とある業界紙、とは言っても読んでみればすぐ分るのだが、これにたまに投稿することになった。その記事をコピペしておくことにした。
スマートフォンというのは大分に人口に膾炙(かいしゃ)するようになった。しかし携帯電話との違いは何かと聞かれて即答できる人は少ないのではないか。定義があるのかと調べてみると、携帯電話に色々な機能が付くようになって、しかも次々に追加される機能が盛り沢山過ぎて、使えない、という声が出るようになったので、一旦、沢山の機能を見直して、ある方針の許に整理統合した機能を持つ携帯電話のことなのだという。一定の方針の下にあるから、使い辛さがなくなってスマートに使える、それでスマートフォンと言うのだと。またある人はインターネット上の様々コンテンツを制限なしに見ることができるのが、スマートフォンであるとしているようだ。つまりこれがスマートフォンだというきまりはないようだ。
さてスマートと言えば、スマートグリッドもその定義があまりはっきりしないうちに、米国の動きに乗り遅れまいとして、少なくともそのキーワードは、関係者の間では広く話題にのるようになった。需要者側にコンピュータを置いて、このコンピュータが電力消費を適切にコントロールすることによって、電力需給を最適化しよう、そのうちに各家庭に太陽電池や電気自動車がおかれるようになったらこれも取り込んでしまおう、ということのようだ。
スマートがらみでは、スマートシティが、今、注目されている。都市を丸ごとスマート化してしまおうという動きである。このスマートシティが注目されているのは、中国が世界の先頭を切ってスマートシティの建設を開始したことで、その規模、数、その社会の特性からくる行政の行動の迅速さから、極めて実現性が高いという点に投資意欲がかきたてられているからのようだ。外国企業の参入を期待するという中国側の説明もあって、このところ、一気にヒートアップしているらしい。その狙いは、中国の都市が、急激な人口流入によるその巨大化に伴う環境条件の悪化や、インフラ整備の遅延、その他容易に想像の付くようなもろもろの都市問題の解決にあるようだ。スマートシティが、ただちに中国各地の巨大都市の問題を解決することにはならないと思われるが、その解決のためのモデル事業と考えれば、十分に納得できる。
近頃は、物事の進み方がますます加速して、合意が形成される前に作業を進めてしまおう、一番進んだ者が話を定義してしまおうということがスマートなことらしい。昔風に考えると、自分が何をしているのか定義もできない内に自分の身を投じることになることには気持ちが落ち着かない。しかし、気持ちが悪いから避ける、あるいはリスクが存分に下がるのを待とうと云うようでは、世界の動きに乗り遅れることにもなろう。 (2010/10/19)
携帯電話のトレンドはいまやスマートフォンで、なかでもAndroidに注目が集まっているようだ。このAndoroidの中核ソフトを提供しているのがグーグルだ。ググルと言う言葉がグーグルで検索をするという意味として一般的に通用し始めているように、グーグルは我々の生活に、既に深く浸透してきている。筆者もそうであるように、もはやグーグル検索やグーグルマップなしには、日常が送れないなどと言う人も多いことであろう。
さて、そのグーグルは日本語入力ソフトウェアも提供していて、昨年の暮れに、無料の正式版が発表された。かくいう筆者も早速使い始めた。なかなか使い勝手がよかったので、その中身に興味を持った。こういう人のために、グーグルは手回しよく、漫画の開発物語を用意してある。この開発物語を見て、改めてグーグルの持つ技術力とそのビジネス展開への手法に衝撃を受けた。このソフトの開発過程には、三つの注目すべきポイントがあるように思われる。 まず、グーグル日本支社には、おそらく日本語の用法に係る国内最大のデータベースが構築されていて、かつこれを応用する周辺技術が既に存在している点。次にグーグルが社内に社員の能力を十分に発揮させる仕組みが整っている点。グーグル社内には個人のエネルギーの20%以内であれば、自分の現在の仕事と無関係なプロジェクトにそれを振り分けてよい、というルールがあって、このソフト開発もこのルールを使って始まったという。さらにもう一点は推測ではあるが、既存技術と個人の発想を上手に結合させて、ビジネスに展開するシステムが存在していることである。個人的に始まったプロジェクトが他の開発者を巻き込みつつ、大きくなるある時点で、当然のように会社としての経営判断が行われた筈だからだ。
ところで、例のスマートメーターになぜグーグルが関心を持っているのかは、この文脈から推測するのが理解しやすいように思われる。つまりグーグルは全世界の文書と画像について、データベース化に目処をつけたので、今度は人間そのものの行動に興味を持ち、そのデータベース化を目指しているのではないか。一方、国のスマートメーター制度検討会の議事録を読む限り、グーグルの視点とはかなり違う方向の議論が行われているようだ。ある業界にこれまでと全く異なったプレーヤーが入り込んでくるというのを、新たなチャンスと看做すことは不可能なことだろうか。
(2011/1/18)
米国最大の新聞社であるニューズ社が、電子新聞、The Dailyの提供を始めたという。読者がiPadを持っていることが前提条件だが、一週間99セントで、100ページを超えるコンテンツに毎日触れることができる。ニューズ社はこのために100人のスタッフを揃えたというから、新聞社の片手間仕事ではない本気の事業だということが判る。というよりも、オーナーであるルパート・マードック氏が本気であるから、この事業は無視できないと言い直すべきなのかも知れない。マードック氏と言えばダウ・ジョーンズ、FOX、ニューヨーク・ポスト、イギリスのタイムズなど、有数の米英メディアを支配している。
ある人は彼を世界征服を企む悪のメディア王と呼ぶのだそうで、悪か善かは知らぬが、氏が常人ならざる存在であることは確かなようだ。70歳にして3回目の結婚をしてさらに二人の子供をもうけたことにもあるが、高級紙と呼ばれるタイムズと日本でいえばスポーツ新聞に相当するザ・サンの両方を経営することにいささかの躊躇もないことや、1980年代にイギリスの印刷労働組合と衝突して、これを屈服させたことなどもその理由として挙げられるべきだろう。
