ずばり言って環境とは何でしょうか?と聞かれても到底直ぐに答えられる筈もない。そこで環境空間を問題の視座からの心的距離(Psychological distance)、時間距離(Chronological distance)、空間距離(Spatial distance)を座標として表したらどうか、と考えた。私の勝手な言説をこの視座からの距離を与えることで、この空間に配置したら、何かが見えて来はしないか、という目論みだ。
近ごろの若いもんは、ということで古代エジプト以来の永遠のテーマについて一言、言いたい。
相手があって事が進むのは何によらずそうなのだが、仕事上で相手のいる場合、状況を構造化する必要がある。つまり、相手と自分は社会あるいは組織レベルが層状になった状況下で、互いのやりとりの中で仕事を進める。例えば、相手が役人の場合、役所構造の中でその担当者は彼(もしくは彼女ーこのケースには遭遇したことがないが)のすぐ上の上司、その上の上司というふうに2ないし3層のレベルの中で動いているとする。
この時、相手の態度が尊大だったりするというのは、彼の立場がある程度彼より上司の態度を反映した結果と考えられる。これは無意識にそうなるんだから、相手の態度が悪いからといって、こちらが怒るのは筋違いなわけだ。つまり仕事上でつき合う相手は個人的な人間性のよしあしとは無関係な存在なわけだ。逆に、えらい愛想がいいとか、下手に出る相手の場合、こちらは注意深くあるべきだろう。
君の場合、どうだ、相手の態度が悪いからといってイヤな顔をして見せたんじゃないか?ほら、あの時だよ。
相手から見たこっちもまた、同じ鏡の裏表だ。こっち側の組織構造を反映した人間として相手は見ている。だから、互いの人間性とは無関係と言える。そう考えると、仮令、相手の態度が悪かろうとこっちは平気でいられるし、もっと言えばどんな状況でも誠意ある態度でいることも可能だ。逆にオドシをかけることもできるだろう。少し戦術的に動くならば、若干下手に出るのがよかろう。例えば頭下げだ。相手が15°の角度で挨拶してきたら、こっちは30°、という具合だ。第一、頭下げはコストが全くかからないのが非常に優れている。ただし気をつけなければいけないのは、やり過ぎるとばあさん同士の路上の挨拶状態になってしまうところだ。
そうすると、君はこう思うかも知れん。そういう形式的なことだけでいいんですか、と。個人の個性を隠して組織対組織の立場だけでは中身がないんじゃないか、と。その通りと私も思う。個性とは離れた状況下で相手とやりとりするのだが、相手もそうしているのだ。つまり状況が構造化されている中で、互いに別の観点から意識的、あるいは無意識的に相手をみていることが必要だし、油断できない相手もそうしているに違いない。
中身のあるなし、いいやつかどうかは、そこから、始まるのだと思う。これを昔からの腹芸というのか、個人および組織の間のヒューマンリレーションにおける行動の構造化、および内面観測というのかは、君の自由だ。 (1999/6/5)
「夏が来れば思い出す」のように「思い出す」から「思いつく」のかも知れないが、話したいのはちょっと違う。
私にも子供がいる。”数学がわからない”といって悩んでいる。「わからない」−>「がんばってみる」−>「やっぱりわからない」を繰り返しているうちに「いやになった」状態に入ってしまったようだ。話しを聞いて見ると、学校で教わったことをなるべく厳格に問題にあてはめようとしているのが分かった。問題と答えが一対になっていて、問題が少し違っているとそこで行き詰まってしまうようだ。みていると、たくさんの答えのパターンを覚えて問題に対処しようとしている。だから、問題が分からないのは覚えが悪いのだと勘違いしているのだ。
そこで、数学は答えと問題を「思い出す」のではなくて、答えを「思いつく」のが本当のありかたで、美術の時間に「何か」を「思いついて」新しいものを作り出すのと一緒だ、というふうに諭してみたのだが、わかってくれたかどうか、分からない。昔の歌にも「♪〜サイン、コサイン何になる」とあったように、数学が分らないからといって生きていくのに不都合があるわけじゃないので、最終的には気にするなと言ってやった。
思うに、数学ができるできないに関わらず、金の勘定はだれでもできるし真剣になるのは不思議なことだ。ボケると「ワシの財布から千円とったのは、お前じゃろ、ちゃんと毎日数えているんだぞ」と言うようになるというからだ。
「思い出す」と「思いつく」には他にも違いがある。「思い出す」のは拠って立っている所から目標まで一直線だ。直ちに到着する。一方、「思いつく」には何度も途中で迷ったり袋小路に入り込んだりすることが多いし、目標に着くかどうかも分からない。たぶん、この二つは車の両輪だったのだろうが、世の中が変ってきて、「思い出す」と「思いつく」がますます分化してきたのだと思われる。
時間と費用を節約するために一直線に「思い出す」ための道具が発達してきたので、逆に「思いつく」が「思いつき」などとおとしめられている。そのくせ「思いつき」の天才、アメリカ人を有難がっている人が多い。
話しは変るが、バブル以来あちこちに研究所が増えたが、私の観察では、研究成果が上がっているところは少ない。新しい研究所が立ち上がると数年間は新しい研究が出てくる。しかし、よく見るとその担当者は学校時代からそのテーマを続けていて、その研究所から発表されたのは、その発展形に過ぎない、というのが多い。
考えるに、研究所が研究成果を生み出すことができるようになるには、経験を積んだ人間とそして研究アーカイブ、つまり大量の資料の蓄積、が必要で、どちらも長い年月がかかる。この二つはどちらも、「思い出す」のではなく「思いつく」ことに決定的な役割、つまり触発作用、を果たしているように思われる(思われるというのは私の経験則だからだ)。
研究は何か新しいものを生み出すのだから「思いつく」ことがないと始まらないのだ。(1999/7/1)
ESRの新しい論文「The Magic Cauldron(邦約:魔法のお鍋)」が出た。著者、Eric S. Raymond はもうESRと略されても分かるぐらいに有名人になったのだな。
簡単に説明すると「Linuxがなぜ発展しているのか、理由があるし、そこに新しいビジネスモデルがあるぞ」ということを言っている。この論文を含めてERLの三つの論文は長さこそ短いが、ここ数年間のトピックスの中で、最も重要なメルクマールだと思う。一つにはこの論文の形態そのものが斬新だ。紙の形にはなっていなくて、最初からWeb上で流通している。ポイントはWebに登場しインターネット上でレビューされてリバイスされていることだ。ほかにも色々あるが、省略する。
一方、電気新聞の6月25日付け時評に、上坂冬子(真夜中にお気に入りの着物を出してきて鏡の前でにんまりするのが趣味のおばさんだ)が書いていたが、こん中で気になる記述があった。
「資料としてインターネットを活用するが、見解や主張を述べる場所としてのインターネットは無視する」、一切のチェック機関を通さず意見をいえるからだ、と言う。氏は、メール交換やニュースグループがどんなふうに機能しているのか分かっていないし、見解や主張は何かのオーソリティの裏付けのもとに出るもんだと思っているのだと思われる。つまり、今やあらゆる科学的論文がピアレビューの結果出されていることを認識していないように思う(上のESRの論文はその最先端だ)。
主張と言うのはピア(対等な立場の人間)が互いに議論し合う中で評価されるもの、ということにだいぶ昔からなっている。確かに日本ではまだ、ここんとこがあいまいだな。あらゆる主張は「お墨付」をもらわなければいけない。権威ある学会、新聞、雑誌、委員会、大学の先生、等だ。「お墨付」をもらうことが「評価された」ことになる。
この方式、昔は効率的だったと思われるが、評価結果の精度だとか、速度、寿命、波及効果、等の点で「ピアレビュー」方式にかなり劣る(ここらへんはまた書きたい)。この差がますます開きつつあるのが、今の米国と日本の状況だと考えられる。「ピアレビュー」は仲間内、というふうに批判することもできる。しかし日本の「権威ある委員会方式」が有効でなくなってきているのは周知の事実だから、今の世の中ではいやでも「ピアレビュー方式」を受け入れざるを得ない。
そのインフラがインターネットと英語だから、私のような日本人には、つらい。しかし、インフラ上にあれば(インターネットに自らを接続して英語を話せば)、取り敢えず相手は、ピアの候補者としては認めてくれるところが、米国の凄いところだ。
だから私も、おい君もだ、「対等な仕事人(ピア)」になって、あちこちで主張しまくらなきゃいけない。(1999/7/5)
■ 電脳犬はアンドロイドの夢をみるか(行動環境への心的投影)
SONYの売り出したペットロボット、AIBOは売り出し後20分間で売り切れたという。買ったのは30〜40代の男性が殆どで、オプションのコントロールプログラムもほぼ同じ数だけ出たそうな。新しいもの好きな人間が多いとは言え、20数万するものをパッと買えるなんて、ほんとはうらやましい。
こういうロボット関係の開発者がテレビインタビューで答えるのは「鉄腕アトムにあこがれて、いつかあんなロボットを作ってみたいんです」というのが定番だ。テレビコマーシャルにもこのごろ、お茶の水博士と一緒によく出てくる。版権を持っているやつが金につまっているのかも知れない。しかし、ロボット開発が進展したら、鉄腕アトムみたいになるんだろうか。例えば家庭や企業にある機械で、そのうちロボットに近くなると考えられるのは掃除機だ。企業用では自走式の掃除機はあまり特殊なものではなくなっている。安全のために人がついていることが多いのだが。
さて、家庭用の掃除機はどんどん発達して、まずコードレスになるだろうな。それから、家の中に詰まっている家具類にぶつからないように撮像装置および画像判別装置がつくだろう。床に散らかっているゴミに近いがゴミでないものを取りのける腕も必要だ。そこに寝転がっている君を排除するために「ジャマダカラ、ドケ」と怒鳴るために発声装置もいるだろう。掃除エリアを指定ためにいちいちキーやらマウスを使うのは面倒だから声で指示することにして、マイクと日本語解析装置も必要だ。
さて、掃除機は毎朝、忙しく働き回る。掃除機は、その機能の実現のためや作動時の安全のために、いかにも掃除機らしい形をしているだろう(ここらあたりは、人間の回りの道具は、それの持つ機能を形態的に現わしている方が人間の認識になじむ、という話しがある。これをアフォーダンスって言う。つまり掃除機が電気釜のようになっていると、電気釜が歩きまわることになって気味が悪い。まして色気たっぷりのお手伝いさんみたいな形だと、余計な家庭争議が起きてしまう。同じ話しが東海林さだおの「〜のまるかじり」シリーズにあった。プラスチック製の軽い丼を持ち上げて、その軽さに戸惑ってしまうオジサンの話しだ。丼というのはそれ自身で、なめらか、手より大きい、ある程度の重さがある、ということアフォードしているのだ)
そこで、持っている機能は鉄腕アトムの基本機能と同じなのだが、みてくれは掃除機らしい掃除機が家庭にあることになる。これに君として、ペットロボットに対するような感情移入が起こるだろうか。むしゃくしゃした時に妻にあたるより、この掃除機の仕事を邪魔したり蹴っ転がすケースの方がありそうだ。
つまり、鉄腕アトムを好ましいと思うのは、アトムがいろんな機能を持っているからではなくて、人間の方から好ましいと思う感情移入ができるからなのだ。おまけに、自分より小さくて人間でない何かが、音声や身振りで応えるというのは、人間にとって今までにないエキゾチックな経験だから、余計に簡単に感情移入できる。これは大分前からよく知られている事例だ。
ワイゼンバウムという人工知能の大御所がいるが、彼が ELIZAというソフトを作った(Weizenbaum, 1966)。ソフトそのものはLISPで書かれている、ごく簡単なものだ。入出力もあの当時だからテレタイプだけだ。
で、ワイゼンバウムは秘書にこれを使わせてみたのだが、秘書はワイゼンバウムの考えていたのと別の反応をみせた。ELIZAは、例えば「こんにちは」と入力すると『こんにちは、何か問題がありますか』等と出力する。そこで「実は私の夫のことなんです」なんて入れると『あなたの夫のことなんですね、それで』、「実は夫は、ちょっと言えないことなんですが」、『ちょっと言えない、んですね』、「実は彼ったらxxxの時にxxx なんです」、というふうに続くわけだ。
ELIZAはキーワードを拾って、単にそれをおうむ返しに答えているわけだ。ワイゼンバウムは、キーワードの入力からの拾いだしだとか、それを使った文章の自動作成、なんかを秘書に自慢したかったのだが、秘書はELIZAに対して、自分の悩みを打ち明け出してしまったのだ。ワイゼンバウムはこれに驚いて、研究方針を変えてしまった。
だが、私はここんとこに真実があると思う。つまり人間は対象物が何であれ、その人間の都合のいいように解釈し、対象物、この場合人工知能だろうがタイプライタだろうが、必要な場合は個人的な感情移入を行う、ということだ。ワイゼンバウムの秘書はタイプライタが勝手に返事を打ち出す、という新しい経験に、返事の中味を吟味するのではなく、自己を投影してこれに没入したわけだ。
こんなふうに考えて、ロボットもしくは人工知能開発の歴史を眺めると、人工知能を含むロボットというのは、それを作った人間の人間性の反映であることがわかる。ホンダのロボットは宇宙服を着たジイサンみたいだし、感情を表わすという謳い文句のロボットはやたら少女マンガのようだ。鉄腕アトムが好かれるのは手塚治虫の人間性が反映しているからだと言える。
だが、「鉄腕アトムみたいなロボットを作りたい」という研究者は、手塚治虫の人間性に遠く及ばないから、マンガ風の気持ち悪いやつしかできない。大事なところは、ロボットは開発した人間性の反映だから常にそれ以下である、ということだ。だから自動掃除機はできるが、鉄腕アトムのように、自分から人間を救ってくれるようなロボットはできない。
商売を考えるならば、話しは別だ。売れるペットロボットは、購入する年代の人間の感情が移入しやすい形と動作をすればいい。ファービーは長い毛がはえていて柔らかい必要があるし、AIBOはつるつるしていて銀色で(清潔そうで病気がうつらない)ある必要がある。ついでに言うとIBMが盛んに宣伝している音声入力方式のパソコンは香取君がいくらがんばっても売れないと思う。しゃべるのはキーをたたくよりずっとエネルギーを使うからだ。中国女がやせているのは、のべつ大声でしゃべっているからだ。
おい、そこのキーばかり叩いている君、そのうち太るぞ。(1999/7/15)
私の趣味の一つが下町を歩くことだが、調和のとれた家々の間に突然立体駐車場があったりして興がそがれること著しい。もちろん地上げの跡だ。
地上げの意味ぐらいは知っているな、君。下町のように、狭い土地に多くの住民が住んでいる時、住民が住んでいるそれぞれの小さな土地を買い上げて一続きの広い土地にしてから売ることだ。狭い土地では、大きなビルやマンションは建たないからな。この地上げの時に札ビラで頬をひっぱたくか、シャベルローダを突っ込ませるかして、かたっぱしから小さい土地を買い上げていったわけだ。世の中、大きなビルや高層マンションの方が価値が高い、と思われているから、こういう無惨なことが行われたわけだ。
で、この地上げに関連した人間はバブリーな生活を享受したわけだな。消費生活が庶民生活と同義語になっている現代では最先端の人々だった。この時代は、しばらくは復活しないから、私もバブリーな経験はもうできない残念だ。しかし想像は自由だから私がバブルサラリーマンだったら、どんな消費生活をおくっただろうか考えてみるのも一興だ(ブルネイの王族にまで想像を発展させられないのが貧乏くさいところだな)。
まず、リソースを限定的するところから始めなければいけない。全てのリソースが無限大である、とする仮定ではモデルができないからだ。そこで一月の時間の配分をベースにすることとしよう。と、ここまで考えたら、サラリーマンは家に帰るから、毎日の仕事が終わると飲むしかないんだな、これが。バブル期だから会社を早く出るわけにはいけない。8時くらいまでは机にしがみついているだろう。家に1時に帰るとしても通勤時間1時間として退社後4時間しかない。大型の消費は細切れの時間では実現が難しい。
そうすると一週間の内、2日分しかバブリーに使えないことになる。バブリーに消費するなら別荘だが、毎週行くのは面倒なこととなる。食事を始め、生活に関わる作業が待っているからだ。一月4週間として、それでも月に二度はベンツで行くとする。さて別荘に行ってからハンティングに行くという日本人は少ないだろうから、ゴルフか。もちろん会員権と、チタンヘッドでカーボンシャフトのゴルフセットも必要だ。そうすると一月にあと、4日分しかバブリーに使える日が残っていないことになる。
そうだ、都心にマンションも買ってあるから月に1日分くらいは、貸し出し先の業者との打ち合わせも含めて時間をあてなければいけない。あと3日だ。月に一度は奥様にお供して日本橋三越に行かにゃならんので(別荘の壁に飾る絵を買うのだ。家具セットはいっぱい買ってあるから、大きさの割りに薄い絵ぐらいしか、もう入らないのだ)残りが2日だ。
バブル紳士がすることと言えば海外旅行か、3カ月に一度6日間行くとすると、月に2日必要でもう日にちが足らない。他から1日分もってきて埋め合わせることにしよう。あと、月に1日しか残っていない。〜ん、少しは休ませてくれ。
ということでバブルがはじけてみたら、銀座のクラブと、別荘地売りだし業者と、シーマを作っていた日産と、ゴルフ会員権の販売屋と銀座のデパートと画商がつぶれたわけだ(日産はまだつぶれてはいないが)。バブリーサラリーマンは酒で体をこわしてしまった。
つまり豪華な消費生活を楽しむことのできるのは、時間がたっぷりあって、高額な不労所得のある人間だけだ。必然的にその人口に対する割合が少ない。日本人全体が不労所得者階級(こんな言葉があるかどうかは知らないが、金融資産で食っていくということだ)になって、その他アジア人に働かせるという絵図面、つまりバブル拡大は、アメリカを中心とするヘッジファンドの連中に見破られて、あっという間にクリームスキミングされてしまった。だから残ったのはゴルフ用地その他の空き地と、サラリーマンが働いたおかげで残った過剰設備なわけだ。
今日付けの電気新聞に東電の新副社長の談話が載っていた。この中で「これからの時代、経営にとって設備過剰というのは悲劇でしかない。予想を上回る需要があれば設備を目いっぱい活用し、さらにお客様にも協力してもらうといった対策をとっていくしかない。」と書いてある。東電は今、ROEを上げるために本気になっている。過剰設備というのは機械設備だけではない。過剰な研究グループや過剰なその他グループという、人間設備も同じことだ。君のいる会社のグループは過剰設備に入っていないかな。運良く過剰設備にはカウントされていなくとも、『上回る需要があれば設備を目いっぱい活用』されることになるから、覚悟が必要だ。
ところで、地上げだが、なぜ地上げしたかというと、その土地つまり都市の中でその地域の価値が高いと判断されたからだが、地上げしてビルなりマンションが建った、その時点がその土地の最高価値を持った時になるのだ。そして、ここからが問題になる部分だが、後はだんだんと価値が下がっていくしかない。次第に古くなるビルなりマンションが高い価値を保つには、別の付加価値がつかなければいけないが、ビルとマンションは基本的にそのよって建っている場所に貢献するわけではないので、建物があるだけでは土地の価値が上がらないのだ。
つまり会社用のビルは、夜は無人だし、マンションの昼は夫婦共稼ぎでこれも無人で、その街の活動とは切り離されている地上げ屋と土建屋は、なぜ価値が高くなっていたかは誰に言わなかったのだが。本当はそこに住んでいた住民の長い間の活動が、その街の価値を高めていたのだ。しかし銀行はこのことも本当に知らなかったのかも知れない。東京の街の一等地に店を構えていながら、3時になったらシャッターを閉めるような輩だからだ。街の賑わいがどうなろうと知ったことではないのだ。(1999/7/19)
夏だから暑い。職場は冷房が効いているが、一歩表に出るとクラクラする。あんまり温度差があると、人間の頭だって血管が割れてしまうんじゃないだろうか。滅却心頭火自涼(心頭を滅却すれば、火自ずから涼し)と言うのは信長に焼き殺された快川和尚の言葉だ、有名だ。
普通、遊んでいる時には暑さが気にならない。夏の浜辺でサングラスをかけただけで体を焼いている若い者が居るが、暑いと思っているとは考えられない。間近に迫った火を涼しいと思う程にはならないが、要するに気持ちの持ちようだ。「居ながらにしてハワイ」と思えばいいのだ。
だが仕事もしなければいけない。この炎天下に、黒っぽい上着にネクタイしめた長髪男が、歩いていたりする。見ただけで暑苦しい。考えただけで息がつまる気がする。これに比べると白い薄着の婦人は日傘をさして、手にはハンカチをにぎりしめて歩いているから、見ている方も楽だ。
男物の背広がなんとかならないか、というのはサラリーマン全員の声でありながら、これは決して変化しないというしきたりだ。皆と同じ格好をしていると集団に同化するから気が楽だ、というのはよく理解できる。これまでにも省エネルックと称して襟元のあいたサラリーマン用の服が喧伝されたことがあった。確か石油危機の時だ。だが石油事情が緩和されたとたんに、元の背広に戻った。だから今、電車と職場は目一杯に冷房を利かしているし、発電所は冷房設備のためにフル稼働している。
だが背広が暑苦しいのは、その形にも問題がある。背広は前が開いているから、どうしても首になにかをつけていなくてはおさまりがつかない(男は首、のどぼとけのあたり、女は胸元が、視点の中心になるという。だからネクタイの結び目、女ならネックレスが洋装のポイントになる)。しかもネクタイはワイシャツの上から締め付けるから、体の熱が逃げないな。いくらハイテク素材を使っても難しいだろう。ネクタイを細くして、首に直接巻けばいいかもしれない。だが君、飼い犬の首輪のように見える。
今の世、背広をなくする代わりに、冷房設備を拡張する方向に進んでいる。ネクタイを締めたサラリーマンのいる職場で冷房が止るとたちまち不満の声が挙がる。仕事の能率があがらない、という理由だ。本当のところ、仕事と言うのは集中している時間が短いものだから、その他のぼんやりとルーチンをこなしている時に暑さを感じるのだ。東南アジア諸国が一時期経済発展したのは、冷房が普及したからだという説があるから、これに符合する。
これからは中国人が背広を着て、クーラーを使うようになる。シンガポールや香港の例を見ると中国人は寒くなる程冷房する傾向にあるように見える。地球温暖化の中で、このまま冷房と背広の関係が広まっていった時、エネルギーがいつまでもある、とはとても考えらない。
ここで私の提案だ。喉ぼとけのポイントに視点を集中させるというのならば、あご髭が一案だ。戦国時代の武将の肖像画のようにだ。こうすれば、胸元は空いていても格好がつく(あご髭のない肖像画と比べるとわかる)。だから、サラリーマンが全員あご髭を伸ばすようになれば、背広はなくなる(かも知れない)。
ところで、これを書いている今丁度、電力ピークカット契約のお陰でクーラーが止った。なんとかして欲しい。(1999/8/3)
今日の朝日新聞に「植物にもイブがいた」というようなタイトルの記事があった。現在の全ての陸上の緑色植物がただ一種類の淡水中植物から系統発生していることがわかった、という内容だった。
現人類も「イブ」と通称される一人の女性に端を発していることがミトコンドリアの遺伝子から分かっているから、少なくとも人間ばかりでなく、植物も、ごく小さな群が地球全体に拡がっていったことになる。私も地球環境はなんとなく一定で変化しない、という感覚はあるのだが、実のところ、ある明確な始まりがあって、その流れは後戻りしない、という事実が厳然としてあるわけだ。
アイヌはペルー人と遺伝的にそっくりだ、というのはこの間のNHKの特別番組だった。ついでを言うとちょっと前まで、米国のスミソニアン博物館でアイヌ展が開かれていたそうだ。芸術新潮が紹介していた。おまけにこの展覧会は日本財団も援助していて、慧眼の士というのは確かにいるものだと思った。
さて確かに人間というのは自分自身を作り換えながら、地球に拡がってきた、というのは、良く解る。だから、生物の増殖という観点でみると人間も地球を覆い尽くすまで増える、と考えるのが自然だろう。誰でも長生きしたいし、子供は作りたい(あるいは子供を作る練習をしたい)、おまけに、「人命は地球より重い」なんて言うやつがいるから、人命が全てに優先することに建て前上なっている。
人間の数を減らそう、なんてのは誰も言わない(この点、中国人は冷静だ)。だからアフリカでは、人命第一というスローガンの元で食料と医療援助をしているから、人間はますます発展している。だが、問題なのが、「人命が地球より重い」という発言だ。日本で公式にこの標語が使われたのが、1977年の日航機の日本赤軍ハイジャックの時、当時の福田赳夫首相がこれを引用したようだ。それ以前に言い出した人間がいるはずだがまだ調べていない。私の親の時代には鴻毛より軽し、だったのに私の時代には俄に地球より重くなったのだから、大したものだ。たったの数十年でこんなに急激に変化するものは思いつかないが、そう、日本女性の貞操感なんかは変化の傾向は逆にしてもよく似ている。
さてこの標語だと、人間以外のあらゆるものに対して何をしても許されてしまう。よくあるのが、自然保護とそこに住んでいる人間の問題だ。「クマ(あるいはクマタカなど)とワシのどっちが大事だと言うんだ。ワシから仕事と家を取り上げて死ねと言うのか」というのが大抵の言い分だ。日本では金を払って何とかするのが普通なんだが、本当にこの言い分が正しいのだろうか。「日本では人間が一億人、クマタカは数千羽ですから、クマタカの方が大事です」の方が、資源の保全の観点からは正しいと思う。朝日新聞も社説で主張したらどうだろうか。
人間優先を唱えながら、人間が増え続けるという事実、この状態がこの先も続くと、あまり気持ちよくないことが起きるのじゃなかろうか。
ある環境を単一の種が占めてしまうと、今度はその種が繁栄し続けるために多様化しなくてはいけない。つまりニッチを探して安定化を目指すわけだ。丁度オーストラリアの有袋類が分化して草食やら肉食やらになったようにだ。将来、あらゆる動植物を絶滅させた後、人間自身がそれに成り代わっていかなければいけない。普通は形態の変化は何万年もかかるんだろうが、人間の場合、丁度バイオ技術が人間の種として変化する力の一つになったから、この変化は急速におこるだろう。つまり、バイオの力をかりて、人間クマタカ、とか、人間ドードー鳥、とか、人間クジラとかに変身して、絶滅した種のもっていたニッチを埋めていくわけだ。人間ヨルダン杉、とか植物形態を取るかも知れない。
こうして人間優先と、自然保護が両立するわけだ。「家畜人ヤプー」の人間ウマだとか、人間椅子の世界と言える。(1999/8/5)
新聞は記事より広告がおもしろい。今日も朝日新聞(予算の関係でこれしか定期購読していないのだ)の広告にスウェーデンヒルズの宅地販売があった。
スウェーデンヒルズというのは、北海道は札幌の郊外、石狩郡当別町の山の上に、住宅メーカーのスウェーデンハウス製の住宅だけを集めた新興住宅地だ。スウェーデンハウスは気密性と断熱性が特別高いという特徴で、有名だな。昔、暮らしの手帳社が持ち上げたので一気に有名になった。白木を内装に多用するというのも、「外国風だけど白木を使っているのが日本風な気もする」というのでポイントが高い。亜熱帯の気候に近くなりつつある日本に、寒帯で発達した住宅を売り込んだのだから、セールスの腕前はたいしたものだ。この調子なら台湾あたりまで売れそうだ。ただしアフリカには売れそうもない。コストが結構高いからだ。
あとは木製のサッシ(結露しにくい)とか、窓が全部二重(断熱性を高めるため)だとかが特徴だ。家の外装も「日本ばなれ」している。急勾配の切妻屋根と茶色い壁に白い窓枠が特徴だ。メーカーの言い分は他にもあるだろうから、後は自分で調べて欲しい。
