B級グルメ
真冬のモスクワに行った。1994年の12月だ。モスクワ市街の郊外にあるジューコフスキー研究所を訪問した。スペースシャトルそっくりのブランが屋根だけの格納庫に置いてあって、スペースシャトルと違う所は、空力試験のためのジェットエンジンが四つもブランの尻にくっついている所だったり、ジオフィジカというU2より高く上がるんで、パイロットが宇宙飛行士並の耐圧服を着なきゃいけない機体がエアインテークに蓋をしただけで野晒しになっていたりと、驚くやらあきれるやらの場所だった。
見学を終えて研究室に戻ったら、お客様さぞお寒うございましたでしょう、とウォッカを出してくれた。レモン色をしていてレモンをあしらったラベルがついているが、本物のレモンが使われているとは到底思えない、レモンウォッカだった。つまみも出てきて、脂身のたっぷり入ったビアソーセージの薄切り、こいつの大皿に盛られたのをアルミのフォークで突き刺して食べる。こちらが三人あちらが四人、水で割ることもせずに瓶から注がれるままに飲んで直ぐに空になった。
さあ帰ろうとしたら、まだ日もあるのにたちまち二本目が出て来た。こっちも酔ってきたが、相手側も酔ってきた。レモンウォッカは三本目まで栓を抜いたような気もするが定がでない。ただ寒いロシアでレモンの入っていないレモンウォッカは旨かった。なげやりで、むこうみずなところが好かった。もちろん日本でも売っていて、安酒の範疇に入る。
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三省堂の裏にある。三省堂が建て替えられる以前は、三省堂の古びたレストランと向かい合わせだったのだが、私も気に入っていたこのレストランは疾っくの昔になくなって、兵六の向かいが単なる壁になってしまったのが寂しい。
夕方になって兵六と書かれた破れ提灯に灯がはいると店の始まりだ。中は汚いんだか煤けているんだか、黒い。店の売りは焼酎でイモの臭いやつを温めてずんぐりしたとっくりに入れて出してくれる。酒もビールもあるので、別段焼酎にこだわる必要はない。
店も古いが詰め込まれた客も古くて、神保町が若さに溢れていた頃の人々がそのまま街と一緒に年老いたようだ。この間はここで婆あの詩人に出会った。
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北千住の千代田線に近い出口を出て左手歩いて二十秒、立ち飲みの天七がある。間口の広い店がオヤジで一杯になっているので直ぐに判る。汚いのれんをくぐると、空いているところを教えてくれるので、カウンターのその場所に行き着く前に薄いカネのお皿とその上に平たいお絞りが用意される。
串揚げが一本百二十円、頼むと二本ずつでてきて、飲み物は取り合えずチュウハイ三百円か。カウンターの手前には深めのバットに入ったソースと同じくバットに入ったキャベツのざく切りが用意されていて、キャベツをつまみにチュウハイを飲めば、ほどなく串揚げを目の前のカウンターの上、油きり用のバットに置いていってくれる。もちろん串揚げのソース二度付けは御法度で、揚げたての熱いのをジュッとソースにつけて、直ぐに口に運んでも、皿に置いてソースの染み込むのを待っていてもよい。
私の好みとしては、シシトウ、シイタケ、ビーマン、ハムカツ、ワカドリ、エビ、なんてところだ。材料がどうこうとは言わない。揚げたてを食べながら、冷たいチュウハイを喉に流し込むところがよろしい。たばこを吸っちゃいけないなんてことも言われない。灰皿もないのでどうするかと云えば、足元に捨てて踏んづけることになっている。そういうシンプルさも好ましいところだ。
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日本橋駅B5出口二分、少し判りづらい場所にあるがビルの谷間の路地を入って行くとある。以前は一貫五十円だったが今はどうか。込み合う店なので、入り口と出口が別々になっていて、客は入り口から順番にカウンターの前に立たされる。効率良く物事を進めるために、客も端から、順番に隙間を空けることなく立つことが指示される。
客の方も壁にかかっている札の順番に寿司を頼むとよい。飯もネタも小振りだが、その分、多くの種類が食べられる。今日は食べたい、という食い気の高じた人であれば全ての種類を味わうことができるだろう。
早い時間に行けばトロが食べられる。トロは壁の札にはないので、優越感と食い気が両方ともに満たされるだろう。ただし、これに気付いた他の客もトロを注文し始めるので、直ぐにネタ切れとなってしまうのだが。
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この店はしょっちゅう行く所ではない。だが、一度は覚悟を決め、体調を整え、朝飯を抜いて、行くべきだろう。行って、四千八百円の車海老天丼を食らうべきだろう。
本当の海老とは、身が単純にぷりぷりしているのではない、ねっとりとしていることがわかる。最上級の車海老とはねっとりと且つぷっくりとした弾力のあるものである、ということがこの店で判った。だが、もっとも旨いと思ったのはこの車海老の頭だ。からりと揚がった海老の頭はこれほどに大きいのに硬くはない、噛めば口中にほろりと崩れた殻とミソの味が広がるだろう。親爺の機嫌がよければ頭だけ丼に追加してくれる。
仲見世のすぐ近くの路地の奥にある。もし冬で、込んでいて中に入れない時は胯をあっためる火鉢がある。もっとも、この名代の車海老のない時もあるので、朝から溜め込んだ気合いが、海老はないよ、の一言で抜けてしまう可能性もあるので注意したい。
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山用の食事に学生時代の友達が開発した。作り方は至って簡にして素あるいは粗である。四人分なら、大鍋に雪を詰め込んで溶かす。湯になったらスパゲッティを放り込む。アルデンテになったらホワイトシチューの素(別にカレーの素でも何でもよいのだが)を入れて味を確かめ、コクを出すためにマーガリンを四分の一ポンド投入して出来上がりだ。野菜が必要な時には、乾燥ネギや切り干し大根を加える。
毎日のように食べたので、登山の日程が短縮されたために余ったスパゲッティで、山から降りて来ても作って食べた。開発した彼の命名によりスパゲッチョと呼ばれていた。スープ・スパゲッティなんてもっともらしい名前の広がる三十年も前の話だ。
