この章はこの全ての記事のトップに置くべきものとして位置づけた方がよいのではないかということで、少しずつ整備していきたい。すなわち、この章こそが始まりであり終わりであり、「それってなに」なのである。この章の下に環境の根源日本のグランドデザインが位置づけられるのである。

これまでの私の全ての思惟は以下の結論に導かれた。(2012/12/8)

地球は有限である故に人間の営為も有限でありそれ故に以下が云える。

現在の人類社会が直面している「温暖化を中心とする地球環境問題」、「資源の枯渇への対処」、「経済発展の維持」という互いに矛盾する状態は矛盾している故に矛盾の存在するレイヤーでは解消されない。矛盾の解消は矛盾の存在レベルの下位レベル、すなわち、矛盾の存在する上位レベルを操作する立場にある、一段下位のレベルである人類の社会システムそのものの崩壊により解消される。

人間の社会システムのクラッシュ時期は平均気温が4℃上昇し、食料問題が顕在化し、液体化石燃料のEPRが経済的に意味を持たない値に達した時である。それは2060年前後であろう。

クラッシュの後に新たな人間の社会システムとして存続可能なのは、人間の欲望をどのように取り扱うべきかを解決したシステムのみであろう。システムの変更はまた人間の種としての自己変革の契機でもある。


これは、齢若い人たちへの覚え書きでもある。ここでは、魂について言及する。ただし、魂があると主張するのではない。魂がある場合、ない場合を比較して、魂があったと仮定した方が、世界をうまく記述できることを述べるのみだ。(2006/11/21~)

因と果

わたしたちは何か

私たちとは何であるかと、問いかけられても直ぐには答えられない。極めて漠然とした問いだからだ。同じように「あなたにとって×××とは何ですか?」などとテレビのインタビューアーからマイクをつきつけられても、困るのが普通だろう。

5W1Hという言い回しがあって、これは、who, what, why, when, where, how なんだという。この言い回しは割と実生活でも役に立つと言われているから、私たちとは何であるかの問いもこの5W1Hに分解して考えてみるのがよかろう。つまり、who は既に私たちだから、私たちは何に?私たちは何故に?私たちは何時に(いつに)?私たちは何処に?私たちは如何に?となる。

これだけでは、文章になっていないので、適当につけ加えてみよう。例えば、私たちは何に生きるのか?私たちは何故に生きているのか?私たちは何時に生きているのか?私たちは何処に行くのか?私たちは如何に生きるのか?ここでは、生きるのかと、行くのか、を使ってみたけれど別の言葉でもよいだろう。私たちは、ではなくて、私たちに、でもよいのだが、「は」が一番よく合致する。

上の5W1Hはまだ漠然としているのだが、もっと明瞭にする方法がある。キリスト教もしくはイスラム教の「神」という言葉を使う方法だ。この言葉を使うと、私たちは神に向かって生きている、私たちは神のために生きている、私たちは神の時代に生きている、私たちは神のもとに行く、私たちは神の教えにより生きる、となって座りがよい。5W1Hがキリスト教に馴染んだ人間が作ったものであるから、当然と言えば当然と言える。

人間を相手にした場合はこれでよいのだが、対象が犬や猫、自然一般を考えると上記の考えはうまく当て嵌まらない。人間第一なのだから、よいのでは?という考えかたもあるのだが、地球環境問題が大きな問題になっている現在、人間中心では、これからの地球がたちゆかないのではないか?という声が大きくなっている。

つまり、神のもとに人間を5W1Hによって記述することはできるものの、自然と深い関係にある私たちが何であるかについて述べるには、それはあまり有効ではないように見える。

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原因と結果について

人間を含む自然を考えると、それは、あるものが、ある時間を経て、あるものになる、という出来事が連なりかつ関連し合っていることである、ということができる。例えば、私はご飯を食べて、お腹の満たされた私になる、お腹の満たされた私は仕事をして、煉瓦を積み上げる、という風にだ。このような理解であれば、取りあえず、人間と人間以外の世の中の多くを記述することができる。