だが筆者には、マードック氏は王ではなく改革者と映る。つまり電子新聞の発刊というのは、電子ガジェットのための新奇なアプリケーションの提供ではなくて、新聞システムから輪転機と配送トラックと販売店をなくしてしまおうという試みなのだ。さらにはThe DailyがApple社の定期購読サービスの最初の例となったように、販売代価の自動回収システムまでも構築してしまったから、従来の新聞システムの内に職を得ている多くの人々にとっては身の毛もよだつような話といえる。
しかし新聞とは一体誰に何をサービスするものであるかを考えたなら、旧来の新聞と比較した場合のコンテンツ、価格、迅速性、編集者の裁量の大きさ、いまやそのいずれをとっても電子新聞に利があると言わざるを得ない。この事業は、マードック氏のカリスマ性や資本力があったから始まったとも言える。 しかし技術的のみならず社会的にも困難と思われてきたことが、一旦誰かがそれを実現してみせることで一気に広がるという事例は数多くある。今回のThe Dailyの発刊の影響は新聞のみならず書籍にもあっと言う間に広がって、世界の印刷物に電子化の波が押し寄せるのではないか。この領域において本当のイノベーションが起きているのが、イノベーションが叫ばれて久しい我が国でないのは、残念なことだ。
(2011/2/22)
最初に、この度の大災害に遭われ亡くなられた方々に心より哀悼の意を表します。また福島第一発電所において国民の被曝を防ぐために、今も献身的な活動をされている方々に深い感謝の念を表します。
さて、この大災害を経て我が国の原子力発電事業が、今後強い批判を浴びることは間違いがなかろう。全ての原子力発電を一切止めるべきという極端な意見も飛び出すであろう。この大災害と大事故はその被害と影響の大きさに故に、われわれ日本人を意気消沈させた。だが、それだからと言ってわれわれの将来が閉ざされた訳ではない。むしろこの出来事を将来に対する奇貨とするべきではないかと考える。
振り返ってみると、特に先の大戦以来、我々の文化の中で多くの人々は、一切の過失と事故と災害は、善良な国民にとって悪であり、決してあってはならないもの、と捉えてきたように思われる。すなわち、絶対安全な国土、絶対安心な生活というスローガン、そしてそれらが必ず達成されるべきであるという想いである。このような文脈の中で原子力は絶対安全であるという言説が、これまでに繰り返し表明されてきた。原子力に関わる科学・技術者達が、科学技術に絶対はないと知っているに関わらずである。当然両者の間には矛盾が存在する。この矛盾に対して膨大な費用と技術を注ぎ込んで、両者の溝を少しでも埋めようとしてきたのが、我々のこれまでの方針ではなかったか。しかし、原子力のみならず環境・防災問題においても、この矛盾を埋める活動が意味を保っていたのは、我々の前に出現する自然現象がこの矛盾をあらわにしない程度の小さいスケールであったからにすぎない。
矛盾は解消されたわけではないので、スケールが大きくなった時、そのいくつかが表面化してきた。その一つが地球温暖化を引き起こす炭酸ガスの増加と快適な生活の間の矛盾であり、今回鋭く現れたのが、これまでの想定をあざ笑うかのような巨大な津波と、これに引き続く福島第一のシビアアクシデントであると捉えることができる。
この矛盾の解消の方法は、世界に絶対はないということを我々全てが認識することに尽きる。つまり、絶対の安全は存在しないから、全てにリスクは付随していることを認識しつつ、人間の生活を生きて行くという、いわゆるオトナの考えが必要な時期となったのだと考える。奇貨と呼んだ所以である。我々の、欲しいものは何時でも手に入る、手に入らない場合には喚けばよいという幸せなコドモ時代は終わりである。我々はオトナになる、という覚悟が必要なのではないだろうか。
(2011/4/12)
3.11の後、この大災害による変化を受け入れざるを得なくなった日本にとって、最も必要と考えられるものの一つに、エネルギー・ポリシーの書き換え作業があるのではないか。官邸主導とは言っても、準備作業は省庁で行われているであろうと、経済産業省のホームページにある、審議会・研究会のページの資源エネルギー庁分を開いてみた。ところが驚いたことに、今の所、作業は何も行われていないようなのだ。例えば、「次世代エネルギー・社会システム協議会」は、平成22年8月11日が最終の会議でその後開催されている様子はない。「スマートメーター制度検討会」は平成23年2月28日に報告書を出して終了。「再生可能エネルギーの全量買取りに関するプロジェクトチーム」も基本的考え方を取りまとめて終了。次世代送配電システム制度検討会も、次世代送配電ネットワーク研究会も、低炭素電力供給システムに関する研究会も、報告書を出して既に終了。エネルギー安全保障研究会と資源戦略研究会は長い間開催されていない。その他の委員会も同様であることがわかった。
これは一体どういうことなのだろうか。平成22年6月18日に閣議決定された、エネルギー基本計画に大きな変更はないから、当面、省庁側の作業は必要ないのだ、というのが推定される帰結だが、内閣メンバーの発言を聞いていると、基本計画の見直しというのではなく、官邸主導で全てを変更するつもりらしい。だが、次世代エネルギーも再生可能エネルギーも低炭素電力も、その議論の大前提として、原子力による電力が安定的に供給されていて、そのコストにも将来的に大きな変動はないという、暗黙の了解があったことを忘れてはならないだろう。停止された原発、定期検査中、あるいは定検に入った原発がいつまでも復帰できない場合、これらの計画・提案は全て画餅に帰してしまう。エネルギーの需給は基本的には工学的原理の上にたつものであり、思いつきだけではこれを適切に変更することはできない。ポリシーの再検討は実務者レベルから実施するべきだ。
ところで筆者が不思議に思うのは、このようなシステムの検討会に、その議論のベースとなる計算機上のモデルが存在しないことだ。委員会とは有識者が省庁のたたき台をベースに議論を行って報告書を取りまとめる、というのが通例なのだが、それでは今回のように前提が変化した場合、全てがやり直しになってしまう。計算機上にモデルを構築して、それを維持・運用し、世界の情勢変化に合わせて入力データとモデル変数を調整することで、モデルの結果を参照しつつポリシーを再検討し変更するという方法をとれば、素早くかつ一定の質を保った意思決定ができるのではないだろうか。
(2011/5/24)