開発した男は、確かにセンスがあったと言える。だから彼は今、
ケーキ屋の社長で、私の知っているなかでは最も成功した人間だ。
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いもやには、天麸羅の店と豚カツの店があるので、その日の気分によって選ぶとよい。どちらも清潔さに溢れていて、いつも清められている白木のカウンターとか、年若い、小柄な女店員が黒い艶のある髪を後ろに結んで、白い姉さんかぶりをしている清々しさというのが好ましい。近年、なかなかお目にかかれない店のただずまいだ。
天麩羅は、定食と海老天定食があってどちらも旨いが、他が安いので海老天定食を頼むと金持ちになったような気がする。好みのタネを追加することもできるので、季節と天候に合わせて選ぶのがよい。丼のご飯がたっぷり付いてくるので腹一杯となるだろう。
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自分では買わないで、いつも余所からおすそわけを頂いている。吉祥寺の小笹(おざさ)の店には申し訳ないという最中だ。勿論、小笹と云えば限定一日百五十本の羊羹なんだが残念ながら見たこともない。と言って夜中から並んでまでも食べてみたい、という熱意はないので、この先もお目にかかることはないと思われる。
さて最中の話だったが、大抵の人と同じように、子供の時には嫌いだった最中の皮が近頃、断然好きになった。あの微妙な堅さが好い。同じ様な食材にウェハースがあるが、洗練さという点で最中の皮が遥かに上であると断言したい。第一に最中の皮には内部構造がある。つまりウェハースが発泡スチロールの板とすれば、最中の皮は木の板なのだ。だからウェハースが割れると直ぐに粉々になるのに、最中の皮は割ると謂わば、ぎざぎざになるのだ。おまけに立体的な形のお蔭でウェハースのような平らな形に比べて強度があるので、その分薄くできるのだ。表面のさらりとした感触や香ばしさも好ましいし、上顎に砕けた皮のひっつくのさえ悪い感じがしなくなった。
小笹の最中の話に戻ると、仙台の白松が最中は、甘味への欲求を一発で満たすことのできる強烈なところがあるが、小笹の最中の小振りでさっくり、甘いのにさっぱり、と云うところが暫くするとまた食べたくなる所以だ。ところで最中はタイ焼きと違って、基本的には高級な菓子と考えられるので、大抵は菓子折りに入って売られて居る。思いついたので一個だけ食べたい、という気まぐれにはなかなか応えてくれない。だが、そういう御仁には、浅草は仲見世のちょうちん最中がお勧めだ。一個からでも売ってくれるし、何よりその最中の皮がぱりっとした感じや香ばしさが頗る美味しいのだ。
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金刀比羅宮と文部省の間、煎餅の播磨屋本店の隣にあって、本当は山形観光プラザというらしいんだが、一角が蕎麦屋になっている。
硬めの茹で具合と香りが好みだ。実際にはざるそばなんだが、長方形のへぎに入ってくる。一方、この店には温かい汁そばもあるんだが、どういう主義なのかつゆが極めて薄味になっている。煮干の香りは十分なので、主人の(山形に本店があると思われるのだが)方針なのだろう。関西の人が食べたら美味しく思うのかも知れない。
食べ終えたら、ついでに山形の物産を買い込むことができる。
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これも至って粗野な料理で、冬山登山の晩飯に相応しい。まず鍋に雪を融かして水を作る。これに一人あたり135~150グラムの米を入れ煮る。135なんて半端な数字が出てきたが、これ以下では寝る以前に腹が空いてしまう。
さて米が煮えてきたら、まださらりとしているうちに、即席の味噌汁の素と切り干し大根、ひじきを加える。こってりさが足りない、という時には、またしても、四人あたり四分の一のマーガリンを各人に切り分けて丼によそった雑炊の上で各自溶かしながら食らう。冬山の味噌雑炊はこんな風にひたすら生き残るために食う。食い続けているうちに、やっと春になる。
すると、同じ食べ物が春には料理となる。まず鍋に水を取るところから。雪解けの水は小川とも言えず、冬の間中押さえ付けられて平になった土と苔と枯れ草の緩やかな斜面のあちこちを流れる。鍋に汲んだ冷たい水には僅かに糸屑のような苔が交じって少し松脂の匂いがする。米を150グラムより大目に入れ、煮えたところで重いのを承知で持ってきた生味噌を入れる。味噌が匂いたったところで仕上げに、雪解けの流れの脇に生えていたふきのとうをぱらりと入れ、混ぜ込む。
丼に取りわけたなら、バターを一切れ載せて、少し寒いがテントの入り口を開けて小鳥の声を聞きながら食する。ふきのとうの苦味と青臭さをなつかしい味噌の味が受け止めて、バターの塩味となめらかさが舌先をくすぐる。
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ごま油で茶色に揚がった天麸羅にたっぷりかかったツユが天麸羅とその下の飯に黒々と染みて、もりもりと掻き込むのが相応しい。
天麸羅の衣がツユで少しばかりぺたりと柔らかくなると、甘辛いごはんに胡麻の油が移って、飯粒がてらりと光る。衣からはみ出た海老の弾力を楽しみつつ食べるごはんが旨い。
ビルになっている中見世側の大黒屋と木造二階建ての大黒屋があって、木造の店の方が風情があるのだが、ビルに入っている店の方がおいしいように思う。
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数あるスコッチモルトの一つにアイラのカリラがある。カリラと呼ばずにカオルイラと呼ぶ場合もあるらしい。アイラウィスキー独特のヨード臭とウィスキーらしからぬ薄い色が特徴だ。これを飲む時には、他人さまのことは知らないが、私好みの注ぎ方をバーテンに頼むことにしている。
どんな風に作ってもらうかというと、まずロックグラスに水を入れる。どんな水を使うかはバーテン任せなんだが、軟水よりある程度の硬水の方がよいように思う。次に氷をひとかけら、マドラーで掻き回して水と氷を馴染ませる。水が落ち着いたらスプーンの背中を使って、水の上に静にウィスキーを浮かせて出来上がりだ。
