは言っても子孫が辛い思いをするのは何とか避けて通れるようにと願うのは親心なので、子孫の受けるクラッシュの痛手の緩和を考えたい。尤も、金があればかなりの部分何とかなる。社会のクラッシュの時に金が何の役に立つのか、と思う方々もいると思うが、社会の下方硬直性を考慮に入れるならば、クラッシュの最後の段階に至る途中までは、多いに役立つであろうと思われる。で、私が資産家であったなら、資産を子孫に伝えて、金の力により、ぎりぎりまでクラッシュの痛みを遅延させる、あるいは、世界の中で最後にクラッシュが起きるであろう米国に、資産もろとも移転させる、という方法があるだろう。しかし、あるいは残念ながら資産家でない私にその方法は取れないので、痛みを緩和する別の方法があるかどうかを探ってみたい。

さて、何かの危機が迫っている時、最も必要なのは、何時危機がやってくるのかを知ることだ。その上でリスクを最低にする方策を立てることにしなければ、手持ちのリソースで最大の効果を上げることができないからだ。で、どうしたらクラッシュが迫っているのを知る事ができるだろうかと、少し考えた。少し考えただけで、これが市場の株価予測と同じく、予測不可能あるいは予測可能かどうかが不明である、ということが分かった。そうは言っても、何か手がかりを掴まなければいけないだろう。まず、どういうクラッシュモデルが考えられるだろうか。すぐに思いつくのがカオスモデルで、例えば、f[x]=4x(1-x) がよく引き合いに出される例で、カオスになる直前はロジスティック式と同様の曲線を与える。つまり、この関数の、最初指数関数的に増大する曲線が突然乱高下を始めてランダムな大局的には予測できないようなふるまいをする、という性質をクラッシュのモデルに応用できるのではないか、という希望だ。

で、株価がカオスモデルで表されるのか、それともランダムな現象なのかについては、大和総研の調査した例が見つかった。ちょっと古い(2003.1.1)のだが興味を持ったので、読んでみた。結論からいうと、ザラバの取引価格について、リヤプノフ指数が正で、サロゲート検定からみて、価格変動はランダムな現象ではなく、カオスと言える、という話だ。もちろんザラバを動かしているのは人間で、人間同士のかけひきがランダム現象とは言えないだろうから、何らかの決定論的なメカニズムあるいは数式により、記述することが「可能である」という結論は正しいと思われる。当然のことながら、その決定論的カオスを記述する数式が示されているわけではない。

ここで、予想とおり、と諦める必要もないので、もう少し考えてみる。対象は株価ではなくて、何時クラッシュが起こるかということであり、そのクラッシュが人間の欲望に起因する、ここでは、下方硬直性により起こると仮定すれば、もう少し考えを進めることができそうだ。例えば、下方硬直性を組み込んだ石油の価格モデルができたなら、石油算出に関わる物理モデルと組み合わせることにより、クラッシュの時期を予測できるのではないか、という考えだ。まだ全く手がかりがないんだけれど。

ところで、クラッシュの痛みの緩和なんだが、全ての日本人が自給自足をしているなら、つまり、江戸時代そのままであったなら、世界の石油経済のクラッシュが何らの痛みを伴わないのは当然のことだ。しかしながら、問題なのが、現在日本の多くの人々は給与生活者であるということだ。総務省統計局の「平成12年国勢調査 最終報告書日本の人口統計表」というのがあって、この中に、「第30表 従業上の地位(3区分),男女別15歳以上 就業者数(平成12年)」がある。この表によれば、平成12年の総人口126,925,843のうち、男女併せて15歳以上の就業者の数は、

総数62,977,960
雇用者52,280,537
自営業主7,185,866
家族従業者3,506,959

であるという。つまりおよそ83%の就業者は企業からの給与により生活していることになる。確かに、いきなり給料がなくなって、店から食料が消えてしまったら、我らの子孫は大いに困窮するだろう。(2007/5/8)

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下方硬直性の原因としての欲望

そもそも下方硬直性が何故に生起するかについて、よく考えてこなかった。考えた結果、明らかになってきたことがある。結論から言えば、人間の欲望が原因だ。そして、人間の欲望を軸に見渡すと今までばらばらだったジグソーパズルのピースが収まるところに収まって、全体像が見えてきたような気がする。つまり、人間の欲望を肯定しつつ、資源の蕩尽に繋がる欲望を如何に抑制するかという、一見矛盾した問題の解決の方法が見えてきたのだ。