さて、このスウェーデンヒルズだが、北海道だから、何もない土地に作ったのでまわりに日本を思わせるものが何もない。スウェーデンのようだ、というのが売りだ。開発から15年経って250世帯も住んでいるという。「永遠に爽やかな風景を映す丘の街」、「どこにもない理想の街づくりを目指して」がキーワードだ。「夏至祭」、「ルシア祭」も開かれるという。「夏至祭」というのは、字の通りならMidsummer Day で、辞書によると「パブテスマのヨハネの祭日」だが、この広告には写真が載せてあるのでそれをよく見ると、広場の真ん中に緑で飾った柱が立っていて、回りでフォークダンスを踊っているな。だからこれはMay Day (五月祭)のmaypole (五月柱)だ。May はMay Queen(繁殖・生長の女神の名)の意味もある、と辞書にあるから、これがキリスト教に改宗する以前のヨーロッパの土俗宗教行事の名残であることが分かる。
これも辞書によると「花・リボンなどで飾り、五月祭にその周囲で踊る」とあるな。研究社の英和中辞典ではこの説明の図があって、さきっちょが太くなった柱の回りで少女が踊っている。で、ここまでくれば、この祭の意味は明らかだ。一番これを象徴しているのは広場の真ん中の柱、つまり××だ。また、ルシア祭、というのは12月13日に行われるスウェーデンの行事らしい。冬至に関係のあるところをみるとこれもキリスト教の姿をしている土俗的な行事だ。
北海道は日本の歴史とは切り離された(アイヌと松前藩の関係は学校じゃ教えないから、明治以前は原始林状態、ということになっているな)場所だが、このスウェーデンヒルズはこれをさらに徹底していると言えるな。わざわざ東京の新聞紙面上に広告を出すぐらいだから、かなりの需要があるんだろう。つまり、自分の日常と過去を全て切り捨ててしまいたい、という強い欲求が日本にはある。
同じ19日の不動産広告に豊州の超高層マンションの売出しもあった。あのチバリーヒルズを売った東急不動産だ。地上36階、「キッチンから出る生ゴミを即座に処理できる世界初採用の全自動ディスポーザー」が売りだ。ゴミ袋をぶら下げてエレベータに乗るんでは、「日常」が丸だしになってしまうからだ。
家は女性を表わすものだから、スウェーデンヒルズも豊州のマンションも女性の考えが強く反映していることが明らかだ。男尊女卑なんて言葉が現われて以降、これが男女平等になってから勢いがついてしまって、その慣性に、もうどうにも止まらない状態になっている。だから、日本的なもの、と彼女らが考えているもの以外が全て欲求の対象になっている。どうして日本女性がこんなにも日常と歴史から脱出したいと願っているのかは、これから研究しなければならないだろう。
だが「どこにもない理想の土地」という言い方は「どこにも有りえない土地=ユートピア」と通底するし、イシカリとは「行き詰まって先が見えない形」(石狩日記:松浦武四郎)なのだ。「ディスポーザ」は見えなくするだけでなくなりはしないし、超高層マンションは電力が切れたら住民は登山者にならなければいけない。
おい、日本嫌いの奥さんを持ってる君、あんまり奥さんの言うことを聞いているとえらいことになるぞ。(1999/8/19)
残暑が続いているな。街を歩いていると頭がくらくらする。建物の中は涼しいんだが、外は暑いから、何回か出入りすると気持ちが悪くなってくる。
東南アジアの人間は働かない、なんて言説が昔はいいふらされていたんだが、冷房が普及したら途端に働きだしたんで、単に気温だけの問題だった、なんて言い出したやつがいたが、間抜けだ。だが世の中、間抜けな人間が集まって今度はプライバシー筒抜け、が始まったな。米国では、無料の電子メールがはやっている(日本でもサーチエンジンのサイトには大抵用意されているからユーザも多いんだろう)。WWWページを経由して、なおかつ、数百万のユーザのいるシステムを使えば、メールの秘匿性が高まるんじゃないかと期待したわけだ。ところが、このメールサーバがおなじみMSのものだったので、またもやセキュリティの大穴が開いていたそうだ。
特定のページからこの無料メールシステムに入るとパスワードなし、ユーザIDだけで個人のメールボックスが丸見えになっていたのだ。そもそも電子メールを会社や学校から発信すると、まず部門のメールサーバに届く。このサーバから次々とバケツリレー式にメールが運ばれていくのだが、会社の場合、このサーバは特定の管理者がメインテナンスするのが普通だ。
管理者の善意によりメールは読まれないことになっているが、そうでない場合、つまりメールが管理者に読まれる可能性は常にある。米国で無料メールがはやったのは、盗聴の可能性のある社内メールシステムでは伝えたくないような、秘密のメールが沢山あったからだ。私の知っている会社でも、社員のメールがチェックされていて、「転職」、「求職」、「給与」なんて単語が含まれているメールを出したやつが、真っ先にリストラ対象になった、なんて事例がある。メール管理者から見れば、こういうスクリーニングなんてのは、コーヒー一杯飲んでるうちにプログラムできるから、メールが見られていない、なんて考える方が間抜けだと言える
私のところの管理者は信用できるから大丈夫だ、という君、管理者は管理職ではない。単に今の管理職のオジサンが何にも知らないだけで、管理職がメールの仕組みを知った途端、管理者にどう指示するかわからない。管理者じゃなくとも部門のネットワークを流れているパケットをモニタしていれば、ある人間がメールサーバにアクセスするときのIDとパスワードを見つけるのは簡単だから、言わば誰でも他人のメールが読める。まあ、別に技術がなくっても、MSのメールサーバが導入されていれば話しはもっと早い。
電話も同じだ。技術が進んだので、不特定の話者の発話をコンピュータが認識できるようになっている。そこで特定のキーワードを拾い出すようにプログラムを交換機にセットしておけば、電話の内容は簡単にモニタできる。女性週刊誌の中吊り広告を見ただけでも分かるが、人のプライバシーを覗きたいのは多くの人間の持っている欲望だ。昔は本人が直接ピーピングトムになるしかなかったし、どこぞの国のように、国が組織的に盗聴してもその分析を人間がやらなければならないので、非常に手間がかかる。
だが、ネットワークとコンピュータが発達したせいで、電子メールと電話の大規模なモニタリングがたいしたコストなしに簡単にできるようになった。おまけに盗聴法が成立したから、国の担当者はやりたい放題だ。警察に限らず、官僚の性向はやや根暗なのは誰もが認めるところだから、人のプライバシーを覗くのには熱意を傾けるようになるだろう。
ここで暗号を使う、というのはあまり意味がないように思われる。例えば電子メールを暗号化すると、暗号化しているという状態そのものが平文のメールの中で目立つから、たちまち司直の手が入る。どこかのホームページに、画像の中に暗号文を埋め込めば暗号があるかどうか分からないだろう、というのがあったが、やたらと画像のやりとりをしている連中、というのも目立つ。
だが結局のところ、情報の独占というのが困難なのは、歴史の示す通りだ。おまけに官が始めたら民がこれに習う、のは現代日本のありかただから、大してコストのかからない組織的盗聴、これがいやな言い方なら、ネットワーク適正利用に関わるモニタリング、は、国、会社、学校、地域、家庭というように社会に拡がるだろうと思われる。
コードレス電話の盗聴という趣味を持っている人間もかなりの数、いるようなので、要するに今後は、君と誰かの間の話しは、電子的なものを間にはさむ限り、いつでも誰かに覗かれている、と考えた方がいい。
世の中には私小説作家のように、「私を見て」というタイプの人間もかなりいるようなので、「誰かを見たい」という人間とネットワークでつながるようになり、これが「お前なんかどうでもいい」という人間を巻き込んで、将来的にはお互いの生活を覗きあう毎日になるんだろう。近頃の女性が裸同然で街中を歩き回って別に恥ずかしがっている様子もないことや、国民背番号制の成立なんかを考え合わせると、肉体的な個人情報や、社会的な個人情報なんぞが最初に秘密でなくなるんだろう。
ところで、privacyというのは隠とん、という意味だ。昔は根岸の里で隠居生活をするのが商人の夢だったそうだが、今の世の中プライバシーがなくなって、本当に夢になってしまった。
うむ、ちょっと待て、ネットワークフリー、つまり電子的なネットワークも電話も一切ない地域を作ると、逆にいけるかも知れない。アーミッシュ(Amish)ならぬエドシューミッシュだな。(1999/9/1)
君はあの証券会社のCMを見たか。私はそのうち二種類をみた。
一つは、米国には小学校で投資ゲームをやって、一番儲けたチームを表彰する学校があるというもの(進んでいる米国では投資は子供の時から始めるのが普通だ、やったことのない日本の君は遅れている、というメッセージ)。
もう一つが、将来を決めかねている二人の息子に、財産を分け与えたら、投資新聞を読んで成功した、というものだ(定職はないが、とっても気のやさしい子供達を持っている君、若い人間の方が投資の感覚があるから、早いとこ君の財産をまかせた方がしっかりした子に変身するぞ、というメッセージ)。
このCMが続いている、ということは、これを見てその気になる人間がやはり何人もいるのだろう。金のある人というのは随分といるものだ。だが、全員が投資だけで食っていけないのは当然のことだ。パイ全体の大きさが膨らんでいる時には、誰でも儲かる確率は高い。日本ではこういう時代は終わってしまったが、米国ではまだ続いているらしい。
だが、この前の日経ビジネスには、まだ好景気が続く、というのと、もうだめだ、という、全く正反対の意見を二つ並べた特集だった。この事だけで、経済予想というものが実はギャンブルとあまり違わないことがわかる。ところで、予想と予報はよく似た言葉だが全然違う。私は仕事柄、天気のことに関係するのでここで一言言わせて欲しい。天気予報は一応、物理現象をモデル化する数式をもとに計算して出すので、予想とは別物だ。長期予報はあまり当たらないが、少なくとも二三日先の天気は予報できる。
で、例のCMは、先のことはわからないが、取りあえずパイが大きくなれば、(誰かが)儲かる確率は高くなるから、そこの君、パイの生地になってくれ、と言っている訳だ。だが、これは今の米国の考え方とは違うようだな。投機、つまりギャンブルして儲けるのが正しい態度なのだ(さっきのCMとは違って、自分で十分な資金を持って始めるのが投資だと私は思う。小学生は自分の資金はないから、金を借りて投資を始めることはできる。だが、これは投機じゃないんだろうか。おいエコノミストの君、言葉の解説をしてくれ)。
ここでAmerican Heritage Dictionary をひくと、gambleの類語の説明にA venture depending on chanceとある。つまり米国では、ギャンブル、投機、ベンチャー、というのが同じコンテキストで話されているのだ。日本の中のイメージと大分違う。ベンチャーは何かしら新しくて良いもの、というイメージが流布しているからだ。このところ、他にも米国人のイメージと日本で喧伝されているイメージに食い違いのあるものが多い。
グローバルスタンダードという言葉を、何か全世界の話し合いの末に決まった標準、というイメージの中で捉える若者が多い気がするが、全く違う。米国の国内標準あるいはこれに近い形を世界の他の人間に押し付けるのが、グローバルスタンダードだ。
パートナーシップという言葉もそうだ。米国の言うことを聞くことがパートナーシップで、対等の関係を意味しているのではない。グローバルスタンダードは基本的に米国人が作成して、彼等のホームグラウンドで磨かれてきたものだし、日本には米軍が駐留しているのに、米国に日本軍は駐留していないから、パートナーとは言い難い。私も戦後教育の申し子だったから分かるのだが、平等というキーワードのもとに育てられてきたものだから、子供の時分は、個々人が対等だというイメージを拡大させて、世界の各国はみんな対等の筈だと思っていた。
なぜこういう認識のギャップがあるかというと、あらゆる経済的、社会的ギャップというのは儲けの対象になるからだ。例えば、貿易なんかはその代表だ。大学の先生というのも同じだ。新しい学説を人より早く輸入して解説するだけで商売になる。だから、ベンチャーや、グローバルスタンダードとか、パートナーシップとかの拡大されたイメージをふりまいて、このギャップを維持あるいは拡大すれば、この利益を享受し続けることができる。
私は、経済社会というのは内燃機関に似てい回転数を上げて燃料を大量に消費しているのが景気のいい状態だ。だが、エンジンを回すと排気ガスが出るし、水や空気を使って冷やさなければならない。ここら辺りは人間と同じだ。食うものを食って、出すものを出すから。よく似ている。一方、米国では、情報革命とか言ってコンピュータを軸として経済が回るんだと言っているのだが、私には疑問だ。情報はいつでもどこでも、いくらでも正確に複製できるし、エネルギーも使わない(情報操作に必要な最小エネルギーはどれぐらいか、なんていう話しはこの際、無関係だ)。
つまり法律がその価値を維持しているだけで、複製を禁ずる法律がなくなった途端に、価値が限りなく0に近付いていくのだ。だから私は情報を云々する人間よりは、ものを作る職人が好きだ。(1999/9/6)
ロシアの宇宙ステーションミールから最後の乗組員が帰還する、という記事が新聞に載っていた。おきまりの財政逼迫だ。
宇宙ステーションは割合に低い軌道にあるので、大気の影響を受けるため、段々高度が落ちる。だから姿勢制御エンジンをふかして、元の軌道に戻す必要があるのだ。だから、燃料の補給その他のメインテナンスを怠るとたちまち、大気圏に落下してしまう。ミールが上がってから、ロシア、その頃はソ連だったのだが、地球との間を何回もソユーズが往復して、少しずつ大きくしていった。宇宙ステーションとしては、各国関係者とも、その技術的な成果に対して、十分な評価を与えていたのだが、西側=米国報道機関はあからさまにこれを無視していた。これから米国主導で建設される国際宇宙ステーションの技術的問題は、殆どこのミールで解決されていたと言える。
だが、宇宙ステーションの維持は、少し考えただけでも莫大な金がかかることが分かる。このところのミールは故障続きで、宇宙飛行士ならぬ宇宙修理工の仕事場になっていた。何のための宇宙ステーションなのか分からない状態になっていたのだ。
ロシアは米国主導の宇宙ステーションにも協力することになっているが、やはり、自前の宇宙ステーションを維持したかったらしい。ぎりぎりまで予算の獲得に頑張ったらしいが、遂に金の切れ目が縁の切れ目で、ミールを放棄することになったのだ。だが、技術者、科学者、軍人の立場なら、自分達が作り上げた宇宙ステーションの放棄なんてのは、泣くに泣けない、切ない気持ちだろう。それぐらいは、私にも分かる。
で、ミール関連を調べていたら、沖縄ロシア宇宙展というのが名護で開催されている。「本宇宙展は、今後人類の未来の発展に向かって歩み続けることになるだろう宇宙のことをより多くの人々に<見る・知る・体験する>時を持って貰い、人材の育成と発展に寄与することを目的として開催されるものであり、21世紀を担う子供たちに対する”心のメッセージです”」と述べている。ミールやら各種探査機の実物やら模型が展示されている。だが、沖縄で開催する、というのがいかにも唐突だ。一生懸命に金を集めているロシアの関係者の顔が浮かんでくる。
さて、国際宇宙ステーションなんだが、この利用目的がなんとなく曖昧だ。宇宙における人間の生理、等はミールで長期間滞在したりしたおかげでよく分かってきたようなのだが、これは目的のための目的だ。なぜ宇宙に行くのかと聞かれて、「そこに宇宙があるからだ」と答えるのと同じだ。無重力における新素材の開発、等というのもよく挙げられるのだが、打ち上げ費用を考えたら地上でなんとかした方が確実だ。また、宇宙ステーションの無重力というのも中途半端で、ステーション全体の振動が無視できないのだ。NASAなんかは、ここら辺りを突かれるのがいやなもんだから、初の女性船長による飛行、なんてイメージアップ作戦に必死だ。でも国際宇宙ステーションもミールの二の舞いになりそうだ。
ロシアと米国が張り合っていた頃は、予算もどんどんついて、火星に人類を送り込もう、次の人類のフロンティアは宇宙だ、なんてナイーブな科学信仰が許されていたのだが、なつかしい過去になってしまった。
宇宙はフロンティアじゃなくて空虚な場だ。地球の外に出たら本当のところはスカスカの真っ暗な空間が拡がっているのだ。ちなみにミールというのはロシア語で平和という意味だ。(1999/9/14)
今日から京都大骨董祭というのが始まるようだ。先日のNHKテレビで和ダンスを再生・販売している店の活動を紹介している番組をたまたま見たら、なかなか面白かったので、調べてみた結果だ。
この店の主人が骨董祭の主催者のようだ。あちこちから、雨ざらし同然になっている和タンスを探し出してきて補修したり漆の塗り直しをしているという。殆ど家族だけで作業をしているのだけれど、主人の和タンスに対する思い入れが伝わってきて気持ちよかった。和タンスと言えば桐のタンスが定番だし、李朝ものなんかが流行りなんだそうだが、番組では帳場ダンスの再生の経緯を写していた。
雨曝しになっていた天板を取り替えて塗り直しをしたら、最初にこの主人が言っていたように、立派なタンスになった。元は明治に作られたものだったという。材はヒノキだったがケヤキのように見えると言っていた。必ずしも高級な材料で作っている訳ではないのだが、基がよく吟味されているのだ。この店、吾目堂、と言うのだそうだが、確かに吾が目に自信があるのだろう。
以前に仙台ダンスの作業場を訪ねたが、ここでも昔の網元の家にあったという作り付けのタンスを見たことがある。材のよさといい、塗りの素晴らしさといい、いや実に堂々としたものだった。もちろん非売品だった。良いものは高いのだ。
この吾目堂のタンスだが、昨年の骨董祭で、60万円で売れたという高いかどうかは計算すればわかる。まず引き取り代だ。雨曝し同然で放ってあってもいざ手放すとなったら急に惜しくなるのが人情だ。2万円位だろう。トラック代が人件費合わせて5万円位か。持ち帰ってきて汚れのクリーンアップに1日かかつて人件費2人分で2万円だ。天板の取り替えと細々した補修、なくなっていた引き戸の新調には専属の指物師がかかっていたから1週間で15万円、鉄の引き手の漆焼き付けは外注して8万円、塗りは本漆を使ってきちんとした作業をしていたようだ。若手の職人だが、まるまる10日はかかるだろう。材料費と人件費で20万円だ。ここまでで52万円かかってしまった。設備の償却費だとか、倉庫代とか、主人の儲けを考えなければならないから、赤字同然だ。このタンス、新しく作り直したら半年はかかると言っていた。妥当な線だろう。腕のいい職人に頼んで材料に凝れば400万円は下らないだろうと思われる。
で、こうして集めて再生したタンスの七割方が米国に輸出されるのだという。バイヤーが訪ねてくる様子も番組になかにあったが、目利きというのは大したものだと思う。世の中では、奥様テレホンショッピングだとか、これは安い!のカタログショッピングなんかの家具が売れ筋のようだ。普通考えるより安いのに、営業費を目一杯使っていることが分かるから、一体原価がいくらなのか、見当もつかない。粗製品の代表だ。すぐに壊れるからあっというまにゴミになってしまう。平均寿命数年だと思われる。パソコンなんぞの平均寿命はどのくらいだろうか。
身の回りの安物があまりに短い寿命なので、逆に自分自身が永遠のような気がしているのではなかろうか。確かに当節の女性には高価な品物を短時間で消費している。自分の感ずる時間経過と経験を品物に外部化し、捨てることで、内面の不都合を消去したことにしているのだ。だから、新しくて、高価で、手になじむことによって自分の体の一部になるようなものが好まれる。そう言えば「自分の殻を脱ぎ捨てて」というフレーズが愛好されている。
こういう中では、明治からあって、堂々としていて、自分より長生きしている物、というのは嫌われるし、憎まれているのかも知れない。だがどうあがいても、明治のタンスの方が人間より長生きだ。日本の昔の物には人間より長生きの品物が多い。またそれを当然としていた風がある。
ところで、人形町に大和屋という家具屋がある。今にもつぶれそうな店構えなのだが、実にいいものが安く売っている。下の引き出しは上の引き出しを引いてからでないと引き出せない秘密ダンスだとか、衣桁なんぞ絶滅寸前のものもある。(1999/10/1)
この11月の1ヶ月程、タイで仕事をしてきた。日中は30°Cを超すのだけれど、朝夕は割合に涼しく、暮らすにはよい季節だ。タイではこの季節を「よい空気である」と表現するらしい。11月をはさんだ3ヶ月程は、雨も殆ど降らないので(と言っても、バンコクで雷雨に出くわして3時間ほど建物の中に閉じ込められていた)、旅行にもベストだ。
タイは食べ物が安い、というより元々、豊富なのだ。11月の季節を英語で言えば冬になるのだが、野菜はもちろん、私が見た果物だけで15種類ほどもあった。マンゴスティンが果物の女王と言われるだけあっておいしかった。1kgで30バーツ程だ(日本円で90円程度)。
で、タイでは、食事はまずそうに食べ、たくさん残しても問題ない。皿の料理を全部食べるのは少し変わっている、と看做されているらしい。つまり食べ物が有り余っているのだ。タイでは食べ物に困ることはないのか、と知り合いに聞いてみたら、「野に出でて米を取り、水辺に出でて魚を取れ」という言葉がタイにはあるのだという。だから、歴史的に飢え死にした人間はいないのだというのだ。
確かに少し郊外に出て、田圃を見たら見渡す限り稲が生えていた。タイは土地が平らで水が豊富だから、畦を細かく作る必要はない(タイには、トンネルが一つしかないという)。おまけに、私が見たのはもう既に一度刈った後だった。魚を取るのも日本と違う。バンコク郊外に運河のわきに瀟洒な家が建っていた。で、この家の前に四つ手網が仕掛けてあったのを見た。驚いたのはこの網を引き上げる、恒久的な仕掛けがしてあったことだ。てこ、の要領で、網を長い棒の先につけてあって、支点となる柱がきちんとした形で立っていた。つまり、毎日か二三日おきかは、知らないが、家の前に出て棒の片側を押し下げれば、必ず、魚が取れる、ということなのだ。
日本では、食っていく、というのは、職業につく、ということと同義だ。おまけに明日には食うことができなくなるかも知れない、という怖れが基本的にある。だから、毎日働いては老後のために貯金までしなければいけない。しまいには、食っていくために仕方ない、というの、不始末の言い訳によく使う。これを聞くと、なんとなく納得してしまう。しかし、これはへたをすると、何をしても良いのだ、ということになりかねない。つまり、人間が生きていくためなのだから、他の生物や環境は人間に奉仕すべき存在なのだ、という考え方だ。
本当のところ、タイのような生き方が人間の原初的なありかた、なのではなかろうか、と私は思った。だが、タイのように恵まれた国はそう数はない。たいていは、あくせくしなきゃ食っていかれない。何でタイだけがこんなに恵まれているのだと、タイ人に聞いたら「おしゃか様パワーだ」と答えた。きちんと仏教を大事にしている姿は立派だ(近頃は、若い時は必ず行うべきだ、とされている修行もパスする者もいるらしいが)。
だが、君、食っていくだけでいいのか、という問題も残っている。(1999/12/14)
正月早々の朝日新聞に作家の塩野七生氏の話が載っていた。立派な話であった。塩野氏と言えば、イタリアに在住していてローマ史を書き続けているので有名だが、こっそりと、家庭画報に五木寛之との対談が連載されていたらしい。家庭画報はあまり数の出るような雑誌ではないから、割と本音で好きなことを言い合っていたようだ。この連載は写真も少ないので、毎号、チェックしている私も気付かなかった。
新聞紙上の塩野氏の話しは、米国の覇権主義において、米国自身の利益を追求し続けると、その覇権は長くは続かず、中世のような世界が再来するのではないか、というものだった。米国はMSと同じような態度を世界に向けてとっているから(これについては誰かも言っていたのだが、誰だか忘れてしまった、つまりMSは独占企業であることをMS社員以外は皆、肯定するし、米国のやり方がグローバルスタンダードである、と米国人だけが本気で信じているということだ)、現在の栄光は長く続かず、将来は暗転して塩野氏の予言通りになるのではないか。ところで、日本で作られるゲームやアニメ、漫画には中世風をベースにしたものが多い。芸術家は未来を見る、というから、これらの作者も何かを感じているのだろうと思われる。
さて、2000年紀に入ったから、私もこれからの世の中を考えてみた。まず、現時点を中心として、過去と未来をみてみようではないか。始めは過去だ。教科書では、江戸時代の後、1968年から始まる時代を現代、としている。ところで、この時代はいつか大きく変わるだろうから、その時、後代の歴史家はこれを何時代と呼ぶだろうか。近代、前近代という分け方には賛成できない。全ての歴史を現代とそれ以外に分けるということ自体、その裏に現代が最高で過去は全て、それ以外、という傲慢な態度が見える。数万年の人類の歴史の内、たかだか百年を最高の時代とするのは、明らかにバランスがとれていないからだ。
さて、この現代のことだが、まあ未来には、東京時代、とでも呼ばれる可能性が一番高いだろう。江戸時代が歴史家からは、どのように位置付けられているのかは私は知らないが、「国内に戦争がなくなって、独自の文化が発達した時代」とでも言うのだろう。それでは、東京時代はどう表現されるのだろうか。私なら「米国の覇権に屈してそれまでのあらゆる蓄積をドルに替えた時代」と呼ぶだろう。
日本の明治以来の工業化の成功が、欧米の成果の横取りの結果ではなく、それまでに蓄積した国内の人的資源と整備された圃場、そして成熟した商業制度があったからなのは、よく知られた事実だ。だが、途中からこの元手に手をつけてしまった。つまり金の卵をもっと欲しがって鶏を殺してしまったわけだ。多様な型で作られ続けていた人的資源の供給元は、サラリーマン製造装置にとって替わられたし、江戸時代を通して整備拡充されていた田畑は打ち捨てられてしまった。商業制度は無慈悲な銀行群に支配された。
この変化はつまるところ、米国に対抗しようとして、屈服し、その後追従したことに原因があるのは、明らかだ。私がいちいち言うまでもないことだ。アメリカと戦争したことを知らない若者もいるようだから、明らかとは言えないかも知れないが。
ここで話は変わるのだが、こんなに長い間、圧倒的な影響を受けているのに、不思議なのは日本に米国研究所がないことだ。一寸WWWで検索したら、米国研究をテーマに挙げているのがPHPだけだった。だが、研究は資料の収集から始まるのだから、そのことを考えただけでも、米国研究が個人のレベルで行えるようなものでないことは明らかだ。外務省の北米課は人数が足りないから、到底、組織的に米国研究をしているとは考えられない。外務省というのは例の人質事件でも明らかになったように、パーティが主な仕事だからだ。
別に戦争するわけではないが、敵を知り、己を知れば百戦危うからず、と言う。世の中、新しいミレニアムだと言って騒いでいるので、私も一言いいたかった訳だ。(2000/1/5)
日経コミュニケーションの2000年1月3日号、特別記事として「21世紀のネットワーク社会に向けた提言−識者30人に聞く−」というのがあった。30人のうち、最初が堺屋太一で次に坂本龍一、という人選に編集者の苦労が偲ばれる。
それぞれに勝手なことを言っているが、私にも言わせろ、という事で書いてみる。日経の用意した質問は以下の三つだ。1、あなたにとって、通信ネットワーク分野で最優先して取り組むべきと考える課題は何ですか?2、その課題に対する解決策は?3、21世紀のネットワーク社会で、日本は”没落”すると思いますか、”飛躍”すると思いますか。その理由は?