この6月1日に気象庁から、岩手県の綾里など国内三地点の、二酸化炭素濃度の最新月平均データが発表された。その中で綾里の今年3月の濃度が、速報値で399.4ppmあったことに筆者は軽いショックを受けた。これまで筆者の意識の中で、北半球中緯度帯の濃度は360ppm程度で、近年380ppmになったという、一体何時の数字か分らない位の曖昧なものであったので、毎年着実に増加する二酸化炭素濃度が、いつの間にか古いままの自分の認識の範囲を超えていたのだった。それがショックだった。
ショックのついでに、1987年1月から2011年3月の間の綾里の月平均データに、簡単な解析を施してみた。その結果、綾里の二酸化炭素濃度が、来年の春には400ppmを突破するであろうことが分った。二酸化炭素濃度は同じ緯度帯では平均的にはほぼ同じレベルの数値を示すから、つまりは、北半球の中緯度全域でも来年には400ppmの大台を超えるということである。さらに付け加えるならば、長期的な濃度の変動傾向から、濃度の増加率が加速していることが分っている。地球大気の炭酸ガス濃度は増大する一方で、減少する兆しが見られないということだ。
400ppmがきりの良い数字だからと云ってこれに意味があるわけではないのは勿論だが、3月11日の福島の事故を契機に我々は、いよいよ自らを見直す時がやって来たように思われる。まず我々が認めるべき文脈は、これまでの日本人の炭酸ガス排出量の削減目標の設定やこれを基にした活動は、他から賞賛されこれを誇りに思ったことはあっても、地球全体の炭酸ガス濃度の増加傾向に、実際には何らの影響も与えて来なかったと云うことであり、これに関連する言説として確認できるのは、原子力発電所の停止後、これを補うべく化石燃料を消費する発電が上積みされて、炭酸ガス放出量は増加するという見通しに、見るべき異議は提出されていないということである。これらから分ることは、日本人にとって炭酸ガス排出量の削減という題目は、自己の利便性に優先するものではなく、かつ削減という言説は原子力発電という背景なしには、存在できなかったという事実である。
この観察から推定するに、地球温暖化に対する、日本人の善かれと思う情緒は、単にこれまでの日本の潤沢なエネルギー供給下においてのみ培われてきたものであって、社会の基盤であるエネルギー供給体制が足元からぐらついている今、もはやその態度は持続不可能となってしまったのではないだろうか。 言うまでもなく地球温暖化は世界の問題であるから、他との交渉を進める時、独り善がりであることは、そもそもテーブルのメンバーにもなり得ないことを意味するのだ。
(2011/6/21)
七月とは、少し肌寒い時もあった梅雨がすっかり明け、各地で海開きが行われて暑さも本番をむかえて、というように書かれるべき季節である。しかし、今年は六月が記録的な高温で始まり、それ以来各地で猛暑が続いているので、少し書き方を変えねばならないだろう。近頃では、最高気温が四十度に近づいたというような、ニュースを聞いても誰も驚かなくなった。つまり猛暑が毎年頻繁に出現するようになって、最高気温が、毎年のように平年値から外れるようになったというのが、近年の暑さなのである。ところで、国際気象機関では、猛暑の定義を、一日の最高気温の平年値を、連続5日間以上、5℃以上上回ること、としている。この気温の平年値にも、きちんとした定義があって、十年毎に見直す、過去三十年間の気温の平均値をいう。
ああそうですか、と思うのであるが、よく考えると平年値から外れるようになった、ということの意味するところは、なかなか深いものがある。というのは、我が身を振り返ってみても、自然について何かを考える時、我々はある平均値を設定し、そこから、どれだけの偏差があるのか、という思考の形式を取ることが多いということに気付いたのである。お天気の場合、過去三十年間の平均をとって考えることになっているが、三十年といえば十代から四十代の期間にも相当するように、人が明確に時間を認識出来る期間にこの定義も合わせているようにも見える。つまり、「年年歳歳花相似たり、歳歳年年人同じからず」という詩の一片に見られるように、我々の基本的考え方というのは、世界や自然は基本的には変わらずに、その時その時の偏りが変化として我々の目に映る、というものらしい。自然は変わらないのに人生だけが移り行くという詩は、自然と人生を愛する我々には、実に心地よく響くのである。
元に戻って、近年の猛暑の頻発というのは、この平年値という考え方が、成り立たなくなっていることを示している。すなわち、気候モデルもそれを支持しているように、地球の気候には根本的な変化が始まっているという可能性は、近年ますます強まっている。しかし、気温の平年値というものに意味がなくなりつつあるとき、問題は猛暑の話だけには止まらない。気候は例えば穀物生産に表れるように、世界を根底で規定するものであるから、気候の変化に引き続いて世界に起こる、平均という物差が、役立たなくなってしまうような変化に対して、我々がどのような思考方法を編み出せるのか、あるいはそもそも編み出し得るのだろうか。甚だ疑わしい。
この文脈から言えば、例えば、原発を脱して再生エネルギーへと入れば良いのだという、情緒的な動きは、世界は平らかであるべきだという、心地よいが、もはや通用しようもない考え方に、囚われ過ぎているように思う。
(2011/7/26)
なでしこジャパンにアウディから貸与という形式で22台のA1がプレゼントされたという。なでしこジャパンの世界的位置づけが、口先だけのものでないことが証明された所が素晴らしい。ところで世界という話になると出て来る「国際化」や「グローバリゼーション」については、もう耳にたこができたという声も多いことであろう。例えば、世界では日本的な阿吽の呼吸が通じないから、国際的な考え方をしなければならないとか、その以前に言葉と習慣の国際化が必要であるとか、あるいは欧米のどこどこの国は優れていて日本は遅れているというような言説である。脱線するのであるが、欧米のX国に比べ我が国は、という主張をする先達が未だにおられるが、多くの場合そのX国に特定の状況を取り上げて、総体的な判断なしに我が国と比較している場合が実に多い。 その主張が欧米であるから正しいとする、何の裏付けもない考えがセットになっているのが、あまりに古典的である。