この観察結果を、ある事象には原因があり、ある時間を経て結果を生むという考え方で捉えることができる。ご飯を食べるという原因により、お腹が満たされるという結果が生まれ、お腹が満たされたという原因により、仕事をする気になるという結果が生まれ、煉瓦を持ち上げてモルタルでくっつけるという原因により、積み上がった煉瓦という結果が生まれる、という具合だ。

これが、因果の関係についての認識だ。石を投げ上げると、ある時間の後に落ちてくる、という現象は殆ど全ての人間にとっていつも認識され、石を投げ上げても、落ちてこないという現象を目にすることはほぼないので、そのうち、人間は、石を投げ上げれば、そのうち落ちてくるだろうと予測するようになる。つまり、因があれば、果が起こる、という認識を得るに至る。同時に果をみて因を探ることもできるので、よりよい果を得るために因を工夫するということも起きる。ただし、因果の間には時間、あるいは時間と空間があるので、因より果の範囲の方が広い。例えば一米の高さから石を落として地面においた的に当てることは容易と思われるが、千米の高さから石を落として一米と時と同じ大きさの的に当てるのは、容易ではないであろう。

さらに、世の中の事象は石を投げ上げたら落ちるような単純な事ばかりではないので、つまり、因と果の間に長い時間があったり、遠く離れていたり、因果が連鎖的に関連していたりするので、それぞれの人にとって因果の関係に対する認識は必ずしも一定ではない。例えば、理解するという意味の「分かる」が、目によって区分けできる、ということを起源としているように、また英語において「see」は見ることと理解できることの両方の意味を持っているように、私達は多くの認識を、眼に入る現象に依っているので、眼に見えないものについては、関心が薄くなりがちで、因果もややもすれば、ないこととなってしまいがちだ。煙となって消えてしまう、などという言葉はこのことをよく表していて、実際には目に見えない程のちいさな粒になった途端、私達は存在しないと看做すようになるのだ。これは空間的な話なのだが、時間的にも同じことが言えて、時が全てを忘れさせてくれる、というように過去の因をないものとしてしまうことがままある。

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結果の見えない原因について

因果の認識については、私たちの寿命が有限であるということから深刻な問題が起き得る。私たちは因をつくり果を受け取って暮らしているのだが、私たちの生きる人生という期間を因と考えた場合、その果はどうなるのか?という問題だ。つまり、私達が死んだらどうなるのか?という話で、多くの人間にとって関心事であることは間違いない。

もちろん、死んだ時点で因はリセットされて、果は本人ではなく他人に関係するもののみに残る、例えば、生命保険の受け取りは大抵、旦那より長く生きる女房であるように、積み立てという因が保険金という果に現れるのみ、と考えることもできる。人生一度きり、という考え方だ。だが、この考え方では、死んだ時点で因がリセットされるのだから、本人にとって何らかの不利益がなければ、人生の中で何をしても良い、ということになる。確かに人間を含む動物の一般的な生きる原理が、自らの遺伝子を子孫に残すことであれば、この考え方に特に矛盾点は、ないように思える。チンギスハンの時代に部族同士が戦って、勝った方は相手方の全ての男を殺し、女子供を我が物とする、というのも原理的に許容できると、遺伝子の立場からは言えよう。しかし、人生一度きりの考え方では、人殺し、盗み、暴力に対して嫌悪感を感じない人間に、その行為を自発的に禁じることはできないのだ。

そこで、例えばイスラムでは、肉体は一旦滅びるものの、最後の審判の時、生きていた時の肉体に再構成され、生きていた時に積み重ねた因をアッラーが判定し、果として、天国あるいは地獄に行くことになっている。キリスト教では、信ずるものは最後の審判の前に予約切符をもらって天国に行けるとして、多くの人間にとって嫌悪感を感じる所行を、人間全体が行わないように、しばりをかけているのだ。もっとも、異教徒はどうせ地獄行きなので、天国に行くはずの私は、異教徒に対して何をしてもよい、という考え方は依然として成り立つ。だから、西部開拓者がインディアンを皆殺しにすることは可能なのだ。ここでイスラムについて言及すれば、イスラムの教えでは、キリスト教の迷いを打ち払ってより純粋に神の言葉がマホメットという預言者によって与えられたとするので、これに従えば、キリスト教、ユダヤ教を代表するものとしてイスラムを考えることができる。私の話においてイスラムを例として取り上げる所以だ。