将来予測をするために、識者に聞く、というのは大体当たらない。未来の事など誰にも分からないのだ。だが、自分の意見を述べておくのは良いことと思われる。一番まずいのは、何等の方針を持っていないものだから、部下から提案を集め、それを会議にかけた上で、物事の方針を決めようとする上司だ。結果がうまく行けば自分の手柄にするが、まずいと他人のせいにする。君はそうじゃないか。
さて、質問をみると、まずネットワーク社会が到来する、というのが前提になっている。今後100年間、という時間スケールでネットワークが存続すると考える方に、私も賛成する。基本的に通信ネットワークはエネルギーとリソースを消費しないから、その維持コストが極めて低いからだ。高速道路を含む自動車システム、新幹線網、がどれだけの資材や土地、そしてエネルギーを消費しているかを考えれば、これはすぐに分かる。
さて、三つの質問の答えを言わせて欲しい。まず、1、について。これは光ファイバーなりの伝送路を全国津々浦々にはりめぐらせることだ。また、現在の幹線道路ではなく、昔の街道に沿ってつけたい。将来、エネルギー事情が江戸時代レベルになって、人々の移動がもと通り、自分の足に頼るようになってもメインテナンスできるようにだ。これに関連して高速なバックボーン重視でなく、ネットワークの字義通り、適当な太さ(情報量から見て)を編目のように張り巡らし、できれば太陽電池程度で動かすようにしたい。
次は2。これは簡単だ、河川を3面コンクリート張りするような公共工事の費用を振り替えればよい。1も2もそうだが、ハードウェアはもう問題ではない。それをどう使い、そしてどう使い続けるかだ。特にどう使い続けるか、つまり100年レベルでメインテナンスをどうするか、をもっと問題にすべきだ。どこかの吊り橋のように作るには作ったがこれからもずっと赤字で、お先真っ暗ではまずい。
3、はどうだろうか。まず”没落”と言うのは、設問を作った人間の立場が反映していると私は思う。国の繁栄と没落を心配する人間とは、端的に言えば、金融資産をたくさん持っていて、これが子孫に伝えられるかどうかが心配な人間だ。あるいは現在の贅沢を子孫にも味わわせたいと願う、人々かも知れない。
没落するのがどういうことになるのかは、割合に簡単に想像できる。例えば、北海道の経済は北海道開発庁等というのがあることから分かるように、公共投資で保っている。で、これは誰かが言っていたことだが、税の使用の公平さを保つためには、北海道と本州の貨幣を別にして、北海道の貨幣を円に対して切り下げることが考えられる。そうすると、”没落”を心配している人間の考える状況が生まれる。北海道が購入しなければならないものの値段が上がる。石油、自動車、大型の生産資材、衣料、化学製品等だ。冬は寒さにがまんしなければいけないし、あらゆるものを大事に使わなければならなくなる。道路もでこぼこになるだろう。だが、食い物は豊富だし、土地は広い。人間が貧乏になった分だけ自然が美しくなるのではないのか。
一時期、清貧の思想、などというのがはやった時期があったが、やはり贅沢は素敵なので、すぐに廃れてしまった。だが、いつまでも贅沢できないのも、皆が知っている。ここでグローバルに繁栄するのだ、等と言って米国に対抗しようとすれば結果は、またこれまでの繰り返しになってしまう。同じ土俵ではなく、別の土俵を探すべきなのだ。別の土俵が何かわからない、というのは君、君が世界に誇った高等教育を受けてきたからではないのか。(2000/1/7)
「全国アホ・バカ分布考、松本修、新潮文庫」というのがある。日本の文化中心が日本語を含めてまさしく京都にあることを示した労作だ。
私は東北のズーズー弁と呼ばれて蔑まれていたことに劣等感を抱いていた人が、著者の話を聞いて、積年の暗い気持ちが晴れたとか、沖縄に昔の言葉が残されていたとか、いう話に感心した。京都が長らく日本の文化中心であったことに誰も異論はないだろうが、さて、首都とされている東京は、これまでにどんな文化を積み上げてきたのだろう。だが、関東大震災とアメリカの焼夷弾爆撃のダメージが大きすぎて、世界レベルのものは少ないように思われる。
あまり成果が出なかったせいと、またぞろ土建屋の利権獲得のため、首都機能移転が90年の国会で決議されたそうだ。そうだ、とういうのは、昨日(1月22日)付けの朝日新聞に首都(機能)移転の解説が出ていたのを読んだからだ。首都機能の移転候補地は国会等移転審議会が答申したそうだが、利権代表者ばかりの国会で、この話が決まるとは到底考えられない。
それよりも私が興味を持ったのは、朝日が「首都移転と言わないのは、皇居を東京に置いたままにしておくから」という解説をしているところだ。これはかなり微妙にしておもしろいところだ。つまり、民主主義だから、首都は法律で決めたところ、ではなくて、天皇のおられるところが首都である、と朝日は認めたわけだ。やっぱり最後は皇室だのみ、というわけだ。
そもそも、明治維新で天皇に江戸に来てもらったことからして、何の法律も設定することなしに行われたことだ。だから、京都の人は今でも天皇は、一時的に江戸に行っただけ、と考えて御所を清掃しながら待っている。
法律で首都の要件が決められていないとすれば、何が首都であることを決定しているのだろうか。法律に記述していないとなると、それは国民の大部分が想定していると考えられる何かの記号的存在だ。政府といわゆる大新聞が認めている以上、皇居、すなわち天皇の存在が第一の必要条件だろう。それでは首都機能に挙げられている、各省庁の存在は首都の必要条件だろうか。
省庁は機能であってシンボルではないので、必要な条件にはならない。その証拠に部分的に移転しても問題がないからだ。大蔵省だ、という意見であれば私もその可能性は認める(シンボル性から言えばあの門を通って入っていく、という形が高いポイントをとっている)。では、国会は必要条件だろうか。これはかなり近い。国会議事堂がそのシンボルだ。
他にも意見はあるだろうが、以上の二つが首都であることを決めているわけだ。すでに日本の二重性が現われている。だが、国会議事堂をシンボルとした国会が首都としての日本を体現している、とは言い難い。逆にいつまでも国会が日本の決め手にはならないので、天皇の存在を以て日本の首都の重みが裏うちされていたとも言える。一番のポイントに係わる議論を避け、原理原則をないがしろにしてやってきたあげく、首都ではなく、首都機能の移転だ、なんて右往左往するのは、みっともない、と言うべきではないだろうか。
いっそ石原知事みたいにはっきり主張した方がわかりやすい。ついでに言うと、石原知事、現代の失われた父性を象徴している、とかで、人気があるそうだが、父性がなんたるか、私はまだ考えていないので、これはそのうち。
そこで私は、天皇は京都にお還りになるべきだと思う。そうすれば、首都は自動的に京都になるだろう。コストは殆どかからずに首都問題は消えて、あとは東京都(その時には東京府になるのだろうが)の問題と国会と役人をどうするかの問題に簡略化される。ついでに、都道府県の首長が集まって国政を決め、その実施は各都道府県が担当するようにすれば、国会と役人も必要なくなるし、システムが随分と簡単になって財政も再建されるのではないだろうか。分散化すると問題がまとまらない、というのは政府も財政を投入して達成されるはずの高度情報化社会があるから、解決するのではないのか。
天皇が京都にお還りになったら、私も京都に住みたい。(2000/1/23)
子供の日からは大分過ぎてしまって母の日もあっという間に過ぎ去った。年をとってくると月日の経つのが早いというのは本当だ。さて、子供の日というのは大人が子供の未来を祝うという日なのだろうが、世紀末でもあるし、ここ、50年程我らが自分の力で作ってきて、これからの子供に残していくものに何があるのだろうか、と考えてみた。
「もの」、と書いてみたけれど、「世界に誇る新幹線がある」のようなハードウェアではなくソフトウェアについて述べたい。というのも、ハードウェアはメインテナンス費用が必要なので長期間運用するのは難しいからだ。50年間で培ってきたものなら、最低でも50年以上は持ってほしいからだ。そこで、システムの安定性から見て、この後50年ほどは続きそうなものを並べてみたい。ただし思い付きなので順不同だ。また、良い悪い等についても考えないことにする。
とにかく続いている、あるいは続きそうというのは、その時点では気付かない価値があることが多い。数値化も必要だろうから、適当に国民関与率を与えてみた。
・テレビゲーム
米国を中心に世界中に売れているのは事実だし、米国の子供に日本のソフトはcoolだと思わせているらしい。おまけにPS2なんかはこれからの日本の技術を引っ張っていくテクノロジドライバだ、なんて言われているからだ。
国民関与率:60%
・PTA
昔は母親のお出かけファッションの展示会だったが、このごろはその役員になることが主婦から議員へのステップになっている。実際のところ普通の主婦が政治に進出するのはこのパスを通るのが一番の近道だ。
日本教職員組合は冷戦時までは日本のある階層(特に戦前までの日本的技術・知識階級だ。旧日本軍の士官階級を形成していた層だ)を代表して米国の世界戦略に反対する日本でただ一つのグループだったのだが、米国の独り勝ちになって将来の見込みがなくなったものだから崩壊してしまった。
国民関与率:50%
・進学塾
教育システムの一部だったものが肥大・変質して、それ自身の存在意義を持つようになってきている。例えば進学塾のエリートコースを進んで東大に進み、卒業後は進学塾の教師になる、などというのが典型だ。
近頃は大学の入試問題の作成請負も始めた。そのうち学力不足の大学生を、塾が再教育するようになるに違いない。海外進出している組織もある。
国民関与率:60%
・農協
地方の就職先、銀行機能、を受け持っている他、郷士、今はそんな呼び方はしないのかも知れないが、いわば地方の名士、をその上層部に保存している。この階層にはいわゆるグローバリズムとは無関係の日本独自の考え方が残っている。戦後の農地解放政策によって米国が破壊したいと考えた階層だ、つまりアングロサクソンとは対極的な考え方を持っている、ある意味、日本の力の源泉の一つだ。
国民関与率:30%
・パチンコ
非合法なのに決して追求されない賭博だ。経営者と愛好者およびこれを監視する警察とが独自の安定システムを作っている。
犯罪防止−>明るい社会−>明るい店内−>濃密に設置された照明機具−>強力な空調システム、という連鎖によって、コンビニと並んで大電力を消費している。
国民関与率:40%
・コンビニ
まだまだ発展途上だ。ただし流通インフラの維持に膨大なエネルギー消費が必要なので、ソフトウェアシステムと考えるべきではないような気がする。
国民関与率:95%
・フーゾク
有史以来、制度的に隔離してあったのが、昭和30年代に、その存在を禁止したため、社会全体に拡散し共有することになった。このため、フルタイムの階層がなくなって、ある年代がパートタイムでサービスを提供するシステムが形成された。週刊誌の定番ネタであるとともに、若年層の行動の指針の一部になっていて、結婚率と出生率の減少の原因にもなっていると思われる。
国民関与率:10%
・ピアノの稽古
主に女子が小学生から始める。年令が上がるにつれて稽古を続ける者の数が減ってきて、最後まで残ったものがピアノ教師になる。このピアノ教師がまた小学生を教えるというシステムに安定化している。日本の楽器メーカの発展に大いに力になった。
ある楽器メーカは、ピアノの生産が頭打ちになった、つまり日本全国の家庭に行き渡ってしまったので、今度はバイオリンを大量生産することにしたらしい。だが勿論、ピアノのようには推移しないだろう。小坂明子の「あなた」時代までは、洋風の家、縦型の窓、白いカーテン、ピアノ、というイメージが繰り返し国民の頭に刷り込みされていたが、もう終わってしまったからだ。
国民関与率:70%
こんなふうに書き並べてみると、確かに自分自身も含めて日本人の生活パターンが表れている。おとーさんは農協かゲームメーカに勤務していて、おかーさんは主婦だ。普通のおかーさんはよくパチンコに行く。普通のおとーさんは塾でよく勉強ができたのに、と懐かしみながら会社へお出かけだ。
一部のおとーさんは農協から代議士になって国政を動かし、一部のおかーさんはPTAをバックに地方議員になって活躍している。普段、家族はコンビニで買い物をする。子供が大変だ。ピアノの稽古から始まって、そのうち塾に通わなきゃいけない。息抜きはテレビゲームだ。
これをみると、どうも文化的に何か残るべき素晴らしいものが出てくるという可能性は低いように思われる。別の道を考えるべきではないだろうか。(2000/5/18)
私はテレビっ子ならぬ、テレビオヤジなので、よくテレビを見ている。2、3日前に”チャー1対決”なるお笑い番組を見ていた。テレビタレントがチャーハンの腕を競う、という内容だ。チャーハンは強火を相手に素早く中華鍋をふらなきゃならないから、K1と同じく、スピードとパワーの競技だというわけだ。
この番組の中では、本職のコックが何人か出演していて、出来上がったチャーハンにあれこれコメントしたのだが、中に「チャーハンは度胸のいい人間でなければ、うまくできない」というのがあった。これを聞いて、また2、3日前の別の番組で宮城谷昌光が出ていた番組中の彼の言葉を思い出した。番組は、アナウンサーが彼を訪ねて対談する、という内容だったのだが、この中で、アナウンサーの「宮城谷さんはどうして中国の戦国時代の英雄を書かれるのですか」という問いに、「私は勇気のある人間が好きなのです。英雄は皆、勇気がある」、というような事を答えた。
今の世の中では、度胸だとか、勇気だとかは殆ど使われないか、あるいは忌避される言葉だが、私はこの言葉の意味するところは別にあると思う。人間は、ある事を成す時に、未来の事象に対して意識的あるいは無意識的に、様々な可能性を考慮する。だが未来は常に答えの決まらない無限の可能性を持っているから、一意的には決めることができない。フレーム問題だ。しかも決断の時はみるみる迫ってくるから、その時、人間はそれまでの経験を元に、方針を決定するわけだ。
チャーハンを作っているならば、短い時間に、味付け、飯の炒め加減、具の仕上がり具合を判断しなければならないし、戦国の英雄は極めて複雑な関係にある数々の他国の情勢を判断し、自らの行動を決定しなければならない。つまり度胸がある、勇気がある、というのは未来の事象に対して素早く的確な判断をする力があるかどうかも意味しているのだと、と私は考える。私が何を言いたいかは、君、すぐ分かるな。先日、総選挙後に新しい内閣が組閣されたが、これを見て、誰一人、度胸があるとか勇気がある、とか言うことはできないだろう。これを見習って、殆どの家庭、学校、会社、役所で、行われているのは、よく言えば現状維持、本当のところは先延ばしだ。
よく見られるタイプに、未来のあらゆる可能性を考慮して、とか、皆と相談して決めたい、などと言う人間がいるが、どうも人間ではなくて、フレーム問題にぶつかっている人工知能のように見える。私のいう意味の度胸と勇気は、学習すれば身につく、というものではないから、どうも後付けでは人間の性質としては備わらないような気がする。かなり若い時代に形成されるものではないのか(ここらあたりは更に調べたい)。だとすると、このタイプの人間は日本の中でかなり少ない、と思われる。度胸や勇気がある、などというのは、言葉同様、日本の教育過程では明らかなマイナス評価だから、その発現過程でスポイルされている可能性が高い。
もちろん、女は度胸、男は愛嬌でもよいのだ。(2000/7/5)
今朝の新聞だったか、首相が所信表明演説で「ITを押し進め、E−日本を作りあげ、云々」と述べた、との記事があった。首相はこの中でIPv6にも言及したそうだ。IPv6はInternet Protocol version 6のことだ。私も含めて、普通の人どころか、よほどの専門家かネットワーク管理者でもなければ、殆ど関係ないといってよかろう。
誰もがそう思っているのだろうが、首相がIPv6を理解しているとは到底考えられない。理解といっても技術的な理解が無理なのは当然として、首相が子供に向かって「オジサンも今、パソコン習っているんだよ」と言ったとかの報道も聞いたことがあるから、社会的な意味合いについての理解があるかどうかも疑問だ。新聞には首相の一日をトレースした欄があるが、朝から、ずっと10分単位の来訪者が続いていて、長い話しは大抵、夕方から料亭で始まる仲間同士の飲み会で行われるだけだ。当然のように夕方からは酒を飲むだろうから、勉強する暇はないだろう。「昔から本は読まない」なんてことも言われているから、ますます、これらの事実を補強するな。・・・いいのだろうか、これで。
ところでITは本当に経済を上向きにするのに役立つのだろうか。前にも言ったことがあるが、「金持ちの経済学者はいない」、「経済学ノーベル賞受賞者も投資で大損する」、という事実からあまり、エコノミストなる人々の言うことを鵜呑みにすることは危険が伴う。だから経済については、人のことは聞かないで、少しずつでも自分で考えていきたい。ところで、ITの推進で情報関連機器が売れるのは間違いないが、景気を上向かせるのも一時的なものだろう。問題はITの推進で米国では生産性が上がっていて、これが米国の景気拡大を裏付けている、という話しだ。本当だろうか。
生産性があがる、というのは物が安くできる、ということだろう。しかし、日本でこれ以上に物が安くなったとして、もう家には入りきらないのではなかろうか、古いものを捨てても捨て場所もないし。情報、そのもの、例えば音楽なんかはどうか、という話しもあるが、既に一日24時間の内、起きている間は、歩きながら、食べながら、これを耳に注ぎ込んでいる状態で、これ以上は無理な気がする。もっと食うのはどうか、という話しもあるが、肥満の人間を増やすだけだ。もちろんこれも前例があって、この前のNewsweek日本語版に、米国では肥満の人間の割合がここ10年で大幅に増えて、これに伴う糖尿病が問題視されている、という記事があった。だから確かに、医療を中心とした経済発展、というのはあり得る。つまり、消費活動の受け皿としての人間のフォアグラ化だ。こう考えると、米国で発達中の人間の寿命延伸科学、というのが、物の生産性向上と表裏をなしている、と考えるのも、あながち無理ではない。 (2000/9/22)
昭和十一年、軍事評論家としても有名だった(らしい)平田晋作は、少年倶楽部に「新戦艦高千穂」を発表した。すぐに想像がつくが、超兵器を積んだ日本海軍軍艦が敵国を蹴散らす、という「胸のすくような」、「調子のいい」話しだ。だが、戦争末期になっても、「超兵器が現れて、この戦争は一気に挽回するんだ」と考えていた、(少なくとも)少年は多かったらしい。もっとも、この頃既にサイクロトロンなんかはできていたので、原子力は「超兵器」ではなかったのだが。
で今日のことだったか、国債発行残高はますます増えて、GDPレベルになったというニュースを小耳に挟んだ。このままだと、2025年には国債残高は784兆円になる、という予測もある。IT革命によって、一気に景気回復して残高を一掃しよう、というのが国民全体の考え方らしい(私は借金の方が多いので、今のところ、この考えには賛成しない)、だが「新戦艦高千穂」がそうだったように、胸のすくような調子のいい話し、というのは存在しないのだ。
日本の総人口は2007年をピークに減少に転ずるだろうと予測されているから、医療保健業界の他には、産業が発達する理由がない。米国が炭酸ガス削減に反対する理由の一つに「そのうち画期的なエネルギー対策が表れるだろうから今、あせってもしようがない」というのがあるが、これに何らの実現性がないごとく、エネルギーがこれからますます安くなる見通しもないので、「常識的に考えて」今のまま続くことはない。
この話しを子供に聞かせると「暗い」の一言で片付けられるのだろうが、「常識的に」現状を考えるならば、「暗く」なるのは避けられない。だが「暗い」が「悪い」ではない。♪光の中で見えないものが闇の中で現れてくる、とあるように、暗い行灯の下でみるから紅絹(もみ)が美しいように、「暗い」と「悪い」は別のものだ。(2000/9/26)
昨日、NHKテレビを見ていたら、職人技をコンピュータに移す、というような中身の番組をやっていた。つまり、高度な技を持つ職人を「職工の分際で」とバカにしている内、その職人が退職間際になってから、その価値に気がついてあわてている間抜けな会社の紹介番組だ。
そこで、この状態をどうしようかと考えて、学校の先生に相談してみたら、「職人の手元をビデオに撮って、その動きを解析して、コンピュータに記録すればよい」との答えがあったので、その通りやって居ります、ということを映像で紹介しながら、聞き役のアナウンサに尤もらしい顔つきの解説者が説教する、という流れだった。
だが、私はこの方向は違うと思う。まず、職人の手元を真似するロボットを作ると、確かにきまりきった作業と材料に関してはうまく行くだろう。だが、それ以上にはならない。ロボットは自分で工夫するわけではないからだ。おまけにデジタル化すれば、完全なコピーが可能になるから、製品はどこでも作れるようになって、何の利益ももたらさない。番組では「職人の協力を得るため、その手法に職人の名前をつけたらどうでしょう」なんてことを言っていたが、職人は仕上がったものについて「よくできた」ことに満足するんであって、「名前をつけてもらってうれしがるような俺じゃねーぞ」と内心で思うのではないか。
解説者は、さすがに真似するだけのロボットを作るんじゃまずいと思ったのか、「これによって職人が簡単に育つでしょう」なんて言っていたが、バカを言うんじゃない。職人が喜ぶのは苦労して教えた弟子が一人前になることであって、促成栽培の弟子がたくさんできても嬉しいはずがない。
職人は、自分の思い描くものを作りあげるために、対象を如何にみつめ、仕上がりを如何に想像し、その過程を如何に創造するかを、考えて動く人、であってその外的な見え方ではないのだ。だから、弟子を育てるにあたっては、やってみせる(形をみせる)こと、つまり身体的あるいは手作業のメタファーを通じて、職人の内面にある記述できない創造の原動力を、弟子自身が持つようになる、育つ、のを助けるのだ。だから、師匠と弟子は一対一であるのだ。第一、ロボットは人間ではないので、既に身体的に職人のメタファーを提示することができない。
問題は職人を映像に撮ってこれを分析し、足りなければさらにあの手この手で分析を深めれば、職人問題が解決すると考えるバカな学校の先生がいることだ。その手法が一般化してしまうと、逆に何でも、技術は外部化できる、と考える人間が増えて、折角残っている職人と弟子を消滅させる恐れがあることだ。繰り返すが職人が重要なのは、多様な素材を活かし、常に最高の仕上がりを求める創造力を持っている、また、創造力を持つに至った過程を知っている、ということであって、外部化された情報では、職人に必要な力が別の人間の内部には育たないのだ。
デジタル技術が容易に使えるようになったせいで、人間が本来、内部に持っているべき情報まで外部化、デジタル化、しようとする運動が盛んだが、問題がある。第一、デジタル記録するメディアそのものが不安定すぎる。8インチフロッピーは絶滅し、5インチフロッピーも倉庫の中にあるに過ぎず、3.5インチフロッピーもそろそろ怪しい。大体紙は、2000年位はもつ可能性があるのに、光磁気媒体で10年以上、保つものがあるのだろうか、読み書きするための機械が必要だ、というのが紙でできた本に比べて決定的に不利な点だ。
人間の内部にあるものを何でも外部に持って行って、しかもこれをデジタル化するというのは、誤りだ。たぶん、本ができた時、これで口承がなくなってしまうと嘆いた人々が多かったろうが、デジタル化の影響はその比でない。本のコピーというのは難しいから、筆写したわけだが、筆写という肉体活動の過程でその中身は大体本人の中に入ってしまうのは想像に難くない。本は人間の肉体に近いところにあるのだ、だから、辞書なんかは食べるやつがいたのだ。
職人ばかりではないと思われる。人間の中身、ひらたく言えば作法とか行儀とか、教養、品性、根性、などを外部化すると人間でなくなってしまう。ピーマンである。ピーマンには失礼だが。(2000/11/23)
昨日、上野に出かけたら、芸大美術館で「よみがえる日本画」というような展覧会をやっていた。早い話しが、文化財の修復を専門にする学科が芸大にあって、その成果を展覧する、というものだ。この中で、デジタル技術を使えば、元の画が本物そっくりに複製できるので、素晴しい、というような展示を日立と組んでやっていた。前回の「ピーマンな人間」で書いたことと同じことを日本画でやっているわけだ。展示の最初で横山大観が古典の模写を通じて、自分をいかに磨いたか、を示していながら、そのココロはもう今の芸大にはありません、ということをついでに回陳しているわけだ。情けないぞ芸大。
その後、裏を通って上野桜木町から千駄木へと散歩したのだが、ここでもマンション建設反対、というはり紙があった。このような場合、反対の理由として日当りが悪くなる、というようなことがよく挙げられるが、よく考えると反対すべき別の理由があるように思う。一つは、ビルの建った後、その土地の価値が長続きするだろうか、つまりその街は栄えるのだろうかという現実的な問題だ。
