ずばり言って環境とは何でしょうか?と聞かれても到底直ぐに答えられる筈もない。私の勝手な言説を述べるのみだ。

2010年以前の記事はこちら




業界紙寄稿文

他に2010年からとある業界紙に定期的に寄稿している文章があるので、これも枝番をつけて残しておくこととした。


空間の言説

チャレンジ25キャンペーン(内省という環境を持たない人間)

チーム・マイナス6%という環境省肝いりの国民運動があって、もちろん炭酸ガスを1990年比で6%減らしましょうという京都議定書を馬鹿正直に守ろうという運動だった。減らすどころか1990年比で増えたのだが、その事実に頬被りしたまま、このチーム・マイナス6%はチャレンジ25キャンペーンに衣替えした。もちろん、口先だけの鳩山が2009年9月にニューヨークの国連気候変動サミットにおいて、2020年までに1990年比で25%削減することを表明したものだから、環境省がこれに対応した結果だ。

鳩山の25%削減というのにどんな根拠があったのかというと、これが判然としない。というより、思いつきの25%削減の命を受けて前東大総長で三菱総合研究所理事長の小宮山宏がペーパー一枚に25%削減分を各セクターに、えいやっと割り振ったという話があちこちから聞こえてくる。えいやっと割り振った話が本当らしく聞こえるのは、小宮山宏本人の25%削減達成は可能だという記事があって、「東京に限れば90%が『日々のくらし』で排出されている。しかも、この分野では乾いた雑巾どころかまだまだぬれた雑巾であり、いくらでも削減可能だ」なんて、なんの根拠もなしに言い張っているのを目にするからだ。

環境大臣の小沢鋭仁のメッセージが、このチャレンジ25キャンペーンホームページに平成21年12月3日付けで掲載されている。大臣はきれいごとを並べた上、「国民運動を展開したいと考えております」なんて、押し付ける気まんまんで、民主党とその取り巻きというのは誰も彼もが、中身のない口先だけの人間ばかりだという確信が深まるばかりだ。(2011.3.1)

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低放射線量被曝(苦をまとう人間)

友人の科学者から今回の原子力発電所事故についてどう思うかというメールが来たので、返事のメールを出した。

「原子炉の安全性とはつまるところ、その便に浴する公衆の、死亡人数をスケールとした総被曝線量の評価であり、今回の事故では今までのところ、急性被曝が原因で死んだ人がゼロ、おおよそ予測されるガン化の上昇率が1%を下回ると思われます。従って廃炉を代償としてですが、現在の時点において、公衆の安全は確保されたと言えると思います」。

「問題は、日本人の多くが公衆及び自身の死という文脈において、その知識の不十分と論理の欠如故に、この事故を理解する事が出来ない点にあります。例を挙げると、私は自分の子供を守ることについて後悔したくないんです、という発話があります。これは自分と自分の分身である子供の生存に関する根源的欲望とそれに起因する無限の不安の発露です」。

「このような人々、おそらく大部分の日本人は、論理の欠如と自己の欲望に対する無関心故に、原子力発電に関わる科学技術的説明を根本的には決して受け入れていないのだと思われます」。

「端的に言えば、今後も、軽水炉及びこれに代わる如何なる原子力発電についても、科学技術の側の説明が、このような人々を納得させるのは不可能と思われ、一部の人々、絶対安全っていうから信じてたのに裏切られた、と発言するような人々についてのみ、短期間の経済的利益の供与によってこれを表面的に受け入れさせることができることでしょう」。

さて、この返事に友人が満足したかどうかは知らない。上の話を何度も繰り返したい。

福島第一原子力発電所からの放射性物質(これ以後放射能と書くこともあり)漏洩は,人間の在り方をより鋭くえぐりだした事件のように思う。最も目についたのが放射能に対する畏れだ。福島から飛来した放射能により東京が汚染され私の健康が損なわれるという畏れ、私の子供が放射能により汚染されその健康がいつか損なわれてしまうという畏れ、そして私の孫が放射能により汚染されてその健康がいつか損なわれてしまうという畏れだ。母親の場合はこれに加えて子供に何か起きたら私の責任だという畏れが加わる。