閑話休題、世界における日本を考える時、国際化とグローバリゼーションという言葉が、叫ばれている割にはさっぱり効果が現れていない現状には、その考え方に何らかの欠落があるのではないだろうか。物理的な観点から考えてみて分るのは、世界の問題と日本の問題との間の、決定的違いとは、世界の問題はクローズしているのに対して、日本の問題はオープン・エンドである、ということだ。つまり、日本の様々の問題は、その前提条件である日本の経済状態、エネルギー需給、為替、等々はその時点の世界の状況によって大きく変化する故に、日本の問題の解決方針がなかなか決められない。一方、世界の問題は多数の国家と様々な自然条件の違いがあって、極めて複雑ではあるものの、地球という物理的枠組みの中からは決して外れることがない。つまりクローズしているのである。問題が如何に複雑であれ、遠い将来の時間的発展による不確定さを除けば、何らかの答えは得られるのである。答えがある筈だというのと、前提条件が変化するから答えは分らない、という態度の間には実に大きな違いが生まれるであろう。
こうした観点から日本の現状とその態度をみると、いかにも心細い。何十年たっても地球を救えない某テレビ局のキャンペーンであるとか、ものづくり日本であるとか、どこそこの国がやっているからという理由で始める自然エネルギーであるとか、何れも、世界はクローズしているから総体的にはこうなる筈だ、その枠組みの中で日本がどうすべきであるか、という考えから導き出された行動とはあまり思えない。なでしこジャパンの成功は、世界の状況を把握した後、チームとしてどうあるべきかを追求し得られた結果である。日本から見た場合と世界から見た場合の違いを、改めてよく考えてみてはどうか、というのが筆者の提言だ。
(2011/8/30)
アップル社のCEOであるスティーブ・ジョブス氏が先日、亡くなってしまった。著者も、彼が生み出した最も初期のパーソナル・コンピュータである、Apple IIのユーザーとなって以来の、ある意味、彼の忠実な信奉者であり続けたから、彼の死が一つの時代の区切りである事を改めて強く思う。
ところで、いつまでも続く円高とエネルギー供給不安により、日本の企業の海外展開が加速しているという。この数年、日本にとって、経済発展はもはや無用のものだと考えるような人々が、声高にその主張を叫ぶようになったが、彼らが、有効な経済モデルを持っているとは、聞いたこともないので、さらに厳しい現実が、この先に日本を待っていることであろう。とは言っても、拱手していても展望は見えないので、日本の企業にとっての新しい道を提案したい。 それはサービス指向である。ここで云うサービスとは、もうけを考えずに安くする、あるいは、奉仕、という意味ではない。サービス指向とは何かは、生産指向、市場指向との対比によって明らかになるであろう。生産指向とは、作れば売れる時代の考え方である。嘗てモノが不足していた時、日本はひたすら大量・迅速・安価に製品を生み出すことを至上の命題としていた。その後、商品が溢れて、市場の競争が厳しくなってきた時には、市場において有利と考えられる属性、すなわち、より安価・より高機能・より高い信頼性が、日本企業の製品の目的となった。しかしながら、デジタル化された技術が、容易にかつ瞬間的に世界に流布するようになって、わが国の企業が、市場で苦戦するようになったのは、周知の事実である。コストの問題さえクリアすれば、市場で対等の競争を続けることは、依然として可能である。その結果として、市場指向の日本企業は、海外に生産拠点を移すようになったのだと言える。
しかし、一旦海外に出れば日本に回帰することはないであろうし、結局それは国内の雇用や技術が失われることとなるであろう、との予測がある。つまり生産指向はその役割を終えて久しく,日本の経済活性化にとって、市場指向も既にその力を失っているのである。新たな道はサービス指向、すなわち、企業は如何なるサービスを消費者に提供できるか、ということを追求することであるように思える。原点に立ち返れば、製品も商品もモノであり、そのモノは消費者にどのような利便、すなわちサービスを与える存在であるか、というように捉え直すことができる。
これがサービス指向である。アップル社の製品広告が、消費者に新しい機能の存在を伝えるものではないこと、IBM社の最大の利益を生む部門がコンピュータ製造部門ではないこと、等に日本の企業はもっと着目すべきではないだろうか。
(2011/10/18)
先日、世界の人口が70億人を超えたという。筆者が生まれた頃の二倍の人口だから爆発的増大と言える。この発表を、日本や世界のマスコミは、あらゆる資源の逼迫が起こることを危惧した論調を加えて報道したが、例の通り、それ以上でも以下でもなく、その後も世界の人口は順調に増加しているようだ。国連人口基金の推計によれば、2050年には93億人になるという。
さて、地球の資源は有限であるので、消費すると必ず枯渇するのは明らかであり、中でも重要なエネルギー資源である石油の枯渇は近い。そこで、エネルギーの逼迫が来て、現代のエネルギー多消費型文明が維持できなくなる前に、社会を自然エネルギーにより維持できるように作り替えよう、と考える人々が多いようだ。いわゆる循環型社会である。ところで、現在の世界が循環型社会に移行するとしたら、その社会は世界の莫大な数の人口を養えるだろうか。 農業への投入も含め、膨大な量のエネルギー消費が、現代人類を維持しているのは明らかなので、来たるべき循環型社会においては、支え得る人口はかなり限定されたものとなろう。このあたりまでは、誰もが納得する事実と考えられる。
では、循環型社会にマッチするために、世界人口はどのように推移するだろうか。最も望ましいのは、A:世界人口が緩やかに減少して、循環型社会に適合した社会が生まれること、であろうが、このような、理想的な遷移は起こるだろうか。つまり、あらゆる資源の利用を削減しつつ、各国民と民俗に崇高な協調の意思が働いて、それぞれ人口を緩やかに減少させて、循環型社会への移行が達成され、エネルギーを含む資源の争奪も防止される、というプロセスは可能だろうか。
共有地の悲劇と呼ばれる経済学における法則がある。農民が各自の利益の最大化を求めて、結果として共有地が荒廃するという法則である。共有地を有限な地球の資源と読み替えて、この法則をあてはめれば、これまでの人類の歴史、および近年の例としては、国連を中心とした取り組みにも係らず、各国のエゴによって炭酸ガスが着実に増加している事実を考え合わせると、共有地の悲劇が回避される確率は、低いように思われる。従って、僅か数十年の間に世界人口が二倍になるような、猛烈な増加傾向の中では、化石エネルギーや金属資源、その他資源は、互いに奪い合うことにより、急速に枯渇する可能性がある。