濃いのを飲みたいときには表面を啜る。薄いのを飲みたい場合は、深くグラスをくわえて上唇<うわくちびる>に生のウィスキーを感じながら下の水とウィスキーの入り交じった辺りをのむ。ウィスキー本来の味わいを感じて一瞬おいてからカリラ独特のヨード臭が鼻を打つ。カリラは伸びがいいから、もうすっかり濃いところを飲んでしまった後でも、水にカリラの味わいが残っているので寂しくならないところが好い。
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神戸のお土産に買ってきたら、家族にも会社でも好評だった。マカロンの類いの、小さな焼き菓子なのだが、イタリア産のアーモンドの粉が決め手だった、という店の宣伝文句にもあるようになかなか気合いの入った洋菓子だ。噛むと歯に付くかなと思う位のねっとり感があるのだが、全体的には非常に軽い食感が特徴。
次々に食べたくなるが値段が値段だけにブレーキがかかる。尤も家族はそんなことにおかまいなしなので、あっと言う間になくなってしまった。冬期限定で、本店以外には神戸と大阪の大丸にしか置いていないところもポイントが高い。
ところでツマガリという洋菓子店を神戸に行く前から知っていた訳では勿論、ない。実はトアロードのその名もデリカテッセンという何の工夫もない名前の店の、カモの薫製が旨いという話を聞き付けて、大丸の地下売場でこいつを仕込んだ。序に、甘いものも土産にしようとして、売場の姐さんに尋ねたらツマガリがよろしいと教えてもらったのだ。何事も素直に聞いてみると、人は思いがけないことを教えてくれる、というのはこの年になってやっと覚えた知恵だ。若い頃からそうして居ればよかった。大分に違った人生となっていたことだろう。
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鄙には希な、とは大げさな話だが、狛江には旨い蕎麦屋が多い。まず一軒目が
志美津屋で、喜多見の駅からは歩いて十五分程か、住宅街の真中で、不便な場所なのにカーター元大統領がやって来たことがある、というのが自慢だ。そばも何種類かあるが黒い田舎そばの方が私の好みだ。場所柄、静かなのも落ち着く。
二軒目は和泉多摩川の
すがもで、酒を頼むとそば切りの空揚げをつきだしに出してくれる。その他のつまみもあるので、昼日中から酒を飲むのに丁度よい。
三軒目は喜多見駅前の
更級で、余所でしこたま酒を飲んで、仕上げに行くのがよいと思われる。偏屈な親父がいて盛りそばが旨い。店の奥に四畳半のこあがりがあるんだが、薄暗い蛍光灯がついていて、場末の雰囲気で大盛り上がりだ。以前、酔ったついでに、蕎麦は旨いんだから少しは店の見栄えを考えたらどうかと意見したが無視された。これには後日談があって、蕎麦の旨いという話を聞いてその気になった女房と娘がこの店に入って、蕎麦を褒めたら喜んだ偏屈亭主、品書きをひっくり返して裏メニューのショートケーキを出したのだという。ついでに、亭主の言うことには、この前嫌な客が来て店を改装しろなんてぬかすから俺の店だから俺の勝手だと言ってやった、のだと。勿論、この嫌な客というのは私のことだ。
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あの赤い包装の、輪ゴムで束にされて売られている、魚肉ソーセージは最強の食品の一つだろう。何が最強といって、日のあたる田舎の雑貨屋の店先に何日置かれていようが、棚の上で埃を被ろうが、びくともしないからだ。防腐剤と人工着色料と人工調味料がたっぷり入っていて、これだけでは足らないので、増粘剤やら澱粉もどっさりと加わって、ソーセージとは言いつつも実際のところ別の名前を付けた方がよいのだろうが、長い歴史があるからもう変えられない。
このソーセージのパチモン、ソーセージは魚から作られると子供に信じさせたサギまがいの商品、茹でると膨らむ澱粉製品。だが、日本の貧しい頃、偽物でもよいからソーセージを食べたいという、庶民の気持ちに応えた、この食い物に今になってお前はソーセージではないと非難することは私にはできない。暮らしの手帖も、美味しんぼも非難できまい。だから私はこの厚化粧をした、いじらしい魚肉ソーセージを愛する。
だから、紅生姜の紅の抜けたような場末のピンク色の中身をぴったりとくるんでいる、ビニールにナイフで縦に切れ目を入れてから、こいつをくるりとひん剥いて、弾力ある中身を丸齧りするのが好きだ。だが、剥いたビニールの皮にいつも中身がしっかりとくっついてしまうのはどうにかならないものか。
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職場で和菓子の話になった時、すあまを知らない若い人が多いのに驚いた。念のため説明すれば、ブルドーザのキャタピラの様な、キャタピラにあたる所が赤い生菓子だと云えば、あれかと得心して頂けることだろう。材料は上新粉で何の変哲もない。だが、その赤い色付きに、片栗粉がはたかれて表面の僅かに残っている皺に入り込んだ様子と、打ち粉のさらさらとして羽二重のようなその表面の感触と、一口噛むとざっくり噛み切れるのにねっとりとして薄甘い味わいは、素っけない程なのに、だから逆に惹かれる。
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言わずと知れた、タイのスープだ。エビが入ったのがトムヤムクンで、鶏だとトムヤムガイ、シーフードだとトムヤムターレとなる。B級の店では、あるいはこれが本来の姿なのかも知れないが、クンだろうがガイだろうが、ターレだろうが、あまり違いはない。つまりクンやガイはスープの出汁(だし)の一種類で、味噌汁の実ではないのだ。あくまでトムヤムはスープである、と考えると納得がいく。
その証拠に、トムヤムには香り付けするためだけを目的とした野菜が何種類も入っている。これは何かとタイ人に聞いてもよく答えられない位だ。おまけに固くて食べられないこれらの香り付け野菜と、見た目のそっくりな野菜も入っていて、いちいち齧ってみなければ分からない。これまたタイ人にどのように見分けるのか、と聞けば、齧ってみて食べられないのは食べないのだと言う。逆にいくら固かろうが食べられれば食べてもよいのだと、当たり前のことを言う。つまり、トムヤムの中に入っている固形物は基本的に出汁をとるものなので、基本的な出汁を何でとるかを料理人に指定する、というスタンスなのだ。タイを訪れること四回目にして、やっとこの基本を納得した。