このような畏れに反論するのはたやすい。放射能の量は基本的に発生源からの距離の二乗に反比例するから東京で健康に影響を及ぼすだけの量が飛散してくる可能性は極めて低い、あるいは主要な放射能である放射性ヨウ素は短い半減期なので間もなく減少する、あるいは予測される被曝量は日常医療行為より低いレベルにある、あるいは人体にはそもそも放射性カリウムが含まれている、あるいはプルトニウムはその重量によって遠距離飛散しない、あるいは桁違いの放射能が飛散したチェルノブイリであっても顕在化したのは小児性甲状腺ガンのみである、あるいは放射線により傷つけられた遺伝子を回復する機能を人体は持っている、あるいは今回の公衆が被曝した量より大きい被曝量をうける地域が世界にはある、あるいは旅客機で海外旅行すると今回程度の被曝がある、あるいは宇宙ステーションに滞在すると無視できない量の被曝を受ける、等等。

しかしながら、学術的な反論や証左は、私や私の子孫が被曝して健康被害が出たらどうしようという畏れ、を払拭することができないようだ。一つには長期間に渡る低放射線被曝についても短期的な被曝量と健康被害の関係を念のため適用するという公式的考え方があるので、今回の事故の影響について保健物理側は、健康に影響があるかも知れないがその確率は極めて低いと考えられる、という発言をせざるを得ないという事情がある。二つ目には長期間に渡る低放射線被曝の影響は、大きな数の母数に対して無視できる程の発症率であるという言明は、私の子供はどうなの?という問いに対する答えにはなっていないためである。

この問題はよくよく考えると奥が深い。私の子孫を守りたいという意識は人間の根源的欲望であるので、それを他者が否定することはできないのだ。だから私の子孫を守りたいという意識に対して、低放射線被曝の影響は無視できるがゼロではないという言明はそれぞれの個人に告げられているのではない故に、しばしば無力なのである。誰が計算したのか分らない放射能拡散の図がネットに現れて拡散域は鹿児島に及んでいるとその図が示したとき、「私の子供は東京に住んでいるので水道の水を飲ませません」、「私の子供は名古屋に住んでいるので水道の水を飲ませません」、「私の子供は鹿児島に住んでいるので水道の水は飲ませません」という態度に大きな違いはない。放射能の影響はバックグラウンドレベルにありタバコの害より低いと思われますという説明も、でもゼロじゃないんでしょ、私は子供について後悔したくないんです、という母親の反論に答えるすべはない。

もう少しまとめる必要があろう。まず、原子力発電所に対して、というより原子力に対して向き合う態度についてまず整理する必要がある。もともと原子炉というのは米国のN reactorがそうであったように、兵器用プルトニウムの生産用原子炉で付加的に発電用としても供されてきたという事実がある。つまり、原子炉というのは本来、兵器体系の一部なのだ。それを我が国では、原子力の平和利用という曖昧な定義で原子力発電を導入したものだから、本来コインの裏と表の関係である兵器としての原子力についての認識が抜け落ちてしまっているのだ。多くの日本人にとって、兵器なるものはおぞましいものにしか過ぎないという教育しか受けていないから、原子力発電というものは、何か恐ろしい気がするが、取りあえずよいか、程度の認識を持っているに過ぎないのだ。

当然ながら兵器体系という意識のない人々にとって、放射能とその流出は平和な生活を乱す悪そのものであって、全く受け入れることができないのはある意味当然だろう。原子力が兵器体系の一部として厳然と存在し、いわゆる核のかさによって庇護されていた生活を送ってきたとしてもだ。無知であることは罪であるが、だからといって母親を責めることはできないであろうし、彼女らに原子力兵器の存在はあまりに受け容れ難いと思われる。

