♪お伊勢参りに石部(いしべ)の茶屋で あったとさ 可愛い長エ門さんのいわた帯しめたとさ エッササのエッササのエッササのサ というのは初めて習った小唄だが、此の頃から日本の文化に傾倒していったように思われる。お伊勢さんにはそういうわけで江戸時代の人の様に、是非ともお参りしなくちゃならない。遷宮の時にはそれなりの人物は立ち会うことができるんだそうだが、そんな人物になりたいという希望はあっても、なにせ20年に一度の話だから機会は巡ってはこないだろう。
ところでお伊勢まいりの唄の話なんだが、主人の子供の旅行に保護者として付き従っていた分別もある番頭が、宿の蒲団に寒いと言ってもぐり込んで来た女の子を、可愛いとだけ思っていなしていた内、とんだ心の迷いか子供ながらの色香か、手をだして孕ませてしまったということなのだ。小唄を習っていたころに、この辺りは知らなかったものだから、何で岩田帯何だと尋ねたら、アラいやねふんどしを締めたのよ、と先生は答えたけれど、違いますって、先生。
さて、先頃、このお伊勢参りをしてみた。その時の様子だ。店の低い軒先に吊された杉玉に留まった燕の目ん玉を覗き込むほどに近付いて青味を帯びた羽の色をじっと見ていたら、鳥が人間を恐れないのは神域の所以(ゆえん)でございますと、ちょいと得意気な案内人に導かれて早朝のお伊勢の内宮参りを済まして、朝食を取った後二見ヶ浦へ廻った。夫婦岩に参拝してまた元の内宮前に戻ってから、今度は猿田彦神社にお参りして神社の裏手に明後日は五月五日の御田植祭が行なわれるという一部だけ代かきされた田圃を見た。
ここで昼を過ぎたので伊勢うどんを軽く腹に収めてから、赤福を買いに、門前町ならぬ宮前町の賑わいの中を歩いていると五十鈴塾という名のPTA風の本当は何をしたいのか不明の建物があった。安乗(あのり)文楽公演の貼紙がでていたので、迷わず入ったが、土間を上がると広い座敷の入れ込みに舞台がないので、これは?と思った。演目の説明を地元の葉書絵の先生が始めて、人形の使い手が伊勢の先、海辺の安乗町の子供達、一生懸命に練習したのでよろしく、とPTA風のおばさんが合いの手を入れたので、これは金もはらった末に外したかと思った。
傾城阿波鳴戸(けいせいあわのなると)が始まって今度は浄瑠璃がテープだったので、大外しかと思った。だが人形そのものは古い割には着物ともども手入れのゆき届いたものだったし、遣い手も中高生と思えぬ程だったので、よく観ることとした。テープの浄瑠璃が雑音だらけで、逆に耳に注意を集中したのが良くなかった。例の、アーイととさまは十郎兵衛と申しますかかさまは、のくだりになるともういけない。このところ歳のためか涙腺が緩んでいるせいもあって、義大夫の 母親の声色と太棹の調子に、次はこう来るぞ来るぞと待ち受けているところに、ドンシャンと三味が入ると、ぐっとこみ上げてきて、涙たらすは鼻水すするはの親父の汚らしさ。まこと芸の力と云うのは大したものだと感動した。
終った後に子供達を前に並べて、褒めて先を励ます、という場面に、今の子供はなっていない、指導者に頑張ってほしいなど、自分が大外れの間抜け中学校教師のコメントが、のんびりとした伊勢の地らしいところだったか。
topまたも学生時分の話なんだが、その頃は親に心配かけつつ山登りをしていた。北海道の冬山は言うまでもなく頂上から麓までびっしりと雪に埋もれている。山に登ろうとする時は除雪された道路の脇に、いきなり踏み込まなくてはいけない。積雪は深く、腰まで埋まってしまうので、普通は滑り止めを着けたスキーを履いて、体が雪の中に沈み込まないようにする。