さて下方硬直性は、ある抑制的な出来事が起こる事により生起するのであるが、以下のように図に表されるであろう。

kahokouchoku

最初にあるのが、欲望の追求だ。ただし現在では欲望という言葉が生々し過ぎるというので、欲している主体を隠して、まるで他人が欲しているかのように、快楽という言葉が使われることが多い。さらに今では、快適、などという言葉で快楽を当然の権利のように表現するようになってきた。幸福の追求という積極的な言葉さえ一般的となっている。一方、快楽は昔と変わらず、時間的に減衰するという性質を持っている。もちろん、これは人間が化学的システムによって構成されているので、コンピュータのように快感をメモリに固定できないためだ。そこで、快楽はある時間間隔を以て、再確認されなければならない。快楽を固定することはできないが、快楽を感じたという記憶は残る。この快楽の記憶と快楽の感覚を比べ、そこに大きな違いの生じていないことで、人間は安心を得ることができる。一方、突如として現れる可能性としての、快楽の水準に対する頭打ちとしての制限は、この人間の快楽サイクルにブレーキをかけ得る。例えばバブルの崩壊、土地価格の下落、病気、事故、別離等だ。人間はこの頭打ち制限、いわゆるシーリングを知る事により、今保持している快楽サイクルのレベルが低下してしまうという、可能性に対して恐れおののき、快楽サイクルのレベル低下に逆らう。これが下方硬直性だ。

さて、ここで気付くことがある。最初にあると述べた、欲望の追求だ。欲望の追求は何時から許容されるようになったのだろう。過去の王、将軍、天皇、その他の統治システムを現在では、人間の抑圧システムと見なす。何が抑圧されていたのだろうか。簡単な話だと今となっては分かる。個人の欲望を肯定したいという願望だ。少なくとも歴史の大部分の時間において、個人の欲望が肯定されていた時代はなかったし、それを肯定した王は、暴君と呼ばれていたのではなかったか。だが、主権が全ての人間にあると定義された時、欲望の主体は権力の保持者と同一の存在となって、個人の欲望は肯定されてよいものとなったのだ。同時に個人の欲望は法的にも保証されることとなったのだ。こうして我々は大手をふって欲望を、いや快楽を、いや快適を追求することが可能となり、何の後ろめたさを感じる必要がなくなったのだ。

欲望の追求により、我々は豊かな世界を築くことができたのだった。ガソリンを燃やしながら。(2007/6/25)

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Advance to the past

これまでの話の中では、資源の枯渇した時代に、人間の欲望を肯定しながら、どのような社会システムが適切であるか、明らかな答えを見いだすことができなかった。しかし、下方硬直性の原因である人間の欲望、そして民主主義を、欲望を推奨し保証するシステムとして定義し直すことによって、資源の枯渇した世界にあるべき人間の姿を、もしくは、その一つの形を提案することができる。固定した支配層の存在による個人の欲望追求に対する否認だ。その社会において、人間が哺乳類から出自したことに起因する、個人の欲望の存在は否定できない。しかし、その欲望の追求は否定される。

こうして考えた時、我々が江戸時代を経験してきたことは、実に大いなる奇跡と言えよう。支配層の先祖に対する崇拝は、決して到達できない過去を神格化することを通じて自らを律する結果となり、それは、支配層自らの欲望の抑制という形で継続してきた。その考えは、被支配層の欲望の存在を消去できないものとした上で、これを律するものとして、極めて適切なシステムを生み出したと言えよう。このシステムの下で形づくられた文化と戦争の回避の結果を、他のシステムと比較した結論を以て云うならばだ。これが、Advance to the pastだ。もちろん、Back to the future をもじったもので、私が提案する言葉だ。

ここで一気に話をすすめることとする。資源の枯渇した日本において、エネルギーの供給者と武力保持者は合体して支配層となるべきだろう。そして支配層自らを律するために、彼らは世襲制により固定化されたそして祖先を崇拝する階層である必要がある。残りは全て非支配層である。もちろん、支配層を権威づけるための天皇システムは論理と物理の範疇を超えた神秘的存在として欠くことはできない。

筆者注:おそらく、この時点で多くの読者の心にわだかまりと反発と嫌悪が生まれるであろうことは、私も予測できる。その気持ちは私もわかる。しかし、「ない袖は振れない」ことは物理的事実なのだ。民主主義の放棄と支配層の受け入れが許容できないと感じたとしても。

でも、このような社会は暗い抑圧された社会なのだろうか?もう一度、人間の欲望の中身を見てみる。

kairaku

確かに、現在我々が享受している多くの欲望、資源を浪費しながらの欲望、は抑制されるだろう。ただし一つだけ、人間の生物としての限界を超えたいとする願望としての、文化の形成が資源を浪費しないという条件の下に、残るだろうことは明らかだ。パンドラの開けた箱に残った希望のようにだ。江戸時代の記憶から、それを我々は確信することができる。

