初年度学生を対象とする基礎セルフデベロップメントコースでは、講義の半分をグループワークに割り当てている。自己創発にはグループのメンバー間の刺激が効果的である、という言説があって、この言説のオリジンにはあたっていないが自分の経験からは十分に納得できる話だ。グループワークについては、特に講義方法の手順は示されていないので、新たにシナリオを構成することにした。
グループワークのツールとしてはマッピング技法とチーム運用技法を主たるものとした。ここで記述する内容は実際の授業あるいはワークで用いたものである。2年程、この1週2コマ、1クール3週の講義を実施してみて、現在の学生がまるでパターン・マッチングを実行するマシンの如くであるのに心底驚いた。そのアパシーな態度はマシンであるためである、なんて解釈をしてもどうにもならないので、地球温暖化と資源の枯渇が彼ら自身がやがて直面する危機であるということを、彼ら自身を奮い立たせるためのドライブ・フォースとして、自分自身をboot-upさせるための技法の効率向上の試行錯誤を続けている。彼らは自分自身の力で心的な構造を構築するという経験を殆ど持っていないと看做してもよい程なので、ここに記述する内容は彼らに実際に説明した瑣末なことから始まっているのである。(2012/11/17)
チーム運用技法
マッピング技法
グループワークの枠組みとして準備されているのは、できるだけ専門学部がシャッフルされているように分けられた6人程度を標準とする学生リストだけである。第一の手順はスクール型に着席している学生を一度立たせて、グループ毎にまとまるように指示することである。このとき、机と椅子を動かして対面式に着座させるのであるが、既に机が床に固定されていて対面式にすることもできない教室があるのは仕方がない。
次に各グループでリーダーを決定するように指示する。この時リーダーは毎回変わり、かつ一度きりであることを説明しておく必要がある。同時にグループとは何か、リーダーがいない場合のグループの行動の特徴*1を示すことによって、逆にリーダーの基本的な役割であるグループの方向性を示すことの重要性を説明する。
グループワークの実行中、リーダーはメンバーをエンカレッジするべきことを指示する。これは暗黙的にリーダーがメンバーをよく観察すべきであることを示す。これはグループのパフォーマンスの最大化に必要であることと、この後のグループワークの成果のプレゼンター選定のリーダーによる決断とプレゼンテーション意思のリーダーによる提示との伏線である。
解説
グループのフォーメーションには重層的な役割を与えているが、必ずしも学生がそれに気付く必要はないように構成されている。その役割は以下の通りである。
グループワークは個々人の提出物がその成果ではない。グループとしてのパフォーマンスの認識や成果に至る作業の確認、作業を導いたリーダーの役割の確認などがグループワークの成果である。成果の表現の仕方には各種の方法が考えられるが、プレゼンテーションのエクササイズにより得られる複合的利益を考慮すると他に代わるものは数少ない。
グループワークの成果の発表をプレゼンテーションの形式で行うとき、プレゼンターをリーダーの指示によって決めさせる。これは一般的にリーダーに最も必要な行動である決断のエクササイズの一つである。
プレゼンテーションの開始にあたっては、プレゼンテーションの本来の意味を説明するとともに、プレゼンテーションが将来の就職活動を初めとする社会的活動に不可欠であることを説明する必要がある。また、プレゼンテーション技術はエクササイズを通じてのみ向上することを説明するとともに、初期においては、グループワークにおけるプレゼンテーションとは、内容そのものではなくプレゼンテーション技術のエクササイズであることを説明することが必要である。
各グループのプレゼンテーションは、リーダーの挙手によるプレゼンテーションの意思表示から始まる。意思表示の順番によりプレゼンテーションが実行されるので、プレゼンテーションを行うグループが決定されるプロセスを目の当たりにすることにより、グループとしてのパフォーマンスの表示がリーダーの決断の早さに負うことを全体が知る事になる。
解説