問題はここから何だが、スキーを履いていても大抵は膝下直ぐの辺りまで雪の中に潜ってしまう。その状態から、スキーの先端を使って一足毎に雪を撥ね除け、踏み付けて進むことに成る。このアルバイト、ドイツ語で仕事の事をアルバイトと称し、この雪かきをラッセルと称するのだが、当然のことながらひどく体力を使う。一つのパーティのメンバーが交代しながらラッセルを続けるとは言え、雪の重い時など、ものの五十メートルも進まないうちに、ストックを持つ腕が、重たいリュックの肩ひもで痺れ、急激な疲労で目の前が暗くなってしまう。こうなると先頭が直ぐに交代してしまうので、最後尾について休んだばかりなのに、もう自分の番かと他のメンバーを恨めしく思うようになる。ところが又も自分が先頭に出ると、後ろに続くメンバーがさっきの自分と同じことを考えているのが分るので、またまた、目の前が暗くなるまでアルバイトしなければならない。
こういう生活を続けていると、どういうような精神が醸成されるのかと言えば、重い橇を牽かされることが分っているのに、出発を喜ぶハスキー犬のようになってしまう。体の方は極限状態まで疲れてしまうのに、妙に精神的には高揚した状態となってしまって、ラッセルの後の雪面に刻まれた溝が、足下から延々と伸びているのを眺め、麓の出発点まで続いていることに満足感を覚えるようになる。それからずっと月日が過ぎて、思い出した。こういう感覚におそらく最も近いものの一つに五体投地(ごたいとうち)がある。チベット辺りで行われている、体を地面に投げ出し、手の届いた先の場所で立ち上がっては、また体を投げ出すことを繰り返して、聖地を目指す旅だ。カイラス山はチベット西部に聳える聖なる山で、周りを五体投地で一巡りする巡礼が多いのだという。私も、この巡礼者に混じってカイラスを巡りたい。少なくとも最初の五十メートルは五体投地をするつもりだ。
top浅草寺の雷門は、戦災で焼かれたものを、後年松下幸ノ助翁が寄進したものだという。神仏に何かを願って小銭を賽する、あるいは大金を奉ずる、というのは御利益(ごりやく)信仰であって信仰の程度が低いと、これを蔑む人々がいるようだが私はそうは思わない。一時期、私の子供の頃だが、日本の宗教は御利益信仰の低級宗教であるとしてキリスト教徒布教側からの働きかけの活発な時分があった。
だが、至高の信仰の下にあると自認する彼らをして御利益信仰がないとは言えない。キリスト教世界には、聖なにがし、と名のついた聖人が数多く認定されているが、庶民の守護やご利益はこの聖人連が受け持っているのだ。例えば聖フランシスコの弟子、聖アントニオは、紛失物を探す時の助け手、婚姻、花嫁の保護聖人で祈願に応えてくれることになっている。神に直截にお願いしている訳ではないから低級宗教を信ずる庶民とは違うという意見もあるだろうが、その心の内面を知ることのできない観察者、例えば宇宙人が見たならば、賽銭をあげて何かを願うという行動様式は同じものと判断されるだろう。
話を元に戻して、御利益レベルの話から始める。ここで賽銭という言葉が嫌なら、寄進としてよいのだが、寄進する側の気持ちにはなかなか微妙な所がある。例えば、何か願い事があって、もし祈願が成就したなら手持ちの金の半分を寄進致します、と神仏に祈願するとしよう。問題は、願が叶った時のことだ。やれ嬉しやと、財布を開くと一万円ある。気を好くしてここで五千円を差し出すのは、ケチくさい人間でなければ有り得る話だ。ところで、手持ちが十万、百万、或いは一億、十億となったらどうだろうか。神仏への約束を聞いていた他人がいる訳でなし、ここは半分ではなく一割にまけてもらえないかと、考えはしないか。もう少し小心者であったら、半分なんて誓うんじゃなかった、だが出さなければ気が咎めるし、金は勿体無いし、と何時までも愚図愚図するんではないか。その他にも、願がかなったのは、神仏のお蔭ではなく、たまたま願っていた結果が出たのだ、とする考えもあるだろう。都合のよいところだけを摘み食いするいわゆる頭の良いとされる人に有り勝ちな態度だ。