どう足掻こうが、現実を受け入れるしかないのが事実だ。我々が米国の核の支配下で半世紀以上も過ごしてきたという歴史における事件の一つであるからだ。しかし、現実を受け入れることのできない母親達の懸命な故の哀れさは私とて胸が痛む。なぜ子供を持った母親は苦しむのだろうか。われわれ日本人の感性がどういう道筋を辿った所為か、人生を楽しむことは後ろめたいことである、という考えを持っているからだ、というのが私の推論の結果だ。今回の災害にあっても被災者がいるのに個人的に楽しんでいる人間がいるのは許せない、私だけでも我慢しよう、私が我慢しているんだからあなたも我慢すべきだ、という考えが現在のわれわれの間に蔓延していると言わざるを得ない。私が赤ちゃんのためにペットボトル入りの水を入手するために駆けずり回るのは、私は最大限の努力をしているのだという自分自身に対する表明である。子供に外出しちゃいけない、外に行く時はマスクをしなさい、というのも私は自分の楽しみを犠牲にして子供につくしているのだという表明でもある。

自らの死生観を持たない人々、すなわち確率的死は自らの死でもあると認めることができない人々、自己の欲望を認めることができない人々は哀れである。彼らは自ら苦を纏っているのだ。風薫るこの季節にそよふく風が頬にあたるのを楽しむことなしに、問題ないレベルであると言明されている放射能を畏れ、暖かな日差しを避けて鼠のように物陰を伝い歩くというのは、人生は苦であるという仏教の教えを守る態度ではあるまい。仏教では人生は苦であることを認識してそれから知の力を借りて脱却せよと教えている筈だ。(2011.4.9、2011.6.18)

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炭酸ガス濃度の大台突破(独り善がりの地球温暖化対策)

気象庁の温室効果ガス監視情報というページがあって、2011年06月01日に綾里、南鳥島、与那国島の月平均二酸化炭素濃度値が掲載された。軽いショックを受けたのは、綾里の今年3月の濃度が速報値で399.4ppmあったことだ。400ppmまであと少しだ。自分の中のイメージでは北半球中緯度帯では360ppmくらいで近年380ppmになった、位の意識であったので、毎年着実に増加する二酸化炭素濃度は、いつの間にか自分の認識の範囲を超えていたのだった。それがショックだった。

ショックのついでに1987年1月~2011年3月の綾里の23年分の月データをダウンロードして、解析してみた。何をしたかと言えば、まず増加する大気中炭酸ガス濃度を一次式で近似し、これを元のデータから差し引いて季節変動データを取り出す。季節変動は12ヶ月周期を持っているから、この周期を持つ基本のSin波、倍調波、三倍調波で季節変動パターンのフィッティングを行い、これを季節変動データから差し引いて、長期変動を取り出す。この長期変動を三次関数でフィッティングを行う。

求められた直線的増加傾向、季節変動、長期変動のパラメータにより綾里のデータを再現し、これを将来に外挿する、というのが解析の流れだ。
綾里のCO2濃度と予測
図のなかの黒線が元データ、赤線がこれをフィッティングした結果だ。再現したデータと元データとの差のRMSは1.2ppmであった。これを見ると2012年の春に綾里の二酸化炭素濃度は400ppmを突破するだろう。つまり北半球の中緯度全域で大台を超えるということだ。付け加えるならば長期変動分は近年増加の一途である。つまり濃度の増大は加速していることが分る。さらに付け加えるならば、フィッティングの残差は北半球の気温の平均値からの偏差と高い相関があることも分った。つまり地球大気の炭酸ガス濃度は増大する一方で減少する兆しすらないということだ。

さて、別に400ppmできりの良い数字だから意味があるわけではないのは勿論だが、3.11の原子力発電所事故を契機に日本人には、いよいよ自らを考え直すときがやって来たように思われる。最初に日本人が認めるべき文脈は、日本人がどれだけ炭酸ガス排出量を削減しようと、世界全体の炭酸ガス濃度の増加の傾向には何らの影響を与えないこと、また原子力発電所の停止後、核動力を補うべく化石燃料発電が再開された時、これに伴う炭酸ガス放出量の増加に何らの異議が提出されなかったことである。すなわち、これら文脈における言説から分ることは、日本人にとって炭酸ガス放出量の削減という題目は、自己の利便性に優先するものではなく、かつ削減という言説は原子力発電という背景なしには、存在できなかったという事実である。