もちろんここに、議論されていない問題も残っている。支配層が子孫により崇拝されるために、その起点において何をなし得るかだ。家康は天下統一により神君とされたが、日本の新たな支配層は支配権を打ち立てるにあたって、何を歴史に刻むだろうか。(2008/3/21)

p.s. これまでに資源の枯渇した世界という文脈における日本の在り方について述べ、資源の枯渇ゆえに人間の欲望を満たすことを本旨とする民主主義がその時以降立ち行くことは困難ではなかろうかという疑問を提示し、それゆえ支配層が必要となり、それでは支配層は如何にあるべきかという話に続けてきたわけである。この時、江戸期を例にあげ次に来る支配層の拠り所は何処にあるべきかという話に至って、そのメンタリティの基盤は「義」であろうとの予測をたてた。ただし、「義」に依るにあたって新たな支配層は、被支配層を納得させるあるいは力づくで納得させるべき何らかの通過儀礼を経て成立するであろうことを考えていたわけである。ところが、2008年のこの記述を行った時点では、武力保持者については、彼ら自身の力の行使に係る日々の葛藤という点に支配者の可能性を強く認めたものの、エネルギー供給者の通過儀礼がどのようなものであるかは皆目見当が付かなかったのも事実である。

しかし3.11を経験し、その後の非論理的な我が国の人々が自らの首を絞めているという文脈の中で、その非論理的な人々が根拠もなしにエネルギー供給者を侮辱し、これに対しエネルギー供給者側が、韓信の股くぐりがごとき隠忍の様子を示しているのを眺めると、論理を貫くあるいは貫き、ついには被支配者層の非論理を赦すであろうというシナリオの中に、武力保持者と良く似た支配のメンタリティの確立の経緯を予測し得るという観点から、両者の支配者としての可能性は低くはないと思うに至った。(2012/9/11)

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新江戸期におけるキーワード「義」

江戸期において将軍家と旗本にとっては、「神君」家康の存在、(Advance to the pastという文脈においての存在)がそのメンタリティの基盤となっていたのだが、その他の支配層および披支配層のメンタリティの拠り所は何であったかと言えば、それは「義」あるいは「公義」であると言えよう(この話の出典はどこだったか忘れてしまった。そのうちに目にしたら補筆することとする)。

ここで、なぜ「義」を持ち出したかと言えば、前項において「日本の新たな支配層の拠り所」を何とすべきかについて、何も述べていなかったからだ。わずか数十年前までは残っていたように思われる「義」に連なる言葉、「義理」、「仁義」、「義侠」、その他なのだが、そう簡単に捨て去るべきではない。まず「義」について調べてみた。

古代中国の周において、羊は牛などとともに神に供える犠牲(いけにえ) として使われたり、羊神判(ようしんぱん) にも使用されていた。そこで義は、「羊と我とに従う。我は鋸の象形。羊に鋸を加えて犠牲とする意で、牲体に犠牲として欠陥がなく、神意にかなうものとして「義(ただ)しい」の意が生まれる」(白川静「字統」)のだという。

その後、「義」の意味も変化する。まず中国春秋時代末において、「義」は、人としてなすべきこと、の意味に用いられていた。孔子『論語』「為政」篇には、「義を見て為さざるは勇なきなり」と、利と鋭く対立する倫理的責務として捉えられている。そして、正道を守るための自己抑制の原理とされている。ただし、孔子は仁を最高の徳目とし、義は礼・智・信・勇・孝・悌などと並ぶ徳目の一つとした。ついで、戦国時代初期になると、諸子百家の一派である墨家は「義」を強調し、「義はその身より貴し」の言葉に見られるように「義」のために身命を賭することも辞さなかったといわれる。諸子百家の一派である儒家の孟子は墨家の影響をうけ、家族道徳における「孝悌」の道を基本とし、君臣の「義」もその延長と考えた。また孔子の「仁」に「義」を加えて「仁義」を強調して、「仁義」にもとづく王道政治こそが、「孝悌」を広く天下に推し及ぼすと説いたという。(宮崎公立大学 田宮昌子 http://semi.miyazaki-mu.ac.jp/stamiya/soturon/16tanaka/1.htmによる)

このあたりまで来ると、我々が江戸期の「義」についてぼんやりと想像する、その内容に近いことが分かる。かつ、自らの欲望を抑制しつつ、披支配者層を支配すべき、新支配者層のメンタリティの拠り所となり得ることが分かる。少なくとも将来の日本の支配者層が「神君」家康に匹敵する人物の輩出を経験せずとも、おそらくは経験しないであろうが、「義」あるいは「公義」のキーワード化を通じて、支配者としての存在理由を打立て得ると私は考える。(2007/8/31)

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石油の汲み上げモデル

石油枯渇によりクラッシュが起こるだろう、という前提でこれまで話を進めてきて、クラッシュが起きた後について主に述べていたのだが、人類が地球に甘えた子供から大人になるための通過儀礼とも言うべき石油枯渇とクラッシュの関係については、後回しにしてきた。しかし、肝心の部分が曖昧なままでは、全体のストーリーもぼんやりとしたものになるのは避けられない。何らかのモデルが必要であることは認識していたので、これまで考えていたのであるが、最近、簡単なモデルを得たので述べたい。