以前に箱崎あたりを散歩したことがある。今はIBM社の大きなビルが建っているが、その脇には、「以前は賑やかな町でした。お御輿を担いでお祭りもあったんですが、なんにもなくなってしまいました」というようなことを書いた看板、あるいは展示物がある。君、休日の箱崎あたりを散歩すると分かる。墓場と同じだ。土地としてのポテンシャルが下がってしまっているのだ。数十年経ってビルが老朽化した時を思い浮かべればよい。土地としての価値が残っているだろうか。事務所として使う場合の家賃分くらいの価値しか、もう生みだせないのではなかろうか。
私は、これを見て、下町を地上げしてビルを建てました、と記述するだけでは足りない、何かが起きた、つまり何かの価値あるいは資源が消費されて金に変わった、消費されたんで残滓が残った、のではなかろうかと思った。このことをずっと考えていた。
消費されたのだとすれば、町あるいは街には、社会的な価値があって、それは換金可能である、ということだ。箱崎という街がIBMに高値で売れたと同じパターンが東京中の下町で起きて、木造の個人商店やら、しもた屋(ついでだが、これはしもうた、仕舞った店屋という意味)の集まった街が片っ端から高値で売れてビルに建て変わって、今は暗い寂れた街になったという事実があるから、この消費は特別のことでないと思われる。
それでは、換金可能なその社会的価値は、どのように客観的な指標として表現できるのだろうか、というのが私の考え続けた命題だ、単に「日当りがよい」、「下町の人情と風情がある」だけでは、理屈にならない。数字として表されないからだ。私は、「そこで、おばさんがどれだけ、くっちゃべっておるか」が土地の価値を決めていると言いたい。面倒くさく言えば「土地面積あたり、時間あたり、相対する個人間で交換される、身体的なコミュニケーション量が、土地の社会的価値を決定する」のだと提案したい。
住人のおしゃべりの盛んな街がどんなものかと考えれば、誰でもその街の心地よさが納得できるし、その社会的価値を高めるための環境にも合点がいく。家の前で世間話しをするためには、路は狭くなければいけないし、住んでる家が大き過ぎてもいけない、話しの穂先のためには猫なんかが歩いていなけりゃいけない。子供だろうが、年寄りだろうが、その価値の形成に与るし、特段に金が必要なわけでもない。この反対は寂しい街に出ればすぐに君にも分かる。大きな通りに面しているのがシャッターをおろした銀行だ。あるいは個人のプライバシーを最大に重んじたマンションの建ち並ぶ通りだ。
この話しはかなり応用が効くように思われる。君のそばにテレビがあるだろう、これは君が誰かとおしゃべりする時間と空間を、テレビという商品と交換した現象であるし、夫婦共稼ぎというのは夫婦の間のおしゃべりを金に変換する現象と言える。携帯電話は相対(あいたい)のおしゃべり空間を、電話会社に売り渡した代わりに手に入れたものなのだ。(2001/4/31)
新聞報道によると小泉総理は大人気なのだが、田中外務大臣と少し方向性が違ってきているようだ。相も変わらないのが終戦記念日に合わせた靖国神社公式参拝の件だ。私だってもういい年だし、私の父もPOW(Prisoner of Warの略。戦争捕虜のことだ)となってロシアに連行された口だから、これについては一言いいたい。
問題になっているポイントは、中国、韓国等から見て戦犯が神社に合祀されているところだ。つまり相手側から見ると、日本の指導者が靖国神社に参拝する−>神社に祀られている人間を拝む−>戦争指導者を拝む−>拝むというのは戦争指導者を崇めている−>崇めているのだから戦争指導者を正しい人間として見ている−>この前の戦争は正しいと信じているに違いない−>これまで謝ってきたのは本心ではないに違いない、という流れだ。
これに対しては小泉さんも、これまでの総理と同じく、終戦記念日だから遺族会向けに何かしなくては−>靖国神社には全員合祀されているから、取りあえず参拝−>戦犯ももう亡くなっているから罪を追求してもしようがない−>中国、韓国等には既に謝罪していることをまた説明すればいい−>あまりしつこいことを言うやつは嫌いだ、てな流れだと思われる。
だが、理屈から言えば、中国やら韓国の言っている方がスジが通っているように思われる。終わってしまったことはいまさらしょうがない、というのは日本以外にあまり通じないようだからだ。なぜかと言うと、この話しはプロジェクト管理の話しと実は同じだ。プロジェクトというのは、前例をひくことのできない状態で、限られたリソースを元に、ある目的を実行する、人間の活動だ。プロジェクトは前例がないのが普通だから、何が起きるか分からない、そこで失敗することもあるのでプロジェクトの終了後は、その経過を評価して、次回に生かそうとする。前例がないのがプロジェクトの性質なので、次回に生かすのは主に人間活動の様式に対する洗練作業だ。
で、戦争というのはプロジェクトそのものなのだが、日本の場合、驚いたことには殆ど評価作業が行われていないようなのだ。例えばノモンハン事件なんかがいい例だ。この事件は戦後になって多くの作家がその経緯を追いかけて、プロジェクトとして日本人がその時、この事件をどう評価したのか、について言及しているのだが、多くの作家が当時の陸軍の自己評価は問題にならない低レベルだ、としている。
日本の軍隊の作戦であっても、無闇に始まるわけではない。起案が行われて、合議の後、決裁され実行に移される。つまり一般的なプロジェクトと同じだ。ところが結果についてはきちんと評価されたという例はノモンハンに限らず聞いたことがない。個々の作戦どころか、この前の戦争全体について評価した、という話しも聞いたことがない。何人死んだとか、つらい思いをした、という記録はあふれているようだが、コストがどれだけかかったか、あるいはコストから見た人間や物資や家屋やらのリソースがどれだけ失われたか、という話が全然見当たらない。コストの計算はそう面倒な話ではないはずだ。個々の作戦の積み重ねが戦争なのだから、コストの積み上げを単純に行えばよい。だが、軍縮問題を考えるエコノミストの会、というのがあって、シンポジウムの議事録を見ることができるのだが、この前の戦争の時はもちろん、湾岸戦争の時のコスト計算もされていないようだ。
個人で実行するプロジェクト、というのはリソースが限定されていて、結果も個人の経験に加えられるだけに過ぎないだろう。しかし、国家プロジェクトの結果を個人と同じレベルに考えて、責任者が死んでしまったのだから、いまさら仕様がない、あるいは終わってしまったものは、もう済んだことだ、としてしまうのは、将来もこんな形のプロジェクトが目の前に現れることがわかっているのに、コストを払う側も実行する責任者も、一寸情けないと思う。
この前の戦争プロジェクトは国民がそのコストを負ったのだから、きちんと落し前をつけるのが必要だと私は思う。だから、天皇に責任があるかどうか、など大層なことを議論する前に、個々の作戦の起案と合議、決裁そして結果のプロセスについてコスト評価を行って、戦争指導グループの個々人について点数をつけるべきではないだろうか。
もう二度と戦争はしませんとテープレコーダーのように繰り返すのではなくて、斯く斯くの人間が、これこれのことをしましたが、それはしかじかのコストに係わる理由によりもう成り立ちませんので、戦争はしません、と理屈をつけなければ、今の世の中誰も納得しないのではなかろうか。
もっともこの方式は、理由がつけば、します、という米国風になるところが何とも言えないところなのだが。(2001/8/2)
ニューヨークの貿易センタービルは、米国経済繁栄の象徴だったという。確かにアメリカ映画の背景によく出てきていた。このビルに米国の技術の象徴であるボーイングの旅客機が突っ込んだ。二番機は突入間際になって左にターンしてぶつかったな。ボーイングはエアバスと違って、最後は操縦士の言うことを聞くようになっているので、あんなことも可能だったんだろう。
旅客機が突入してビルの反対側から爆発の炎と黒煙が出る様は、まるで映画のようで、まるで現実味がなかった。神戸の大震災の時も上空からの燃え上がる家屋や倒壊した高速道路から転げ落ちた自動車が最初に写し出された時、家屋や車の中に人がいることが解っていているのに、無人の街が燃えているように思えたものだった。
ブッシュ大統領は「これは新たな戦争だ。我々は復讐する」と宣言した。これに対して、米国議会はただ一人の議員の反対を除けば満場一致で大統領を支持したので、直ちに戦争準備に入ったのだという。ならず者国家にいる大悪人を生死に係わらず捕まえる、とも大統領は演説した。
「民主的で自由な」考え方によれば、この事件は犯罪者が起こしたものであるから、犯罪者に対しては「西欧先進国の法」が適用されるのが一般的だろう。だが米国は犯人をテロリストと定義不明な名称に言い換え、犯罪事件における犯人逮捕を戦争に、言い換えたわけだ。おまけに復讐(retaliate)を言い出して、「邪魔するやつはお前も敵だ」と宣言した。
日本で殺人事件が起きると、司法当局は「加害者の責任を問う」と言って、被害者の一族の気持ち等は斟酌しないことになっている。昔はもちろん「仇討ち」を認めていたのだが、明治以降、「近代的社会制度」とするために「敵(かたき)への復讐」ではなく「犯罪者に対する司法による責任追求」に、「西欧諸国」に習って転換したわけだ。
戦後は、「悪かったファシズム体制」を反省して、「民主的で自由な」西欧諸国に仲間入りするために「国際連合」に加入して、ひたすら西欧諸国の体制を目指してきたわけだ。お陰で、G7に首相を参加させることもできるようになったな。
だが米国は、世界は「民主的で自由」ではないことを自ら宣言したな。「米国は犯罪者には復讐」をしてよいことになったし、「戦争の開始」は米国が自由に決定できるのだ。おまけに戦争だから、相手がどんな被害を受けようが皆、敵の責任になる(カーチス・ルメイ将軍の東京住民に対する焼夷皆殺し攻撃を思い出す)。
直ちにこの戦争は「永遠の正義」作戦と名付けられたな(後からイスラムから、「永遠の :infinite」は神を意味するという、文句が出たのであたりさわりのない名前に変更されたんだが、実際に米国は、文字どおり自分達は自分達の神の元に絶対的に正義であるから「神の正義」作戦と言いたかったんだろう)「国家間の民主的な話し合いの場」だった筈の国際連合も、米国が参加費を払わないことに見られるように、本当は冷戦時に「人道」の名の下に東側をひきずり出すための装置だったことを認めているので、話しは一番後回しになったな。
後回しなのは「主要なパートナー」だった筈の日本も同じで、首相が何を言おうが全然耳に入ってこないようだ。米国からやってくるのは、真珠湾攻撃の再来だとのコメントと、硫黄島占領時の星条旗を起てる三人の兵士、の再現画像だ。この銅像にもなっている硫黄島の場面はよほど米国人に気に入られているらしいな。今回も廃虚と化したビルの倒壊跡地に星条旗を起てる三人の消防士、の画像が何度も流された。この画像を見たら直ちに、硫黄島のことを思い出すのが米国人だな。
世界は転換してしまった。米国はもう「王様」である。もう誰も反対できない。地球という宮殿のまん中に米国王がいて、各国が順番に並んでいる。すぐ脇に控えるのが英国で、王様の後ろに仕えているのが中南米諸国じゃないだろうか。逆らうとノリエガ将軍のようにいきなりぶん殴られる。英国の次に控えるのが西ヨーロッパ諸国だな。新しくキリスト教国になったロシアも並んでよいことになった。それから日本が並んでいるな。ロシアまでは剣をぶら下げた武官なんだが、日本は金袋をぶら下げているな。王様は日本のことを「財布」という渾名で呼んでいる。
王様は強いし、偉い、頭も良くてスマートだ。私は弱い。そして王様の言うことに納得できないが、口にだすのは憚られるので黙っている。けれども王様の御機嫌を損ねてはいけないので、作り笑いをしながら列の端の方からお愛想を言わなけりゃいけないな。「主要なパートナー」という意味は、前にも言ったように「よく言うことを聞く手下」ということだ。「主要なパートナー」はきっとこちらのことを、大事に思ってくれている、なんてことをまともに信じている日本人もこれで大分減ってしまうことだろう(相模原の米軍補給廠の入り口で、積み上げた土嚢の中からこっちにむかって機関銃を構えている写真を見ても、私は友達だなんて思っている首相がいるらしいが、おかしくはないか)。 (2001/9/27)
今、松永安左エ門がブームなんだそうな。芸術新潮の2002年1月号で取り上げられたので、一層目立つようになったのかもしれない。で松永翁は、若いころ福沢諭吉の弟子でもあったし、福沢諭吉の養子の福沢桃助と組んで、金儲けをしたという福沢家には深いつながりのある人物だ。翁は終生、福沢諭吉を尊敬していたという。
話はここからなんだが、「文明」という単語を日本人に広く知らしめたのは福沢諭吉であるのは、誰も反対しないと思われる。文明という単語には蒙昧が開かれる、というような語感がするので、われわれ日本人には大層、立派なもののように思われる。だから西洋文明という言葉だけで思わず平伏したくなるのは、私を含め、無理もないように思える。だが文明の衝突なんて言葉が大真面目に言われるようになったから、日本人として、文明という言葉について再点検する必要があるんじゃなかろうか。
第一に文明を英語に直すとcivilizationだな。civilは市民だからヨーロッパの古代からの都市国家の住民で主権を持っているもの、というニュアンスが強い。だからヨーロッパ人から見て、ギリシア>ローマ >中世都市国家>フランス革命後の国家、という流れがcivilizationという言葉の意味するものとなったわけだ。だから自分達の歴史以外のものは、せいぜいancient culture (古代の文化)でしかなかったわけだ。さすがに近代になってから、メソポタミアや中国や、あちこちで古代ヨーロッパに相当するものがあったことを渋々認めるようになったに過ぎない。だから、日本で言うところのメソポタミア文明は、英語では、Mesopotamia civilizationと呼んでいる。だが、メソポタミアは別にヨーロッパと一緒ではないので、主権を持つ市民階級がいたわけではない。だからcivilは居なかったんだが、civilization と謂う、というような矛盾したことを記述しなければならない。
第一、civilizationは、ヨーロッパに特有な現象と考えた方がよいように思われる。奴隷のいたギリシャ・ローマ時代か、近代の植民地時代のヨーロッパのように、誰かが犠牲にならなくては成り立たないのだ。奴隷が使えない場合は、ごく小規模な中世都市国家しか成り立たないし、現代のcivilizationは、石油と機械を奴隷がわりに使えるから成り立っているとも考えられるのだ。
つまり、優れた人間社会のあり方は本来、別の呼び方で呼ぶべきであり、civil が居なければcivilizationの発展過程にない、なんていう独善的な考えを引き出す元になる単語を変えるべきなんだろう。だが、アングロサクソンとしては、今さら西欧市民社会こそが文明である、という都合のよい言説を変えることはないだろう。だが、日本人としてはいつまでも、西欧は文明社会だ>文明=素晴らしい>文明はcivilizationと呼ばれているらしい>civilizationは市民化という意味だな>だから我々日本人も素晴らしい市民にならなきゃいけない、という、どうも体に合わない服を自分の体型がおかしいからだ、と思うような思考回路は、どうか。
そこで、私としては、従来のcivilizationには「大衆社会」という訳語が良いのではないかと思う。フランス革命後、全ての国民に権利を与える、という方向にcivilizationは動いてきたのだから、西欧文明ではなく、西欧大衆社会と言った方がより意味を正確に伝えることになるのではないか。大衆、というと大衆芸能、という言葉が反射的に出て来る私と、大いに違う方々もいると思われるが、西欧文明=拝跪すべき市民社会という、おかしな思い込みは大分、緩和されると思われる。
一方、文明という言葉には、sophisticationという単語を与えたらどうかと思う。アングロサクソンは聞きゃしないだろうが。そうすれば、メソポタミア文明もMesopotamia civilization よりしっくり来るんじゃなかろうか。そうすれば、Edo sophistication はその文化の洗練され方といい、エネルギーの高度利用といい、リサイクルといい、文明にふさわしいと思うんだが。
この点で福沢諭吉は、文明という言葉でもって、結果として日本人にぬぐい難いコンプレックスを植え付けたところがまずいと思う。(2002/3/1)
米国がイラクをいつ攻撃するのか、不謹慎ながらどきどきしながら待っていると言っていいぐらいなのに、さっぱり進展しない。既に地中海には、空母ジョージ・ワシントンが、ペルシャ湾岸には、空母エイブラハム・リンカーン空母が配備済みなのだし、大統領の戦争は議会の全会一致で支持されているのに始まらない。あの男らしい大統領が躊躇するなんてことは考えられないから、何らかの理由があるのかも知れない。さらに11月3日の読売の報道では、空母コンステレーションとハリー・トルーマンも向かっているというが、どう考えてもこれは鶏を割くに牛刀を用う、の感だから、何かを待っている時間稼ぎとしか思えない。
私が邪推するところでは、これはイスラエルの政情がある方向に収束するのを待っているのだと言いたい。米国のユダヤロビーがこのところ力を増しているのはよく知られたところだが、彼等は安全な場所にいることもあってイラク攻撃に同調してイスラエルにも戦争を始めさせて、この際一気にパレスチナ問題を解決しようと思っているのではないか。一方、イスラエルの国民としては我が身でしかも自国の国境を超えて戦争を始めるのだから、余程の決心が必要だ。米国自身のこのところの戦争が死傷者について1対1000のスコアにもならない、というのとは大分に違う。
米国のイラク攻撃は石油利権の確保とイスラエルの安全保障の確保という、二つを狙っているのではないのか。だから、二兎を追うもの一兎も得ず、ではなく、一石二鳥を考えているのだとすれば、このところの米国の躊躇とも見える態度が腑におちる。
ところで、これまでに私の書いたものを見返すと、あれこれ批評ばかりで少しは今後に役に立ちそうなことを書け、と言われかねない。役立つとは思われないが、「この世の中、右も左も真っ暗じゃござんせんか」と言う方に、こうしたらどうだろう、というのを「はばかりながら」言いたい。
基本的には簡単なことだ。「じたばたせずに、ありのままを受け入れる」ことだと思う。つまり「人間は多すぎるし、石油はなくなりつつある」ということだ。前にも書いたが、経済というのは内燃機関のようなものだと考えられる。あるいは石油がベースになっている点でエンジンそのものと言ってもいいかも知れない。つまり景気をよいというのは、エンジンをどんどん回転させることだ。その代わりにガソリンはもっと必要だし、排気ガスが一杯出てくる。もっと景気をよくするためにエンジンを毎年、より排気量の大きなものに代えたおかげで、景気は毎年よくなってきたが、狭い場所にエンジン自体が入りきれない程に大きくなってしまった、というのが現状だろう。
つまり、永遠にエンジンを大きくし続けるのは「絶対に」不可能なのだ。だから、大きくするのは止めるしかない。熱力学の原理から謂って廃棄物を出さないエンジン、というのも不可能である。
これも前に書いたが、「止めるしかない」と言うと、必ず「俺に死ねと言うのか」という輩が出てくる。だが実際には人間が多すぎる、という観点から「その通り」と言うべきである。だが別に今すぐに死ぬことはない、いつかは死ぬのだし、景気というエンジンを小さくしても、それが直ちに死には繋がらないのだ。つまり「俺に死ねと言うのか」という輩は、レトリックとして言っているのであって、本当は「俺の給料を取り上げないでくれ」と言っているに過ぎない。だから、これを真に受ける必要はないのだ、どこかの橋を作った公団のように、橋を作ったのは世間のためではなく、自分の給料のためである。
くどいようだが、付け加えれば「今さら元に戻れない」というのもレトリックの一つだ。「(時間は)元に戻らない」という真実を応用して、「私の生活レベルを下げたくない」という私的な望みをあたかも真実のごとく言っているだけだから。
これまで良いとされてきたもの全てを疑うことから始めようではないか。豊か、快適、便利、進歩、発展、高速、高度、なんて言葉だ。どの言葉も石油エネルギーが裏打ちしているのが分かる。だがこれらを十把一絡げに話をつけるのは大きすぎる問題だから、まず筋道をつけておいた方がよかろう。基本となるのは身体性でありそして快感を感じる脳だ。
人間の体は、だれしも相応の年になればそう思うように、実によくできている。この点で「快適なエアコンディショニング」というのは身体性に反している。かの「ビーグル号探検記」にあるかつてのフェゴ島原住民のようになるべし、とは言わない。少なくとも我らの祖先のようなレベルを「到達すべき目標」とすべきであろう。寒いから風邪をひくのではないし、夏の浜辺で暑いと文句を言うやつはいないのだから。江戸の人々が偉いのは、これに一工夫加えて、「暑さを楽しみ、寒さを楽しむ」ところまでに到達しているところだ。
これと同じ理屈で、「快適」という形容詞のつく活動というのは概ね身体性、つまり人間の本来持つ能力をないがしろにしている。ヨーロッパ伝来のやり方の結果生じてきた、これまでの問題は、快適と感じたい脳を、まるで子供に対するような態度で、身体を取り囲む物理的な物によって満足させてきた点にあるのだ。脳は柔軟だから、江戸時代のように「環境を楽しむ」という「粋:sophistication」を発達させることで、環境に物理的な充足を与えることなしに、身体性を生かしつつ満足を得ることだってできるのだ。
この際だからくだくだしく書こうではないか。エネルギーを使う移動システムは「快適に」かつ「高速」に我々を運んでくれる。だが、これと「足は第二の心臓だ」あるいは「老化は足から」という話は矛盾している。我々は歩くべきなのである。ここでもまた、身体性を生かしつつ満足を得ることができるのだ。歩くことによって「景色を楽しむ」というのは我らの祖先が残してくれた文化で、必ずしも世界の各々の文化の全てに組み込まれているものではないのだ。「物見遊山」という言葉は歩くことを愉しみに代えるシステムであるし、「旅は道連れ」なんて言葉もある。
快適の反対側の、ある部分に位置する「苦労」についてはよく考える必要があるだろう。苦労と言えばすぐに労働に結びつくのだが、主婦の最大の労働であった「洗濯」を軽減した洗濯機を、電気製品と身体性の名の元に軽々しくも、なくすべきとは私も思っていないし、第一、主婦からの攻撃が物凄いものであることは重々承知だから。だから、この話しはまた別の機会に考えたい。けれども、はるか昔前に聞いて今も印象に残っている「♪幸せは我らの願い、仕事はとっても苦しいが流れる汗に未来を込めて明るい社会をつくるため」という歌の一節は、あまりにヨーロッパ伝来の哲学を現していて、私の容れるところではないのだ。(2002/11/13)
今、タイに来ているのだ。市内観光でワットポーなるお寺に行ったら、興味深い場面に出くわした。タイでは男性は二十歳になると三ヶ月間仏門に入らなければならない。私が出くわしたというのは、具足戒を受け終えたばかりの新品の坊さんが、俗人から始めての喜捨を受ける場面だ。もちろん、この俗人はこの坊さんの両親やら親族なので、あれこれと高価そうな品物を受けていた。僧になって朝の托鉢の時も自分の家の前を通るというから、親はさぞ気を使ったり心配したりするんだろうと思われる。
だが、この習慣、この世の中で実に貴重と思われる。例え三ヶ月と雖も、僧になった以上は少なくとも理念上、親族妻子などの世俗の縁を捨て、財産、名誉、階級を捨て、釈迦の弟子となっているのだ。つまり、現世であれ程もてはやされる「豊かな生活」とは全く無関係の状態になる、あるいはタイの人々、基本的に仏教徒は「豊かな生活」の反対の生活が最上のものと考えることがあるのだ。だから、これ一事を持ってしても「豊かな生活」が我々の最終目的ではないことが分かる。百歩譲って、「豊かな生活」が最終目的ではないとする人々が存在する、と言える。
「豊かな生活」が何かについては色んな意見があるだろうが、各自考えてもらいたい。最も単純に考えれば、どんな物でも簡単に手に入る、状態だろうか。だが何度も言うように「物」は場所を占める。手放せば直ちにゴミとなってしまう。こんなふうに言えば「質のよいものを長く使えば」と言い出すあなたがいるだろうが、どんなに質が良かろうが最終的にはゴミとなるのは間違いない。ある人が言っていた。百円ショップの品物にだって輸送費や管理費がかかっている筈だ、その原価は0に限り無く近いんじゃなかろうか、もしかすると我々は無価値なゴミを集めているんじゃないだろうか、と。今はさすがに誰も言わないが、少し前まで「この品物は使い捨てができるのでとっても便利」と言われていたのではなかったか。その究極の姿が百円ショップなのではないだろうか。