ここから推量されるのは、B:現代の世界の人口の、循環型社会に適合する人口への遷移が破局的に起こる可能性があり、しかもその確率は低くない、という未来である。未来の在り方は、残念ながら、上のAとB以外にはあまり考え難い。Aが起こる確率が低いのなら、Bが起こる可能性は高いと言わざるを得ないのだ。家族や氏族にとって、子供の誕生は喜ばしいことなのに、地球全体ではそうとも言い切れないというのは、矛盾があるということで、我々が解決できない時は、強制的に解消される事態が起こるということでもある。
(2011/11/22)
12月17日に北朝鮮の指導者が亡くなった。これを受けて野田総理大臣は危機管理センターに官邸対策室を設置したとマスコミが伝えた。この危機管理センター、正式名称は内閣情報集約センターと云い、内閣情報調査室にある五つの部門の一部門で、大規模災害等の緊急事態における情報の収集等に関することがその職掌であるとされている。いや、日本の危機管理体制もなかなかたいしたものだ。
ところでこの内閣情報調査室とはどういうところだろうか。少しばかりググってみた。まず組織の人員数であるが、数年前の情報では約170人程度であった。警察庁や公安調査庁からの出向者がおよそ3分の1程度を占めていた。プロパーが半分に少し満たない程度で、残りは各省庁からの出向者であったという。ここからは推測であるが、この170人が5部門に均等に振り分けられているとすれば、1部門あたり約34人である。対策室の人員を新たに外部から招聘したという報道がないところをみれば、他部門から一時的に集まったと推定される。また我が国の政府組織における出向者とプロパーの役割分担を考えると、今回の動向に係る実際の担当者は出向者であると推定されるので、結果としてその規模としてはかなり小さく、10人程度ではないか。
さて、一般的に出向者は数年で出向元に帰るので、如何に優秀な人員であっても実際の作業を全て内部で完遂することは難しい。今回も外部の協力を得ているであろう。内閣情報調査室から毎年情報調査委託を受けている団体はいくつかあって、2?3億円程度の業務を受託している団体が二つ、1千万程度が一つある。そこで受託額筆頭の団体のホームページを見たところ、最新の全世界を対象とした52ページの成果報告書を出していた。
その後、12月20日朝の報道では、政府として引き続き情報収集に努める方針が確認された、とある。さてここで、情報を収集するだけでよいのだろうかというのが筆者の疑問だ。すなわち、情報収集だけでは何かが起きた時に対処できないのは明らかで、対処するためには幾つかの行動シナリオを準備して、そのシナリオに対処できるように手持ちの人・物・金の割当てを考えておく、というのが必要だ。情報収集という行動は、予め準備しておいたシナリオのうち、どのシナリオに沿って事態が進展しているかということを確認して、シナリオを修正するために行なわれるべきものである。
内閣情報調査室や危機管理センター、ここから調査委託を受けている団体を眺めてみると、その設立趣旨や職掌範囲からみても、どうもシナリオが存在するように見えないし、ましてや情報収集の結果をシナリオに反映するという活動があるようにもみえない。推定される結論は、我が国の危機管理というのは、事態を見守ることであり、シナリオから自らの行動を決定するというものではないようだ。大震災以後の政府の対応を観察すると、確かにその通りである。
(2011/12/27)
世界的な学術雑誌のひとつであるネイチャー誌の昨年十二月十五日号に、日本訳では「福島第一原発を国有化せよ」という標題の平智之衆議院議員、鳩山由紀夫元首相の論評が掲載された。その内容についての云々は控えることとして、同じ号に掲載された「クリティカル・マス」と題された編集部の論説が、実に英国人らしい皮肉たっぷりの内容で、読んで苦笑せざるを得なかった。この論説は当然ながら上記の二人の政治家の論評に対応したもので、二つ合わせることで編集者の意図するところを知ることができよう。
論説はまず上記二人の論評を軽い驚きをもって紹介する。そしてこの状況が日本の歴代政権の抱えてきた問題に起因するとした上で、その問題とは政府に強く助言する科学の声がないことであると結論する。彼らの観察によれば、日本政府はここ数十年の間、今回の事故を含む科学的概念のからむ問題に直面するたびに、その責任を、問題をよく理解していない担当者に押しつけ、担当者はそれゆえ問題を隠蔽し、その間政府の、愚かで、無責任で、信用ならないスポークスマンが混乱した発表を続けてきたというのである。彼らの論点が全て正しい筈もないが、多くの点では納得せざるを得ない。
論説はさらに親切にも日本政府に対して改善方法を提示する。日本は、米国や英国などに倣って、科学顧問を置くべきだという。もちろん日本政府が過去に「イノベーション25特命室」を設置したことや、その試みもわずか2年で消滅したことも知った上での発言である。このような科学顧問は、「国民には不評だが必要な決断をせざるを得ない政治家を擁護することもでき、政治的に任命された科学顧問なら、政治家との間に信頼関係も築ける」と述べる。このような科学顧問が、「公平で政治とは無関係の視点から説明を行える」かどうかは判らないが、確かに彼らの提示は真剣に検討する価値があるものと考えられる。
しかしながら、解決すべき問題点は多々あるように思える。筆者が思うに、そもそも我が国の政治家と科学者の間に共有し得る何ものかがあるだろうか。 米国や英国政府には当然のように科学が必須の軍事顧問が存在するので、その延長として政府と科学顧問との間の相互理解が実現できることは想像できる。 だが、意思決定プロセスの議事録さえ取らないという論理に欠ける政府と、論理をよりどころとする科学者との間にどのような共通理解が存在し得るか、筆者には残念ながら適切な考えが浮かばない。
ネイチャーの論説は「日本は、もっとうまくやることができる。日本人は、こんな現状に甘んじていてはならない」と結ぶのであるが、他国の政治と大衆にこう呼びかけることができるのは、大いに良い気分であろうと思われる。
(2012/2/14)
■ ?業績悪化を求める謎?