、という基本的なモデルだ。このモデルを敷衍すれば、汲み上げのエネルギーの源は石油そのものに他ならないことを出発点にして、石油の埋蔵量=ドル量(貨幣とは人間が利用し得る資源量を表現するものであるとする言説)と仮定することにより、ドルが目減りする現象をモデル的に記述することができる。

まず、ここでは、地球全体の油井から石油を汲み上げるという行為を、単一のリザーバーとそこからの汲み上げという、きわめて簡単な表現でモデル化する。すなわち、石油のx量をパワーpによりリザーバーVから汲み上げることを考える。
リザーバーの残量が減るとより汲み上げパワーが必要というのが全てのスタートだ。これを、微小な汲み上げ量は微少な汲み上げパワーに比例し、その比例係数はリザーバーに残っている量であると考えて、
Δx=(V-x)Δp
と表す。これを微分方程式にして解くと、V=100として
x=100 Exp(-p)(Exp(p)-1)
が得られる。汲み上げパワーとは、ポンプを動かす、その他の単位時間あたりの必要エネルギーである。

fig.1
fig.1

上は、採掘エネルギーに対する採掘総量のグラフであり、最初はコストがかからずに汲み上げられていた石油が、次第に高い採掘コストを必要とする、という定性的に納得できる両者の関係を表している。そこで今度は、汲み上げが進むとどれだけコストがかかるか、ということを見てみる。そのために、この関数の逆関数を求めると、
p= -Log((100-x)/100) が得られる。

fig.2
fig.2

上は、採掘石油総量に対する採掘エネルギーのグラフである。汲み上げが進んでリザーバーに残された石油が減ってくると、かかるコストが急激に上昇するという、これも定性的には納得できる結果が得られる。ここで採掘必要エネルギ-を積分すると、それまでに石油生産者が消費したエネルギーが得られる。石油生産者は最終的に、この積算消費エネルギーを使って、そのa倍の積算エネルギーを生産するものとする

fig.3
fig.3

上図がその結果得られた、採掘石油総量に対する、総コスト(人類の消費済みエネルギー量)である。最終的な採掘石油量のエネルギー換算と消費済みエネルギーが、一致するように、係数aを決めてある

ここで、人類消費済みエネルギ-を石油生産量で除して1から引いてみる。資本主義社会経済が熱機関のごとく運動しているならば、この比の値は、熱機関ならば、それが生み出す効率ともいうべきもので、地下にある石油自身が地上に生み出した富の価値とも言えよう。これを熱効率(Thermal efficiency η=1-TL/TH)に倣って.石油社会効率(Oil Society Efficiency)と呼ぶことにしよう。このOSEをパラメ-タとし、石油が現在からどの程度目減りした時に、経済的インパクトが起きるかを見積もることができれば、現在の石油埋蔵量から、そのインパクトに時期を推定できると考えられる。

fig4

fig.4

上図によれば、石油総量の75%を汲み上げたあたりで、OSEは0.5を下回るようになる。なお、石油鉱業連盟[世界の石油天然ガス等の資源に関する2000年末評価]によれば、現在の油田からの回収率は36.5%である。上の図にそのまま当てはめれば、OSE=0.8程度となる。現在、発表されている確認埋蔵量推定値における損益分岐点の設定すなわちEPR(Energy Profit Ratio)の値はどの程度に設定されているかは不明であるが、汲み上げ総量を楽観的に拡大したい石油関係者が、現在の回収技術をベースに、将来のよりエネルギーを必要としない効率的な回収技術の進展を夢見て、EPR=1になるまでの石油を確認埋蔵量と見積もっている可能性は高い。

水攻法を大きく上回る効率的な回収技術が開発されないままに、爆発的な消費が進めば(夢のような技術はいつも現れない、とする私の考え方からはこの可能性が高いと考える)、OSEが0.5程度になったところで(なぜ0.5程度としたかと言う根拠はないのだが、現在のOSEが0.8であれば0.5というのは誰もがちょっとおかしいと感じるのではないか、という漠然とした予想だ)つまり、現在の確認埋蔵量の7割程度を汲み上げた時点で、石油生産システムがクラッシュするのではないか、というのが、極めて悲観的な私の予想だ。ちなみにBP, Statistical Review of World Energy (2006) によれば、全世界の
確認可採埋蔵量:1200*10^9 バレル
生産量:29.6*10^9 バレル/年
可採年数:40.6 年
とある。上の私の悲観的予測を採用すれば、後、残されているのは、生産量が現在の水準にとどまるとしても、上記可採年数の半分、20年くらいではないか。生産要求量が倍になれば、10年程度しかもたないことになる。