この、どのように料理するかを指定する、というのがタイ料理の基本で、料理されたものを選択する、あるいは料理人が工夫して客に供する、という日本のスタイルとは違う。つまり、あり余る材料から食べるものを選ぶ、というタイの方式と、少ない材料に技術を投入して食べられるものを作るという日本の方式の違いで、ある意味、根本的に異なる存在である、ということもできる。
だから、タイでは基本的にタイ語ができなければ本当のタイの料理は食べられない、と言ってもよいかも知れない。あれとこれを使って、こんな風に調理してご飯の上にかけてくれ、というのが正しいタイ料理の一つと言える。もっとも、ここでいう本当の、正しく注文したタイ料理が果たしておいいしいかどうか、というのはこれとは全く別の話となるのだが。しかし不味かろうが固かろうが、辛かろうが、どんな貧乏人でも(自分の責任で)バラエティ豊かな料理が食べられるのは、B級グルメを愛する人間に相応しい。おまけに、タイ料理を食べ続けると、面の皮がすべすべしてくるような気がする。皮が薄くなった訳ではない。肌の気になる女性なら、試したらよかろう。
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手持ちの旅行案内をみたが、名前が見つからないので、ぶっかけ飯、と呼ぶことにする。一番ポピュラーで、タイの学校や食堂で毎日食べた。皿に盛ったご飯の上に、店頭のケースにバットに入って幾種類も並べられたおかずの中から二三種類選ぶと、ご飯の上にかけてくれる。大概は汁気の多いおかずなので、ぶっかけ飯のできあがりとなる。これに唐辛子入りの調味ソース(二三種類)、各種唐辛子(二三種類)、ナンプラー(一二種類)、砂糖、なんぞを適宜ふりかけて食する。
最初の内はどれがどんな味やら、皆目検討がつかなかったが、段々に分かってきた。私の好みとしては、小さな茄子と茄子そっくりの唐辛子の入った薄緑色のカレー風のおかず、キャベツとカリフラワー、莢いんげんがベースの野菜炒め、それに揚げた目玉焼き、の組み合わせが割合に好みだった。どんな店でもこのバットに入ったおかずが五六種類はあるし、目玉焼きに、ゆで卵、さつま揚げ、なんてのもこれとは別にあるから、その組み合わせは膨大な数になる。だから他人が食べているのがどんな味なのかは全く想像がつかない。だが、気をつけて見ているとタイの人間、それぞれが好みのおかずがあって、それをベースにしているようなので、毎日別の味を楽しむ、というのでもなさそうだ。
大雑把に言えば、それぞれのおかずの基本的な味付けはそう変わっている訳ではないので、とりたてて、これが美味しい、ということはない。何せ町中の食堂では大体、これが20バーツ程度の値段で、学校の値段とあまり変わらない。というより、他の適当な値段がないから、ではないのか。10バーツではワンコインで安すぎるし、30バーツは高すぎるという感じで決めているようだ。
夜、オープンレストランで食事をしていたら、つまりテントがけの店で食事をしていたら花売り娘がやってきて、バラを買ってくれという、値段を聞いたら一本20バーツだった。目と鼻の先のマーケットでこれが5本15バーツで売られている。一本売りつければ15バーツは儲けがあって、一日4本も売れば、一日食って行くことができるのだ。また、朝の通勤時には道端に乞食がいて、見ると結構実入りがあるようだ。タイの坊さんも毎朝乞食行(こつじきぎょう)をしているので、基本的に乞食は酷い商売とは感じられない。ところで、例の花売り娘なんだが、朝は乞食もやっていて、朝と晩、服装も換えているところがプロっぽい。
話は乞食にずれてしまったが、ぶっかけ飯、の値段というのはどんな人間でも色々な味を楽しみつつ一日食べることができる、という値段に設定されているのだ。トムヤムと並んで実にB級グルメに相応しい、と言わざるを得ない。別に言わなくともよいのだが。ところで、花売り娘の件だが、そのレストランに行く度に売りつけにくるので、この間は買ってあげた。他にも象を連れて歩く、象のエサ売り、というのもこのレストランにやってくる。飯を食っている横で象がパオッと鳴くので少しうるさい。
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駅弁の話だ。しめ鯖やらあじ寿司やらの青魚の寿司が好物なので、「しめ云々」という文字が視界を掠めただけで、「発見アラーム」が点灯する。この間、新幹線に乗った時に、到着時間が13時を過ぎるので弁当でも買おうかと思った時のことだ。駅コンコースの弁当屋にこれを見つけた。
しめ鯖と紅さけの押し寿司弁当で、能書きによれば、八戸小唄にちなんでバチの形のへらで寿司を食べよい大きさに切って食する、とある。食べてみると、酢めしと、厚くなく薄くなく絶妙の厚さに揃えられた、しめ鯖のこっくり感と紅さけのねっとり感が素晴らしい。普通ならおざなりに添えられているであろう甘酢ショウガと醤油がよく吟味されているのも嬉しい。全国駅弁コンクール第一位となった、というのも頷ける。
東京駅新幹線乗り場ゲートのすぐそばの駅弁ショップ、
膳まいで売られている。製造元は、吉田屋はちのへ小唄寿司青森県八戸市一番町1-2-1、電話0178-27-4554、値段が¥1050だ。
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立って熱いそばを喰う、というのは、割合に気を使う。そばの丼をカウンターに置いたままで、そばを喰う、というのは背中を丸めた上に下くちびるを突き出すような格好になるので、普通はやらない。どうしても丼を左手に持つことになる。すると、右手は箸なので、もう自由が利かない。店が混んできたりすると、左手に丼を掲げ、右手の箸を高く上げて、隣の客とぶつからないようにしながら、移動しなきゃいけない、なんて事態が発生するとも限らない。喰ってる途中で七味を足そうと思っても、箸を置くところがないので、丼の上に箸を置いた上、親指で箸が落っこちないようにしながら、右手を伸ばして七味をとって、左手の丼に振りかける、なんて小技を使わなきゃいけない。
これと比べると、立ち飲みは右手でコップやら、猪口やら、ジョッキやらを持って、左手はポケットに突っ込むなり、カウンターに置くなり、すればよいので、ゆっくりとやれる。土方(どかた)の立ち喰い、という古い言葉があって、立って喰うと食い物が真っすぐ腹に落ちるので、沢山の飯を早く喰えるのだ、と聞かされたことがあるが、立ち飲みというのも、姿勢がよくなって、喉の通りも良くなるし、背筋を伸ばして、コップに最後に残った一口分の酒をあおる、というのも気分の良いものだ。