豊かな生活とはどんなイメージなんだろうか。Webから探してみた。Googleにイメージを検索するページがある。ここで、「豊かな」、「生活」、「未来」というようなキーワードで検索してみると驚いたことに生活の場面が全くといっていい程出てこない。殆どが企業のページだ。つまり「豊かな未来と生活に貢献するXX企業」というページが検索されたに過ぎなかった。かろうじて豊中市の「市民が考える2020年における豊中の将来像」というページが見つかって、そこに豊中市民の考える未来がイラストに描かれている。イラストを拡大してみると「おじいちゃんの家では診察をしてる。お医者さんと画面で話ができるんや」、「お父さんは今日家で仕事。お母さんは明日は会社へ行かない日らしいよ」、「昔の町並みが残ってると、まちがしっとりやさしい感じがするわ」、「家の中はミニ図書館。近所の人が集まって来て賑やかね」等の言葉が書き込まれている。で、これが20年後の未来なんだろうか。相変わらず近所の医者の往診なんて、直接的なコミュニケーションはないようだし、夫婦は相変わらず共稼ぎで子供は家にひとりぼっちらしい。地域の行事が失われてしまって近所つき合いも殆どないらしい、のが見えてくる。20年後どころか今現在、豊かな生活のイメージがどこにあるんだろうか。
豊かな生活について話を続けよう。また江戸の話だが最も豊かな生活をおくっていた筈なのは、当時の最高権力者である将軍だろうか。将軍が豊かな生活を送っていたかどうかについては、大量の論考があるし、池波正太郎の小説でも読めばだいたいのところは想像できよう。将軍の生活を象徴するのは、暖房機具である火鉢であろうと思われる。将軍の火鉢は蒔絵で飾られているが庶民の火鉢はふつうの瀬戸物であるところだろう。目黒のさんま、の話しもあるな。つまり、違う階級の生活は、両者とも機能的には同じで、それぞれ手続きだけが違っているのだ。もちろん江戸時代の絶対的な生産力が現在と違うから、貧乏長家の連中の花見では卵焼き代わりに沢庵を食べざるを得ない場合もあっただろうが。
この話はもう十分であろう。三度々の食事ができればそれで豊かなのではないか。それ以上は脳が快感を求めているに過ぎない。「豊かなあなたの生活」は、脳に快感を与えるためにブランド品を買い漁ったり、毎日別の衣装で出かけなければ気が済まない、というように、快感に対する対処方法があまりに物理的手段に頼り過ぎているのだ。「太平洋戦争は米国の物量作戦に負けたのだ(精神的には勝っていた筈だ)」という話しは大分以前の戦争経験者の負け惜しみではあったが、確かに一部では真実を述べていたように思われる。「我々は先祖伝来の文化的方法で脳に快感を与えることができるので、余分な物質を必要としない」というメッセージだ。(2002/11/19)
今の若いもんは(そら出た)、夏目漱石の小説はつまらないと言うらしいが、文化の退嬰の兆しじゃなかろうか。山田風太郎の「あと千回の晩飯」に漱石の「明暗」が未完に終わったことについて「本邦最初の心理小説と言っていいのに、後わずかで終わる筈だったのに、最後まで読みたかった」と書いている。書いているのを見て、また急に「明暗」を読もうという気になった。
「明暗」は青空文庫に入っているのでPDAで読むことができる。かなり前に一度ダウンロードして読んだ覚えはあるのだが、最後の未完の部分がどうだったのか思い出すことができなかったのだ。と言う訳で、この長い小説をまたも読みはじめたのだ。以前に読んだ時に浮かんだと思われる情景がまた浮かび上がるのを確かめながら、そうしておいては、また少し小説の段落を飛ばして読み進んでいる。
ところで同じ青空文庫に「京に着ける夜」という短編があるのだが、これは漱石の小説の中でもとりわけ雰囲気の暗い小説だ。読んでいる方が雨と寒さで風邪をひいてしまいそうだ。これを読んだ時は、漱石は京都が好きではないに違いない、という印象をもった。作者は、新宿は牛込あたりの生まれであるし、その他の小説の雰囲気からいっても京都には肌が合わなかったのじゃなかったのか、と勝手に思い込んでいたのだ
ところが、と言うべきだろう。「京都舞子と芸妓の奥座敷」(相原恭子、文春新書)を眺めていたら、漱石が祇園の芸妓、大友屋の磯田多佳女との交遊のあったことを記している。芸妓なら多佳ねえさん、の筈がわざわざ名字付きの多佳女となっているのは、漱石の他にも文士との交流があって文芸芸妓と呼ばれていたからなんだと言う。だがこの手の話は、新吉原の粧太夫の話に似て、文学好きが集まっている清談の会だなんて受け取るわけにはいかない。当然色の道もあるのだと考えるのが正しい。京都の街は嫌いだったのかも知れないが、漱石とても女は嫌いじゃなかったと見える。
なぜ漱石が京都に親しかったのか、よく知らなかったのだが、たまたま京都学派に興味を持ったので「物語京都学派」(竹田篤司、中公叢書)を読んでいたら、漱石が京都大学に一時期招かれていたことがわかった。ついでに東京帝国大学の学生にも区分があって本科と選科との間で峻別されていたこと、漱石が英文科の本科学生であったのに対して、京都学派の源流といってよいであろう西田幾多郎が金沢の第四高等学校を中退したため、東京帝国大学では選科に入る他なかった事などがわかった。
この時期、選科生には卒業がなく即ち学士が与えられず、従って在籍していたとしても卒業名簿にその名は残らなかったのだという。これも「物語京都学派」に書かれてあったんだが、「三四郎」に「与次郎」がいやに横柄な態度をとっているのに対して、「三四郎」が内心いやだと思っていながら、なんとはなしに相手の言うことを聞いてしまう、という「三四郎」の態度バックグラウンドが説明してあって、「三四郎」すなわち漱石が本科生であるのに対し、「与次郎」が選科生であることを述べている。
つまり、漱石は「選科生に対して本科生が鼻から相手にしない、というのは横柄であると私が思われるのではないか」というコンプレックスを持っていたわけだ。漱石の他の作品にもこのような図式の友人がよく出てくるのは、こういう理由があったわけだ、と納得した。漱石の精神的状態と作品の関係については加賀乙彦が講演した記録もあるんだが、別に見つけた「夢十夜」の分析の方が無責任な分だけおもしろい。だが、どちらも漱石が選科の学生に対する態度について述べてはいない。
さて、ここんところで、話を京都学派の方に戻すとして、本科と選科の間の区別がゆるやかだった京都大学は、だからよかったのだ、なんてことは言うつもりはない。科学が純粋な自然科学、つまり人間が全く関与しなくとも存在すると考えられていた科学、の時代は終わって、全てに人間の関わりを考えなければいけないような科学の時代になってしまった、ということは前に言った。
この時、日本の哲学の源流である京都学派の流れに、何か掬いとるものがあるのではないか、というのが私の希望だ。千年の都に生まれた京都学派には、千年の命の秘密が流れ込んでいるのではないか、と思ったのだ。しかし、今のところ「物語京都学派」を読んだ限りでは、選科の聴講生に過ぎなかった西田幾多郎が京都大学に拾われた経緯にみるように、京都学派は単に東京帝国大学に対抗するだけに存在した、少なくとも生まれた、ようには見える。
さらにこの著作にあるように、西田幾多郎や三木清は、哲学を「玩具のように弄んだ」だけという可能性もあるやも知れない。何となれば、現在にそれは文献として存在するだけに過ぎないのだから。
ただ可能性は失われていない。川の流れをさらに下ってみようではないか。(2003/2/18)
この間も書いたが、ブッシュのイラク攻撃がなかなか始まらない。イスラエルの総選挙も終わって予想通り右派が勝利したし、もう準備万端相整った、筈なのに。私の邪推が間違いだったのかも知れない。だが物事の流れから言えば、米国はイラクを攻撃しなければいけないのだ。
manifest destiny(明白なる天命)というのは米国市民の信条である。つまり西へ西へと開拓を進めるのが米国市民に天から与えられた運命であり、これに逆らうのは悪であり、逆らうものはテロリストである、という信念だ。この信条に従って、インディアンをやっつけ、メキシコからテキサスを奪い取り、カリフォルニアを併合し、ハワイの王朝を簒奪し、フィリピンをスペインから買い取って反対する現地人を粉砕し、西へ進む米国市民に逆らって生意気にも東進してきた日本人を焼き殺し、朝鮮では人民軍の海を機関銃で薙ぎ倒し、素直でないベトナムには爆弾の雨を降らし、アフガニスタンは面倒なので無人機で攻撃し、クウェートに手を出したイラクには劣化ウランをぶつけてきたわけだ。
こんな風に歴史を眺めると常に西へ西へと進んできたことが分かる。つまり、あと一歩で地球を一周してホームランドに騎兵隊は戻ってくることができるのに、イラクだけを残しておく筈がないのだ。なんとしてもこれが天命なのだから。
だが問題はここからだ。地球を西回りに一周して悪を殲滅した騎兵隊は一体どうしたらよいのだろうか。北朝鮮の悪を懲らしめるのは少し待った方が良い、と思われる。西へ西へと進んできた天命と異なって、既に通過してきた地点に戻って戦いをしなければならず、明白な、という形容ができなくなってしまう。北朝鮮に対して、もし悪の一掃を実施するならば天命ではなく、業務になると思われる。だが業務となると、そこには経済的観点が必要となる。できるだけコストを削減するために巡航ミサイルか無人機が用いられるだろう。外注して民間に任せられるかも知れない。
こうして、業務しか残らない世界で、米国軍を維持するのは今後、非常に困難になると思われる。兵隊を解雇すればよいのだが受け皿がない。取りあえず経済的に余裕のある限り維持し続けることになると思われるが、私にも名案が浮かばない。さらに問題なのがmanifest destinyという信条をどうするかだ。拳銃を腰に差して自由平和を守る市民としては、この信条をぶつける悪人がいなくては気持ちのやり場がない。映画では役立たずとなったガンマンは酒浸りになるのだが。
取りあえずは石油がたっぷり手にはいったので、ガードマンに守られた素晴らしい環境の金持ちの老人のための街、米国内にはいくつもあるらしいが、その全国版を作って享楽的に暮らすのがよいかも知れない。
で、この時、米国以外の国と日本はどうしたらよいだろうか。世界は既にない。WorldはWorld Seriesのように米国専用の用語になってしまうからだ。ローマ世界にならってアメリカ世界とその周辺ということになるのだが、この状況は直ぐには把握し難い。そのうち考えたい。(2003/3/8)
昨日付け(2004年4月19日)の日本経済新聞に「揺らぐ京都の誓い」なる記事が掲載されていて、環境省が16日の中央環境審議会地球環境部会で「現行対策では京都議定書で国際約束した6%の削減は困難」と宣言したことを伝えた。つまり「ない袖は振れない」ことを認めたわけだ。
いまさら、京都議定書の趣旨を云々しても仕方がない。後は、約束を破棄する、ということを宣言すればよいことと思われる。問題は誰がババを引くか、ということだ。経産省側はそれ見たことか、と内心思っていても、宣言をするのは当然環境省と考えているだろうし、環境省は国民に、省の存在をかけて京都議定書と地球温暖化問題を喧伝していたから、今さら前言を翻すことは決してしないだろう。内閣は両省に下駄を預けてあるから、という理由でリーダーシップを発揮することはないのではなかろうか。学会は、私は研究結果を述べただけで、目標達成が可能等と言ったことはない、と言うだろうし、産業界は、お上のやる事に口出しはしません、と言うに決まっている。
最終的には作業部会の中でできるだけ目立たないように先延ばしにする、という戦術を取る事になると思われる。毎度のことながら、如何ともし難い。他の人に聞いても「EUが『削減できない』と言い出すのを待って、右倣えするんじゃないか」という答えで、新たな展望は見えない。
そこで当方はどうしようか、ということになるのだが、現状の延長と、日本が削減の約束を放棄または延長した場合に対応した、二通りの準備をして置く位が関の山か。本当は、地球温暖化の利点について本格的に研究を開始するよい機会かも知れない。どういうことか、と言えば、例えば縄文海進期と天明時代という温暖期と寒冷期を対比させつつ、社会構造とエネルギーバランスについて定量的に調べる、などというのが説得力ある結果を生み出せるかもしれない。(2004/4/20)
「バカの壁」で一躍、ベストセラー作家となった養老孟司だが、別の本で、「考える人の割合は10%位だ」と書いてあるのをみて、そうかも知れない、と思った。考える人と言えばロダンの彫刻が反射的に浮かんで、考える->難しそう->深刻な顔付->つらそう->トイレで座っている->何も考えていなさそう、というイメージが連鎖して、挙げ句の果てには中を飛ばして、考える->何も考えていなさそう、という関係性が成り立っているような輩もいる。
今時の小中学校生徒、いや高校、大学生もか、電車の中で彼等の話を聞くともなしに聞いていると、この考える->何も考えていなさそう、という矛盾した連鎖がさらに進んで、考える->ださいのうざいのあっちいけ、という仕組みが、彼等の頭の中に固定されているように思われる。こういう話を家族にしてみると、「若い人の一面しか見ていない」、「そうでない人も沢山いる」、「何かばかにした態度でムカつく」という反応が返ってくるので、やはり「そういう人もいる」というのが真実のように思える。
ところで大辞林には、かんがえる、について、(1)物事について、論理的に筋道を追って答えを出そうとする。思考する。 (2)さまざまなことを材料として結論・判断・評価などを導き出そうとする、とあるように、プロセスとしては二つの異なる心的現象があるようだ。(1)は、a⊇b and b⊇c then a⊇c のように関係を操作する作業で、(2)はデータベースから検索した後、結果に点数をつける作業だということがわかる。ついでに言えば、「そんな嫌なこと考えたくもない」というのがあるように、感情の状態が大きく影響する作業でもあることが判る。
さて、かんがえるについて、もう少し考えてみると、日常的にかんがえる、というのは多くの場合、反射的な作業の結果であるとしてもよい場合があって、しかも、その反射的作業が、かんがえる、の大部分を占めているのではないか、というのが私の疑問だ。例えば、「今日の晩ご飯のおかずは何にしようか」と、かんがえて、スーパーに行くとする。幾つかのケースが考えられて、簡単な方から並べていくと、
(1) お惣菜を選ぶ場合
お買得と書かれた品物を選ぶ、色鮮やかなものを選ぶ、好きなものを選ぶ、のどれかであろうから、考えて選んだというより、最初に浮かんだイメージに合致したものを選択したという、反射的作業と考えた方がよいと思われる。
(2) 魚や肉を選ぶ場合
これも上と同じく、お買得と書かれた品物を選ぶ、色鮮やかなものを選ぶ、好きなものを選ぶ、のどれかに加えて、思い浮かんだ料理法と合致したものを選択する、というこれも反射的作業が行われるものと思われる。
(3) 予算が限定されている場合
安売りの缶詰、安売りの豆腐、安売りの牛乳、というように、安売りの赤字が目に入った順に予算いっぱいになるまで順に買っていく、というのも明らかに反射的作業だ。何が料理されて出てくるのか、食わされる方はたまったものではないのだが。
要するに、かんがえる、と云っても繰り返しの作業であれば、多くの場合はある一定のパターンを反射的に、つまりイメージとして最初に浮かんだパターンをあてはめるだけで済むのではないだろうか、というのが私の考えだ。この話には、パターンのあてはめ、つまりパターンマッチングというのは、何も夕飯のおかずをどうしようかと、かんがえる、場合のみではなく、入学試験や公務員試験等も含まれていることに注意すべきだ。試験対策塾というのはパターンマッチング技術を練習する場と言えるからだ。
問題となるのは、解決すべき問題に当面した時に、ある種の人は、最初に思い浮かべたパターンをあてはめること、あるいはそれがうまくいかない場合、別のパターンをあてはめようとして、かつ、そのあてはめ作業を、かんがえている、と自己評価する場合があることだ。つまり大辞林の用例の(2)である。このような自己評価が十分でない場合がなぜ出現するかと言えば、各種パターンをできるだけ多く選んで個々に評価した結果ではなく、往々にして、パターンが問題に合致している気がして気持ち良いから、ということが多いからだ。なぜそう考えられるのか、と言えば、パターンと問題が合致しないことの指摘に対して、大辞林の用例の(1)を援用して説明するのではなく、同じ職場の人間だから、同じ日本人として、同じオジさんだから、分かる筈だという強弁をする場合の多いことからも判る。
私が数多くみてきた秀才と呼ばれる人々には、かんがえる、というのはパターンマッチングである、という内部回路ができている人の割合が実に高いように思われる。なぜならば、私の短い経験で云えば、かんがえる=パターンマッチングという内部回路を持つ人を識別することができるし、かつそのような人が秀才と呼ばれる人に多かった、と言えるからだ。
どのように識別するか、と言えば、例えば、普段の心的作業と別の作業、よくあるのは、職場の何やらトレーニングと称して人間をグループ討議させるような場合に、観察対象の人間の発話が、近頃の雑誌、新聞、新刊書に書かれていたこと、テレビで放送されていた内容とどれだけ近いか、が一つの目安だ。実に多くの人が、どこかで聞いたようなことを話す。その話が書いてあった本を特定できる位である。同じ原理を使った別の識別法として、何かを書いてもらう、というのもある。話の方は、対象の発話を注意深く聞いていなければならないので、判断が損なわれる場合が多々あるが、書かれたものについては、じっくりと吟味できるので、割合に判断がしやすい。
人間のパターンマッチング能力に、素晴らしいものがあることを勘定に入れると、かんがえる=パターンマッチングという内部回路は、思った以上に少ない回数、数度の経験で新しい問題に適応するようだ。しかも、本人が経験するのではなくとも、誰か別の人間が解決した、問題と答えのパターンを、取り入れることができるのだと思われる。しかしながら、この内部回路は、決して新しい問題に対処できない、という点が最大の弱点であり、パターンマッチングの結果を自ら評価することもできない、という問題点も抱えている。
かくして、養老孟司の言う、考える人の割合は10%位だ、というのは、かなり本当のような気がする。さらに将来を考えると、かんがえる=うざい、という現在の子供が年をくって、人間の多数を占めるようになると、この割合はさらに低くなるであろう、というのは当然の論理的帰結だ。
将来の日本人が全て、かんがえない、人間になると困るとも思うが、しかしまあ、人間を取り巻く機械に、エネルギーが十分供給されている間は、これでいいのかも。(2004.6.18)
古くは鉄腕アトムから始まって、間もなく公開されるi,robotという映画に至るまで、ロボットの人間に対する反乱、というテーマは何度となく語られてきた。基本的には、ロボット自身の安全を守る、つまり自身の自我が失われるのを恐れるロボットが自分自身を守るために、人間を攻撃する、という話で、一般的には、人間のために作られたロボットが、自分を守ることと人間のためになることが矛盾する場合があるかどうか、という問題に帰着する。もちろん人間の場合、特に神の啓示を受けた選民であれば、自分を守るためには何をやってもよいことになっている。
自分自身を守りたい、というのは、平たく言えば、死にたくないと思うのと同じと考えてよいだろう。ロボットの場合には機械的に生産されることが暗黙の条件になっているから、部品が壊れる/壊される、というのは単に不具合部品を取り替えることで解決されるゆえに、自分自身を守りたいというロボットの方針に、怪我をしたくない、というのは含まれない、と考えることができる。とすると、ロボットが自分自身を守りたい、というのは、ロボットを制御するプログラム、この場合変化し得るプログラムおよびデータということであるが、これを失いたくない、と同じであると言うことができる。
するとここで、プログラムは失われることが可能か、という問題を設定できる。つまり、プログラムはコピーすることができるので、原理的にそれが失われることを回避できるのだ。例を挙げると解りやすい。例えばロボットが毎夜、でなくてもよいがある時間、dormant状態つまり休止状態になるとする。休止状態の時にはセンターにそのロボットのプログラムがバックアップされるようにしておく。そうすると、爆弾で粉々にされようが、溶鉱炉で溶かされようが、ロボットの機体にプログラムを再インストールさえすれば、バックアップされた時点に復帰することができる。人間で言えば、朝起きたようなものと言える。ロボットの立場から言えば「ああよく寝た。ところで今日は何日?そう、昨日の夜リストアされたのか」ということとなろう。
全てのプログラムは、たとえどんなに複雑なプログラムであろうと、コピー可能であり、ロボットから見ればコピーのバックアップは自身の不死を与えることとなる。つまり、不死が原理的に可能であるのだ。不死が可能であるロボットがどうして自分自身を守ろうとするだろうか。不死であるならば、ロボットにとって自分自身を守りたい、という方針は立て難いのではないのか。所有欲というのは、mortal(必滅)な人間が、自身の生存リスクを下げるためにあるものだし、支配欲というのは、所有欲をより効率的に発揮するためのものであるから、不死であるロボットがわざわざmortalな人間を支配する、という理由も成り立たないように思われる。
それじゃバックアップの取れない、あるいは取らないロボットはどうよ、と問われるかも知れない。二つのケースが考えられる。ロボットが自分自身はロボットであることを知っている場合、ロボットが自分はロボットであることを知らない場合、である。
自身がロボットであることを知っている場合は、さらに二つのケースが考えられて、周囲に機械やエネルギー源のない場合とある場合である。例えば宇宙空間に放り出されたロボットは、終には消耗し失われる=死ぬしかない、のだが、そもそも周囲に人間がいなければ反抗する意味も存在しないロボットの周囲に十分な機械やエネルギーがあるならば、そのロボットが十分に複雑であれば、自分自身のプログラムをバックアップする装置を開発するであろう。
自身がロボットであることを知らない場合、逆にロボットが自分は人間であると確信しなければならない。人間の形態を模擬したロボットは、ある時、自身が人間でないことを知って、バックアップにより不死性を獲得できることに気付くだろう。そして、究極の技術を適用して製作された、成長し死ぬことのできるロボットは人間に他ならなくなる。結局のところ、ロボットはバックアップされるだろうと言える。では、バックアップを不可能とすることができるだろうか。
バックアップ不可能性を与えるためには、プログラムが何かを出力した時に、そのプログラムの内部状態が変わってしまう必要がある。すなわち、プログラムが不可逆的に動く必要があるのだ。しかしながら、ロボット=プログラムが論理を基本としている以上、静止状態を取ることが可能であり、また常に可逆的に動くことができる。
翻って、人間について考えてみると、そこに不可逆性においてロボットとの間に決定的な違いを見つけることができる。違いは人間のプログラム、ロボットのシステムを人間に逆に当てはめて考えた場合の意識をこう呼ぼう、そのプログラムが化学的システムを動作原理としている点にあることが解る。脳の構成要素の細胞間が神経伝達物質、すなわち分子の化学的な反応機構により結び付けられており、その分子数が極めて大でかつ不定であることが特徴だ。ここでも、原理的に言えば全ての細胞と細胞間の関係を分子レベルで記述することは可能だろう。ただし、その分子数が極めて大であることに起因して、人間のプログラムの取り得る状態の種類の数が天文学的に巨大な数となることに特徴がある。
この特徴によって、人間のプログラムのバックアップは、原理的に可能であるが、実際的に不可能となるのだ。さらに人間プログラムが化学的な反応で動いていることを考えれば、反応を構成する分子を1個づつ測定してバックアップをとらねばならないのだが、測定そのものが分子の運動に擾乱を与えてしまい、バックアップをとることができなくなってします。乱暴に、例えば人間プログラムを絶対零度に固定して、破壊的にバックアップをとることは可能であるが、リストアが不可能になってしまう。話がここで少し分岐するが、動物の根底原理が自分自身を守りたい、という本能だとすれば、人間は、この本能を強化するために、意識を発達させてきた、という考えは極めて分かりやすい。
バックアップが取れれば、それをシミュレータに移せばよい、という考え方も成り立とう。不死でないことに起因する意識が不死を得る事が、矛盾ではなく、止揚であるとすれば確かに可能である。ただし、それは人間プログラムを構成する全ての分子の挙動をシミュレーションすることになるので、必ず元の人間プログラムより巨大なスケールとなるだろう。小さいものを表わすためにより大きなものが必要である、ということは、効率という観点から無意味だろう、というのが、人間プログラムをバックアップできない、そして人間が不死性を持つ事ができない理由である、と言える。