だからどうした、との問いについては、所詮、他人には窺い知れぬ個人の内面、私は何も言えない。せいぜい外部から見てとやかく言うだけである。しかし、賽銭が労働の余剰としての社会への還元と考えれば、これはこれで社会のためになっているし、寄進額が多ければ多い程よろしい、と言えるのではないか。ところで願をかけるに当たって、真剣に祈った、夜昼寝ないで祈願したという類いはよく聞く話だ。神仏との対話により願いが真剣であることを理解してもらうという寸法だ。だがこれは結構胡散臭い。その願いが真剣かどうかは他人からは窺い知れないし、社会全体から見ると何の生産にもなっていないからだ。ということで、先日、浅草寺で駒形堂の新築工事のための寄付金募集を受け付けているのに出くわした。日頃、寄進については偉そうなことを言っているので、ここは一つ、ということで、お堂の周りを廻っている石柵の柱、一本分を寄進してきた。気に入っているところは、柱に名前が彫り込まれることだ。駒形堂は新築されたら五十年は保つだろうから、孫子に自慢することができる。なかなか人の気持ちの機微をついた金集めの方法だ。
top御嶽菅笠という和綴じの薄い本を持っている。御嶽山への旅行案内で、復刻されて御嶽山神社で売られていたものだ。元の版も、同じ御嶽山神社が天保五年に発行したもので、天保五年と云えば1834年だから170年間同じものを売っていると言えなくもない。
この本、御嶽山の御師が日本橋を出立した講中(こうぢゅう)を神社まで案内する、という見立てになっている。四谷を通り抜けて十六里の道のりだ。新宿、中野、荻久保(漢字が今と違う)、青梅へと頁毎に挿絵がついていたり、宿場の宿屋の名前が出ていたりで、読んでいるだけでも旅をしている気になってくる。面白いのは、文中、とって付けたように街道の脇、青梅日陰和田村の眼医者の場所が出て来ることで、これを書いた神社の宮司(ぐうじ)が眼医者に義理があるのか、あるいは、眼医者が出版のスポンサーになったのだと思われる。
その他にも御嶽山神社の各種祭式の日や、日本橋から、保土ヶ谷を経て鎌倉までの距離、府中を経て御嶽山までの距離なども記されていて、旅行案内として抜かりはない。日本橋から十六里だと往復で三十二里。健脚なら三日の距離だがここは物見遊山、休み休み歩いて三泊四日の道程(みちのり)だ。四日間の旅行と云えば長いように思われるが、御嶽山神社への参詣にやって来るのは庶民に決っているので、江戸の人々、金はなさそうだが時間はたっぷり有るように見える。
ところで、私の住んでいる町の近くに公園があって、昔の民家が保存されている。この民家の出入り口に御犬さまの古い御札が貼ってある。御犬さまは御嶽山神社の印だから、御師が配ったものか誰かが貰ってきたものか。ともかくもこの辺りは、御嶽山神社の講があったものと思われる。というわけで、私も、もう青梅までは歩いていったことがあるから、次回は講の仲間のいないところは残念だが、御嶽山神社まで歩いて参詣したいと思っている。
初めて海外に渡った時、そろそろ海外旅行が一般化した頃だったが、行く前に母親から電話がかかってきて、「叔母さんが鹿島立ちしなきゃね、なんて古いことを言ってたわよ」と言う。昔の人は国外に出掛ける時は鹿島神宮でお参りする習慣があったのか、じゃ機会を見つけて鹿島にでも行ってみようか、なんてことを考えている内に、月日が経ってしまった。鹿島神宮と香取神宮が対になっているという話も聞いたので、こりゃ一粒で二度おいしいの類いかと段々とその気になってきた。
で、出掛ける前に一寸調べたら、鹿島立ちにお参りするのは、鹿島神宮ではなくてその末社の阿須波(あすは)神社だということが分かった。ものの本によると(今じゃ、もののページによると、か)、万葉集の防人の歌に「庭中(にはなか)の阿須波(あすは)の神に小柴さし吾は斎(いは)はむ帰り来るまで」、とあるように古代から旅の神とされているのだという。ちなみに「あすは」というのは「足場」ということで旅立ちの時の足元にいる神、ここから旅の神となったのだそうだ。