大概の場合、立ち飲み屋にはオヤジしかいないので、格好をつける必要もないし、第一に安いのがよろしい。こんな訳で、私の好きな飲みやの第一は立ち飲みなのだが、なかには立ち飲みなのに高級、という店もある。勝どき橋の南詰から一丁程、隅田川を背中にして歩くと、右手にある、縄のれんのかかった、
かねます、だ。酒は幻の瀧純米、黒ビール生、ハイボールなんぞで、最初に黒生はちょっと、という人、私のことだが、瓶ビールもある。立ち飲みなのに高級、というのは、黒板に書かれている本日の品書きで、一品、千五百円のつまみが並んでいる。高い、が旨い。鮑のさしみ、半身とはいえ、この値段で喰えるのは安いと言えなくもない。
おやじが二人カウンターの中に立っていて、一人が料理で一人が酒を出してくれる。どちらも無愛想だが、料理をほめると喜ぶので、素直に旨いと言うのがよいとおもう。ただし、職場の女性を連れて行って、蘊蓄を語ろう、なんて思ったりすると、二人であっという間に一万円くらいの勘定になる。そういう二人連れをこの間、見た。
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決してAクラスに成れない、永遠のBクラス、まるで誰かのようだが、カレーライスはその代表と思われる。Aクラスになれないものだから、ライスカリー、などと名前だけでも歴史があることをせつなくも誇示している場合もある。大手町周辺には、この類いの、歴史あるカンバンを担いだカレーを出す店が数多い。
まずは、日本橋たいめい軒のカレーライスで650円、キャベツの酢油漬け、50円のコールスローをつけて700円であがる。昔の食堂の雰囲気だが、年配のボーイとウェイトレスが辛うじて、これ以上安っぽくなるのを崖っぷちで防いでいる。スパイスが薄く効いた味のカレーだ。
次が日本橋は室町のインド風カリーライス。店の看板がなくて、古い壁を隠すようにツタがからまっているので、ツタカレー、と呼ばれているらしい。1200円のカレー一品だけで、これが旨いかと言うと、辛い、とだけ言える。辛さは、スパイスから来ているのではなくて、唐辛子によっているので、ひたすら辛いだけで味もそっけもない。二三口食べれば直ちに汗が噴き出してくる。何の取り柄もないと思われるが、私のように、一度は試したいという客でいつも混んでいる。
内神田三丁目には、共栄堂のスマトラカレー、ポーク800円、がある。共栄堂も表からだけでは、カレー屋とは分からない。老舗の雰囲気を出そうと一生懸命なのだと思われる。黒っぽいルーが特徴だが、何の変哲もない。神保町の共栄堂とはどういう関係かは不明だ。
日比谷公園の中にある松本楼にもカレーがあって、100年の歴史があるというので有名だ。その名もハイカラ・ビーフカレーで、735円だ。あまりハイカラと強調するのも恥ずかしいのか、レシートには単にビーフカレーとなっている。辛さ控えめで、くせのない味だ。
どのレストラン(食堂)もそれなりの歴史を持っているということは、客を飽きさせない努力があるのだと思われる。しかし、カレーライスはどう足掻いてもカレーライスで、地道に安サラリーマンの昼の食欲を満たすに過ぎない。だが、この値段で安サラリーマンの昼の相棒として数十年を過ごす、というのも偉い。我が身を振り返って、決して馬鹿にすることができない昼のアテ、それがカレーライスだ。(2004.8.30)
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かりんと、と言えば黒砂糖のたっぷりかかった油っぽい菓子というのが通り相場で、また、これはこれで、若い時分には食べたいと思う時があったが、この年では、そう食べたいと思うようなものではない。しかしながら、職人が追求すれば、仮令(たとい)かりんとであろうとも、立派に出世できるという見本でもある。
東京でかりんとうと言えば、浅草は小桜、湯島の花月、銀座のたちばな、と相場が決まっているようで、小桜のはもらいもので食べたことがある。花月のは湯島で一杯ひっかけようかと、ふらふらしている時に見つけて家人のみやげにしたことがある。花月のは、白砂糖をかけたすっきりとした甘さと油を感じさせない軽い揚がり具合で、どうしても一本だけで済ますことはできない旨さだ。
そのうちに、銀座のたちばなのかりんとうも、花月に匹敵するという話を見聞きして、近くによったら買ってみようかと思っていた。ところがたちばなは、土日が休み。平日に銀座を通るのは仕事のある時に決まっていて、暇そうな私でもなかなか機会がなかった。
そうこうするうち異動があって、大手町勤務となった。大手町周辺を歩き回っているうち、銀座が徒歩圏内であることが分かった。というわけで、先日、銀座八丁目のたちばなまで出かけて、朱色の缶入りの、店でいうところの、コロ、を買って来た。なかなか感じの良い缶で、子供に持たせたらさぞ喜ぶだろう、もちろん大人もにこり、とするだろう。
味の方なんだが、花月の方が少し細めの分、齧った具合からか、私には好みのように思われる。尤も、ふたつを比べてみたわけではないので、実際のところはよく分からない。甲乙つけ難い、というのが正直なところだ。写真は花月のかりんとうだ。 (2004/10/26)
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机にしがみついているばかりでは、体重がじわじわと増えて来るのは避けられない。カロリー制限しなくては、おまけにカロリー制限していればネズミは寿命が延びる、というような記事を読むと、早速私も、ということで、しばらく昼飯を抜く事としていた。確かに、昼飯を抜いて二三週間も経つと、体重が減少傾向となった。たるんだ腹も心なしかひっこんだ気がする。
やれ嬉やと思っていたら、たまたま風邪をひいてしまった。これがなかなか治らない。高い熱とはならないのだけれど、一二週間経っても、ぐずぐずとしている。女房が、昼ご飯を抜いたりするからだ、と宣うので、体の具合の悪い分だけ気弱になって、ああそうかも知れない、と思った。フランス人は、風邪をひくとステーキを喰うのだと、話に聞いたことがあるのを思い出して、ここは一つ、昼飯にうまいものでも喰ってみるかと。
ここでステーキ、というのはあまりに直裁すぎる。一手間ほしいところだ。ということで、