お釈迦様は、私たちに、死んだ後の事には思い煩うな、と教えたが、仏教徒でも輪廻という考えを持ち込んでいるので、結局、大方の宗教では、人生を因と考えた場合、何らかの形で果を受け取るという考え方により、因果の関係を死、により断絶させずに完結させている。死を挟んだ因果について、イスラムでは、善行を積めば、ムスリムは天国に行けることになっている。善行の度合と天国における待遇に差があるかどうかは、曖昧だが、それほど大きな違いはないと思われる。

問題はここからで、それでは、死を挟んだ因果の完結を認識するのは私なのだろうか、という問いが残る。多くの宗教では、上記の考えから言えば、肉体の他に私を作っている何かがある、と考えているのだと思われる。この、私達を作っている肉体とそれ意外の何か、これを魂と呼ぶことにするのだが、この存在を仮定すると、世の中の話が進め易い、という利点を無視することはできない。

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仮定としての魂

私たちを成り立たせているものが、肉体と肉体以外の何かであるとすれば、つまり肉体と魂であるとすれば、色々な話を進め易いと言った。また、この世の中が原因と結果により成り立っているとも主張した。これらの関係を図で示してみようと思う。以下のように。

inga

この図は、個人的な私たち、つまり自分を中心に描いた認識の世界だ。この世界は、私すなわち「個人内的世界」と個人の外の世界、ここでは、「個人外的世界」と呼ぶ事にする、により構成されている。自分以外の個人は、「個人外的世界」の一部であるが、私と同じ構造を持っているので、これを「他個人世界」と呼ぶこととする。私である「個人内的世界」は、私の認識を仲立ちにして「個人外的世界」を、知ることができる。なお、他個人的世界の住人が人間である、とする必要はないのだが、取りあえずここでは、人間とする。ここで、人生一度きりと考える人々にとって、「不可視的個人世界」の枠は白く塗りつぶされていて存在しない。「不可視的個人世界」は、実在を証明できない魂の世界だ。矢印は関係を示し、矢でなく丸で示されているのは不確かな帰結、点線は証明できない関係を意味する。

これ以降は、この「不可視的個人世界」があると仮定して、図を説明しよう。個人外的世界では前に述べたように、あるものが、ある時間を経て、あるものになる、という出来事が連なりかつ関連し合っている世界だ。この関連を個人が認識し、その関係を原因と結果、つまり因果として内的に認めているのだ。因果については、明瞭に認識できるものもあり、この認識を未来に延長して原因から結果を推定することができる。前に述べたように、因と果の間の時空間距離が大きくなると、未来の果はぼんやりとしたものとなる。

はじめに、個人内的世界と他個人的世界との関連を説明しよう。この二つは「私の死」によって接続されている。なぜなら、私の肉体は、「私の死」の瞬間を自分自身では認識する事ができず、また、生きている間の私が「私の魂」を認識できなかったという理由で、「私の魂」も「私の死」の瞬間を知る事ができないからだ。「私の魂」は、「私の死」が起こった後でそれを知ることになる。「私の死」の前と瞬間、そして後は、ただ、他の個人的世界だけが、「私の死」を知ってそれを変更することのできない、つまりもはや消去することのできない事実関係として認識することができるのだ。もうひとつ、個人内的世界と他個人的世界とは、私の「所作」、つまり他人への善行と悪行、その他もろもろの認識できるもの認識できないものとの関わりによって、接続されて、「所作」は「他個人的世界」を含む「個人外的世界」に痕跡として残る。さらに、個人外的世界への「所作」、例えば森の破壊は、間接的に他個人的世界へ「所作」として伝わることを忘れてはいけない。