各グループからのプレゼンテーションは毎回決定され決定される度に別のメンバーから指定される独りのプレゼンターにより行われることを最初に説明する必要がある。社会においてプレゼンターは常に単独であるからである。また、多くの学生はプレゼンテーションに不慣れあるいは殆どその経験を持たないことに留意する必要があるとともに、プレゼンテーションの実際的な技法を指導するとよいと思われる。同時にプレゼンターの選出そのものをリーダーに実行させることでこのプロセスはリーダーに対するエクササイズともなっている。リーダーの決断に係るエクササイズは多くの学生にとって未知のものであるので、一方的な指示はよい結果を生まないであろう。また、受け入れることのできない学生が存在することにも留意する。
注
■ マッピングの目的
ここでは、マップは一般化された形式、すなわち、ラベルと方向を持つエッジから構成されるものとする。これは数学的に表すことができるので、どのように複雑なものでも機械的に扱うことができ、かつ再現性がある。ただし、数学モデルにおけるマップとはラベルとエッジから構成されるものと定義されているだけであるが、講義におけるマップには、数学的なマップに加えて、マップ全体が上端から始まり下端で終わるという時間的発展あるいは論理の展開を表現しているという特徴を与えている。すなわち、ここでいうマップとは実世界における関係性を表したものを云う。そこで、ラベルをボックスと呼び、エッヂを矢印と呼ぶことにする。
講義においてマップを取り上げる目的は、学生に対象を関係性として捉えることによって対象をマップにする、マップを二次元のイメージとして把握する、イメージに変換した対象を、俯瞰したりクローズアップしたする等の、心的に操作ができるようになることを目標とする。
解説
なお、マップ技法の導入としてマインド・マップが紹介されることが多いが、提唱者のブザンが主張するように、マインドマップには、「ブランチを曲線で描く、テーマをイメージとして表す、独自のスタイルで」などの要求があって、マップ技法を一般化して取り扱うためには、夾雑物となる畏れがある。マップの作成者の意識が対象の関係性にではなく、マインドマップに見られる配色の具合だとか、ブランチの太さや曲がり具合などに向けられる可能性があるからである。従って講義においては以下について言及する。
学生がマッピングを経験するにあたり、対象として料理を取り上げる例を以下に述べる.料理は学生にとって実際の経験がないとしてもこれをよく知っているであろう。また、始まりと終わりが明確で、時間的に展開し必ず終わるという性質を持つとともに、終わりは料理の完成という一点に収束する、という性質を持つ。すなわちマップは必ずツリー形態を持つので、初心者であってもマップを容易に記述できると期待できる。
前述の通り、マップは上端から始まり下端で終わり、上から下に向かって時間的な経過も示す。
解説
学生の作成したマップは黒板に写されプレゼンテーションの材料として使われる。この時マップについては以下のような不十分な箇所がよくあるので、その度に指摘するとよいと思われる。
料理を対象としてマッピングを行うことにより、以下のような効用が得られることを学生に説明するとよいと思われる。
文章のマッピングは、良く読むとは何か、ということの学生への問いかけでもある。良く読むとは何かを学生に聞くと、明確な回答が得られることは多くない。少ない回答が、大意を得ること、というケースである。では、大意を得ることとは何かと更に問うと、回答は更に少なくなる。大意を得るとは内容を掴むことだというような同義反復に陥ることが多いようだ。
勿論、良く読むとは何かに定義された回答はない。ここでは学生に対して、良く読むとは何か、に対する一つの答えを提案する。その提案が、文章をマップに変換して、これをイメージとして捉えることにより、容易に心的な操作を可能とすることである。この提案が受け入れられるとすれば、解り易い文章の一つの類型として、マップに変換したイメージを容易に心的操作できる文章であるという帰結を得ることができる。そのようなマップは以下のような特徴を持つことであろう。