ところで阿須波神社は一ヶ所ではなく房総のあちこちにある。しかし千葉県市原市の五井に近い阿須波神社は、社(やしろ)のすぐわきから海に続く古道が発掘されており、上総の国府や国分寺が置かれたのもこの辺りだと言うから、同じ阿須波の神を祀った神社のなかでも、重要な社に違いない。そうすると、例の防人の歌の作者、当然ながらしかるべき地位の武人に違いない、もこのあたりの住人じゃなかったのか、と素人の妄想は尽きない。国分尼寺の復元というのもご当地で進んでいるようなので、鹿島神宮に詣でるのではなくて古代の歴史探求に切り換えようか。 top
若い内は豆腐を食うもんじゃない、などというあまり知られていない俚諺(りげん)があるが、どういう事かと言うと、年を取ると堅いものが食べられなくなってくるので、歯がなくなっても美味しく食べることのできる豆腐は先の楽しみにとっておけ、ということらしい。尤も味の淡白な豆腐のことだから、若い内から食べ続けてもそう飽きるということはないように思える。
しかし飽きないとは云っても夏は冷や奴、冬は湯豆腐と決まりきった料理では、あまりに面白味がないだろう。そこで、自分自身の歯の弱るのも見越しつつ、豆腐料理に冷や奴と湯豆腐以外のレパートリを増やしていこうと思っている。中でも塩豆腐なんてのは、目先が変わっていて割合にいける。作り方は簡単だ。豆腐を短冊に切って表と裏に指で塩をなで付ける。これを魚焼き器なんぞで焼くだけだ。表面が狐色になったら出来上がりで後は好きなように食べるとよい。私の場合はオリーブ油をかけて食べることが多い。すりおろした生姜を薬味に食べるのもよい。
この食べ方、実は武蔵小金井にある三光院という尼寺の庵主の著した、竹乃御所流豆腐料理という本に書かれていたやり方だ。この庵主は京都の門跡(もんぜき)で修行された方で、その流れを汲んでこの尼寺では豆腐を「おかべ」、酒のことを「おくこん」と呼ぶのだそうだ。この本には豆腐を竃の木灰に一晩埋めてしめる、などという料理法もあってさすがに雑駁な浮世を離れた場所ということが分かる。
ここで一言説明しておくと門跡というのは宮中の関係者が主(あるじ)となっている寺のことだ。だから門跡寺院は一般の寺よりは格が高いとされている。ところで色々な書き物を見ていると、尼寺の生活というのは我々が思う以上に楽しそうにみえる。大体が尼寺というのは小規模だから庵主を中心にこじんまりと纏まって、朝夕勤行の間はおしゃべりして過ごしているようで、サラリーマン同士が角突き合わせたり互いに痛くもない腹を探り合ったりするのとは大違いだ。
寺の生活に憧れるならお前も入ったらいいじゃないか、と言われるかも知れないが、男ばかりの寺というのは修行が第一なので、到底、尼寺のようなまったりとした雰囲気は有り得ないのだ。で、武蔵小金井にある三光院では一般向けに精進料理を食べさせてくれるそうなので、一度は訪ねて、この世で私が絶対に入り込めない世界をせめて豆腐料理に味わってみたい。 top
役の行者(えんのぎょうじゃ)を例にひくまでもなく、修行を積んだ山伏は法力が使えるようになる。らしい。法力と言っても空を飛ぶなんて大技を使えたのは、役の行者くらいで、普通は手の平から火を出すとか飛ぶ鳥を落す位が限度のようで、すれっからしの現代人には、手品師と同じ程度の扱いしかされないのが目に見えている。
言い伝えや宗教書に依っても、人間の限度ぎりぎりの修行をしてさえ、修行者の発する、科学的測定手法に検知できない力の大きさは、普通の人間の筋肉の出力、0.2 kW 位で、大岩を吹き飛ばす類の力を出せた行者は古来居なかったように思える。エネルギー保存の法則、即ち、ない袖はふれない、というのは呪力や法力にも及んでいるように思えるし、逆にエネルギー保存の法則の範囲内では呪力や法力のいわゆる神通力が存在可能とも言えるんじゃなかろうか。