資本主義とは資本を投入して、資本を運動させ、より大きな資本として回収するシステムであると考えられてきたが、近年の我が国の資本主義はこれと異なる様相を呈しているようだ。ことの起こりは大阪府市のエネルギー戦略会議の提言により、関西電力の筆頭株主である大阪市が、株主総会においてできるだけ速やかな原発廃止を要求するという市側の発表である。原油をはじめとする燃料価格高騰が始まっているなかで、原子力に頼らず再生可能エネルギーを主とした代替電源の確保を提案するという内容であるので、実行されれば直ちに関電の業績の悪化が予想される。資本主義社会においては株主の利益の最大化が目的であるのに、筆頭株主が会社の利益を否定し業績の悪化を望むというのは、新奇な資本主義の解釈と言わざるを得ない。
この提案を作成した大阪府市エネルギー戦略会議なのであるが、今年の二月二十七日に第一回が開催されて、三月十八に開催された第三回会議で株主提案の骨子をとりまとめたというから、実にスピード感溢れる会議だったと言える。当該資料には、全原発の可及的速やかな廃止の他に、発送電の分離や経営体質の強化を謳った役員数と従業員数削減、電気事業連合会からの脱退などが提案され、国レベルの政策に係るものや資産の売却まで様々なレベルの提案が混じり合っていて、議論の末の合意というよりも会議各委員の従前の主張が盛り込まれた結果であるように見える。
さて今回の事態によって、我が国の場合には筆頭株主でさえ、会社の利益ではなく別の主義主張により行動を起こすということが現実となった。またナショナル・セキュリティを無視して市場万能を唱えることが正義であると主張されるようになったのも見逃せない。
ここからどのような未来が予想されるだろうか。ひとつには、我が国の根幹を支えているという電力会社の自負の崩壊が懸念されるよう。選挙民の支持を得ているという理由で電力会社を攻撃するガバメントは、確かにオーセンティックな存在であり、その攻撃に対して電力会社が、これまで持ち続けてきた自負を主張することは困難であろう。また、ガバメントが攻撃している以上、市場からの資金調達はその困難の度合いを増してくるであろう。ここに至っては素直に全ての原発を休止状態に転換し、火力発電所と発送電網の保守・補修費用を大胆に削減するのも、我が国においては適切な方法であるかもしれない。
蛇足であるが、大阪市は筆頭株主の立場で会社の業績悪化を目指すのではなく、直ちに株式を売却して自己の投資を確保する方が良いのではないだろうか。
(2012/3/27)
日本のマスコミの代表としてNHKを挙げるのは妥当であろう。営利を目的としていないので内容に偏りがなく、受信料等による安定財源の上に立った質の高さが期待されるからだ。もっともこの放送局に社是はなく、放送法によれば、言論報道の多元性の確保、放送番組の質的水準の確保、過去のすぐれた日本の文化の保存や新しい文化の創造、公共の福祉の実現、災害時のライフライン機能などが期待されている、と解釈されている。つまり営利を目的としなければ内容についてはあまり問われないということのようだ。
さて、若干旧聞になるが、この二月に慶応義塾大学のパネルデータ設計・解析センターが、「東日本大震災に関する特別調査」の結果を取りまとめた。この調査は、「東日本大震災や原発事故が全国の家計に与えた直接的・間接的な影響を社会科学の観点から明らかにし、今後の復興政策や防災政策、学術的な発展に資するエビデンスを提供することを主な目的とする」としているが、その内容が実に興味深い。例えば、「原発事故・放射能汚染への恐怖・不安感は、属性別には、文系出身者や低所得層、非正規雇用者、無業者、未就学児がいる人、東北三県の居住者ほど、恐怖・不安を強く感じていた」のだと云う。
ところで、現在のNHKの経営層の出身を調べると会長以下12人の役員のうち、明らかに大学理系学科出身者は放送技術研究所長だけで、殆どがいわゆる文系である。優れた文系の人は科学的なリテラシーも兼ね備えていると言われているから、今回の原発事故に対して彼らが無用な恐怖・不安感を抱いているとは思われないし、それが事故後の放送内容に影響を与えていることもないであろう。しかし日本の主要なマスコミを構成する人々の大多数は文系であろうし、彼らが低所得者や非正規雇用者、その他の社会的な弱者の味方であることを信条としていることを考えると、つまり、日本国内に流布される原発関連の情報は、「原発事故・放射能汚染への恐怖・不安感を強く感じる」人々によってもたらされている、と考えてもよいのではないか。
恐怖と不安をリスクに転換できるのは科学的リテラシーであるが、日本人にはこれが十分でないのでは?という疑いは以前からあって、現に科学技術振興機構などは大学からの提案を受けて、サイエンスカフェなどを通じた国民のそれの向上を目指しているのである。仮に、慶応大学が提出したエビデンスから、文系の日本のマスコミ、あるいはそれとよく似た信条を持つ政策決定者の、今後のエネルギーに係る発言が、科学的リテラシーに欠けるゆえに恐怖と不安に駆られたものであると推定できるならば、彼らの主導に従う日本の将来は暗いと言わざるを得ない。
(2012/5/15)
大阪市と永田町では法も科学技術も無視した関西風のコントが続いているが、その背後には放射能に対する原始的な畏れの感情があるのが丸見えである。本来、法も科学技術も論理をその存在基盤としているのであるが、ただ原子力に関しては放射線防護の基本にALARA(すべての被曝は社会的、経済的要因を考慮に入れながら合理的に達成可能な限り低く抑えるべきである)の概念があって、プラグマティックな考え方ではあり得ないことなのだが、こと我が国においては、このALARAの考え方に、泣いて否定するような感情の入り込む余地が残されているのを否定し難い。しかしごく最近、このALARAを明確な論理へと転換し得る研究成果が現れた。