これら全ての文脈における原発事故以前と以後の態度の観察から理解できることは、日本人の地球温暖化に対する善かれと思う情緒は世界の中では独り善がりに過ぎず、単にこれまでの潤沢なエネルギー供給下においてのみ培われ、生き延びてきたものであることであって、足元の崩れが始まった今、もはやその態度が持続可能なものではなくなってしまったことを再確認すべきなのだ。潤沢なエネルギーによるバリアで保護されてきた日本人は、今や否応なく世界に対峙せざるを得ないのであり、世界=地球というクローズされ、かつ他国の人々との間の相対的な環境のなかで、独り善がりの態度を改め、他と争い、かつ結び合うという現実に向き合い進むしか道は残されていないのだ。(2011.6.11)

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マターナリズムと戦後民主主義のグロテスクな結合

現在の日本の政治システムが壊滅的な状態にあることの原因については、改めて書いて置かないと、自分の精神状態を保てない気がする。勿論、自分が正しく日本の状況が誤っているとする、極めて独善的判断がその基礎であるのは否定しない。

さて、マターナリズムとは、私の造語であり、「日本のグランドデザインー前提としての半分の人口」で最初に言及した。これは、現在日本の父親不在の原因である母親システムに対して、医学界において、医師と患者の関係というコンテキストにおけるpaternalism (パターナリズム)に対比する概念について、これをもっと意味的に拡大して、現代の日本の状況を示す言葉として作ったものである。戦後の日本社会の特徴は、このパターナリズムに対する、反発や忌避の現れとしてみると、明確に特徴づけられる。再掲すれば、

「例えば、我が子大事が第一という思いは小学校というシステムに強烈に働きかけられて、完全平等、および完全な危険回避を学校に要求する結果に結実して、これ以上どうするのか、という程に完成している。当然のことながらこういう教育を受けて育った日本人は、危険やリスクに対して平静な態度をとることができず、危険とリスクを悪と看做すようになった。
例えば、母親と娘は、旧来の男社会とは一線を画したピュアな関係であるべき、という想いは、子供のペット化と成人した女の母親への従属として表れ、かつ、この関係が再生産されて、母親ー娘ー母となった娘ー娘、という関係のみが社会を形成するようになった。
例えば、家族が第一という思いは、社会的な義務と責任との関与からはますます離れるようになって、人間のグループ、リーダー、メンバー、責任、というようなメンタリティがなくなり、なくなったどころか、このようなメンタリティを形成する土壌、例えば子供同士のグループ遊び、を破壊する結果となった。」

で、このようなメンタリティを体現した政党が民主党であり、国民はこれを指名したのであった。この二年間の政治は我が国にかなりのダメージを与えたのであるが、残念ながら、なぜ民主党はこのようなメンタリティを持っているのか、についてはさっぱり議論も反省も聞こえることはなく、マターナリズムと戦後民主主義は、なんら傷つくことなく温存されており、そのグロテスクなマリアージュに解消の気配はないようだ。(2011.9.26)

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マターナリズムにおける個の公に対する優先

その後、このマターナリズムという態度から現れるものは何か、という点に気付きがあった。それは個の公に対する優先である。この優先があるのでマターナリズムが社会に拡大したのか、マターナリズムの拡大によって個の公に対する優先が拡大したのか、今のところ判断できないのであるが、おそらく互いにプラスのフィードバックがかかって、互いにその位置を社会に拡大してきたのではないかと考えられる。この現れである個の公に対する優先は、例えばワクチン接種を受けない選択をとる個人がかなりの量として存在するという社会現象にみることができる。これは、個として非常に低いリスクであっても、個の総合リスクを増加させる(と思う)から受け入れることはできない、という態度であって、その結果として当然のように、防ぐことの出来た疾病が拡大するという、公としてのリスクが許容できない程に増加するのである。つまり、公に対して、個が優先しているのである。

他にも例えば、原子力発電所事故による放射性物質の除染をあらゆる場所で行うべきである、このためには金とエネルギーがどれだけ掛かっても構わない、という公より個が優先するべきとする考え方の表明である。当然のように、ここにはALARA(As low as reasonably achievable)というような冷静かつ科学的考え方が受け入れられる様子はない。