さらに、個人内的世界と他個人的世界とは、受動的にも接続されている。それが「誕生」で、言うまでもなく、私は母が生んだのであり、母は私を生むことによって、母の個人的世界と「私」という他個人的世界とを、変更することのできない関係により、接続したのだ。また、この二つは「他からの所作」によっても接続されている。他個人的世界の住人にとっての「所作」は、認識できるあるいは認識できない形で、私の個人的世界に「他からの所作」として強制される。

上の図が、過去と未来、死と誕生、原因と結果について対称性を強調し過ぎているのではないかという疑問に、バイアスが確かにかかっている、という点について否定しない。対称性を重視するのは、物質不滅の法則と同じく、世の中構成する因果が簡潔で対称性を持つ斉一なものであるに違いないという筆者の思いの結果とみてほしい。

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輪廻と罪の意識

輪廻を受け入れるとすれば、この死を挟んだ因果の関係を、魂が認識することになっているので、罪、という意識を考えることができる。自分の今までの所作、つまり善行、悪行、その他諸々は、死を挟んで、未来の結果に対する原因となっている、と考えることができる。この所作の記憶は死によって中断するのだが、不可視の個人的世界において、魂により回想される。つまり、生きている間の悪行は善行によりキャンセルするしかないのだが、悪行の方が善行を上回っている間は、何度もそれに見合った再生を行うので、魂がこれを忘れず、悪行を積み重ねないための罪の意識を持つ、ようになると考えられるのだ。 輪廻を考えないイスラムでは、悪行と善行とのバランスシートの記憶を魂が引き継いでいるわけではないので、魂は予め原罪という形で、負債を背負わされていることになっている。

逆に言えば、人生一度きりと考える人間が罪の意識を持つことは不合理と言える。生物としての人間行動を決定するのは、個人の遺伝子の子孫への伝達だから、他人への迷惑は遺伝子の観点からは、何ら問題とされない筈なのだ。つけ加えるならば、人間社会が部族を中心としていた時代、部族への迷惑は、自分を含む遺伝子プールへの迷惑となるので、規制されていたのだが、部族ではなく個人中心の現代社会では、見つからなければ何をしてもよい、という考えを否定することは困難であるどころか、ゲーム理論が示す通り、次々と別な他人を騙すのが、遺伝子の観点にたつ行動としては最適とさえ言えるのだ。だから、人生一度きりと考えるその人が、現代という時代において、自らの所作に罪の意識を感じたり、魂が存在するのでは?と思い悩むことは、人生一度という考え方と矛盾することになる。

また、人を何人騙しても、盗んでも、殺しても、何の痛痒を感じない人間も存在するが、それは、まだ一度も再生されたことのない、魂に人間としての過去の記憶を何ももっていない者であると考えると、辻褄があう。ついでに言うならば、近年の世界人口の急激な増加によって、人間として再生を繰り返した魂のストックが足らなくなって、動物から魂を補給せざるを得なくなった、と考えると世の中で、罪の意識のない人間が増えていることも納得できよう。また、このような罪の意識のない人間を、悪行から引き離すためには、全ての人間に原罪があって、善行を積まなければ、地獄行きとするイスラムの教えが適切と言えるかも知れない。

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空であって虚ならず

こうして世界は、因果という関係によって成り立っていることが分かった。ここで、この関係について考えてみる。世界を認識する私にとって、世界は関係から成り立っているのだが、この関係そのものは何でできているのだろうか?それは、太くもなく細くもないだろう。黒くもなく、赤くもない。長くもなく短くもない。

つまり、関係は関係そのものであって私の五感により感ずる事のできる実体ではないのだ。同時に私の認識も実体ではない。つまり、世界は実体でありながら、私にとって実体ではないものなのだ。だから、世界を成り立たせている関係を「空」と呼ぶのだ。関係は「空」でありながら世界を成り立たせている、なにものかであるので「虚」ではないのだ。そして世界は私にとって五感によって感ずることができるので「色」であるのだ。