問題は、石油生産システムのクラッシュだけではなくて、それが全世界の経済のクラッシュにつながる畏れのあることだ。確認埋蔵量=ドル量(貨幣とは人間が利用し得る資源量を表現するものであるとする)とする言説が正しいとすれば(もちろん、現代社会では、マーケットと呼ばれる恐るべきサイズのバッファがあるので、この言説がダイレクトに正しいと私が云っているのではない)、石油が枯渇していくと、石油資源に相当するドル総量(oil equivalent total dollar)とこれを基にしたレバレッジにより拡大されたドルが、目減りしていくのではないか、という問題だ。この問題については、OSEをパラメータとし、石油=ドル(oil equivalent total dollar)が現在からどの程度目減りした時に、経済的インパクトが起きるかを見積もることができれば、現在の石油消費量から、そのインパクトに時期を推定できると考えられる。石油生産システムのクラッシュと経済システムのクラッシュが別々に起こるとは考えられないので、その日は近いのではないだろうか?というのが私の提言だ。

ところで、2007年10月5日(金)の朝日新聞朝刊(東京版)の15ページ「テクノ最前線」に『「プラグイン車」始動』の記事があってプリウスの新タイプのハイブリッド車の紹介が掲載されていた。目を惹いたのは、HUV先行開発部主査の石川哲浩さんの言葉として「原油が枯渇するといわれる2020年代より前に実用化しなければ意味がない」とあったことで、この社員の個人的思いならよいのだが、もしこれがトヨタの考えであれば、実に重大なことを言っていることになる。今や世界第一位の自動車会社であれば、石油需給動向については日本の政府を問題としないような情報収集能力があるとみてよいだろうからだ。(2007/11/3)

p.s. 私も欠かさず読んでいる、日経新聞の「私の履歴書」、2007年11月は野村証券会長の田淵節也氏の語る自分史なのだが、その最終回(11月30日)に「・・・(バブル直前を感じた時と同じように)胸騒ぎを感ずる。米国は金や原油、穀物などの実物資産を裏付けとする新しい通貨制度を考え出すのではないか・・・」なんて、恐ろしいことが書いてあった。(2007/12/4)

p.s. トヨタの石油に係る話であるが、2008年6月11日にトヨタがお台場で開いた環境フォーラムの席上で今度は副社長が石油枯渇に言及した。トヨタのホームページにこのニュースが上げられていて、重要と思われるので全文を記しておく。
--トヨタ自動車の瀧本正民副社長は11日に東京で開いた同社の環境フォーラムの席上、自動車用燃料としての石油は、生産量や価格面から「2030年ごろには危なくなると考えている」と述べた。 瀧本副社長は、エネルギー密度が高く取り扱いも容易なガソリンと軽油が「自動車のエネルギー源の当面の主流」と語った。だが、30年ごろには制約要因が大きくなるとの見通しを示し、高性能2次電池を活用した電気エネルギーのウェートを高める必要性を指摘した。トヨタは今月末に「電池研究部」を新設、リチウムイオン電池をしのぐ性能をもつ次世代型の電池開発に本格的に取り組む。瀧本副社長は、石油燃料の使用が相当困難になる30年ごろまでに、こうした次世代型高性能電池の実用化を目指す方針も表明した。--
瀧本副社長は、技術開発担当であるが、前項の新聞記事の話も含め、トヨタ社内では、石油枯渇について真剣な議論と情報収集活動が行われていることが伺える。ジッサイの話、かなりヤバイ。 (2008/6/19)

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リスクを受け入れることのできない我ら〜その1〜ゲーム理論

2011年の出来事に対する我々日本人の対応を観察していると、我々はリスクを受け入れるというメンタリティが欠落しているのではないかと断ぜざるを得ない、というのがその観察の結論だ。リスクをどのように捉えるかというのは、ゲーム理論を通じて考えるのが解りやすい。ゲーム理論そのものはそれ程、難しい話ではないので、まずゲーム理論について述べる必要がある。 以下は以前、中央大学でMathematicaに係る講義を行ったときの講義ノートの一部である。

ゲームの理論の目的は、理論の現実への応用ではなく、この理論を通してものごとをよりはっきりと見ることができるようにすることである。ゲームの理論のみならず、こうした形式的なモデルがあった方がモデルなしでものごとを見るよりも、ものごとを動かす本質をはっきり捉えることができる。−Robert Axelrod


二者ゼロ和(zero sum)ゲーム

二人もしくは二つの組織が競争している時、一方の利益が他方の不利益となる場合がある。このような競合問題に関する理論がゲームの理論である。ゲームの理論では、このような競合状態をゲームと呼ぶ。ゲームの終了時に一方の得る価値が他方の失った価値と等しい場合、これを二者ゼロ和(zero sum)ゲームと呼び、それ以外を非ゼロ和ゲームと呼ぶ。二者ゼロ和ゲームについては、ゲーム理論を開発したVon.Neumann により理論的に解明されている。