公に対する個の優先の主張は、この他にも我国の多くの社会現象に見られるのであるが、ポピュリズムの蔓延もこの文脈により理解することができる。個に公に対する理解、すなわち共同という意思を確認した上で協力してよりよき社会の形成を目指すという、根幹が失われてしまっているので、民主主義とは個々の要求をできるだけ聞いた上でその調整を行うことだ、という為政者と選挙民の共通誤解に至っているのだ。

淘汰圧のかかった状態では、家族や血族、氏族、近代国家のような集団システムなしに、個が存在するのは困難であるので、この集団システムが存在意義を持つのである、逆に言えば、個の公に対する優先が許容されているのは、家族、血族、日本国家に淘汰圧がかかっていない、あるいは個がそれを感じない状態にあるからだと言える。なぜ淘汰圧がかかっていないと感じられるのかと言えば、当然に潤沢なエネルギーが供給されているに他ならず、これを基盤とした食料や物資が豊富にある(ように見える)からである。同時に、そういうように見えるように教育されているという視点もあり得る。

問題は、外部環境に変化が起きたとき、マターナリズムを信じ個の優先を確信する人間の集団に、対応能力が残されているかどうかという点にある。原子力発電所の事故に対する社会の対応を観察していると、日本人の集団にその能力が残されているとは言い難いのではないか。ところで、キリスト教史においてローマ帝国の存在は決定的影響を与えているのであるが、キリスト教とローマ帝国の関係を眺めると、このローマ帝国がなぜ滅びたかと考えざるをえない。ローマ衰亡の原因が問われることは歴史的に繰り返されているのであるが、その原因の一つに、この個の公に対する優先があったと考えてもおかしくない。実際に傭兵の伸張はその原因の一つであり、キリスト教の国教化によってローマの固有の信仰が否定されると同時に、ローマの公への忠誠が神への信仰に置き換わって、この動きを確固としたものにしたのではないか。わが国はローマ帝国程の栄光は持たなかったのであるが、衰亡の傾向はよく似ているように思われる。(2011.11.27)

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部族主義以降にして民主主義以前

2012年1月22日のNHKテレビニュースは、政府の原子力災害対策本部において開かれた計21回の会議の議事録が全く作成されていなかったことを報じた。あまりのことに筆者には言うべき言葉がすぐには浮かばなかったのだが、調べてみると、民主党が様々な会議で議事録を残していないことが、既に報道されていた。ただし、どれも報道の片隅においてだ。(いつリンクが切れるか分らないので本文を引用している)

時事通信の2009/12/01[11:31:34]の記事は「平野博文官房長官は1日午前の記者会見で、閣議や閣僚懇談会、各閣僚委員会に関して『閣僚間の忌憚(きたん)ない意見交換ができる場だから、議事録を作成していない』と述べ、出席者による議論は今後も記録に残さない方針を明らかにした。平野長官は『いろんな意見が出るので、取り方によっては『各大臣の言っていることが 違うじゃないか』ということが後で出てくる可能性もある』と、議事録を作成すれば弊害が生じかねないと指摘。「必ず記者会見なりを行うことで透明性は確保される」と強調した。」(この記事は既に時事通信のサーバーからは削除されている)