おいおい100にも書いていたように、ビフカツを昼飯とすることにした。そこで風邪で鼻をぐずぐずさせながら、人形町に向かう。店は洋食のキラクだ。カウンターだけの小さな店で、ビフカツ1550円、薄めのビーフにどちらかというと薄い色に揚がったコロモがかかっている。ウマいというわけではないが、マズいということではない。いわゆる下町で洋食でも喰ってみるか、という時にはよろしいであろう、と。上の写真がキラクのビフカツだ。
二三日たったが、ビフカツ一回では、風邪は退散しないのは仕方がない。今日の昼は
日本橋のたいめい軒で、ビーフカツレツを食することとした。1850円。さすが老舗のたいめい軒。一階のサラリーマン食堂でも、やってきたビーフカツレツは、皿に美しく鎮座していた。付け合わせの丸くボール型にカットした人参、小さなインゲン、ポテトフライが皿の脇にちんまりと収まって、楕円にきれいにまとめられたカツレツを引き立てている。カツレツには茶色のソースが、一枚の毛布を半がけしたようにふわりとかかっている。肉も厚めで、カツの揚げ具合も間違いなし、辛くなく甘くなく、旨味の立ったソースの味が、ごはんの味を壊さぬように香辛料を押さえてあるところが気に入った。1850円なら上々だ。
風邪が治ったか、というと、咳に移行したので、治る方向にはあるようだ。(2004/12/2)
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午前中に定期健康診断があって、問診の医者からは「大変結構です」と太鼓判をもらったが、じわじわと体重が増えているのは明らかで、普通に昼飯を食べると、昼休みに歩き回るだけでは、カロリーを到底消費できない。となれば、必然的に昼飯を軽くする他ないわけで、考える事はみな同じ、昼休みの大手町界隈ではそば屋に人がたかっている。不思議なところは女性の姿が稀なことで、OL連はいったいどこでカロリー制限をしているのだろうか。
そば屋といえば、どういうわけか、どこもここも、椅子が小さくて四角い、というのが通り相場で、がんこがこれも通り相場のそば屋の主人のポリシーなんだろうか。おまけに昼休みの混雑時に相席なんぞさせられた日には、おちおちそばも喰ってられない、おっと、たぐってられない、か。蘊蓄はどうでもよいが、そば屋でゆっくりというのは昼下がりに限る。空いていると「姐さん、熱燗」と呼ぶのも実にすんなりと口から出て来る。
というわけで昼休みのそばは立食いに限るのだが、これがまた、気に入ったところがない。大手町駅の東西線の近くに、やはり立食いそばがあるものの、何の変哲もないわりに、たまにはそばがのびていたりするので、お勧めできない。お勧めできるのはここだ。
場所は、大手町ビルから日本橋三越本店を左に見る通り、これを歩いて中央通りを渡り、もうしばらく歩いて、昭和通りにぶちあたったら左に曲がる。昭和通りに面した、
そばよしだ。風向きによっては、かなりの遠くから鰹節の匂いがしてくるから、直ぐに見つけられる。鰹節の問屋が経営しているので、ダシがたったつゆで、そばとうどんを喰わせる、B級では有名な店だ。ちょっと醤油味が濃いか、という気もするが、この味がたまらんという人もいるだろう。まず、喰うまでの手順を示そう。まず、食券を入り口近くの券売機で購入しなきゃいけない。食券は直ちに店の奥のカウンターのところに持っていかにゃいけない。そこで、姐さんに、うどんかそばか、暖かいそばか、冷たいそばかを伝えて、それからやおら引き返して、お盆を受け取るために並んでいる列の最後尾につかなければいけない。
最初に店に入ったなら、天ぷらそば、山菜そばあたりをおそらく選ぶことだろうが、列に並んで、壁にしつらえられた幅のせまいカウンターや二列あるU字型のカウンターで、あれこれ喰っている客を観察すれば、普通のそば屋では見当たらない、ちょっと変わったものを喰っているのが分かる。で、次回以降にそのまねをすればよいわけだ。
で、少し知識を仕入れてから、店にいってみようという人のために、そのバラエティの一部を紹介したい。まず、うどんはきしめんで、この店で打っているという話だから、そばに限定する必要はない。この前このきしめんを喰ったが、薄くてつゆの中で半透明になるほどだが、もちっとした感じが、好い。上にのせる天ぷらは、あなごと野菜があって、あなごは東京湾は羽田の江戸前、と壁のちらしに書いてあるので外せない。野菜は、季節によって変わるが、三種類はいってくる。この前食べた時には、さつまいも、おくら、しいたけのトリオだった。それからかきあげ、月見なんてスタンダードもある。で、ここはご飯がB級に充実していて、半飯、普通盛りを頼めば、これに備え付けの鰹節の粉をかけ、醤油をたらして、そばを汁がわりにかっこむこともできる。普通は穴子丼セット、しらす干しセットなんてのをたのめば、小振りの丼に飯と穴子天、もしくは大根おろしにしらすをたっぷり載せた丼に、そば、あるいはうどんがついてくる。鰹節の粉に醤油をたらした飯のうまさを知っているB級の人には、この丼セットがおすすめだ。
ちなみに、今日食べたのは、このしらす丼セットで、暖かいそばにはかきあげをトッピングした。朝飯抜きの胃には、だいこんおろしがやさしく、たっぷりのしらすもしっとりしてよろしい。やわらかなしらすを味わってから、例の鰹節の粉をたっぷり、ご飯の上にかけ、醤油をたらして喰った。合間に、かきあげがツユに緩んでもろもろ、となったところをそばと一緒に口のほうりこめば、天ぷらの油とそば、それにご飯がまじりあって、これまたよろしい。これで570円だから、安い、うまい、早い、のB級グルメの必要条件を完璧に満たしている。B級人間にぴったりだ。(2005/4/13)
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略して半チャン、等ということがあるが、正しくは”半ちゃんラーメン”だ。なぜかというと、神田神保町の”さぶちゃん”には、入り口に半ちゃんラーメンの元祖、という貼り紙が貼ってあり、店内には半ちゃんラーメンという品書きが貼ってあるからだ。元祖が言っているんだから間違い〜ない。本舗が言ったらどうか、というような話には関知しないのだ。この”さぶちゃん”。隣の通りの出口には、洋食の”グラン”、通りに出て右手すぐには、天ぷらの”いもや”があるし、小路に戻り、奥の方に向かって、つけめんの店があって、その隣が定食屋という具合で、昼飯時にはそれぞれに行列ができる、一大サラリーマン昼食御用達地帯だ。