純粋ゲーム

今、青軍(Brue)と赤軍(Red)が戦っているとする。青軍は前線の味方に物資を補給しようとしている。これに対し、赤軍は途中でこれに待ち伏せ攻撃を加え、青軍の物資補給を妨害しようとしている。この時、青軍が選ぶ可能性のある補給路は r1、r2、3の三つがあり、赤軍が始めに攻撃することにした補給路 r1、r2、3のそれぞれの場合について実際に攻撃できる日数が、以下の表のようになっているとする。例えば、赤軍は、青軍が補給路r1をとると仮定して、これを最初から攻撃できれば、攻撃日数として9日が得られるので最大の成果をあげられるはずである。しかし、青軍が裏をかいてr2を補給路として選ぶと、赤軍は攻撃方面を変更しなけれならず、たった1日の攻撃日数しか与えられないことを示している。

青軍の物資補給路
r1 r2 r3
赤軍の攻撃路 r1 8 1 2
r2 3 7 4
r3 7 6 5

この例では、赤軍は攻撃できる日数を最大にしたいと考えるし、青軍は攻撃される日数を最小にしたいと考える。問題は互いに相手がどの補給路を目指すかが不明な点にある。

この問題を赤軍は次のように解決する。まず青軍は赤軍の動きを何らかの方法で予知することが可能で、また、その予知に対して合理的な対応を行うものと考える。すると、赤軍がr1を攻撃するとすれば青軍は攻撃日数を最小の1日にするr2を選ぶであろう。赤軍がr2を攻撃するとすれば、青軍はr1を選んで攻撃される日数を3日とするであろう。また、赤軍がr3を攻撃するとすれば、青軍はr3を選んで攻撃される日数を最小の5日とするであろう。とすれば、赤軍は青軍が選んだ最小の日数である、1日、3日、5日のうち、攻撃日数が最大となるr3を選ぶべきである。

一方、青軍は次のように考える。やはり赤軍は青軍の動きをなんらかの方法で予知が可能で、予知結果に対して合理的な対応を行うものと考える。青軍がr1を補給路に選べば、赤軍は攻撃日数を最大の8日にするr1を選ぶであろう。青軍がr2を補給路に選べば、赤軍は最大7日の攻撃日数をとれるr2を選ぶであろう。また、青軍がr3を選べば赤軍は最大5日の攻撃日数をとれるr3を選ぶであろう。とすれば、青軍としては、赤軍の選ぶであろう最大の攻撃日数である、8日、7日、5日のうち、攻撃される日数の最小となるr3を選ぶべきである。

上記の結果から、赤軍はr3を攻撃するのが最も有利である。この結論に至る手法をミニマックス戦略(minimax strategy)という。これは青軍からみるとマキシミン(maxmin strategy)戦略と言う。

赤軍の利益は攻撃日数で表わされるが、逆に青軍の不利益は攻撃される日数で、両者の利益と不利益を加えると0となるので、上の例は二者ゼロ和ゲームである。この例ではそれぞれの利益を日数で表わしたが、一般的にはこの利益を、支払われる利益という観点から見ることにして、このゲームの参加者の戦略の組み合わせによる支払いの表をペイオフ・マトリックス(Pay-off (完済)matrix )と言う。またペイオフ・マトリックスは、支払いを最大化する方を基準として作る。また、一方のミニマックス戦略により得られた値と、他方のマキシミン戦略によって得られた値はそれぞれにとってのゲームの値である。ゲームの値が一致するとき、このようなペイオフ・マトリックスは鞍点(saddle point)を持つという。鞍点を持つゲームのことを純粋ゲーム、その戦略を純粋戦略と呼ぶ。また、上記の例では、赤軍と青軍の選び得る戦術は3種類であるとした。このように選び得る戦術(手)が有限であるとき、このゲームを有限ゲームと呼ぶ。

Plot3D[x^2-y^2 , {x,-1,1},{y,-1,1},Axes -> None];

鞍点の例


混合戦略ゲーム

次のようなペイオフ・マトリックスを持つ二者ゼロ和ゲームを考える。ここでは、ペイオフ・マトリックスが赤の利益を最大にする立場で作られているとする(青のペイオフ・マトリックスは、この表の値に負号をつけたものに等しいとする)。

青の攻撃方法
G C P
赤の攻撃方法 G 1 2 0
C 0 1 2
P 2 0 1

赤のミニマックス戦略を考えると、赤のゲームの値は0となる。一方、青のマキシミン戦略から青のゲームの値は2である。両者のゲームの値は一致しない、つまりこのゲームは鞍点を持たない。このような場合、赤の攻撃と青の要撃が繰り返し行われるとして両者の手段がある割合で選ばれ、その組み合わせの結果によりゲームの様子を調べる、という方法をとる。このようなゲームを混合戦略ゲームと呼ぶ。