じゃ信貴山絵巻の話はどうよ、と聞かれるかも知れぬ。これは龍の力、鬼の力を利用したのだと答えたい。人の力は限られているが他の力を利用することはできる。だから、鬼術は危険だとして戒められているものの、一晩で石段を作りあげることは可能だろう。
それじゃ龍や鬼は今どうなったのよ、と問われるだろうから、幽明の境の生き物は大分以前に絶滅したのだと答えたい。中世以降人間の数が増えると同時に精神が単純化された末、幽明の境にあった幅広い領域が狭まってそこに住む生き物は行き場を失ったのだと。こんな訳で東京周辺では大山、御嵩山、高尾山あたりに道場があるので修行を積んで、家族を驚かす程度の法力を持った山伏になりたい。先達からは、そんなことより人の役にたつ山伏になれと言われるに決っているのだが。勿論、そうします。
top座る禅だから寝る禅や走る禅があるのかというと、そのような自由はなくて、少なくとも振舞いや作法にはきっちりと型があって、修行者はそれに従わなければいけない、らしい。決まり切った型に従うのは窮屈で嫌だ、中には死んでも嫌だ、という人がいるらしいが、賛成できない。
型に従うことは決して不自由なことではないと思うからだ。それはアンタの嗜虐的性向がそうさせるのではないのか、と君は問うかも知れないが、では自由とは何かと逆に君に問いたい。
よく聞く話としては、明治に西周(にし あまね)がfreeという英単語に自由という単語を当てはめて後、西洋体験としての自由が出現して、自由という言葉が明治以前に持っていた、勝手気ままに事を行なう、という意味がfreeに付加された、その結果として日本人は西欧の自由を取り違えている、だから云々、というのがある。
付け加えるなら、ここでいう西洋体験としての自由、というのは明治政府が西洋文物の取り入れに熱心の余り、西洋伝来の全てをよしとする風潮の瀰漫(びまん)するのに乗じて、したたかな庶民が西洋伝来の自由に、勝手気儘と意味をすべり込ませ、自分の勝手気儘を、崇拝されている西洋という後ろ盾によって正当化するという行為の出現だ。
だが、freeは元々奴隷のように縛られていない、というゲルマン族のローカルな言葉に過ぎないのだから、奴隷制度が身の回りにあった彼らの考える自由の意義と、日本語の自由との違いについて今さらあれこれ言うのは、止めにしてはどうか。
いっそのこと語源に近く、例えば非束縛と、呼び換えてはどうかと思われる。すると自由党は非束縛党となる。非が付くのは、非国民だの非人だのが思い出されろので、ちょっと、と言うなら、解放というのはどうだろうか。自由になった奴隷は解放奴隷と言うし、解放=freeとする辞書もあるので、あながち間違いとも言い切れまい。すると自由民主党は解放民主党となって、なかなかアクティブな感じがしてよい。少なくとも勝手気儘な党と邪推されるよりは、国民を何かから解放しようとする、意志の感じられるところが良い。
話を自由について、に戻して、freeが束縛から解き放たれた、という意味を突き詰めることによって、神の下にfreeが得られると云う考えがキリスト教国にある。神の恩寵の下にあれば人間は自然に神の摂理に則った行動をするので、邪悪な物の誘惑や束縛から完全に自由になる、という考え方だ。
米国の独立宣言における自由というのは、これを念頭において語られている、と見ることができる。禅の融通無礙という観念と比べると、随分に堅苦しいと私は思うのだが、本当にそうかどうか禅道場で体験してみたい。足が痛くなってあっという間に退散、という可能性も高いが。
top日蓮宗は体育会系だという。私の家の宗旨は父親も母親も北陸系統なので、必然的に浄土真宗である。だが親鸞上人が非僧非俗(ひぞうひぞく)を云ったからといって、真宗の坊さんが髪を延ばしているのは軟弱なような気がする。年寄りの冷や水と言われていたのに、駆け回って腰を痛めてしまった私としては、しかし気持ちの上では依然として体育会系と自負している。大した自負ではないのだが。