そこで、雑誌の記事などを使ってマッピングを行い、解り難い文章をマッピングした結果の二次元的特徴を述べ、その後に学生が解り易い文章と思われる記事のマッピングを実行することによって、文章とイメージ、イメージのためのマッピング、文章が二次元的構造を持つことなどを理解してもらうとよい。
ごく簡単な説明の後にグループワークとしてのマッピング結果をプレゼンテーションとして書き出してもらうと、別々に作業した各グループのプレゼンテーションにおいて、同じ構造のマップが表記されることが多い。すなわち、文章の構造をマッピングという技法により、一般化できるという証左が得られるのである。
まず最初に良く読むと良く聞くは基本的に同じ作業であると考えられる。すなわち、どちらも直列的に並べられた情報を心的に取り込んでいく作業だからである。良く読むが並べられた言葉を受け手が欲する速度で取り込むのに対して、良く聞くは録音機械を使わない限り、送り手の欲する速度で発せられた言葉を受け手は受け入れなくてはならない。両者の違いは受け手の自由度の違いであるが、言葉が直列に並んでいるという点について両者に違いはない。そこでここでは最初に良く読むについて、その意味を吟味してみる。
良く読むという作業には当然のように読むべき文章が必要である。すなわち良く読むという作業に効率の違いや巧拙の違いがあるとすれば、対象とする文章が果たして解り易い文章であるかどうか、読み手に良く読むことを要求する前に確認される必要がある。すなわち対象となる文章が読み易いのかどうか、客観的に測定する方法を用いて、その文章がどの程度読み易いのかあるいは読み難いのかを決定する必要がある。
ところが、解り易い文章とは何かについては様々な議論があるが、必ずしも具体的ではない。ここで云う具体的ではないとは、機械的な手順がないということである。仮に解り易さに対する客観的な指標がそもそもないのだとすると、解り易いとは何かについて具体的な定義がないままに文章が書かれることになるので、読み手が解らないのは読み手の努力が足らないからである、すなわち、良く読む、という努力が足らないのであるとされる可能性が高い。良く読むとは何かが定義されず、解り易い文章とは何かが具体的な指示手順でないならば、読み手と書き手が互いに誤解していたとしてもこれを証する方法がないことになる。
そこで、解り易いと云われる文章の数々をマッピングすることによって、そこに共通の構造が見いだされるなら、その共通の構造を持った文章を作成すればよいことになる。そもそも、何らかの情報というのは二次元的な構造を持つものであるから、書き手が与え読み手が受け取るものが、同じ構造を持つ二次元的構心的イメージでなければ、正しく伝わる筈がないのである。皮肉なことに、伝えたい何かというのは二次元的構造をもつのに対して、伝えたいと思う人の文章と発声は常に一次元的なものであり、書き手は伝えたい二次元的イメージを一次元情報に変換し、読み手は一次元情報を二次元的イメージに再構築することが、情報を伝えるとされてきたことなのである。
それゆえに、容易に心的操作のできる文章のマップにはある特徴が表れるのが当然と考えられる。確かに如何なる二次元的構造を持ったイメージも文章として書き手から流れ出ることが可能であるとしても、書き手のイメージが読み手によって再構築できるとは限らないのである。当然のように心的操作の困難なイメージは、読み手によって誤って再構築されるに違いなく、多くの場合、それは部分的に脱落した穴だらけのイメージとして再構築されるであろう。
極端な場合にはイメージの再構築すらなく、始点と終点のキーワード、あるいはキーワードが惹起する読み手の別のイメージとなることもあり得る。これは次のような学生に多く見られるパターンから推測することができる。まず、良く読むと良く聞くことは、どちらも一次元的な情報の流れから二次元的イメージを再構築する作業であると考えることができる。良く聞くとは何かについて、良く読むと同じく学生に問うと、良く読むとは何かよりさらに少ない回答しか得られない場合が多い。同時に彼らの多くが良く聞くことで集積されてきた筈の知識体系が体系化されていない、あるいは知識の痕跡しか残っていないという事実、および、講義者の発声に係る彼らの体勢、すなわち頭を垂れ目は瞑っているが耳は音声を受信しているという体勢をとることが多いという事実を考え合わせると、そのような彼らにとって良く聞くとは、沈黙を保つと同義であると考えざるを得ない。