2012年5月15日付けのMIT newsに、「長期放射線被曝の新知見」(筆者訳)という記事が出た。元の論文は2012年4月26日に「Environmental Health Perspectives」誌のオンライン版にて公表されている。まずその背景を説明したい。バックグラウンド下ではヒトの一つの細胞には毎日およそ10,000個のDNA損傷が、放射線だけではなく様々な原因により発生し、この殆ど全てがDNAの修復機構により修復されることが知られている。しかし、DNAの片方の鎖の損傷であれば残った片方により容易に修復が行われるのに対し、二本鎖が同時に損傷を受けた場合には、ガンの原因ともなる修復エラーが起き得ることも知られている。
MITの研究グループは特別なマウスを使って、急性被曝では影響の出る被曝線量と同じ線量を低線量の長期被曝に置き換えるとDNAに影響が見られない、すなわち被曝線量には閾値があるということを示した。DNAとその修復機構は、マウスと人間に共通するものなので、マウスと人間の間の種の違いという観点からは研究結果に疑問を差し挟む余地がないこと、さらには、マクロとしての生体反応ではなく、細胞のDNAの損傷と修復の関係を議論することで、MITグループの成果は機械的と言ってよいほど曖昧さの少ない手続きを通じて得られたと言える。従って、バックグラウンドの400倍の線量でもマウスのDNAに影響はないという、従来の考えから見れば大胆とも言える結論は、極めて合理的に導かれていると判断せざるを得ない。
現時点では、我が国のマスコミおよび政府筋はこの報告を無視しており、この研究に対する真摯な評価はなされていないようだ。仮に人間社会には、原始的感情の克服、思考への論理の導入、プラグマティックな行動原理の採用、科学技術のPDCAサイクルの確立、科学技術を援用した合理的政策決定という、近代社会進化への必然があるとすれば、未だに最初のレベルから抜け出せない残念な社会には望むべきもないことか。
(2012/6/20)
私事ではあるが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギーについて講義しているところだ。大学に入ったばかりの初々しい学生が相手なのであるが、毎年、気になるところがある。それはさんざんに聞かされてきたであろう良く聞く、良く読む、ひいては良く考えるとは何であるか余り考えてはいないようだという、些か判じ物めいた懸念である。察するに良く聞くとは静かにしていると同義のようであるし、良く読むとは字面を追うことであると考えているようだ。
これまで毎年同じ質問をしているので、結果として数多くの学生に質問したことになるのであるが、良く聞くとは何か、良く読むとは何かについて明確に答えてくれた、あるいは自分の考えを披露してくれた学生には出会わなかった。仮にそれを習ってこなかったとすれば、良く聞くとは静かにしていることと同義であると彼らが考えても無理はない。彼らを観察すると、彼らに施された「良く何々する」という教育の成果は、問題に手持ちのパターンを当てはめて、答えを得るというパターンマッチングの熟達として実現されていると考えざるを得ない。
パターンマッチングによる問題解決方法は、問題が類型化されていればうまく働くのが明らかであるが、従来になかった問題、まさに温暖化しつつある地球や枯渇しつつある資源、そこから惹起し彼らが将来に直面すると予測される多くの問題については機能しないように思われる。人類が出会ったこともないような新しいパターンには、手持ちのパターンはマッチングしないからである。
さて彼らに対しては講義だけではなくグループワークを課して、初年度というブーツアップにふさわしい時期に新たな技量を体得してもらうことを目指している。このグループワークでは、個々人では見つからないような新しいアイデアの発見や、これをグループの力で育てるというプロセスを学生に紹介しているのであるが、ここでもグループワーク自体つまりリーダーとメンバーの関係やリーダーの決断、メンバーとしてのアクティビティなど、どうもどの学生にとっても初めての体験らしいということが分る。
エネルギーと資源が潤沢に供給される社会において、公に対する個の優先は十分に可能であるし、定常的な世界において、パターンマッチングによる問題解決は非常に有効であろう。しかし、その両方が危うい未来が見え始めた現在、我が国の教育システムを運動させている人々にとって、教育システムがこのままでよいのかは大いに疑問ではないのだろうか。
(2012/7/22)
米国の火星移動探査機キュリオシティが8月6日に火星表面に着陸した。その着陸手順がNASA自身がクレージーと呼んだように高度に複雑なものであったことに驚く。大きさも重さも軽自動車ほどもある移動探査機ローバー、キュリオシティを着陸させるための手順は、まず火星大気への突入と減速、大気中降下しながらのロケットスラスタとタングステンの錘放出による機動、パラシュート開傘、ロケットエンジンによる減速、極めつけが地上7.6mで一旦降下を停止してホバリングしつつローバーをロープで吊り降ろすという最終ステージであろう。逆噴射によって地表のダストの舞い上がるのを最小限に抑えて、ローバーがダストで汚れないようにするための最も適切な選択だと説明されているが、確かにクレージーとでも言う他ない。
その他にもこのミッションを支える米国の技術が、恐るべきものであることは、随所にみられる。例えば、機械的結合を分離するために火薬を利用した火工品と呼ばれるボルトやナットが多用されているのであるが、今回のミッションでは着陸までに実に76回にわたってこの火工品を用いた分離・切断が行われた。この一瞬の小爆発がただの一度でも不発に終わればミッションは失敗するのであるから、いかに枯れた技術とは言え、NASAがこれに寄せる信頼度がいかに高いかが分る。
さらにローバーには最低でも1火星年、地球時間では2年間という長い期間活動するための、プルトニウム電池が搭載されている。この電池は厳しい火星の夜の間、ローバーの内部を暖めておくための熱と110Wの電力を定常的に供給することができる。太陽電池をエネルギー源としたこれまでの探査機では、冬の長い夜は耐えることができなかったのである。電池にはPu-238が4.5kg使われているが、実は米国にしてもこのPu-238を準備するために紆余曲折があったらしい。Pu-238はα崩壊するので遮蔽が容易という利点があるのだが、生産するためにはNp-237に中性子照射処理を行わなければならず、直ぐに大量に作ることもできない。一時米国はロシアからこれを輸入していたのであるが、それが途絶したため、新たにNASAとDOEが協定を結んで米国の将来の惑星探査に必要不可欠な電池用プルトニウムの生産を再開したのだという。