共同通信の2010/01/03[16:16]の記事は、「鳩山内閣、議事録残さず 政治主導の検証困難」というタイトルで「鳩山内閣が政治主導の舞台としている閣議や閣僚懇談会、閣僚委員会、政務三役会議の議事録を基本的に残さない方針を続けている。『議事録作成が前提となれば政治家同士の自由な意見交換が妨げられる』との理由だが、関係者からは「政策決定のプロセスを歴史的に検証できない」と懸念する声も出ている。
鳩山内閣では各府省ごとに閣僚、副大臣、政務官の『政務三役』が政策を立案し決定。複数の府省にまたがる重要課題は担当閣僚で『閣僚委員会』をつくり調整するなど、官僚に関与させない仕組みだ。閣議や閣僚懇談会については旧政権下でも議事録を残していなかったが、これには事務次官会議で事前に発言内容を調整していたという背景もある。鳩山内閣では事務次官会議を廃止したため、閣議での発言はこれまで以上に政策決定の上で重要な意味を持つのは間違いない。平野博文官房長官は議事録作成に否定的な意向を示し 『自由闊達な意見を述べてもらい方向性を出していく場だ』と強調。『記者会見や背景説明により、透明性を確保できる』との立場を崩していない。」との報道がなされている。
鳩山内閣が政治主導の舞台としている閣議や閣僚懇談会、閣僚委員会、政務三役会議の議事録を基本的に残さない方針を続けている。『議事録作成が前提となれば政治家同士の自由な意見交換が妨げられる』との理由だが、関係者からは『政策決定のプロセスを歴史的に検証できない』と懸念する声も出ている。
 鳩山内閣では各府省ごとに閣僚、副大臣、政務官の『政務三役』が政策を立案し決定。複数の府省にまたがる重要課題は担当閣僚で『閣僚委員会』をつくり調整するなど、官僚に関与させない仕組みだ。
 閣議や閣僚懇談会については旧政権下でも議事録を残していなかったが、これには事務次官会議で事前に発言内容を調整していたという背景もある。鳩山内閣では事務次官会議を廃止したため、閣議での発言はこれまで以上に政策決定の上で重要な意味を持つのは間違いない。
 平野博文官房長官は議事録作成に否定的な意向を示し『自由闊達な意見を述べてもらい方向性を出していく場だ』と強調。『記者会見や背景説明により、透明性を確保できる』との立場を崩していない。」

産経ニュースの2011.5.11[20:44]の記事では、「原発事故の議事録ほとんどなし 枝野長官『多分、記憶に基づく証言求められる』」というタイトルで
「枝野幸男官房長官は11日午後の記者会見で、東日本大震災発生直後、原子力災害対策本部(本部長・菅直人首相)の会合など、東京電力福島第1原発事故の対応をめぐり開催された会議の議事録がほとんど作成されていないことを明らかにした。
 政府は今月中旬にも原発事故調査委員会を発足させるが、枝野氏は議事録がない部分については『多分、記憶に基づく証言などを求められることになる』と述べた。政府内の議論の模様を示す資料がないことで、検証作業に支障を来すのは避けられない。
 枝野氏は、事故調査委の発足にあたり『首相だけでなく私も含めた政府関係者や東京電力の事故以前と以後のプロセスを、すべて検証しなければならない』と強調した。
 ところが、『原子力災害対策本部などについては一定の議事メモは残っているが、危機管理対応で議事録を取る場がほとんどなかったのが実態だ』と述べた。
 また、枝野氏は『制度的な問題を含め、事故を事前に抑止できなかったのかということが一つの大きなポイントだ』と、自民党政権時代の対応も検証の対象になるとの考えを示した。」

驚くべきことだ。どうこれを説明したらよいのだろうか。国の政治というのは国家としての意思を決定する権利を、神からであれ、人民からであれ、国民からであれ、付託されているのであって、意思決定の結果を付託者に説明する義務を負っている。その報告の元となるのが記録だ。かつて国家方針を決定するプロセスを記録していなかった、という国がそもそもあったのだろうか。ナチスであれソビエトであれ、国家が崩壊するぎりぎりまで意思決定プロセスは記録されてきたし、社会のあらゆる権利と義務が付随する集団において、意思決定プロセスを記録しない、などというオプションがあるとは、筆者は思いつかなかった。彼らは口ではああ言っているが、公表しないことを了解した上の秘密の議事録があるに違いないと、たかをくくっていたのだ。不明を恥じたい。

自由な意見交換が妨げられるから議事録をとらない、という言辞は国家の意思決定とは何であるかを理解していないし、議事録というのはまるで録音のようなものであるという理解しかないことの証明でもある。技術的・歴史的・政治的・社会的・哲学的・科学的なあらゆる見方から、彼らの言動はかけ離れており、その結果、検証のしようもない意思決定プロセスによって、福島第一原発の事故対応と、我が国の将来のエネルギー政策が決定されてしまったのだ。こういう選良により我が国は運営されており、こういう選良を我が国の人々が選んだのだということについて、深く落胆した。そして、我が国の意思決定プロセスが溶解し、闇に流れ込み始めているということについて、深く失望した。