「空」と「色」が静的なものではないことに注意する必要がある。前に述べたように、因果を結んでいるのは、「時間」を仲立ちとした「関係」なのだ。私たちが因果の関係を静的なものとしばしば看做すのは、因果という関係を認めた上で、人間がこれを未来の事象を予測するために、因果関係を利用することに慣れてしまったために、因が果となって現れるに至る時間のことを、忘れがちになるためである。 (2006/11/29)

p.s. (2007/11/26) なぜ「空」なのか、という問題についてずっと考えていた。今だ、結論を出すには至らないものの、「空性」つまり「空」に青いそら、以外の意味を持たせた、あるいは持つようになった、場所つまりインド社会と、時期つまり龍樹の前後の状況を考え合わせると、なぜ「空」なのか、ということが朧げながら分ってきた気がする。

その理由の一つがインド的考え方、これは遥か昔、私が十代の時から、度々本棚から取り出しては読み返している「東洋人の思惟方法」に依るのであるが、何かの思想を表すために、その反対の記述を否定することにより対象の真であることを主張する方法、これを著者はネガティブな思考方法と呼んでいるのだが、に起因しているように思われる。つまり「色」を否定するために、認識の前にある全ての個を順に否定していく、という方法をとるために、残ったものはない、即ち「空」である、とする考え方に至ったのではないか、という私の仮説である。

p.s. (2012/5/22) なぜ「空」なのか、についてはまた別のアイデアが浮かんだので記録しておきたい。「空」は「虚」ではないので、なにものかである。なにものかであるのに「空」である。つまり「空」とは容れ物の中にある「空」である。容れ物ではあるがその大きさに限りはないので、もはや「容れ物」ではなく「空」であるのだ。「空」は「容れ物」の性質を持っていて、この中に「関係」が容れられるのである。「関係」を容れる性質が「空性」なのである。

p.s. (2012/11/24) 「関係」については概念の伝達というコンテキストにおいてグラフとの関連を論じていくうちに、議論のパターンに共通するものが現れてきて、「空性」と「関係」については少し深まった気がする。

この項続く

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人生に意義を求める

「元日や冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と詠んだのは、一休禅師だとされているが、人間の命が有限であることが、多くの人間の考え方に影響を及ぼしている。例えば、幼稚園児が人生の意義について語ることは殆どないだろうが、老人は人生の意義をよく思いの端に浮かべるだろう。従って、幼児と老人の間の人々は、それぞれに人生の意義をそれぞれの時間配分の仕方により考えるだろう。

では人生の意義とは何だろうか。巷には「にっこり笑って死にたい」、「どぶの中でも前向きに倒れて死にたい」などという言葉があって、その状況を考えてみるのは、意義について知る一助となろう。まず、「にっこり笑って死にたい」だが、ベッドの廻りに親族と友人がいて「にっこり笑って死ぬ」人がいるであろうし、また、可能性として人類最後の一人の場合にも、例えば、人類の記憶を永遠にとどめる何かを地上に残して、「にっこり笑って死ぬ」人がいないとは言えないので、これは、他人の目のあるなしに関わらず、何かに満足して死んだのだとしてよいだろう。その「何か」を感ずるのは自分自身だから、「にっこり笑って死ぬ」とは、自分の何かに満足して死ぬことであると言える。

さて、「どぶの中でも前向きに倒れて死にたい」、については、少し様子が違う。これは、自分自身だけではなくて、誰か他人が自分の前向きな努力を認めていてくれなくてはならない。これは、何かを満たすための努力を、自分自身と努力を認める他人の両方が認める必要があるのだ。つまり、自分の何かに満足することができなくても、これに向かっていることを、自分と他人が認めることによって、満足のための満足、が得られるためだ。