火星以遠の宇宙探査にはこのように枯れた技術から最先端の宇宙技術、そしてこれを下支えする原子力技術が必須であること、そしてそれを総合する技術と意思が必要であることを、キュリオシティは改めて示したのだと言える。そこには原子力技術は恐ろしいから、日本にはいらないと言うような感情の入り込む余地はない。
(2012/8/19)
私事ではあるが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギーについて講義しているところだ。大学に入ったばかりの初々しい学生が相手なのであるが、毎年、気になるところがある。それは火を使ったり、ナイフを扱ったりした経験の乏しい学生が相当数いることである。つまり子供の頃に危険なことをしてはいけないという教育が行き届いた世代であるということである。
さてTEDコンファレンスという米国発の講演会があってネット上でその動画が提供されている。TEDはTechnology Entertainment Designの略であるが、基本的には広める価値のあるアイデアを社会に紹介していこうという米国の私的なグループの活動である。私的な活動ではあるものの、クリントン元大統領やゴア元副大統領もここで講演したことがあるので、ただならぬ活動であると言える。TEDには教育関連の講演も数多く行われているが、つい最近「子供にさせるべき5つの危険なこと」という講演の動画を見つけて、講演者のゲーバー・タリーが、筆者と同じことを考えているのを見つけて我が意を強くした。もちろん彼は考えだけではなく、子供向けのサマースクールを通じて彼が子供に必要と考える体験をさせているという実践の人である。
彼は講演の中でユーモア混じりにかつ聴衆の反発を受けないように注意深く、子供には大人が危険であるとして、子供たちをそれから遠ざけるような経験を、逆に経験をさせるべきであると提案している。彼はその例として、「火を使って遊ぶこと」、「ナイフを持つこと」、「槍を投げること」等を挙げている。彼はこれらの体験によって危険への対処の仕方を知ることができると言っているが、これらを体験することによってリスクを負いながらも、子供たちは自然の基本的な力をコントロールする技を学び、また自分自身の力を拡大する方法を学び、そして三次元的な認識と問題解決能力を学ぶことができるとも言っており、筆者は後者こそ彼が言いたいことではないのかと考える。
彼の教育が意図する通りの成果を上げているとすれば、子供時代に火で遊んだこともなく、ナイフを扱ったこともなく、ボール以外のものを投げたことのない人間は、自然の力と人間の力の関係や、人間の力を拡大する技術とそのコントロールについて、本質的な理解が低くなる、すなわち人間の力を拡大する技術を本能的に忌避する傾向を持つようになるのではなかろうか。我が国においてそのような人々が必ずしも少数でないとすれば、科学技術に係る何かの問題の起こる度に、それは人間には制御不可能だとしてこれを否定する声が高まることがあっても不思議ではない。
(2012/10/1)
以前にも拙稿で述べたが、現在筆者はある大学で非常勤講師として、初年度の学生に地球環境とエネルギー問題について講義しているところだ。講義はいわゆる板書を中心とした座学と学生諸君がグループに別れての学習のセットから構成されている。座学では、彼らが中年を迎える頃には、これらの問題が眼前の脅威となる可能性の高いことを示し、グループワークでは彼ら自身の問題として、これらについて考えてもらおうというのが全体の眼目となっているのだが、毎年、気になるところがある。
グループワークの肝心なところ、つまり、リーダーとメンバーの関係やリーダーの決断、メンバーとしてのアクティビティなど、どうも、どの学生諸君にとっても初めての体験であるらしい点だ。つまりグループの組織化であるとか統率であるとか、方向性を決めるための議論と意思決定であるとか、結果としてのチームとしてのパフォーマンスであるとか、についての概念に彼らが馴染んでいるとは全然思えないことだ。
当然のことながら彼らには何の非もない。ただこの類いの経験や学習をしてこなかっただけである。どうも世の中を見ると、我が国ではこれらを排除したシステムが再生産されて定常状態に達している、つまり庶民から国の指導層までこの状態にあるのではないかと疑わざるを得ない。国の大宗であるエネルギーについて、将来の電源比率のアンケート結果をそのまま採用してしまうような政治指導層が存在するというのも、これを裏付ける事実ではないのか。問題は、エネルギーと資源が潤沢に供給される世界であればこのシステムには何の問題もなかったのだが、その環境が変わりつつあるという点にある。
こういう状態を作ったのはもちろん教育システムに遠因があると推定されるのであるが、今ひとつすっきりと理解できない。そこで、すこし考えを巡らせてみると、イングランドの教育と社会階層を物差にして我が国を見てみるとよいかも知れないと思いついた。イングランドにはアッパークラスが現在も存在し、指導層と重なる部分が大きいことがよく知られているが、このアッパークラスの教育が、公と私という関係を鋭く問うことを基盤に、グループの統率であるとか議論であるとか、意思決定であるとかということを教えるものであるようだ。
これと比較すると、なるほど、我が国における全ての教育と呼ばれるものが、イングランドでいう非アッパークラスに対するそれであることが分って、現在の我が国の状況もなるべくして成ったことに得心がいき、未来もまたこの非アッパークラス的な協調と、なりゆきで選ばれた誰かへの丸投げで決まるのであろうと予測せざるを得ない。
(2012/11/12)
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