今迄、民主党やその党首の行動について、筆者は嘲りの態度を取ってきた。我が国の歴史的展開におけるブラックなエポックとして眺めていたからである。通過するべきエポックであるからこういう事が起きるのもあり得るだろうと考えたし、毛沢東の言うように振り子は一時は反対側に振れなければ元に戻らない、と考えたからだ。しかし、国家の意思決定プロセスが崩壊しつつある現実をみると、これはもう、後戻りできないのではないかという危惧を持つようになった。エネルギー枯渇により近代社会が崩壊することは自ら予測したとしても、目前に、一見別の原因による国家の崩壊が始まっていることを認識せざるを得ないということは、筆者にとって大きな衝撃であることを認める。

もう、我が国を政治的な視点から見る事は止めようと思う。(2012.1.23)

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低線量長期被曝に閾値があるというMITレポート

2012年5月15日付けのMITnewsにおいて"A new look at prolonged radiation exposure - MIT study suggests that at low dose-rate, radiation poses little risk to DNA"(筆者訳:長期放射線被曝の新知見 ー MITの研究結果は低線量被曝のDNAに対する影響は小さいことを示す)、という情報が与えられた。元の論文は"Integrated Molecular Analysis Indicates Undetectable DNA Damage in Mice after Continuous Irradiation at ~400-fold Natural Background Radiation, Werner Olipitz et.al"と題するもので、"Environmental Health Perspectives"誌に2011年8月3日に投稿され、2012年4月26日に受理されて、同日にオンラインで公表されたものだ。

MITnewsの編集者はこの論文を「米国政府の原子力事故時の住民避難を決定するためのガイドラインはあまりに安全側により過ぎている」と紹介しているが、当然、福島の事故について、我が国の政府の態度を暗に懐疑的な態度で見ていることを表明しているのだと考えられる。しかし、この論文はそれ以上の大きなインパクトを持っているように思われる。ひとつには急性被曝では影響の出る被曝線量と同じ線量を低線量の長期被曝に置き換えるとDNAに影響が見られない、すなわち被曝線量には閾値があるということ、次いで、マウスと人間に共通するDNAとその修復機構を対象とした研究の結果であり、マウスと人間の種の違いという観点からは研究結果に疑問を差し挟む余地がないこと、さらには、被曝線量とDNAの損傷と修復の関係を議論することで機械的と言ってよいほど曖昧さの少ない研究であることだ。従って、バックグラウンドの400倍の線量でもマウスのDNAに影響はない、という従来の考えから見れば大胆とも言える結論が、極めて合理的に導かれていると言わざるを得ないのだ。

上記の論文のアブストラクトをマップにしたものが下図である。
MIT report map
すなわち、バックグラウンドの400倍の線量をマウスに5ヶ月間照射した結果、DNAの構成単位であるヌクレオチドに影響が見られず、小核の原因となる染色体異常が見られず、二本鎖の切断から生じると考えられる相同組換え修復があったとは認められない、ということから急性被曝では影響の出る被曝量でもこれを低線量長期被曝に置き換えると生体のDNAに影響は表れないという結果、および発ガンに関係する因子の生成が認められなかったという結果、両者から低線量被曝についてはより深い生物学的理解が必要であるとする結論である。

バックグラウンド下ではヒトの細胞には毎日およそ10,000のDNA損傷が、放射線だけではなく様々な原因により発生し、この殆ど全てがDNAの修復機構により修復されることが知られている。しかし、DNAの片方の損傷であれば残った片方により容易に修復が行われるのに対し、二本鎖が同時に損傷を受けた場合には相同の遺伝子が使われて相同組換え修復が行われるのであるが、この時ガン化の原因ともなる修復エラーが起き得ることも知られている。MITの研究グループはこの二本鎖の相同組換え修復を検出するFDYRマウスを2003年には開発済で、今回の研究にもこのマウスが使われて、低線量被曝による二本鎖の遺伝子損傷の影響が回避されていることを明らかにした。

彼らの論文では「低線量被曝についてはより深い生物学的理解が必要である」という結論が控えめに述べられているのであるが、従来は放射線影響を個体のガン発生や死亡など、いわばマクロに把握するしかなかったのに対し、DNAレベルでこれを考えることで、従来研究が常に安全側に立つしかないために過大に見積もられた結果を示唆するしかなかったのに対し、いわば工学的に評価できるようになったことが、革新的であると考えられる。