有限ゼロ和ゲームの線形計画法による解法

有限ゼロ和ゲームは線形計画法により解くことができる。上記の例で赤がG、C、Pの攻撃方法をそれぞれx1、x2、x3の確率で選択するものとする。このとき、期待できる利益がvであるとすれば、青がGの要撃方法をとる場合、C、Pの場合のそれぞれを考えて、

x1+ 2 x3 >=v
  2 x1+ x2 >=v
2 x2+ x3>=v
x1、x2、x3の戦術の確率を合わせると1だから、

x1+ x2+x3=1
ここで、x1、x2、x3をそれぞれ x1=x1/v、 x2=x2/v、 x3=x3/v と置き換えると、上の問題は、
x1+ 2 x3 >=1
  2 x1+ x2 >=1
2 x2+ x3>=1
の条件の時、x1+ x2+x3=1/v を最小にするx1、x2、x3を求める問題になる。

ConstrainedMin[ x1+x2+x3,
{x1+2 x3>=1,
2 x1+ x2>=1,
2 x2+ x3>=1}, {x1,x2,x3}]

{1, {x1 -> 1/3, x2 -> 1/3, x3 -> 1/3}}

この問題の結果は、G、C、Pの手をそれぞれ1/3の確率で用いれば、期待される利益が最大化され、その値は1であることを示している。


二者非ゼロ和ゲーム

既に理論的にも解明されている二者ゼロ和ゲームに対して、二者非ゼロ和およびゲームの参加者が3人以上の数の非ゼロ和ゲームは研究の途上にある。


代表的二者非ゼロ和ゲーム〜囚人のジレンマ

囚人のジレンマとは以下の様なゲームである。ある事件で共謀した犯人が二人つかまっている。二人は別々の独房に入れられており、取り調べに対して黙秘か自白かの二つの方法がある。二人が共に黙秘すればこの事件の証拠は不十分となり刑は余罪の分だけで2年ですむ。二人とも自白すれば事件が立証されるが、自白したことを考慮して二人とも4年の刑になる。しかし一方が自白し、一方が黙秘した場合、黙秘した方は5年の刑で自白した方は無罪放免となるとする。一般にゲームから得られる利得や満足を表にしたものを利得マトリックスと呼ぶ。この時の二人の利得マトリックスは次のようになる。

B
自白 黙秘
A 自白 -4,-4 0,-5
黙秘 -5,0 -2,-2

例えばAが自白し、Bが黙秘したとする。この時のAとBの利得は表の右上に表わされており、それぞれ0と−5である。二人の囚人の利得は加え合わせても0にならない。それぞれの囚人はどのような方法を選ぶであろうか。Aについての利得マトリックスを作ってみると、以下のようになる。

B
自白 黙秘
A 自白 -4 0
黙秘 -5 -2

既に述べたようにこれは線形計画法により解くことができる。線形計画法で計算するために、便宜上、表の値に5を加えることにする。

B
自白 黙秘
A 自白 1 5
黙秘 0 3

Aが自白する割合をx1、黙秘する割合をx2とすると、  

ConstrainedMin[ x1+x2,
{x1 >=1,
5 x1 +3 x2>=1}, {x1,x2}]

{1, {x1 -> 1, x2 -> 0}}

結果としてAは自白する。BについてもAと同じ条件であるので自白することになる。両者が黙秘すれば、お互いに最も高い利得が得られるのに、互いが合理的判断をするという仮定に立つと低い利得しか得られない。これが囚人のジレンマである。


囚人のジレンマからの脱出

囚人のジレンマは社会のいろいろな局面で出現していると考えられる。囚人のジレンマの利得マトリックスに5を加えて次のような新たな利得マトリックスを作って見る。この例は例えば、学生サークルの部屋の掃除をAとBがすることになっている状況と考えることができる。

B
裏切り 協力
A 裏切り 1, 1 5, 0
協力 0, 5 3, 3

囚人のジレンマは1回しか出現しないであろうが、この場合、ジレンマに何度も遭遇することになる。そこで三つの戦略を考えてみる。
(a)でたらめ戦略:  等しい確率で裏切りか協力かを選ぶ。
(b)裏切り戦略:   常に裏切る。
(c)しっぺ返し戦略: 協力を基本とするが、相手が裏切ったら次回にこちらも裏切る。

最初に Mathematicaで各戦略を定義する。

strategyA[]:=If[Random[Integer,{0,1}]==0,betrayal,cooperation];
strategyB[]:=betrayal;
strategyC[]:=lastMatch;

次にaとbに各々、戦略を与えてこれを100回、対戦させるシミュレーションを行う。

markA=markB=0;
lastMatch=cooperation;
Table[{a=strategyA[];
b=strategyC[];
If[a==betrayal && b==betrayal, {markA+=1,markB+=1}];
If[a==betrayal && b==cooperation, {markA+=5,markB+=0}];
If[a==cooperation && b==betrayal,{markA+=0,markB+=5}];
If[a==cooperation && b==cooperation,{markA+=3,markB+=3}];
lastMatch=a;},{i,100}];