この半チャン、もちろん君は知っていると思うが、やんごとないあなたは知らない方がよいかも知れないが、一応説明したい。有り体に言えばラーメンに半分盛りのチャーハンがセットになっているものだ。若くって金に不自由しているんだが腹が空いた、という人むきの食べ物で、”さぶちゃん”の例で言えば、¥650でたっぷりな昼飯となる。勿論、年食ったおやじが、たまには昔を思い出して食べてみたい、というのでもかまわない。さぶちゃんが喜ぶ。
味の方なんだが、ラーメンの方、かなり醤油が効いている。チャーハンの方も、作るところを見ていると、片手の中華鍋におたま一杯のラードを放り込んで、卵を五六個溶いたものを流し込み、そいつが膨らんだころ、おひつのご飯を十人前程も入れて炒め、それに刻んだチャーシュウとそいつが白く見える程の味の素、全体が茶色くなる程の醤油を入れて炒める、という具合なので、かなり塩っぱい。椅子が七つしかない狭い店内で、開けっ放しの入り口から入る通りの熱気と、ガス台の焔にあぶられながら、タバコ吸い吸い、缶ジュース飲み飲み、汗だらけになって働く、腹の突き出た親父の口に合う濃い味に違いない。だが、一口食べれば、体重も体調の心配もなく疲れも感じなかった若い頃の、乱暴な味の好みが蘇る、そんな味だ。
”さぶちゃん”には、一寸いやな思い出があって、三十年程も入ってなかったのだが、先頃、店の前を通ったら、相変わらず腹の突き出た親父が頭だけ白くなってしまって、相変わらず店一杯の客に次から次へとラーメンを出している様子を見て、また入りたくなったのだった。いやな思い出といっても、若い頃の恥ずかしい話で、こっちがもごもごと注文したせいか、半チャンのつもりがチャーシュー半チャンが出てきて、サービスなのかと思って半チャンの金を払って店を出たら、親父が追いかけて来て、コノヤロ、チャーシュウ半チャンのお代を払えと言われた、という、実にくだらなくてかつみっともない話だ。
ところで、この”さぶちゃん”、よい女が入るには絶対に合わない、と断言できる店でこればかりはどうにもならない。どうしても食べてみたいと思う、あなたのようなよい女は、メガネに髪ひっつめ、化粧なしにジャージ、ぐらいでなくてはいけないのだ。(2005/6/9)
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天気のよいお昼に出歩くには、少し日差しとアスファルトの熱気がきつ過ぎるような季節となったが、やはり出かけた。神保町方面に足を伸ばして、白山通りから神保町の交差点に入るのではなく、手前で左に折れることにした。このあたり一ツ橋と神保町のさかいめで、近くのさくら通りもすずらん通りから比べると地味なような気がするが、よくよく首を巡らせるとよさげな店もある。
例えば、一ツ橋二丁目に徳亭なる一見瀟酒な和食の店がある。店の前に出してある品書きを読むと、ランチは当日朝九時半までに予約せよ、やら夜の食事はできるだけ予約せよ、などの指示がうるさい。能書きを読むと「え〜、四季、故郷、伝統、それから何だって?、え〜、日本人として誇れるものを料理を通して伝えていきたい、っと」、真面目な主人なんだろうが、客からみるとえらく高飛車じゃないのか。おっと、ここはB級グルメのコラムだったので、どっちにしろ、無関係であった。
高そうな店の前を指をくわえて通り過ぎるだけなのも癪に障るな、と、近くにステーキの店を見つけた。店名がyoshino で、うん、名前を聞いたことがある。手書きの紙が道路に出されたあんどんにぶら下がっていて、米沢牛、Aランチ¥1500、Bランチ¥2200とある。B級グルメの範囲からは若干外れるような気もするが、高そうな店の前を通り過ぎた後は、安く感じるな。
店はビルの三階で、入り口が路地の奥なので分かり辛い。それがまた、階段に段ボールが積んであるわ、エレベータは年代物だわ、でお世辞にもきれいとはいえない。とどめが、壁の貼り紙で、何々?「え〜、当店のディナーは¥15000から、となっております、だと?」。おそらく、「うちは、こう見えても最高の肉を出す、高級なステーキレストランなんだぜ、安い料理なんかはないんだからな」と、オーナーシェフが突っ張っているんだろう。だが、実際のところ、「くそ〜、昔は上客ばっかりで、夜は姐チャンを連れた経費で落とすオヤジで一杯だったんだぞ。今は仕方なくランチやってんだからな」というつぶやきが聞こえそうな張り紙だった。
ともあれ、三階に上がって店のドアを開けると、行列ができていて、ウェイトレスが並んでいる客の間をまわって注文を取っている。「えー、お客様は何名様?Aランチですか?1500円の?お客様は一名様、はい、Bランチですね。2200円の」。客と従業員がランチの名前ではなくて、値段で確認し合っているところをみると、ここに並んでいるのは普段あまり来ないような客、つまり一見さんが多いのだろうと察しがつく。おなじみさんばっかりなら、注文の品を値段で確認する、なんてことはない筈だからな。
店は、肉を焼く鉄板の周りをコの字型にカウンター席が並んでいて、シェフが焼きあがりを客に出す、という仕組みらしい。この鉄板とカウンターの組み合わせが店内に二組あって、昔は、はやっていたんだろうと思われる。今はシェフが一人で、この二つのカウンターをきりもりしている。カウンターに座れば、ウェイトレスがサラダとおしんこ、をセットし、シェフが入れ替わりでやってきて、鉄板の上で手早く肉を焼き上げ、右手にもったナイフでサイコロに切った上で、客の前に置かれた皿に盛りつけていく。付け合わせはもやしだ。これにごはんとみそしるが付く。ステーキの話は
別のコラムでもしたことがあったな。
悲しい話だ。つまりステーキという食事が、ある種のステータスを持っていた時代の、この店は、なごりなのだ。高級牛肉を客の目の前で焼いた上、たべやすいように細かく切ってくれる。つまり、肉にかぶりつくような時代をとうに過ぎた年代の客が一番のお客で、気前よく客は金を払い、「おい、どうだ、この肉は旨いだろ、米沢牛って言ってな、最高級の霜降りなんだぞ」「きゃー、おいしい、ターさん素敵」なんて会話が成立していた頃、はやった店なのだ。
味の方なんだが、やわらかくて、高そうな肉であることは確かだ。だが、ふりかけた塩の量が多くて、その塩っぱさにご飯がすすみ、「ご飯おかわり!」となるような味だ。油の味が先行して、肉の旨味がじわりと感じられる、というようなものではない。ところで、ターさんって誰だ。(2005/7/5)