そうして、残念ながら、本日現在であらゆるマスコミおよび政府筋がこの結果をスルーしている。この研究はいわば工学的研究であるので、同じ手法と材料を使えば同じ結果が出る可能性が高いのであるが、その動きは我が国には見られないようだ。我が国で今後最もあり得るのは、この結果を我が国のリーダー層が無視し続けることであろう。そして合理的判断に遠く、それ故に科学と論理のリテラシーを持つ事の知らない我が国の「市民」は、原発を感情的に停止し続けて経済を衰退させ、化石燃料を無駄に消費して炭酸ガスをより多く排出し、何ら影響のない放射能に怯えて避難民を固定化し、汚染されたと看做すことで依然として豊かである筈の地域農水産業を衰退させ、放射能忌避カルトを拡大させるのである。

論理から遠い人々はこうして衰亡に抗う力を、さらに失なっていくのだ。(2011/5/30)

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個の公に対する優先その卑近な例について

公に対する個の優先の例は周りを見渡すと次々と見つかる。個々の例があまりに卑近であるために、今までは「バカバカしい」の一言で片付けていたのだが、積もり積もれば無視できないのは当たり前で、自分としては社会を考える上であまりに軽視していたのかも知れないと思う。

つまり上から目線で見ていたので、細かいこと(筆者の上から目線によればであるが)に心煩わされるのみならず、業務処理にガントチャートやマッピングやファイリングやデータベースやスプレッドシートやプレゼンソフトやSaaSやシェルスクリプトやToDoリストやメーリングリストやファイルサーバーや携帯端末やイラレやフォトショやホームページやブログやTwitterやクラウドなどを知らずに、生産性を上げられない人々が多いということは考えて来なかったのだ。かつそれが個を公より優先するというメンタリティと結びついている人々をあまりに軽視してきたのだ。反省している。

そのことを改めて知らされたのは、大学の講義における出欠確認に関わる教師間の連絡を見たことにある。曰く、学生Aは遅延証明を簡単に発給する電鉄の証明書を束で持っている、本当の遅延でない限り認めるべきでない、三十分以上の遅延くらいから認めるべきではないか、病気の学生はどうするのか、医師の証明が必要なのか、いやきちんと本人に問いただすべきだ、親族に不幸があったらどうするか、云々。

個々の学生の事情を斟酌するのは人間的な態度なのかも知れない、この場合人間的態度とは何かは未だ解明していない、のだが、個々の事例に対応するマニュアルあるいは共通理解を得るための作業とそれを個々の事例にあてはめる作業は、コスト零では達成できないことは明らかである。作業コストは遅刻した学生を一律に扱うことで最小化されるのも明らかである。また一律に扱うことによる不具合が大学運営に支障をきたすレベルでないことも明らかである。

このような事例はおそらく教育の場において極めて広い範囲において存在するのだと思われる。曰く先生は雑務に追われている、だから学生への教育に手が回らない、云々、はよく聞く。当然ながら上の事例の如く、個を公に優先させれば雑務は増大する一方であろう。つまりいきあたりばったりの対応しか教育界にはできないのでは、すなわち公の話以前に一般的原理が教育界には存在しないのではないかと疑われるのだ。

それではと教育基本法を眺めると、前文に「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する」とある。

この文章からは、「築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させる」とあるように、何かしらの原因で成立した「民主的で文化的な国家」が「たゆまぬ努力によって」回転していて、その更なる発展を目的としていると読める。つまり現状が原則であるという同義反復を述べているのだ。確かに原理・原則は存在しない。

同時に、「個人の尊厳を重んじ」次に「公共の精神を尊び」とあって、ここでも確かに個を公に優先させていることが明らかだ。原理原則が存在しないので個の優先には歯止めがなく、ここにも十分なリソース、つまり人・もの・金が無限に投入できるという誤謬に綻びの目に見えない間にのみ存在できたシステムのあったことが分かる。この日本システム、システムによって教育された人々がこのシステムに則って教育を行うという再生産システムが完成しているので、もうどうにもならないと思われる。つまり破綻するまで続くのであろう。 (2012.6.15)

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