これらの関係を図で示してみようと思う。以下のように。

mortal

この図では、魂が存在するとして、関係を矢印で示す。矢でなく丸で示されているのは不確かな帰結を意味する。

全てが、世の中が因果により結びつけられていることに発している。個人にとってその最も大きな表れが「人生は限られている」という事実だ。だから、生の期間が限られていることをより実感するにつれて、人生の意義が何かを問い、そして、これまでの人生を価値あるものとするために、人生が意義あるもので あったことを願うようになる。つまり、因果の支配する世界において、因果に慣れ親しんだ人は、自分の人生を因と看做した場合の果が如何なるものであるか、できれば価値あるものとしたいと、願うようになるのだ。そこにおいて人生が意義あることを納得するのは自分自身だから、意義あることかどうかは、結局のところ自身の満足に由来することがわかる。たとえば、多くの人々に感謝された人生を過ごしたある人の、人生を意義あるものであるかどうかを決めるのは、最終的に自己であるからである。ここで、自己の満足を得るために何が必要かと考えれば、上に述べたように、「にっこり笑って死ぬ」と「どぶの中でも前向きに倒れて死にたい」の二種類あることがわかる。つまり、達成感(の継続)と、他人の共感を得ることである。

「人生は限られている」という事実には、別の対応の仕方もある。人間は他の動物と同様に、「子孫を残す」という因果関係の中にあるから、子孫を含めた同族の繁栄、つまり遺伝子の存続を望むことは、対応の一つと言える。さらに別の対応方法が、先延ばしにする、という方法で、未来に何かが起きて自己満足に至るのではないか、という願望を持つことである。いつまでも若くありたい、という願いや、せめて死ぬまでなんとかしたい、と願うのが、この先延ばしの方法である。当然ながら、これは将来に対する期待であって、そのままでは、自己の満足に至らない。

特異な対応の仕方として、不老不死を願うということもあり得る。古来、不老不死は結局、誰にも叶えることができなかったが、科学技術の力で不老不死が到達できない、とは限らないので、この方法も可能である。ただし、不老不死となった時点で、生が限られているという大きな特徴を持つ動物に起源をおく人間でなくなって、人間以外の何かになってしまうことを忘れてはいけない。

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なぜ人は人生に意義を願うか

ここで例の如く、魂が存在する、という仮定を置いてみると、興味深い結果が得られる。魂も因果から逃れられず、輪廻を行うのだが、私の人生の意義が、魂が輪廻する、あるいはしてきた他の人生の意義と、魂の意義を通じて、重なり合うのだ。例えば、私は人生の意義を願う。私の人生の意義は則ち私の魂の意義であり、私の魂は輪廻して他人の人生を生きるから、私の魂則ち他人の魂の意義は、他人の人生の意義となる。逆に言えば、将来の誰かの人生が意義あることは、自分自身の人生に意義のあることが、因果に支配される魂の立場からは同等となるのだ。つまり、他の自己満足が自分の自己満足になるのだ。この自己満足が他己満足に連なるという因果関係は、全ての人間に当て嵌まるから、関係のネットワークの中で、この自己満足を得たい、とする願望は普遍的なものとなるのだ。

こうして、人間が魂を持つとすれば、達成感(の継続)と、他人の共感を得ることは、生まれながらの人間のありようである事が分かる。人生に意義を求めるのは、いわゆる自己満足ではないのだ。よりよく生きたいと、直感的に思う人は、実は因果の世界に生きている、あるいは生きて来た、そして生きていく連鎖を、実は無意識のうちに認識しているのだと言える。

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愛のポジション

ここで愛について触れなくてはならない。愛のつく言葉、母性愛、家族愛、友愛、恋愛、性愛の全てが、生は限られている、という事実が原因となっていることが分かろう。我々の生が限られている故に、まず、次世代を残すための同族の繁栄を、本能的に願っている。この本能をさらに強化しているのが、同じく限られた生を持つ他人との共感であり、達成感と自己満足が、これらの愛というものを、我々にとって真なるものであることを信じさせているのだ。

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