すなわち、良く聞くと同じく、良く読むとは、受け手が心的イメージを再構築することではなく、キーワードあるいは頻出する単語に対する心的反応に過ぎないのではないかという疑いを持たざるを得ず、まさしく、マッピングを利用した、二次元的な心的イメージの操作に慣れる、そして良く読む、良く聞く、文章を書くというエクササイズが重要にして喫緊であると考えられる所以である。
解説
マップは思想やアイデアの伝達の仕組みを考える上で重要な手がかりを与えるとともに、マップが可視化できるという観点から、思想やアイデアの伝達の仕組みから逆に、思想やアイデアの元になった、ここでは「概念」と呼ぶ何ものかが、どのようなものであるかについて間接的に明らかにすることができる。
さて、ある人物からある人物へ思想・アイデア等を伝えようとするとき、その伝達は多くの場合文章や発話によってなされる。文章や発話は一次元的な情報であるが、文章や発話はマップ技法によって二次元的なものに再構成することができる。なぜならば、「概念」が可視化された状態にある思想やアイデア*1は本来的に二次元的なものであると推定できるからである。すなわち、文章や発話によって表現された思想やアイデアを「構造」に再構成された結果の分析から、「構造」を分解していくと三種類の、「要素」と「矢印」の組合せに辿り着く*2。三種類の組合せとは「連結」と「合流」と「分流」*3である。「連結」は思想あるいはアイデアの材料であるところの「要素」*4が「矢印」*5により別の「要素」へとつながることである。「合流」は「要素」と「要素」あるいはそれ以上の「要素」から出た「矢印」が一つの「要素」に流れ込むことである。「分流」はある「要素」から「矢印」で結ばれた複数の「要素」が流れ出ることである。ここで流れるというイメージを用いたのは、思想あるいはアイデアが時間的にあるいは論理上展開するもの、つまり方向性を持つものだからである。
三種類の要素のうち「連結」は一次元的なものであるが、「合流」と「分流」は二次元的なものである、すなわち思想やアイデアを要素の群を連結、合流、分流で結んで表現したものは必ず二次元的な「構造」*6を持つのである。
二次元的な思想やアイデアの「構造」が確定することによって、これを文章や発話に変換することができるのである。従来は文章や発話等の手続きにより、ある人物からある人物へと思想あるいはアイデアが伝わるのだと考えられてきた。しかし多くの場合それらは部分的にあるいは間違った状態でしか伝わらないのである。なぜならば、文章や発話を思想あるいはアイデアの伝達に用いるとき、その受け手はこの文章や発話による一次元的な情報の流れから、二次元的な「構造」を再構築しなければならないからである。この伝達の過程において、発話側における二次元的構造から一次元的情報への変換時の誤り、一次元情報の単純な受け取り失敗、受話側における一次元的情報から二次元的「構造」へと変換する時に援用されるバックグラウンド情報の不足あるいは誤用が起きるのであり、その結果として、部分的に脱落したあるいは間違った「構造」が再生されるのである。
このような「構造」の再構成におけるノイズの存在はこれを零にすることは困難*7である。必然的に元の構造が部分的に再構成された構造が得られるに過ぎないのである。しかし、再構成された「構造」の再現率は発話側と受話側の伝達の過程に対する注意により上げることができるのである。
また、「構造」が発話側の概念を表現しているかどうかについては、これを評価することはできない。われわれが評価できるのは、「概念」が「思考」を通じて構造化された後、視覚化された二次元的なマップでしかないからである。すなわち、視覚化の不可能な「概念」が、「要素」群を「連結」、「合流」、「分流」により「矢印」により結びつけた「意味ネットワーク」と一致するものかどうか、本来的に不明*8だからである。
注
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