中山寺は、入山した途端に走れと号令をかけられるのだと云う。それから九十日の荒行を経て行者になるのだ。梅の季節、池上の本門寺近くの池上梅園を毎年、訪れることとしている。道すがら、塔頭(たっちゅう)の一つに、水行を行う行者の来ることが小さく張り出されていたのを去年見つけた。今年、また同じ路を通って、また同じ張り紙を見つけた。髭面の行者になって、水をかぶり、小さな子供の驚く顔をみてみたい。だが、腰を直すのが先決なのは言うまでもない。
この春、淡路島に仕事で出かけた。宿は神戸に取ったのだが島へ渡る橋のお蔭で、宿から仕事の場所に通うことができた。最後の日、島から本土に戻る途中、橋のたもとでバスを降りてみた、とは言っても本四連絡橋は海面から数十米も上、バスに乗ればまるで空中を行くような具合なので、海岸沿いの鉄道駅まで随分と下らなければならない。
下りきった所が舞子駅でここから神戸にゆるゆると向かう。途中、須磨でプラットフォームに降りてみた。天気のよい暖かい日和(ひより)で、これが名高い須磨かと。「あはぢしま かよふちどりの なくこえに いくよねざめぬ すまのせきもり」と百人一首を思い出したりしてみる。残念ながら海は見えなかったが、プラットフォームに四国からの帰りらしい若い旅行者を見た。
足ごしらえは登山靴にリュックサックを背負っていたが、杖を手に持ち、リュックに菅笠を括りつけていた。笠はまだ真新しく靴も杖も汚れていなかったので、ごく短い旅行だったのだろうと思われる。彼を眺めながら思い出した。四国に渡ったのはこれも仕事絡みで二度ほどに過ぎない。二十数年も昔で、お遍路については頭の片隅にも浮かばなかった。
養老孟司はJ.C. エックルスの晩年の著作を評して、「俊秀を謳われた彼が、神の名を筆に上せる(のぼせる)とは、惚けたか」と言ったが、脳科学者の言うことだから、惚けと神様は脳の働きの中で近い関係のあることについて、ある示唆を得ているのかも知れず、そうであれば、私がこの年で神仏に係わることを話すようになったのは惚けの始まりかとも思われる。
惚けた話のついでだが、D. キースの「アルジャーノンに花束を」の後半は、惚けの進む人間の自己認識の物語と読むこともできる。ひと月程前に自分で書いた論文が、難しい、論文なのだけれど自分でも何を書いたのか分からないということになったり、ほんの半年前につき合っていた女性が段々と、会う度に、前はあんなに喧嘩していたのだが、このところ急にやさしくなって、行くという話だ。
何故、そんなに急にやさしくなったのと、主人公が聞くと、彼女はそんなことはないわよ、と答えるのである。しかし、この話は私が四国にお遍路にどおして行こうと考えたのか、という話である。話を元に戻すと、須磨の駅でお遍路姿の若者を見た時、私もお遍路に行かなくてはと思った。
四国は殆ど知らない。子供の時に近所にお大師さんがあった。そこを通った時大人がたくさんいて、庭のお大師さんの周りを回っていた。私がそれを思い出したので、妻に今度お遍路に行きたいと言ったら。妻は行っちゃだめよといったので、怒って、行くといったら、泣いてしまった。
泣くなよ、といっても泣いたので、心配するなよと言ったら、次の日に一緒に切符を買いにいってくれた。四国に着いて電話をすると妻に言いました。さいしょのお寺でもらったちょうめんをみていたら、いっしょに行こうと言うひとがいて良かったです。きのう足がいたくなって涙がでました。つめのが痛かった。そしてうどんを食べました。お金をかぞえたらあわないので困った。いっしょにあるいているひとがおかねをかぞえてくれました。
いっしょにいこうと行ってくれた人はきょうはいません。うどんを食べようとおもたら、さいふがなくなってしまた。おながすいたけれどあるいていきます。
てんきがいいのでそれではさようなら。
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