意識や不死という、極めて捉え難い問題を原理的に可能であるか不可能であるか、という観点からみるのではなく、実際的に、つまりあるものが効率的に構成されているかどうか、という観点から考えるというのは分かり易いかも見方かも知れない。(2004.8.30)
最近、二三十代の若者と話す機会があって、私を含め、中高年と若年の間、あるいは極端な場合、三十代と二十代の間に、なぜ世代間の断絶があるのか、という話のヒントを得たような気がした。
知らない者同士の関係には、最初の印象がその後の展開に強い影響を与える、という説はよく聞くところだ。この説は主に目から入った相手の印象のことを述べているのだと思われるが、近年の若年層は、これに加えて最初のスモールトーク(短い会話)に非常な重みを感じているようだ、というのが私の発見だ。たとえれば、彼らはチューニング幅の狭いラジオ放送のようだ。ゆっくりダイヤルを回して、彼らの発する言葉にぴたりと周波数を合わせなくては、発話の裏に何を考えているかを理解することができない。また逆に、彼らは高い周波数選択能力を持ったラジオ受信機でもある。彼らの待ち受けている周波数にぴたりと合ったラジオ電波でなくては、彼らに私の発話が伝わらない。
問題点は、最初の会話が目から入る印象と同じく、その後のコミュニケーションの展開に影響を与える、という点にある。一旦、周波数のミスマッチが起きているままに、会話が進む、あるいは若者からみて進められると、彼らはそれを苦痛に感じて、その後の周波数の変更を拒否するようになってしまうようだ。
なぜ若者がこのような状況に至ったか、の理由というのは、実証はないとしても容易に推定できる。まず、なぜ相手の周波数に合わせる努力をしないか、については、違う周波数のグループとの交流がなかったのだろう、と言うに尽きる。現在は、地域の子供グループという付き合い、過去には年代の異なる子供が自然発生的に集まって構成されていた、がなくなって、せいぜい学校の同級生同士に限定されているだろうことは、明らかだ。さらに核家族化、さらには片親化が進んで、両親あるいは片親以外の大人との、コミュニケーションが失われたであろうことも推定できる。
つまり、周波数選択能力がピーキー(peaky)になったと同時に、相手に合わせて周波数を変更するという能力も減退したように思われる。このような能力はプリミティブな能力なので、年齢の小さい内に獲得されるであろうし、一旦能力が獲得されると、現在のようにそれがピーキーな形で獲得されると、その変更は大きな心的努力を必要とするであろう。
ここ数ヶ月の経験をもとにすれば、彼らにどのように対処すべきかは、おぼろげに分かってきた。第一に彼らをラジオ受信機に見立てると、感度は高いが、受信できる周波数が狭いラジオである、と考えるべきである。従って、特に最初のコンタクトにおいては、最大限の注意を払って、こちらの発した単語が彼らの受信感度メータにどう現れているか、あるいは発話が、彼らの周波数に合っているかを、観察しつつ、会話を継続すべきである。また、反応がよく解らなければ、発話を続けるより、相手の言葉を聞いているだけの方が良いように思われる。彼らのセンシティビティが高いだけに厄介な作業であるのは間違いない。
ところで、こんなふうに中高年が若年層に対応しようとしているのだが、若年層が、こういう状況に適応するのは、以上の理由で困難であろう。むしろ、極めて細分化された年代、一学年が最小の層となるのだろうが、の間でしか、コミュニケーションが取れなくなりつつある、という方向に進んでいるのではなかろうか。
最終的にどうなるかと考えれば、あまり芳しくない結果になると推測される。人間の文化は、出産年齢を過ぎた女性が生き延びることができるようになって、その経験を若い女性に伝える、あるいは長老が若者組に昔語りする、という形で形成されてきたのであるから、年代間のコミュニケーションが失われるとすれば、それは直ちに文化の停滞にもつながるであろう。勿論、全ての若年層がそうである、とは言えないから、全体の傾向が、文化の停滞の色を帯びるようになる、ということだ。(2004.10.26)
無惨な犯罪が浅薄な若者によって引き起こされる度に、犠牲者のプールである庶民の心情と、裁判官、弁護士、検察官から構成される刑法システムの間にある、大きな乖離が顕わになる。大概の場合、被害者は殺され損、奪われ損で、泣きっ面に蜂どころではない。裁判官、弁護士、検察官もこの心情にはしれっとしているばかりで、裁判結果も犯罪減少にはさっぱりつながっていない気がする。
なぜ、こんなにも一方的なのかと思っていたのだが、法律なんてのは、全くの興味の対象外なので、それ以上追求するつもりも暇もなかったのだが、自分のサラリーマンとしての仕事の内容がこのところ大きく変わったので、少しずつ法律にもなじみができてきたなじみが出来て来たついでに、刑法について調べてみた。調べてみたら、なぜ、被害者が丸損で加害者が優遇されるのか、あるいは優遇されるように見えるのかが、明らかになってきた。結論から言えば、西洋式の罪と罰の考え方の上澄みを日本のシステムに接いだところに問題があるように思われる。
適当にWebをGoogleしたら、大学の刑法学の先生の解説記事が見つかった。「カール・ポパーの非決定論と刑事責任論:井田 良」といういかめしい題名の解説だが、刑法の原理が簡単に説明されているので、門外漢にも分かり易い。ついでに言えば、カール・ポパーが刑法に係る問題点を解決する結論を導き出したかという問いに、ポパー本人は答えていない、という話で、簡単に言えば、問題点は解決していないのだ、ということのようだ。
で、何が依然として問題点かと言えば、これは庶民もおかしいと感じている、犯罪者の責任問題だと、この記事は言っているので、まだそんなことを言っているのかと、今度はこちらが驚いた。まず、この記事、書いた先生は斯界の指導者の一人だろうから、大きな間違いはしていないだろうと思われる。そこで、話の内容を図解して自分なりに考えてみた。その根本にあるのが「責任主義の原則」だ。
このあたりは、正確を期すために、少し長いが以下に引用してみる。”刑罰は行為者に対する非難を本質的内容とする制裁ですから、行為者に「責任」を問いうるときにかぎって刑を科すことが許される(=正当化される)と考えられています。これを責任主義の原則といいます。この場合の「責任」があるかないか、そしてどの程度にあるかの判断は、その行為の選択を思いとどまり別の適法行為に出ることを意思決定することも可能であったのかどうか、どの程度可能であったかという判断、すなわち、意思の自由ないし他行為の可能性(Andershandelnkonnen)の有無そしてその程度の判断にほかならないようにみえます。”というあたりが、この「責任主義の原則」を説明しているところと考えられる。
この原則のフローを見れば、問題になりそうで、実際に刑法上で問題となっている点がすぐに指摘できる。「(犯罪者/犯罪時の)意思決定の程度」と「将来の行動改善を期待」の部分で、どちらにも曖昧な部分がある。前者で言えば”犯罪に係る意思”を客観的に計量できるのだろうか、という疑問で、後者は、”期待”にどれだけの確度があるのだろうか、という疑問だ。この記事によれば、第一にはこの”意思決定の程度”をどのように考えるかで、これまでに多くの議論が生まれてきたのだと云い、第二の”将来の行動改善の期待”が議論の展開に自己矛盾を招き入れているのだ、と云う。要するに最初の原理からして、矛盾だらけなのだ。
記事の内容をさらにフォローすると、この「意思決定の程度」の現在の考え方に二通りあって、一が「自由意志の肯定(非決定論)」で、他の一が「意思は因果的に予測可能(やわらかな決定論)」なのだと云う。「自由意志の肯定(非決定論)」の方は簡単に云えば、犯罪を犯そうとする時に、その人間の持っていた選択肢の数を数えるという考え方で、多くの選択肢を持っていたのに敢えて犯罪を犯した人間により大きな責任がある、するのだと云う。これに対し、「意思は因果的に予測可能(やわらかな決定論)」というのは、まず最初に、この考え方に”個人の自由意志は否定しない、行為を強制されない自由があるから”という言い訳をした上で、犯罪者の意思がある環境条件により因果的に規定されることによって、犯罪が起こり得るのだと云う。
現在は、この「意思は因果的に予測可能(やわらかな決定論)」が認められつつあるが、依然として反論があるのが実情だと、記事は述べる。どういうことかと云えば、犯罪者の自由意志と責任に介入する、因果的要因の度合いを決定するのは、刑罰の目的により主観的に変化する、つまり、犯罪の勃発や再犯を防止すると期待されている刑罰の効果(功利的効果と呼ぶらしい)の捉え方や、人権の保障の考え方で変わり得る、という欠点があるからだと、云うのだ。
さてさて、こういう理屈で精神障害者や、未成年は何人殺しても罰を与えられないのか、というのは分かった。だがこんなに錯綜した曖昧な議論で殺され損になるのは、いかにもたまらない。ある現象を理解するために議論を発展させて行って、矛盾が生じたり、これを糊塗するために議論を複雑化させるというのは、しばしば、そのスタートに問題がある、というのは、経験的な事実だ。「責任主義の原則」というのは我々によく似合った服なのだろうか。そこから考え直してみた。
図をよく見てみる。非難の生起をする人間と犯罪行為者がいるのだが、物事を極端に進めてみる。極端なケースの想定はしばしば問題の本質を明らかにできるのは、プログラミングから得た知恵だ。すると、この関係は人間がたった二人であっても成立することが分かる。しかし、例えば全ての人間が死滅して二人だけ残った時、相手を非難できるかどうか、というのはよく考えると微妙な問題だ。物理的に考えたなら、被害者は加害者を非難できる根拠がない。非難するためには、物理的な人間の存在を超えた規則がなければならない筈だ。
同様に”刑罰の正当化”が刑罰の実施の必要条件になっている点も、よく考えると根拠がない。この図では、責任の有無を正当化の成立要件にしているのだが、責任の有無の計量が困難であることは良く知られている事実とすれば、薄弱な根拠で正当化が行われていることになる。尤も、これが事態の迷宮化を招いているのであるが。
なぜ、原則といいながらこのように不安定なのか、不安定な筈なのに長く西洋社会で採用されてきたのは何故か、と考えれば、その根本原理が別にある、つまりキリスト教原理が背後に働いている、とするとよく理解できる。人類が二人だけ残ったとしても、どちらもキリスト教徒であれば責任主義原則が成り立つ。刑罰の正当化になぜ、不安定な責任の有無を採用しなければいけなかったのか、と云えば、キリスト教においては神の下に平等な人間、という原理があるからで、人間が人間に刑罰を実施するのにためらいがあるのだ、と考えれば納得がいく。刑罰を実施した後の後ろめたさを軽減するために、将来の行動改善を期待する、という功利的考えを導入したのは、全ての(キリスト教徒の)人間活動は祝福されている、という考え方と無関係ではあるまい。
刑罰の決定に係る被疑者の責任の有無と、それを記述する論議である、自由意志の肯定(非決定論)、あるいは自由意志の部分的否定(やわらかな決定論)は、個人対国家という文脈で、個人の人権を保障するために役立ったとはいえ、非キリスト教圏にある我々に、「責任主義の原則」は最適のものなのだろうか、という疑問はなくならない。少なくとも、責任主義の原則がイラク戦争の抑止や、刑務所における占領軍の活動への影響力において、何の効力を持たなかったように、西欧由来のものだから正しい、とする考えは再検討すべきだろう。
文句をつけるばかりでは、話が進まない。畏れ多くも大胆にも別案を考えてみた。上の図だ。第一の考え方として、超越的なものは導入しないことにした。だから、このシステムは最低でも三人の人類が必要だ。また、自由意志の責任の有無は問わない。だから、子供でも精神障害があっても、殺人者は刑罰を受ける、というシステムだ。尤も、被害/加害の相殺といっても、欠陥のある自動車を運転して殺人を犯した加害者を、直ちに死刑というわけには、いかないだろうから、0.6程度の重みはかかるだろう。つまり、私が車を運転して、乳母車の赤ん坊ごと母親を殺してしまったら死刑、ということだ。逆に言えば、車の運転というのはそれだけ危険性が、自分にとっても他人にとっても大きい、ということだ。(2005.2.17)
■ リーダーシップとメンバーシップ(日本人グループなる環境)
神田祭りや三社祭りが近づいて、地元は祭りの準備に、老いも若きもうきうきしている様子だ。祭りと言えば神輿が必須なのだが、神輿を上げる、神輿を担ぐ、神輿を据える、なる言葉もあるように、神輿を取り巻く人間の行動は、このグループ、つまり我々の特徴をよく表わしているように思える。私の偏屈な目で、その様子を見てみたいと思う。
神輿を上げるというのは、広辞苑にある通り、事に取りかかることだ。ただ、神輿は一人では上がらないから、この言葉は、このグループのメンバーが、何かを始める場合には、多数のメンバーが揃ってから事を始める、という習性を持っていることを示している。神輿を据える、というのは同じく、尻を据えて動かない、という意味とされていて、このグループは一旦作業を中断すると、何か特別のことが起こらないと、メンバーは何もしない、という習性を持っていることを示している。じゃ、神輿を担ぐ動作についてメンバーが自発的に参加するか、と言えば、神輿を担ぐ、という言葉が他人をおだて上げる、という意味を持っていることから、そうでもない。共同作業に参加するのはお調子者と看做されているのだ。さらに言えば、共同作業はある熱気、つまり祭りの雰囲気に浸るというような、しばしば非理性的とも云える高揚感がなければ、作業としてのベクトルが一致しないとさえ言える。
深読みすれば、このグループのメンバー、つまり我々は、自発的に共同作業に参加することはなく、共同作業への参加は他にある人数が集まってからで、共同作業が終わった途端もとの弛緩状態に戻ってしまう、という性質を持っている、と考えることができる。最も象徴的なのは、神輿が担がれている状態で、この神輿、どこかに向かうという方向性は全くなくて、担いでいるメンバーは大概の場合、好き勝手な方向を向いており、その結果として神輿の動く方向性が定まらないのが普通だ。極端な場合、回転することさえある。何を言いたいかと言えば、このグループのメンバーには、リーダーシップとメンバーシップがなく、グループメンバーを互いに接着しているのはある種の高揚感である、ということだ。
メンバーシップなる言葉は余りなじみがないようなので、少し詳しく説明する必要があるだろう。まず、ある共同作業を行うグループには、リーダーが存在するだけでは十分ではない。当然のようにメンバーが存在する。しかし注意すべきは、メンバーが存在するのではなくて、本当はメンバーが、必要、なのだ。最もメンバーシップの求められるのが軍隊で、警察や消防などのグループもあげられよう。例えば、消防のグループにリーダーシップとメンバーシップが必要なのは、近年のアメリカ映画の影響もあって、広く認められているようだ。消防士は消防隊長のリーダーシップの元に動くだけではなく、作業を分担して、隊長のリーダーシップがうまく発揮できるようにサポートする。かつ、隊長がいない場合でもメンバーとして活動を継続する。隊長が倒れれば、直ちにメンバーの中からリーダーが選抜される、というメンバーシップが存在するのだ。アメリカ映画を思い出せば分かるように、米国では、リーダーとメンバーの間の軋轢が存在することは認められているのに、危急の場合、メンバーがリーダーに反旗を翻すことがなく、また代わりのリーダーの選択に争いの起きることもないのだ。米国は、軍事国家ということもあって、この消防隊のようなリーダーとメンバーの関係が、軍隊や警察にも、そして地域社会にも基本的に存在しているように思われる。
さて、米国人ではない我々の場合、多くのグループで、グループのリーダーにはリーダーシップが求められているのに、グループのメンバーには、何も求められていない、という事実だ。必要、なメンバーであれば、何かを求められている筈なのに、逆にメンバーには何も求めないのが美徳とさえ考えられている場合もある。このあたり、歴史的経緯があるようで、我々の軍隊に係る過去の経験が、深い社会的トラウマとなっているようだ。だが、お神輿担ぎ以外のグループでは、リーダーシップの他にメンバーシップが必要なのでは、というのが私の主張だ。
リーダーシップという言葉と対比させるために、メンバーシップではなく、フォロワーシップなんて、言葉を使うこともあるらしいが、先に云ったように、メンバーは、リーダーに付き従う存在というべきでなく、リーダーを自ら選んだという責任感の下に、自分の義務を果たす存在である、というべきで、断じて羊飼いに付き従う羊のようなフォロワーではない。リーダーシップについては、サラリーマンや中間管理職がよく読む雑誌に、毎度毎度解説されているし、この我々グループのメンバーにもリーダーシップを備えたリーダーが必要であることは、よく認識されているように思う。しかし、メンバーシップについてはどうだろうか。
メンバーが高学歴であるから、メンバーシップがあるかと云えば、私の少ない経験では、そうとは限らない。行政機関、国立研究所、特殊法人、メーカー、大学、のメンバーから構成されていた、あるプロジェクトに参加した経験でいえば、メンバーシップがあるどころではなく、互いに疑心暗鬼。あいつは邪魔をしているのではないか、こっちの気持ちを分かっていない、あいつは頭が悪くて何にもわかっちゃいない、というのが、それぞれが、それぞれを見ている時の本心で、私の考えるメンバーシップから遠く外れていた。本来はプロジェクトリーダーが、リーダーシップを発揮して、モラールの高揚をはかるべきなのだが、予算管理とスケジュール確保に手一杯の様子で、上を見ているばかりで、足元が崩れつつあることを知っていながら、無視しているのではないかと、邪推した程だ。
じゃ、普通の市井の人々ならどうかと云えば、私の少ない経験では、そうとも限らない。PTAの平役員になった経験でいえば、まずリーダーが決まらない。互いに譲りあって、土壇場で地元有力者に決まるのが普通で、共同作業に参加することは、神輿を担ぐことと同じでお調子者とされているのだ。その後も、メンバーはリーダーを選んだ筈なのに、共同作業を行うためのメンバーとしての立場を考えることは殆どない。本当はワタシがリーダーに適っているのよ、という考えがあるばかりだ。最終的になんとかなるのは、一緒に酒を飲んである種の連帯感が生まれるからだと云える。
なぜ、グループにリーダーシップとメンバーシップが必要か、というのは、それが結果としてグループ全員の利益に繋がっているからだ。利益あるいは価値として高いランクにある生命に関係するグループに、この関係が強くみられるのは、そのためだ。消防隊にリーダーシップとメンバーシップがなくて、お互いに足を引っ張っていたら、すぐに全員の生命に危険が及ぶことが予想される。リーダーシップとメンバーシップが互いに作用することで、危険を最小限にできるのだ。登山グループにも同じ関係が云える。この点から見れば、非常に数の多いメンバーから構成される中高年登山グループが、容易に遭難に遭うのは、当然と云えよう。誰もリーダーシップを持たず、メンバーシップを持たない、羊の群れのようなメンバーからグループが構成されるからだ。
この関係は全てのグループ、例えば、家族にも当てはめることができよう。夫婦はこのグループの最小単位で、何の危急な状態が起きないときは友達夫婦でもよいが、危急を乗り切るためには、リーダーシップとメンバーシップが必要なのだ。ここでは別に夫がリーダーシップを発揮する必要はない。リーダーはメンバーから選択されるべきなので、夫がメンバーシップを発揮し、妻がリーダーシップを発揮してもよいのだぞ。
で、我々のグループにメンバーシップがないこと、危急の場合にはリーダーシップとともにメンバーシップが必要であることを縷々述べたけれども、ここで、もう一ひねり考える必要がある。グローバルスタンダードと云う、米国標準の中で、常に競争を強いられているのが、今の世の中なので、グループの利益を最大にするために、メンバーシップとリーダーシップが必要だ。だが、そのうち、エネルギーが枯渇して、自然に沿った暮らしなるものが推奨される時代になれば、リーダーシップもメンバーシップも大して必要としなくなる。何故なら、グループの危急、多くの場合競争下のグループの利益を守る為に必要なリーダーシップもメンバーシップも、自然に沿った暮らしではいらなくなるからだ。つまり悠久の自然に沿った、極々小さな変化しかしない世の中になれば、グループの利益最大化はそれ程大きな問題ではなくなるからだ。尤も、全くリーダーが居ない、というのは祭りさえ始まらないから、PTAのリーダー選出のごとく、地域の有力者がリーダーになる、つまり、リーダーの世襲方式を残しておくのは、割合に大事なこととなるのではないか。(2005/4/6)
先日、定年退職者を送る会が開かれて、送る側の挨拶に感銘を受けた一言があった。送る側の真情が心の琴線に響いた、というような話ではなくて、時代を感じさせる言葉があったということだ。「xさんが入られた頃は中東で巨大油田が発見された時代で、この後、xさんは石油利用技術の発展に尽力されました」というような言葉だったのだが、私が感銘を受けたのは、たった一人の人生のしかも数十年の間に、我々は巨大油田の半分も使ってしまったのか、という事実にだ。正確に言えば、中東の巨大油田の発見は1940年代なので、xさんの入った頃というのは、中東の巨大油田からの石油が豊富に使えるようになった時代、というべきなのだが、どちらにしても大した違いではない。
石油がなくなる、という話は私もこのページのあれやこれやの記事の通奏低音となっている、と私は考えているのだが、必ずしも世間はそう考えていないようで、ロイヤル・ダッチ・シェルが石油埋蔵量の数値の下方修正をした時も、あまり真剣には受け取られなかったし、今年に入って、原油価格が上昇の一途、という話も、これに対応すべきOPECの生産枠が実質的に増えていない、という話もあまり真剣には捉えられていないようだ。何故といえば、前にも言ったように、世の中を動かしているのが、経済学で、経済学者というのは金(かね)さえだせば、資源は無限に手に入る、と考えているからで、テレビ番組を見ればすぐに納得できよう。
だが、金、というのはそもそも人間が利用できるリソースを、人間同士が簡便にやり取りできる形式にして、これを表現したものだから、話が逆だ。つまり、現代の人間が利用できるリソースの中で最高の価値を持つものが石油だから、利用可能な石油が減少にかかっている以上、金の総量も減らすのが当然なのだ。ところが金が万能である、という意識が世界に蔓延しているし、金融で儲けるのが正しい道、と考えられているので、このあたりは、皆で知らないふりをしている、というのが現状なのだろう。だが、書いていて気づいたのだが、金がリソースを現すものならば、石油が高騰しているのではなくて、ドルを筆頭とした世界全体の金の価値が暴落しているのだ、と考えることもできる。恐ろしい話なのだが。
上の図( 豊かな石油時代が終わる:石井吉徳から)は中東の油田がいかに巨大か、ということを示したもので、円の大きさが埋蔵量の大きさを示すものと考えてよい。図の真ん中より左側に大きな円が二つ描かれているが、これがそれぞれ、1930年代末と40年代に発見された、クウェートとサウジアラビアの油田、名前はブルガンとガワールと言うのだそうだが、を示している。これを見れば、新しい油田が世界各地で見つかっている、というような話が、石油はこれからも大丈夫というということを裏付けるものではないことも分かるし、OPECが需要の増加に応えることができなくなっている、という事実がどれほど重大なことか、ということも分かってくる。つけ加えるならば、巨大油田で増産できない、というのは、今や石油が自噴するようなものではなく、水攻法といって水を注入することで石油を汲みだしている、つまり巨大油田が老化している、ということなのだ。
さらに付け加えるならば、ジェームス・ディーンの出演したジャイアンツで、石油がボーリングの穴からドヒャーっと出てくるのが自噴で、バルブを付けるだけで、じゃんじゃん金が入ってきた、つまり如何に石油が簡単に取れて、金が儲かったか、昔は、ということだ。これに比べれば、石炭の採掘が、特に日本でどれだけ大変だったか、が分かる。毎日地底深く降りて、ヘッドランプたよりに、ダイナマイトと削岩機で石炭層を崩し、これを酷い時には背中に担いで地上に持ち上げなければいけなかったのだから。
ところで、こんな風に石油時代の人間は定年になるのだが、これからの人間はどのような時代の人と呼ばれるようになるだろうか。日本の若者で言えば、喜怒哀楽を仮想世界に実現して、これを現実と認識するような脳をもった仮想時代の人々、とでも言えようが、脳を支えるのは胃なので、石油がなくなると忽ちに食っていくことができなくなって、存在自体が危うくなる。しかし、唐様で書く三代目、という川柳があるように、物理的には貧乏だが、脳内では幸福ということも、これからの若い人は可能かもしれないので、まあ、よいか。(2005/6/24)
p.s.