シミュレーションした結果の得点を調べる。

{markA,markB}

{236, 231}


課題

以下の表の空欄を埋めること。
でたらめ戦略 裏切り戦略 しっぺ返し戦略 総得点
でたらめ戦略
裏切り戦略
しっぺ返し戦略

戦略を変えてシミュレーションを行う場合は、
a=strategyA[];
b=strategyC[];
の部分を変えるとよい。
b=strategyC[];の時は、lastMatch=a;(bから見た場合、aの直前の手)、
a=strategyC[];の時は、lastMatch=b;(aから見た場合、bの直前の手)とすることに注意。


参考文献

勝つためのゲームの理論、西山賢一、講談社ブルーバックス
ゲームの理論入門、モートン・D・デービス、講談社ブルーバックス
OR入門、日経文庫、宮川公男
オペレーションズ・リサーチ/理論と実際、培風館、佐治信男 他
パソコンによるOR、朝倉書店、牧野都治・牧野京子
MathematicaによるOR (Higher Education Computer Series) 、中村 健蔵
囚人のジレンマ、青土社、ウィリアム・パウンドストーン・松浦俊輔 訳
失敗の本質、中公文庫、戸部良一 他
アメリカ海兵隊、中公新書、野中郁次郎
大本営参謀の情報戦記、文春文庫、堀栄三
PERTの知識、日経文庫、加藤昭吉
組織科学の話、日経文庫、山田雄一

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リスクを受け入れることのできない我ら〜その2〜茹で蛙たる日本の人々

2011/3/11以後の日本人の右往左往については、他のカテゴリで書き綴っているので、ここでは、それを横目に見ながら今後の政策を勝手に示しておかねばならない。ならない、なんて偉そうに書いておきたい。

前項までに、石油枯渇による文明社会のクラッシュに備えて我が国の準備が必要であることを縷々記してきたが、3/11以後の状況を眺めていると我が国のクラッシュそのものの可能性はその時期が早まりこそすれ、地球全体としては依然としてクラッシュへの道を人間は進んでいるように思える。すなわち話を我が国に限定すると、クラッシュの開始から社会再生までの期間は筆者が以前考えていたより長引くのではないか、という懸念が生まれた。それは、あまり考えてこなかった点、すなわち我が国の民衆の大多数に論理的な判断を期待できないことが、3/11を契機に明らかになってきた点にある。これがどういう懸念かと言えば、もちろんクラッシュから社会の再編にあたっては、集団としての意思の統一が必要であるにも係らず、論理的思考能力に欠如した集団の意思を取りまとめるのは極めて困難が予想されるという懸念である。論理の通じる集団であれば論理的手続きで意思統一が可能であるが、集団ですらない論理に欠如した民衆には、論理的方法論が適用困難あるいは不可能であるといわざるを得ないのだ。

論理的方法以外の方法で意思統一が可能かと問えば、強圧、煽動、などが挙げられるが、あまり好ましい手段とは言えないであろう。煽動する一部に強圧をかけてベクトルを修正するくらいが妥協案であろうか。ただし、3/11以降に災害からの回復ではなく、原子力エネルギーに対する怒りのはけ口の追求に我が国が向かっている状況と、この状況から導かれるエネルギー不足、ここから出現する社会の劣化を予測すると、劣化した社会においては、煽動と強圧の利用の閾値がかなり低下すると思われる。従って、論理の欠如した集団に対する意思統一方法の試行錯誤が、従来に比較してかなり広い範囲で許されるのかも知れない。

具体的方法としては、例えば、エネルギー供給の制限対象に特例を認めず、ランダムに割り振ることである。行政機関、報道機関、交通機関に対するエネルギー供給制限の実行は、論理欠如集団メンバーの実質的損害の発生により、現実をより間近に見ることになるだろうからである。論理の欠如とは逆に言えば肉体的な感覚に重きが置かれているということであるので、肉体的な感覚への刺激には、現実に対するより緊張した認識が起こるという結果が期待できる。ただし、現実に対する認識の方法に緊張を与えてもそれが論理の発生へと連続するかは不明である。肉体的な感覚と感覚を超越した論理との間には広く深い間隙があるからだ。しかし、緊張した認識が論理へと転換できないときに起こると考えられるのは、何ものかへの盲従であるので、十分に準備された煽動であれば、少なくとも見せかけの集団の意思統一は可能である。論理の欠如の状態であれば、感覚の刺激に対する慣れの観点からみて、盲従そのものの習慣化が起きるであろうから、非論理的に集団の意思は統一されるであろう。残された問題は、十分に準備された煽動にはどのようなものがあり得るかという試みと結果であり、実施される試行錯誤にはどれだけの回数と範囲が許容されるかという点にある。 (2011/5/15)

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