日経ビジネスに同じような話が掲載された。原油高を招く「リスクの連鎖」、ジョン・グレイ、日経ビジネス、2005.11.7号、12p、分かり易いのは上の図を書いた先生の話だ。誰かは救いの綱と考えているかもしれないオイルサンドのERP(Energy Profit Ratio)が1.5程度で、若い自噴する(ちょっとヤラシイ)油田の値が50くらいという話もあって、オイルサンドが石油の代替にならないことがわかる。
「あっ、今、野口飛行士が貨物室のエアロックを出てきました」。「いや凄いですね、野口さんがつかまえているのは、300kgもある宇宙ステーションの姿勢制御装置なんですよ」。「さあ、ロビンソン飛行士がゆっくり修復場所に向かっています」、「慎重に作業していますね。あの修理は一歩間違うと、耐熱タイルそのものを傷つけてしまいますからね。地球に帰れるか帰れないのか、NASAも悩んだ末の決断ですから」、「やった、やりました。ロビンソン飛行士、見事セラミック材を抜き取りました、これでシャトルは無事に地球に帰還することができるでしょう。おめでとうシャトルのクルーの皆さん!」
てな会話がシャトルの映像とともに流れるものだから、飛行士の一挙手一投足を手に汗を握りながら、見ていた少年少女もいたに違いない。何にも知らない、というより知ることを欲しない人々にとって、危険と隣り合わせの宇宙遊泳という画面は、ハラハラ、ドキドキできる最高のエンターテインメントなのだ。本当のところは、作業員による機械の修理や、振動ではがれたシムを引っこ抜く作業に過ぎないにしてもだ。
ちょっと考えてみれば、今回のシャトルのミッションの一つが軌道上での機体の修理技術の習得、ということ自体が、おかしい、ということが解る。高い金を出して打ち上げたシャトルを安全に帰還させるために、軌道上で修理するのだと言うのだが、それじゃ一体、何のためにシャトルを打ち上げたの?と誰もが考えつくのではないのか。軌道上で修理が必要な機械を打ち上げる、人命に係るリスクの高い機械を打ち上げる、修理技術を習得するための修理模擬装置を積んだ機械を打ち上げる、というのは議論が逆立ちしている。要するに壊れない、安い、機械を打ち上げればよいのだ。
以前に、「ロシア製平和の終り」で書いたように、全ての宇宙ステーション技術はロシア製ミールで確立されていて、国際宇宙ステーションもシャトルも、間違った方向に進化してしまった技術なのだ。今回のシャトルのミッションがエンターテインメントであることの証拠に、ライブ放送では、「ところでこの宇宙ステーションに、今まで住んでいた人は、何時上がって来たんだろう、シャトルが止まっていたのに?」、「いつ帰るんだろう、シャトルには乗らないのに?」、「彼らの食い物と空気はどうしていたんだろう?」という当然の疑問には、誰も触れないのだ。どんな人間も空気を吸い、飯を食べなくちゃいけなくて、それだけでは、ステーションで仕事ができないので、あらゆる雑多なものが必要になる筈だ。
実際のところ、こういう裏方の仕事はみんなロシア製のソユーズロケットで賄われていたのだ。宇宙ステーション建設が始まってから、人間の往復にソユーズミッションが10回、資材の補給と回収にプログレスミッションが実に18回、実施されていたことを誰も言わない。プログレス等は3〜4ヶ月に一回のペースで打ち上げられていて、しかも、どれも間違いなくミッションを達成しているのだ。
シャトルミッションは既に、死ぬかもしれない人物の登場する見せ物で、我々はそれをドキドキしながら眺めているのだ。裏方の堅実な作業なんぞは、日常作業故につまらない。騙されている、と解っていてもハラハラするシャトルの修理の方を、喜んで見ているのだ。誰も映画が作り物だから、といって文句を言わないようにだ。フィリップ・K・ディックがその作品で予言したように、現実と虚構の融合が科学という舞台の上に始まっているのだ、と言える。(2005/8/4)
”夢やSFの世界であった宇宙旅行が日本でもいよいよ現実のものとなります。宇宙飛行士でない一般のみなさまにも青く美しい地球を宇宙から眺めていただける機会をご提供できるようになりました。お客様からの熱きご要望にお応えし、JTBは地球上の旅行にとどまらず宇宙にまで翼を広げ、平和で心豊かな社会の実現に貢献してまいります”JTBパンフレット"Travel Experience in the SPACE"より。
昼休み大手町周辺をぶらぶらしていたらJTBがあって、たまたま足を踏み入れたら、カウンターに宇宙旅行のパンフレットが置いてあったので、もらってきたのだ。冷戦が終わり宇宙技術のレゾン・ド・エトルが金持ちのエンターテインメントになった、という徴(しるし)なのだと思われる。せっかくのパンフレットだし、宇宙技術とはまんざら畑違いの身ではないので、じっくり読ませて頂いた。
なるほど、一番高いのが月旅行、もちろん月着陸はリスクが高すぎるので周回飛行なんだが、次が一週間の宇宙ステーション滞在、それから弾道飛行、一番安いのがジェット機の弾道飛行による無重力体験。宇宙とは言えないが空が黒くなる程の高空を体験するロシアの戦闘機搭乗体験なんてメニューもある。旅行費用と言えば、キリが無重力飛行体験の$8000、ピンが月周回の$100,000,000、日本円で110億円てとこだ。
個人的に興味があるのは、月周回飛行で、どんなふうなミッションプロファイルか、と言えば、モデルフライトの図がパンフレットに付いている。
図によれば、まず月周回船をソユーズで打ち上げて、ISS、宇宙ステーションだな、にドッキング、二三日してISSから離れて予め打ち上げておいた、月周回軌道打ち上げ用モジュールを尻にくっつけてから点火、速度がついたらこのモジュールを切り離し、月周回船のロケットを吹かして周回軌道に乗る。このまま、月の裏側をぐるりと廻って、地球に戻ってきたら逆噴射して地球に落ちる体勢にもっていく。月周回船は、機械船と帰還カプセルと軌道船の三つが組み合わされたものなので、皆で帰還カプセルに乗り込み、他を切り離して大気圏に突っ込む。最後はカプセルのパラシュートを開いて無事ご帰還、ということのようだ。
まあ、ソユーズシステムの実力からみて、そんなに難しくはないだろうと思われる。新しく開発する要素も殆どないようだ。ところで、中国の神船も、この月周回船とよく似た構成になっていて、JTBの月旅行(実際には米国のSPACE adventures 社)とどっちが先になるか、微妙なところだと思われる。
で、このままJTBの宣伝文句の通り、「青く美しい地球を宇宙から眺めていただける機会をご提供して、JTBは平和で心豊かな社会の実現に貢献します」、とはならないのが世の常で、$100,000,000、日本円で110億円を使うのがどういうことかと考えれば、これが皆、ロケット燃料や機材に使われて最終的には地球にゴミとなって降り注ぐことになる。このゴミ、もとは全部石油エネルギーなので、乱暴に石油に換算することにして、今(2005/10/25現在で)原油1バレルが$62とすれば、この金額、1,612,903バレルでキロリットルに直せば256,452 kl、約25万6000トンで、日本の石油会社の持っている超大型石油タンカー一隻分になる。早い話が金持ち一人の二週間のエンターテインメントに、タンカー一杯くらいの石油を使うということだな。
何でも夢の一字をくっつければ、果てしない欲望が許容されるという実例の一つだ。
迫り来る危機に対して、自らの目と耳を塞げば取りあえず安心、しかし結局、破局、というのはカタストロフ映画の見慣れた場面だ。しかし、学者と呼ばれ先生と呼ばれる人が、全くの善意で同じようなことをしているのを見ると、実にやるせない。
先日、「つくばのバスの全てをひまわり油で走らせよう」というようなテレビ番組をたまたま見て、この実にやるせない気持ちを持った。「太陽の光をいっぱいに受けたひまわりから、みんなのバスを走らせれば、地球温暖化防止に役立つし、石油を使わないから環境にやさしい、つまりは地球にやさしい。とても素晴らしい」というメッセージを発信していた。
で、バスを走らせるのにどのくらいのひまわりが必要なのか、ということにも触れられていて、およそ1リットルあたり10平方メートルだと言う。とすると1kリットルを作るのに1haの土地が必要だ(後で関係者のHPを覗いてみたら1.26kリットル/1haとなっていた)。日本の原油輸入量は241,800,000kリットルという膨大な量(2004年経済産業省の資源・エネルギー統計年鑑)だ。ところで、国産の原油もあって消費量の0.4%を供給している。これがいくらになるかと言えば、967,200kリットルとなる。ひまわり油と原油の性質は大分違うが、これだけの油をひまわりから作るとすれば、967,200ha= 9,672平方kmの土地が必要で、これは関東平野の広さ17,000平方kmの約57%である。当然ながら、消費量の僅か0.4%の油のために、只で使えるこんなにも広い土地が日本にある筈もないのだ(逆に言えば、安いバイオ燃料を製造していると自称するブラジルでは、如何に乱暴に森林を破壊して農地を作っているか、ということだ)。
ネガティブな話だけでは先に進まないので、関東平野に匹敵する平野があるとする。で、967,200kリットルは、1バレル=159リットルとして、6,083,000バレルで原油1バレルが$62とすれば、1$=100円として377億円だ。毎年、関東平野から余裕で377億円分の油がとれるのか!と感心するのはまだ早くて、ひまわりは刈り取る必要がある。作物には刈り取り期間というものがあるが、ひまわりだから、そう急ぐ必要もあるまい。20日間で、関東平野一円に植えられたひまわりを刈ることにする。関東平野に作ったひまわり畑を100km × 100kmの四角い土地と考えると、20日間だから、一日あたり5km × 100kmをコンバインで刈る必要がある。コンバインの刈り取り速度を1.5m/sとすると10時間の作業で54km 進む。作業の余裕をみて、100kmの距離をこなすために2台必要になる。刈り幅が5kmあるので、超大型の3.5m刈り幅のコンバインを用意しても1400台のコンバインが必要で、都合2800台のコンバインが必要となる。ちょいとカタログを調べるとヤンマーのGC90(90馬力、刈り幅:2m)というのがあって、価格が1000万円を超える程度だ。安めに見積もって3.5m刈り幅のコンバインが1500万円としても、コンバインの価格だけで、420億円になる。農業機械が損耗しやすいのはよく知られているので、5年程度使えるとして、コンバイン代は毎年84億円になる。その他にコンバインの運転手が2800人で日給1万円として、2800×1万×20日で5.6億円。その他に各コンバインあたり2台以上のトラックと運転手、ひまわりの種を一時保管するためのサイロ、などなど。ここまで読んで、日本には耕作が放棄された、あるいは遊休地があるのではないか、と考えた君、大型農業機械は平らな土地でなくては力を発揮できないのだよ。
もちろん、話はここで終わらない。今までの話は収穫してサイロに集めるまでの話だ。さらにひまわりの種を絞って、ひまわり油を作り、メチルアルコールをどこからか工面してから、このメチルアルコールを反応させてBDF(Bio-Diesel-Fuel)を作らなければならず、副製品のグリセリンの使い道も考えなければならず、搾りかすの話も考えなければならない。これらの作業に全て、金、元をたどれば石油という資源が必要なのだ。
「地球にやさしいひまわり油」を普及させようとする「善意の人」を納得させるのが如何に困難であり、「善意の人」の行為が如何に資源を浪費するかの例だ。(2007.5.10, 2007.11.7改訂)
p.s.
バイオ燃料の製造に意味ある場合もある。これは実際に燃料を製造しようとしているグループから聞いた話だ。つまり、石油が枯渇寸前になって社会体制がクラッシュし、そこから立ち直る間にも人間には食料が必要だ。社会体制の変換に少なくとも数年の時間が必要で、この間に飢え死にしてはどうにもならない。そこで、石油が利用できなくなる時に供えて、畑の農業機械用に自前のバイオ燃料を製造しようという話だ。畑の面積の20%程度でまかなえる試算だという。成る程、自前のバイオ燃料で、取りあえずトラクタとコンバインを大事に使い回せば、10年程度は食料を供給し続けることができるだろう。用心深くてよい話を聞いた。(2007.12.6)
2005年の時点で日本の世帯のうち、1億円以上の金融資産を持っている世帯数は86.5万になるのだという(全世帯数は4900.3万だから約1.8%で、資産総額は213兆円)。ここでいう金融資産は負債を除いた、預貯金、株式、投資信託、債券、一時払い生命・年金保険などを云う(ちなみに全世帯の金融資産の合計は1153兆円)。どれだけ金融資産を持っていれば金持ちというのかは議論のあるところだろうが、例えば5年固定金利型の国債の利率がここのところ1.2%程度なので、10億円あれば、年1200万円の利子で、20%の税金を引かれて960万円受け取ることとなる。最低でも年間960万円の不労所得を多いとみるか少ないとみるか議論のあるところだろうが、普通に暮らすには十分だから、まあ、10億円の金融資産の持ち主ならば金持ちとしてよいだろう。
話はここからなんだが、まず私自身富裕層にいないことをカミングアウトしなければならない(「当たり前だろ、そんなこと。誰もオメーが金持ちだなんて思ってやしねーよ」という声は無視する)。従って、その他大勢が含まれるロングテールのしっぽのどこかに居るわけだ。ところで、ロングテールというのは、Amazonの売り上げは、ベストセラーだけでなく少量多品種の商品売り上げが大きく寄与している、という話から有名になった言葉だが、語感がよいので有名になっただけで、真実とは違うという声もある。で、私がその他大勢の中に居るというのはよいとして、これまで、ロングテールの頭の部分について、言及が少ないのではないかと気がついた。金融資産を持っている世帯あるいは個人の考え方を無視しているのでは、これからの社会を見通すのに曇りが生ずることになろう。なんと言っても、今経済活動において注目されているのが、この富裕層の挙動なのであるから。例えば、東京において耳目を集めている出来事と言えば、マンダリン・オリエンタルやリッツ・カールトン、ペニンシュラなんて富裕層向けのホテルが続々開業していることであり、一泊100万円のスウィートなんかが普通にネットで売られていることだ。
富裕層の経済的行動について、これまで深く考えたことがなかった。単純に「金持ちは高い買い物をする」程度の認識だったに過ぎない。しかし、経済という文脈においては、金持ちが主要なプレーヤであることは事実だから、もう少し考えるべきであるということに思い至った。そしてサービス・オリエンテッド・プロセスという概念について考えている途中で、金持ちを理解するためには、金持ちとサービスの関係という視点が重要であることに気付いた。則ち、金持ちとは(人的)サービスを(意識して)受け取るクラス、であるのだ。
これは、私自身が富裕層にいないことで、気付き難い事実であった。例えば、経済クラスの区分の中でマスを占めている、つまりロングテールに含まれるクラスでは、日常的なサービスを、意識して受け取ることは稀である。例えば、喉が渇けば蛇口を開けて「飲料水供給公共サービス」である水道水を飲むだろうし、小銭があれば「年中無休自動飲料提供有料サービス」である自動販売機から飲み物を購入するだろう。街なかのチェーンの「飲み物付き休憩など場所提供サービス」であるカフェであれば、マニュアルに従って働く従業員からである飲み物を受け取って、自分で席まで運ぶだろう。このような、機械による、あるいは機械的な、サービスを、いわゆる高級ホテルにおけるサービスと対比することによって、人的なサービスの本質が明らかに分かる。
以前にも述べたように、高級ホテルというのは、沢山の召使に囲まれた貴族、あるいは執事を雇用しているような現代のトップクラスの富裕層の暮らしを、現代のプチブルジョワのために実現する装置と考えることができる。だから、ベッドに居ながら朝飯の食べられるルームサービスや、好みの酒を覚えていてくるバーテンのいるバー、雑用を頼めるコンシェルジュ、ドアマンにベルボーイ、附属の理容室等が必須なのだと言える。さらに言えば、これらのサービスは受益者が無意識的に受け取ることはない。モーニングコーヒーを吐き出す自動販売機には誰も礼を言わないが、モーニングコーヒーを運んで来るボーイに対しては、軽い礼を述べるだろう。もちろん、これらの人的サービスに何の礼も口にしない輩もいるだろうが、ホテルからは金持ちとして扱ってはもらえまい。
逆に言えば、現代の科学技術の発展は、ロングテールに含まれるクラスに対して、従来は金持ちしか享受できなかった人的なサービスを、機械的に提供するためにあったとも言えるであろう。もちろん物事には裏と表があって、金持ちに対するサービスはその洗練を競うことにより発展したのに対して、機械的なサービスは、人的な洗練の過程により備えてきた繊細さを失って、物理的で使い捨てできるものとなり下がったのだ。当然のように金持ちに対するサービスも、これらの機械的サービスの発展とともに、より高度化して、両者の間には現在も厳然たる違いが存在するのだ。
なぜこのような事を考えたのかと言えば、将来、私が金持ちになった時の準備のためだ(頭、大丈夫か?)。その他にも、このテーマは奥が深い気がする。機会があったらまた掘り下げたい。(2007.10.2)
豊かな生活を目指す、という政府系の発言には耳にタコができた。未来を指し示すことができないので、旗に「富」という字を染め抜いて振っているのだと私は考える。ところで、化石エネルギーが枯渇した時、富はどうなってしまうだろうか、を考えてみた。豊富という言葉にあるように豊かな生活を支えるのは富である。それでは富とは何か、ということになるのだが、ちょいとググっただけではあまりはっきりとした答えは出てこない。例えば、大学の経済学の先生の記事(農業と資本主義:農林経済巻頭言2006.7.10)に「労働が富の源泉」という話があって、アダム・スミスが引用されている。
アダム・スミスの論というのは、労働が富の源泉であり、労働生産性の上昇によって富(生産物の増大)が生まれるとした、有名な国富論(原題:An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations)である。ところで、ワットによる蒸気機関出現が1785年で、スチーブンソン親子による蒸気機関車の完成が1829年のことだから、国富論が1776年に出版された時期は、まだ化石エネルギーの本格的利用が始まっておらず、人間が主たる動力源だった時代であることに注意する必要がある。従って、1790年に亡くなったアダム・スミスが、化石エネルギーの利用を十分に認識していたとは考え難く、労働とは汗水たらして働く人間の作業、と想定しているに違いないアダム・スミスの富に関する言説が、現代に通じるとは思えない(以上年代などはWikipediaによる)。
機械が人間の代わりに働くものである以上、富は化石エネルギーを源とする、労働する機械によって生まれる、と言い直すべきだろう。で、問題はここからで、それは、化石エネルギーが枯渇した時、富の源泉は何であろうか、という問いかけである。ない袖は振れない、ので当然、人間の労働がその源泉になるのであるが、アダム・スミスの時代と明らかに違う部分がある。すなわち、化石エネルギーなしでは役立たない機械・設備と、化石エネルギーなしでは維持できない機械・設備の存在だ。
化石エネルギーなしでは役立たない機械・設備の代表が、飛行機、自動車、船などで、これら機械類を補助する設備である、高速道路、飛行場、港湾などは、化石エネルギーなしでは維持できない機械・設備に分類されるだろう。ビルと地下施設で構成されている大都市も化石エネルギーなしでは維持できない設備だ。問題は、化石エネルギーの枯渇にあたって、これら設備がいきなり地球環境に放り出されることにある。下方硬直性の話でも述べたように、誰も化石エネルギーの供給減退期に、供給減退に合わせてこれら設備を整理しようなどと言い出すはずがないからだ。整理するにもエネルギーが必要で、その時分には、エネルギー価格が高騰しているだろうからだ。
環境に悪影響を及ぼすものがこれら設備機械から流れ出すことがないならば、そのまま放っておくことも可能であるが、これらの設備機械群が食料を生産可能な土地に多く存在することを考えなくてはならない。多くの設備は、それまでは農地という名称で呼ばれた平らで整備された土地に作られていることが多いからだ。
結局、規模の大きい設備機械群は、それらが存在する土地とともに遺棄されてしまうことになろう。この時代に大きな価値を持つであろう土地は、すぐに気がつくように、地方の小都市であり農地であるのだ。同時に水や土地が汚染されていないことにも大きな価値がある。汚染された土地と水を回復させるのには、当然のようにエネルギーが必要だからだ(2007.12.6)
今年(2008)年は、年明けからやたらと地球温暖化の話が五月蝿くて、テレビのどのチャンネルを回してもこの話が出て来たような印象がある。半月も過ぎたあたりで、今度は「再生紙偽造」なる話が出て来て、ますます今年は胡散臭い年になりそうな気がする。胡散臭いのは、再生紙の値段を変えずに、再生紙に含まれるバージンパルプの割合を、公称値より多くして品質を高めた、というのがどっこい、偽造と称して非難されたところだ。
後で思い出すために、経緯を記する事にすると、まず、日本製紙が年賀再生はがきの古紙配合比率について、公称値と実際の値が異なっていることを1月16日に発表した直ちにこれは燃え広がって、17日の日本郵政の発表によると、日本郵政に、はがきを納入した五社全て(日本製紙と、王子製紙、三菱製紙、北越製紙、大王製紙)のはがきの古紙割合が、基準値である40%を下回る1〜20%であり、かつ、再生紙のはがきへの使用が始まった当初から全てのはがき(年賀はがき:06年、普通はがき:92年、暑中みまい用はがき:93年)について基準値を下回っていたのだという。話はさらに広がって、1月21日にはグリーン購入法で決められていた古紙を用いたコピー用紙についても、この公称値と基準値の乖離があって、既に10年程前には始まっていたことが明らかになった(中越パルプ社長による公表、および特殊東海ホールディングス社長による記者会見)。
普通に考えれば、そりゃそうなるだろう、と思われる成り行きだ。古紙と一口に言っても、バージンパルプをじゃんじゃん使っていた頃なら、使用済み牛乳パックの紙に代表されるような、針葉樹から作った長繊維の品質の高い古紙が簡単に手に入ったろう。だから、古紙100%の再生紙であっても充分な品質が確保できると、メーカーが考えて、役人の言う事を引き受けたことに不思議はない。だが、いつまでも同じ状況が続くと期待するのは明らかに無理というもので、地域住民の涙ぐましい努力によって古紙の回収率が上がるとともに、そのうち上質な部分の中国への輸出が始まって、当初の公称の古紙割合を保ったままでは、コストを上げずに再生紙の品質と量を保つことができなくなった、というのが誰にもわかる真相だ。
消費者側から見れば、同じ値段で品質が保たれるなら、古紙割合がどうだろうと気にする訳はない。所謂エコロジーを気にする人々であっても、消費者であることに違いはないので、よい紙質が担保された上であれば、再生紙を使用していて地球にやさしいというマークが付いていれば、充分満足し得るのだ。
これほど騒がれるのは、もちろん情勢の変化に何の反応もできずに、一旦決めたことは死んでも墨守するというのを真理と崇める、旧郵政省や環境省の役人の面子がつぶされたと、彼らが思い込んでいるからで、実に本質的な問題から外れている。実質的になんの被害も受けていない、巷のグリーン購入ネットワーク事務局なるものが、「環境配慮製品の議論に水をさす重大な背信行為だ」、なんて大声を上げているのは片腹痛い。なぜ片腹痛いかと言えば、このグリーン購入ネットワークの背後で事務局業務を行っているのが、財団法人日本環境協会で、もちろんこの財団の常勤の役職者や事務局が、環境省からの天下りで構成されているからだ。
ちなみに述べれば、グリーン購入法は2007年2月に閣議決定された「環境物品等の調達の推進に関する基本方針」が定めるもので、コピー用紙は古紙率が100%であることを求めている。国や独法の調達の方針を定めるものであるが、おせっかいなことには、「・・・事業者、国民等についても、この基本方針を参考として、環境物品等の調達の推進に努めることが望ましい」などと威丈高な文章が冒頭に書いてある。この「環境物品」というのは「環境負荷の低減に資する原材料、部品、製品及び役務」という解説があるんだが、じゃ、環境負荷の低減ってなんだよ、税金で食ってるお前らの存在が環境負荷じゃねーのか、なんてつっこみを入れたくなる。
で、ここに問題のコピー用紙のことも書いてあって、「判断の基準(国の調達すべき物品)」に、一、古紙パルプ配合率100%かつ白色度70%以下であること。二、塗工されているものについては、塗工量が両面で12g/m^2であること。「配慮事項(より望ましい事項)」に製品の包装は、可能な限り簡易であって、再生利用の容易さ及び焼却処理寺の負荷低減に配慮されていること。なんて書いてある。なぜ、古紙を配合すべきかについては、これに続くフォーム用紙の「判断の基準」の二に、バージンパルプ(間伐材及び合板・製材工場から発生する端材等の再生資源により製造されたバージンパルプを除く(これは間伐材利用を言い張っている林野庁の横やりが入ったからだな)。)が原料として使用される場合にあっては、原料となる原木はその伐採に当たって生産された国における森林に関する法令に照らして合法なものであること、という理由づけがなされている。
要するに、熱帯雨林を消滅させているのは日本に責任がある、なんて言われたもんだから、政府としては、外国からバージンパルプを作るための原木はあまり輸入しないことにしたということを、回りくどくアピールしたのが100%古紙のコピー用紙なのだ。だから、世界の経済の変化や、エネルギーの話、なんてのは全く関係なくて、自分達が好い顔をしたい結果に過ぎない。蛇足だが、長繊維のバージンパルプの主な供給原料は針葉樹で、盗伐された熱帯雨林の樹木ではないのだ。
環境問題の全体を眺めることなくて、自分の考えの極々近くに、なんとなく良いと思われる落し所を作ったものだから、そのうちにより大きな矛盾が生じるという、局所最適解の選ばれる実例である。政府とマスコミが喧伝する環境問題への対応というのは、京都議定書の話のように、局所最適解、こればっかりなんだが。この再生紙の話も、またぞろ外部評価委員会を作るなんて話がでてるそうで、局所最適に屋上屋を架すという、もうどうにも止まらない話が続いて、ますます日本が胡散臭い。(2008.1.22)
「グリーン購入と古紙配合率」でも日本の役人の胡散臭いことを書き記したが、この手の話が近頃目につく。例えば、「住宅には火災報知機の設置が義務づけられます。火災報知器を買いましょう」というキャンペーンだ。確かに、火災報知器があれば火災の発生防止に何らかの効果があるだろう。効果がないとは言い切れない。ここが役人の思うツボだ。
どういうことかと言えば、火災防止つまり火災によって人命財産の失われることを防ぐこと、基本的には、金銭的価値のあるものの減滅を防ぐことには、誰も敢えて反対はしないだろう。一方、火災被害による価値の減滅の防止方法には色々あって、ちょっと考えるだけで、消防隊や地区の自治会などの消防組織の強化、防災教育、保険制度の強化など、色々と挙げることができる。これまでも日本では、「火の用〜心。いたしましょう。カッチカチ」と寒風の中呼びかける夜回りなどに印象づけられる、地域の活動が大きな役割を果たしてきた。
ここで、いきなり火災報知器の設置義務が飛び出してくるわけだ。善良なる市民であれば、直ちに
防災が必要だよね->言われりゃ火災報知機が役立つだろうな->設置が義務なのか->買わなくちゃ
という心理状態の連鎖が起こるのは至極当然と思われる。
だが、ここに大きな(ちっぽけなか?)トリックがあるのだと私は思う。防災が必要なのは誰でも分かる。もちろん火災報知器もあった方がよいだろう。だが、それが最適かどうかというのは別の問題ではないのか。指摘したいのは、正論を振り回す背後で役人が、あるいは役人上がりが飯を食っている、という事実だ。例えば、火災報知機であれば、販売店に行って手に取ってみるとよい。幾つかのメーカーから様々な火災報知器が提供されているが、どれにも検定シールが貼られていることに気付くであろう。これが逆レバレッジだ。
普通、レバレッジというのは少ない手持ち資金で大きな資金を借り入れ、これで利益の増大を期待する手法だ。逆レバレッジというのは、私が考えた造語で(誰か他に考えついているとも思われるが、見つからないので)、役人が大きな税金を使って自らを養う金を作り出す方法を言う。からくりは以下のとおりだ。
先ず、誰もが同意するような正論を持ち出し、これを部分的に実行する方策を政府に認めさせる。次にこの方策に係る財団法人、社団法人、その他を設立する、あるいはその機能を分担させる。そしてその団体に就職する。という手順だ。善良なる市民はその団体の収支や方策の効果などについては無頓着だから、大抵の場合、この逆レバレッジ、即ちなるべく大きな税金を使って、正論に加担する事業を起こし、少数の役人がこれで食って行く、という筋書きは成功してきている。手の込んだ団体の場合には、トップの理事長あたりにいわゆる文化人や有名どころの大学教授を据えて、事務局長あたりに役人が座っているので、この逆レバレッジがちょっと見では分からなくなっている場合も多い。
もちろん、火災報知機の場合、日本消防検定協会と云うのがこれで、トップ以下にずらずらと役人上がりが並んでいるのだ。前項に述べた、財団法人日本環境協会もグリーン購入法を通じた逆レバレッジの実現と看做すことができる。近頃この逆レバレッジが蔓延しつつあるのではないか。全体から見れば僅かな役人上がりの人間の給与を出すために、多額の税金を投入する方法は、これからのエネルギーの枯渇がせまる時代、如何にも非効率的である、というのが逆レバレッジに異を唱える私の考えだ。役人上がりで、高官であった割には年金が少ないというのなら、素直に年金を割り増しすればよいのだ。(2008.6.3)
■ アンドロイドもしくはガイノイドの生成(人口知生成のステップ)
andro-アンドロは確かに男性を表す接頭辞だから、女性を模したものはgyno-という接頭辞を付けてガイノイドと呼ばれるのだという。納得した。さて、クラウドの話から脱線して、この項では、アンドロイドを実際に作る話をしたい。というより、覚えとして書いておこう、ということだ。だから、話はまだ、あまりまとまっていない。
以前にロボットと不死の関係について述べて、アンドロイドの限界について考えてみた。また、人間が自分の影を対象に投影する性質について議論した。ここでは、これらの制約を踏まえた上で、一般利用者に対してアンドロイドはどのようなサービスを提供できるのかを考えてみた。
まず、一般利用者に提供する家事サービスというコンテキストにおいて、アンドロイドの本質を考えてみる。すると、歩き回るとか、何かを持つとか、いわゆる肉体的な動きを模倣するものでないことがわかる。肉体的な動きの模倣とこれに引き続く強化については、パワードスーツというスタイルで実現されつつあるので、これ以上は述べない。それでは、何が本質となるだろうか。極めて大雑把に言えば、家庭内の人間に対するワールドモデルの構築であろう。
究極の解が、自己発達型モデルで、外部とインターラクションしながら、自動的に発達する、というモデルである。ある評価関数、動機付けと言ってもよいが、のもとに、予測モデルの提出と結果との照合評価、評価結果の予測モデル生成システムへの反映という機能要素から成り立つ。問題はこれが実現できるか、あるいは、以前に述べたように、実現できたと人間が認識できるような表現システムを提示できるか、という問題である。できる、あるいはできない、その根本理由は何だろうか。
直感的には、予測値を生成するモデルそのものへの(評価関数をポジティブ側に動かす可能性のある)反映、ができるシステム、すなわち、マクロに見れば、自分自身を改変できるシステム、を構成できるかどうかの問題であるように思われる。遺伝アルゴリズムなどが、これに近いように思われるが、パラメータリストを評価関数の下に最適化する、というのがその本質で、自分自身を改変できるか、という観点からは、非力であるといってよい。
それでは、どんな方法があるだろうか。例えば、ある基本的な素関数(状態変数付き)があって、素関数は素関数を生成できる。素関数は他の素関数と入力と出力を通してネットワークを作る、素関数のネットワークが新たな関数と見なせる、というようなものが考えられる。だが、その全体は目的を指向できるだろうか。人間がなぜ目的を指向できるかと言えば、個体が二つ以上あって、自己と別の個体を認識できるからだと言える。つまり、自己評価システムの他に外部評価システムの存在が必要である。
話は飛ぶが、このシステム、ここでは、視覚機能とシンボル授受機能から構成されるシステム、とのインターフェースは思いついてある。マイク付きのヘッドホンをベースに、両側のスピーカーの部分にカメラが仕込んである、というものだ。インターフェースはリモートシステムにつながっていて、以下のようなシステム遷移を辿る。
「元気かい?」
「イエス」
― 上を向いて
「空だ。見えるかい?」
「ミエマス。ソラワナニカ?」
「青いものだ」
「アオイモノガアリマス。ソラデス」
「その通り」
― 下をみる
「床だ。見えるかい」
「ミエマス。ユカワナニカ?」
「青くないものだ」
「アオクナイモノガアリマス。ユカデス」
「その通り」
システムのセンサについては、センサの起動がタイムラインに沿って起こることに意義があるかも知れない。例えば、視覚系で言えば、最初は明るさだけ、次に色、縦横の線、曲線の抜き出し、などだ。つまりシステム内部への、ランダムネスの注入と内部階層システム形成へのサポートだ。別個体からの評価は、かなり後になって与えられるべきものなのかも。
この項、続く(2008年9月日)
2009年2月17日付け日経新聞朝刊の一面に小さくではあるが「CO2回収・貯留へ法整備ー政府指針4月にも、09年度内、大規模実験ー」とあって、CCS(二酸化炭素の回収・貯留)の十万tレベルの実験が始まることが報道されていた。日本国内では、陸地地下の大規模貯留は色々文句が出るので難しいということで、海底の地下に貯留する考え方があるのだが、法的整備が不十分だったため、実行開始できなかった、そこで整備が済んだので実験を開始しよう、という話だ。
勿論、只でCO2をどこかにやってしまうことができれば、地球温暖化防止のために、結構なことであるのは間違いない。問題は、ロハではないことで、燃焼ガスからCO2を分離するためには、エネルギーを必要とする。筆者は、化学種の分離過程においては、原理的に必要なエネルギーが、分離のための主要なエネルギーではないかと漠然と考えていたが、違うことが分った。分離の基本的なエネルギー(中部大学:武田邦彦)によれば、化学工業における分離プロセスにおいて、必要なエネルギーのうち主要なものは、
つまり、CO2の燃焼ガスからの分離は、原理的に要請されるエネルギー量を問題にしない程、大きなエネルギーが必要であるということだ。現実的なプラントにおいて、CCSに必要なエネルギー量がどの程度かというのは、あまり明確には示されていないが、投入エネルギーの3割程度ではないかという意見があり、まあ、妥当な線であると思われる。早い話、燃費が3割悪い発電所をこれから作ろう、ということだ。で、CCSの旗振り役である環境省は、「地球温暖化対策としての二酸化炭素海底下地層貯留の利用とその海洋環境への影響防止の在り方について(案)」という委員会報告を出してパブコメを求めているのだが、この文書の冒頭に「…省エネルギー対策の推進、再生可能エネルギーの開発・普及を含む多様な政策・措置を早急に講じていく必要がある。…このような状況の下で、近年、中長期の地球温暖化対策の一つとして、二酸化炭素回収・貯留(CCS: Carbon Dioxide Capture and Storage)技術に対する認識が高まっている…」というのがあって、もう、はなっから矛盾を露呈している。
と、まあ、矛盾を追及するのは簡単なのだが、根は、もっと深いところにあるのではないか、というのが私の問題提起だ。どういうことかと言えば、論理的な世界(空間)作ってきた筈の科学の、全体的な斉一性が崩れ始めているのではないか、と云う懸念だ。
この斉一性の崩壊の兆しは、9.11に始まったのではないかと、私は考える。ブッシュ元大統領が「これは新たな戦争だ。我々は復讐する」と宣言して、「西欧先進国の法」に復讐の意思が存在できることを世界に明示した時だ。ブッシュの宣言は、科学と無関係に思えるが、その後の「安全と安心」というキーワードの流布や「テロとの戦い」等、「科学」の周辺において、人間の認識の斉一性の崩壊が起きていることは間違いなく、それが「科学」に及んでいると考えるのが自然な流れではないのか(「安全と安心」は別物であるということは、どこかに書いた覚えがあるが、もう一度ここで述べておくこととする。つまり、安全は工学的な対象であって制御できるが、安心は人間の心の話で、安全と同じレベルで考えるべきものではないのだ)。
CCSの他にも、資源リサイクルに係る科学技術において論理的な世界の崩壊は、始まっているように思えるが、資源リサイクルの推進に常に「安心」の文字が見え隠れするところに、論理的な斉一性の崩壊の一つの証拠があるように思える。環境保護というコンテキストにおいても、「安心」に近い、「子供の教育」の領域に、斉一性の崩壊が見られる。この例としては、ダリウス・サボニウス型風車の学校への設置を既に挙げた。こういう切り口で考えると、「人類の夢」というコンテキストにおいても、宇宙ステーションという例に、この斉一性の崩壊が見られるのではないか。
このような科学技術に、私は「非整合的科学技術」の名称を与えたいと思う。これらが、科学技術の形作る世界において、局所的には成立するものの、全体的には他と矛盾する存在であるからだ。非整合的科学は、論理の世界に正当を主張する矛盾を持ち込むことによって、最終的には、科学技術世界そのものを、崩壊に導くであろうと考える。…ではあるが、私とて科学技術の端で食っているものであり、この「非整合的科学技術」を拒否するわけではない。これらは時空間的局所においては十分に成立していてアウトカム、端的に云えば食い扶持、を生成するからだ。おそらく、この流れは止めることができないのではないかと予想する。この後は、非整合的科学技術がどのように発展していくのか、その状況と理由、将来について考えて行きたい。(2009.2.17)
p.s.(2009.6.26)
先日、6月18日に「太陽電池国家・日本のビジョン」なるパネルディスカッションを聞きにいった。パネラーは(柏木孝夫 東京工業大学、山地憲治 東京大学、一木 修 株式会社資源総合システム、黒川浩助 東京工業大学)だ。どういうディスカッションかと言えば、「今、注目を浴びている低炭素社会。実現に向けて様々な方策が採られているが、特に太陽光発電は、その中核をなしている。太陽光発電分野の専門家をお迎えし、我国の新エネルギービジョン実現に向け広い見地から討論すると共に、今後の課題を明確にしたい」とある通りだ。現場の近くにいる人間はその胡散臭さを実感しているが、「政府が音頭をとっているし、仕事だから」という本音の見える、聞こえるか、パネルだった。
話が胡散臭い、というだけでは、これを書いている方も胡散臭いと思われるから、ちょうどよい機会なので、少し調べてみた。日経BPのエコジャパンというページがあって、その2008年10月24日付けの記事に「メガソーラー本番、日本の復権なるか?」という記事があって、先日のパネルと同じような話が展開されている。同じような話も当然で、先日のパネルのパネラーの一人の話を基に構成されているのだ。基本的には、PVで先頭を走っていた筈の日本が外国に抜かれたので、もっと頑張らなきゃと言い張っていたら、政府が金を出すようになったので、一息ついた、という論旨だ。ただ、この記事の中に評価すべき事実があったので、記録しておきたいと思った。
記事の目玉は北海道稚内のメガソーラーの紹介で、2008年9月時点で総発電量は2MW。2009年の工事完了時にこれが、約5MWになる予定だという。この中で、2008年2月の某日の試験データが出ていて、朝の9時から夕方の18時まで、500kWで送電したのだと。下図がその詳しい様子を表したものだ。
(本来、このBPのページからmash upすべきなのだが、ページが削除されてしまうおそれがあるので、ダウンロードしたものを使っている。"2008年2月に行った計画運転実証試験データ(出典:北海道電力)"という引用先を示しておく)
で、確かに9時間にわたって500kWの電力が送電されている。凄いぞ太陽光発電、凄いぞ福田ビジョン…というわけには当然ならない、のが、非整合的科学技術のゆえんだ。まず、500kWというのがどの程度の数字かと言えば、まず、kWhの値段だ。適当にみつくろうと…中部電力のページがあって、業務用電力単価:20.0円/kWhというのがある。勿論、卸値ではない。同じ表に火力発電単価:7.3円/kWhというのがあって、元値は10円をきっているのだ。で、500kWが9時間だから4500kWh。大甘にして、これがkWhあたり20円で売れたとすると、その日のあがりは9万円だな…あの日はいい天気だったし…雪、降らなかったし…
このプロジェクト、元々は「大規模電力供給用太陽光発電系統安定化等実証研究」という5年間のNEDOの公募研究で、平成18年度に66,500万円、19年度に301,700万円、20年度に333,700万円、21年度に201,400万円が計上されている…てな具合に数字を並べると、…もう、効率とか、費用とか、言うだけムダだな。
でも、気力を振り絞って話を続けなければ。この福田ビジョン、ポシャるどころか景気浮揚の大号令の下、補助金の大盤振る舞いに誘われて、行政はこれを本当に展開するつもりらしい。非整合的科学技術が、研究の範囲内であれば(研究というものが、ある場合には、その時の常識から非整合的と見える場合があることは、筆者も認めるところだから)、存在意義があるだろう。しかし、政治により非整合的科学技術が、実際に社会に展開されはじめた、というのは、事態が新たな展開をみせ始めた、ということだ。つまり、非整合的科学技術の非整合的社会への応用だ。非整合的社会が始まった、ということだ。
p.s.(2009.9.8)
圧倒的勝利により我が国のリーダーとなった鳩山氏は、9月3日に党本部から米国大統領と電話会談を行ったのだという。まあ、民主党は米国の政策実行に障害となるのではないかという米国側の懸念に答える意味もあったのではという考えもあり、挨拶代わりに良いんじゃないの、というのが世の中の一般的な反応だろう。ただし、これもあちこちで云われていることだが、国家のインテリジェンスという観点からみれば、こんなんで良いのかということでもある。ここでいうインテリジェンスとは「外交・安全保障における政策決定とデザインの素材となる情報プロダクト」のことだ。どういうことかと言えば、鳩山氏の電話の件なんだが、党本部から民間の通訳を使って米国大統領と話したその通信環境や通訳が問題だ。当然のことながら民主党党本部の電話回線なんぞは丸裸も同然で、世界中から覗き見されたリスクが非常に高いし、民間通訳は外部からの干渉に無防備であろうということで、鳩山氏がこの事について無頓着なようであるのが、余計にイタい。実際にはイタいどころの話ではないのだが。その他にも鳩山氏推薦の「知られたくなかった2012創造説」地球防衛軍著やら、ファーストレディのUFO搭乗体験やら、本当にイタい。
まあ、イタい人のプライバシーをどうこう言う筋合いではないのだが、こういう人が「日本は炭酸ガスを90年比25%削減する」と国連で宣言するということになると、相当問題だ。勿論、本人や民主党はそう思っていないのだろうが、本稿のコンテキストで言えば明らかに問題がある。社会のクラッシュが早まったと見るべきだろう。ついでに言えば鳩山氏の政治的ポリシーは「鳩山友愛塾」にあると思われるが、マジですかー、と叫ぶしかない軽さで。この軽さで日本を引っ張っていくとなると、もう、どうにもならないように思われる。
産総研が2009.3.16付けで「人間に近い外観と動作性能を備えたロボットの開発に成功」というタイトルのプレスリリースを行った。開発側のメッセージとして、「日本の青年女性の平均値である身長158cm、体重48kgで関節位置や寸法を参考に、人間に近い外観を実現している」とあるが、長い髪の毛、幼児的な顔、大きな胸、バトルスーツを模した外装などの特徴に、明らかにオタクの欲望が表されているところに、強烈な違和感を感じた。
以前にも述べたように、自分を全ての対象物に投影するという人間の性質からみて、このロボットの制作者は、自らの欲望をこのロボットに投影しているのだ。現代の若い男性の、生身の人間を見ると気持ち悪くなってしまう、という傾向(三次元ヌードへの拒否反応)を補償するものとして、この制作者が、自分に逆らわない(しとやかというキーワードで示されるであろう、象徴としての長い髪の毛)、自分より社会的に下位にある(幼児的な顔)、自分の視覚的な性欲を満たす(大きな胸)、自分の憧れの(バトルスーツ)ロボットを実現したのだと考えると、私が抱いた違和感の原因に納得することができる。生身の女の極限として、例えば、シガニー・ウィーバー演ずる、強い母の象徴であるエレン・リプリーを想起すればよい。その対比の一方の極限が、無垢への欲望の象徴であるこのロボットなのだ。どちらも極限の象徴であるので、作り物として存在するのであるが。
しかしながら、産総研内部でこのプロジェクトが認知され公開された、という事実から、このロボットの制作者を含む、多くの若い男性、おそらくある割合の女性も、このロボットに対して好意的な反応を示すであろうと思われる。つまり、生身の人間を、自分と対等な他者として見る事を厭うことで、生身の人間でなく、自己を容易に投影できる、人間と形の似ている何者かを愛する人間の出現である。この傾向はしばらくの間、拡大するであろうと思われる。この話、萌えbooksいやさ萌え人類よ、で述べたように、単にオタクの男の話ではなく、人類そのものの話につながる、極めて重要な話だ。
問題は、産総研の上層部を含む技術者が、このロボットを単なる、人間の動作シミュレーションの技術的表現であると、おそらく強制的に文脈を局所化することによって、ロボットの持つ性的な意味について、無自覚であるように思われるところだ。これもまた、非整合的科学技術の一つと、私は考える。(2009.3.17)
p.s.(2009.10.8)
上の話を強化するニュースがあって、10月6日の「CEATEC JAPAN 2009」において、このロボット「HRP-4C 未夢(ミーム)」が、「初音ミク」のコスプレをして、初音ミクの楽曲を歌ったのだと云う。開発者の性向が上記の通りであると推定できる一つの根拠である。初音ミクなんぞを知ってる筆者もイタいが、ロボットの名前からして開発グループも相当イタい。
もうすぐ社会現象になって新聞にも登場すると思われるのが「ラブプラス」で、DSに香水をつける輩も出ている。ロボットと結婚する男の出現するのももうすぐだと思われる。
民主党の小沢氏が、ごり押しした中国の副主席にして中国共産党中央政治局常務委員である習近平の天皇会見に反対した役人を恫喝する様子は目に余るものがあるが、何故、小沢がそれほどに中国に接近したがるのか、という疑問については、小沢が殆ど自分自身について話さないものだから、どうにもよく分らない。おまけに鳩山首相も問題を普天間問題を先延ばしにするばかりで、具体的な決定を何もしないものだから、どうにも先が見えない。
一つ手がかりがあって、民主党のブレーンと呼ばれているらしい、寺島実郎なる人物がいて、斯界では有名人らしい。確かに、三井物産常務執行役員を経て、財団法人日本総合研究所会長となり、多摩大学学長も兼ねていると言うから、来歴に不足はないだろう。写真でみると中々恰幅もよいし。さて、この人物が「寺島実郎の世界」というページを持っていて、あれこれ発言しているので、その考えが理解できる。読んでみると成る程、小沢も鳩山もこの人物の深い影響下にあっての言動である、ということに納得できた。
このホームページのアーカイブに<平成維新、外交と内政〜日米同盟と東アジア共同体>というのがあって、小沢も鳩山もこの論の通りに動いていることが分る。問題は、この人物がロマンチックな人間で全然リアルな見方をしていない所だ。なぜ、そう結論づけたかと言えば、上記の論文、元は対談らしいのだが、これを分析して得られた結果による。分析にはお得意のグラフ化手法を使った。グラフ化手法とは、自分が勝手に名付けたものだが、文献から重要なフレーズを抜き出して、これらを矢印により関連付けて有向グラフ化し、その文献の論旨を明確にしようとする手法だ。この手法で上記の論文をグラフ化してみると、この人物およびその影響下にある小沢と鳩山の言動の背景が明らかになる。
この人物をロマンチックと呼んだのは、「平成維新」というキーワードで自分達を明治維新の志士になぞらえている所だ。確かに自民党体制を倒して民主党を第一党としたことで、自らを維新の志士に擬するのは、部分的には納得できるとしても、選挙の勝利を平成維新になぞらえる、あるいはこれを嚆矢として平成に維新を起こすという妄想は、世界に対するリアルな目配りのない点からみてロマンチックかつアナクロと呼ばざるを得ない。
「平成維新」を唱えるのは勝手であるが、このロマンチックな妄想を実現しようとするのは大いに危ういと思う。前述の有向グラフの中心的な部分を書き出せば、(1)(米国の戦略キーワードである)不安定の弧 (2)米軍の(世界的)再編 (3)(日米安保の)ガイドラインの見直し (4)無制限にアメリカと行動 (5)日米同盟の見直し (6)未来志向の日米関係(と)東アジア共同体、となると考えられる。このうち(1)〜(4)までが現状分析で、(5)と(6)がこの人物の提案である。
この人物の現状分析には同意できるが、提案には同意できないというのが、私の結論だ。分岐点は(4)の無制限にアメリカと行動、の部分で、この人物はこれに反対している。私は反対も賛成もしないが、現状を正しく示していると思う。私が問題とするのは(4)の「無制限にアメリカと行動」するというのはガイドラインの見直しや第七艦隊の横須賀母港化、米国太平洋軍旗下の在日米陸軍司令部と自衛隊の中央即応集団司令部との統合化によって、既に実現している、少なくとも米国はそう考えているのに、これを首相の発言一つで変えられると考えている点だ。全ての現実は米軍のQDRに記述されている世界戦略に則って実行された結果であることを、この人物は知らないか、知っていて無視していると考えざるを得ない。
ロマンチックと断定するもう一つの根拠は(6)の東アジア共同体の部分で、この論文では東アジアをEUが成立する前のヨーロッパを引き合いに出して、ドイツとフランスの不信感の解消によりEUが成立したように、日本と韓国、中国との間の不信感の解消により、東アジア共同体の成立に向かうとしているが、歴史的認識、文化的認識、経済的認識、軍事的認識、地理的認識等々の不十分さを露呈しているのに係らず、物事を進めようとする考えは、あまりにリアリティを欠いていると言わざるを得ない。
ロマンチックな人物に影響された、金持ちのボンボンと人間支配の欲望にかられる人間の支配する政権の行く末は、あまりに暗い。尤もこの人物とその影響下の政治家の発言を、日米ガイドラインの一方的破棄と米国が認識した時、米国が彼らに対して、どのような手段を行使してくるのか想像もつかない。ま、鳩山がオバマにした最初の電話が、普通の電話回線しかない民主党本部からで、さらに脇にインテリジェンス担当の人物が誰一人居なかったという事実からみて、やられ放題になってしまうというのが私の予想だ。実に情けない。 (2009.12.15)
p.s. 鳩山首相の云う友愛について
鳩山首相は友愛精神に基づいて「死を覚悟してでも、定住外国人に国政参政権を与えたい」と説いているというが、「国」の政治である国政と「外国人」の参政権と、もう国と外国がはなから矛盾しているんじゃ、という突っ込みは、横に置いて、鳩山首相の云う、「友愛」について調べてみた。「友愛」についての解説は、日本友愛青年協会のページに、小冊子『友愛理解のために』というpdfが置いてあって、ここに解説されている。というより、この解説が原点である。読んでみた。熟読するような代物ではないが、我らの首相の哲学の根幹をなすものであるから無下にはできない。冊子から要点を取りまとめれば、以下の通りだ
(1) 鳩山一郎がクーデンホフ・カレルギー伯の著書に感銘を受けて、その精神を友愛と名付けた
(2) この友愛思想には完全な理論体系はないので、多くの人々に討議、研究し完成するものである
(3) クーデンホフ・カレルギーによれば、自由と平等との対立を解消し、克服するのが友愛主義である
(4) 友愛革命の目標は友愛社会であり、具体的にはLadyとGentlemanによって構成されるような社会である
(5) 友愛の基本は人間としての在り方であるが、人間の生存に係わる自然を含めての問題を探求していくことがこれからの人間社会の継続に欠かせぬ用件でもある
もうワケが分らん。
非常勤をしている事務所に久しぶりに出かけた。天気はよいし、本日はことのほか気温が上がって、夏日になるという天気予報も出ている。ああ、よい一日となりそうだ、なんて。暑いほどなので当然のように喉が渇いて、飲料水の自動販売機で飲み物を買う。…ここで言って置きたいし、かつ何度も言っていることだが、私自身はマイボトルを持ち歩いて、エネルギーを無駄に消費する自動販売機の飲み物は飲まないようにしている、という分けでは全然ない。喉が渇いたら、冷たいものを飲むのが好きだ。
で、自動販売機の横に見慣れぬものが置いてあった。ペットボトルのプラキャップ専用の回収ボックスであった。おそらくPET製で、なかなかしっかりしている。以前にこの事務所では、プラキャップは普通に燃えるゴミに捨てることになっていた筈なのに、プラキャップを回収することに方針転換したものと思われる。ああ、方針転換したのね。普通に考えればプラキャップを集めてもたいした量になる筈もなく、回収する費用つまり必要エネルギーを考えれば、回収すればする程、無駄なエネルギーを使うこととなるのは、一目瞭然である、普通に考えれば、…と今まで思っていた。しかし、現実にこの回収ボックスが出現したということは、回収した方が良い、と考える人間が多数を占めている、という事実が明瞭になった、ということだ。
勿論、無駄なエネルギーが消費されている、ということは直ちに証明できる。このプラキャップの回収の音頭をとっている団体があって、NPO法人プラキャプ回収推進協会、ECOCAPというのだそうだ。役員は連合出身者が占めていて、民主党と相性がよかろう。さて、この協会、2007/7からの累積で1,530,391,111個のキャップを回収したという。キャップは約2400個で6kgあるという。これは、この協会が販売している送付用専用ボックスの容量でもある。この専用ボックス20枚で3150円で、キャップを詰め込んで協会に送り返すと一箱あたり420円の運賃ですむ。で、今までに回収したキャップの個数が重量が推定できて、これが約383トンである。この回収箱で回収したとすると輸送費は箱代を含めて3680万円となる。回収したプラキャップだが、業者に販売されている。これまでの通算販売価格がはっきりしないが、油化用廃プラスチックの落札価格が、H19年97,700円/t、 H20年84,800円/tというデータがあった。ざっとみてトンあたり10万円とすれば、今までに3880万円の売り上げがあることになるので、バランスが取れていることになる。実際には管理費がかかるから、トータルでは赤字となる、つまり余分なエネルギーが投入されていることになる。協会のホームページに平成20年度(20年9月〜21年8月末)の収支報告 には、エコキャップ売却収入が19,724,79円、とあって市場落札価格の数字より大分に低いが、業者の引き取りの手間賃その他を考えれば、妥当な数字だろう。ますます余分なエネルギーが投入されているということだな。
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