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さて、このコラムの冒頭に「この齢になっても寿司屋にこだわりなく入れない」なんて書いていたが、いつまでもそう言ってはいられない。いざ十番勝負だ自己改造だ人間革命だ(いや、自分で書いていて数十年も前の言葉を目の当たりにすると、感慨無量というか化石を掘り出した気分というか、古色蒼然たるものを感じるなー、っていうかー、ジジイくさくってー、・・・あまりこういう言葉を連ねるのも阿呆らし)。
というわけで大手町からほど近い日本橋には寿司屋が割合に目につくので、ランチ値段ならB級グルメの許容範囲であろう、ということで自分で納得し、食べ歩いてみることとした。めどとして十軒、ランチにぎり一人前を食べ較べてみようというのが今回の企画だ。個人的企画なので途中で企画変更も可能だ。要するに気ままに喰えばよいのだから何も考える必要はないのだ。
一軒目 蛇の市 ¥850 05/11/24
店と職人ともに年老いてしまった、そんな感じの店だ。ヅケやアナゴに昔風の仕事がしてあるが、シャリのもたつき感は隠しようがない。決定的なのはアナゴに生臭みが残っていたことで、下拵えに手抜きがあったのだと思われる。椀の味噌汁は全くの家庭の味。
二軒目 寿司筈 ¥1050 05/11/22
ビルの3階なので少し入り難い。シャリが大きめなのはかまわないが握り飯のように粘っている。醤油は香りのたつ、よいものを使っているのにミスマッチだろう。中トロは旨かったのだが赤身は解凍の失敗もあるのかと思われる程で、首を傾げざるを得ない。
三軒目 繁乃鮨 ¥1000 05/11/25
オヤジは年くっているが店内は新しい。少し固めのシャリだが固さが気になる程ではない。シャリもネタも小振りで、上品と言えば上品、物足りないと言えば物足りない。椀は澄ましで、よいダシがでている。アラではなく白身がひときれ入って、一品となっている。全てがそつなくまとまっている。
四軒目 寿司岩 ¥1050 05/11/29
柔らかめのシャリだが適度の固さに握ってある。ネタはランチレベルを下回るものではない。茶碗蒸しに加えて味噌椀もついて来るのはよいとして、デザートまでつくのはどうかと思う。アナゴのツメがあまり甘くはないとしてもだ。
五軒目 すし由 ¥840 05/11/30
¥1050出せば1.5人前の満腹ランチになるのでコストパフォーマンスは良好だ。サラダと小さめのアラの味噌椀がついてくる。若い店主が一人きりなのでサラダを食べて待つ寸法となる。値段が値段なのでネタは小さく、シャリもこれに合わせて小振りだ。ネタそのものは吟味されていてそれぞれの魚のよい香りがする。卵焼きも好みの仕上がりだ。握ったシャリが丸っぽいのは田舎くさいが、ふっくらとした仕上がりで好ましい。カリフォルリアランチなるものもあるので次は試してみたい。店主も店も清潔感があってよろしい。
なんて食通気取りで評論してみた。どの店も日本橋三越からすぐ近くの店だ。早めに行ってちょいとつまんで、時間があったら三越の六階の美術品売り場を一回りすれば、口福(こうふく)、目福(めふく)の昼休みとなろう。
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さてハーフタイムが終わって後半戦となった(別に試合をしているわけではないんだが、観戦記者のつもりとなったなりゆき上ということで)。前半は日本橋三越前の中央通りを渡ったすぐの一帯を歩き回ってぶつかった店に入っていたのだが、後半は同じく三越を起点にして少し足を延ばす。基本的には、適当に歩いて寿司屋にぶつかったら入る、というスタンスをとる。
六軒目 ふる里 ¥850 05/12/1
いやに肩の力の抜けた店と感じたのは、カウンターをはじめあちこちに酒瓶がごちゃごちゃと並んでいるせいかと最初は思った。ランチ握りを頼んだらあっと言う間にすし桶に入った握りが来たので、忙しいランチだからな、あらかじめ握ってあったのか、と思った。食べてみると、どうも寿司屋ですしを喰っている気がしない。すしをひっくり返してみたら、シャリがきれいな長方形になっていた。ははー、すしを旨く食するための新しい工夫なのか、・・・ってそんなわけないだろ!要するに握ったんじゃなくて型にめしを入れて抜いたものだったのだ。よくよくメニューの店名を見ると「すし割烹」となっている。すし屋でなく居酒屋だったのか。だから出てきたのもすしと似て非なるものだったのだ。まあ、ちょいと変わった刺身定食と考えれば納得もいこう。
七軒目 矢の根寿司 ¥1000 05/12/2
歌舞伎の矢の根五郎にちなんだ店名で、店内に掲げられた額にそうあった。この店と寿司、一言で謂うなら質実剛健。よくダシのきいた小さな味噌椀だけがつく。きっちりとした大きさのシャリとそれに見合った大きさの薄すぎず厚すぎないネタ。シャリのしっかりとした酢味。握りぐあいも醤油がついても解け落ちる程には柔らかくなく、口の中でほどよく崩れる。千円のランチで最上とは言えないだろうが値段からみてぎりぎりに吟味されたと思える赤身が二つ、中トロが一つ盛り込まれているのは、まぐろ好きには嬉しい。尤もメニューには赤身が一つ、中トロが二つと書かれていて、この出自あいまいな一貫については限りなく中トロに近い赤身か、あるいは限りなく赤身に近い中トロなのかで、店と客の見解の相違があるのだと思われる。
八軒目 すし貞 ¥1100 05/12/8
ネタはしっかりとした厚みと大きさで、上物ではないがありあわせというわけではない。すこし甘めで大きめのシャリでこれを昔ながらの味、というのだろう。ただし煮たイカにツメがかかった一貫はどうかと思う。アナゴにしてほしかった。あらのたっぷり入った椀のよくダシのでた澄ましで私好み。
九軒目 亀井鮨 ¥850 05/12/9
カウンターに座るとサラダと温泉玉子がでてきた。サラダのこのマヨネーズドレッシングではすしを喰う前には強すぎるのでは、と思う。酢飯には赤酢を使っている、というのがここの売りらしい。確かにシャリには醤油味の炊き込みご飯のような色がついている。喰ってみると色はついてはいるのだが特別な酢という感じはしない。というよりシャリ自体、よい米を使っているという感じがしない。ネタには赤身が二つ。ブリにタコ、イカ。エビに玉子。干瓢巻きとキュウリ巻きが二つづつ。味噌椀がつく。カウンターに灰皿が置いてあるので喫煙家には嬉しいかも知れない。たぶん職人も吸うのであろう。シャリにもネタにも香りがなかった。代わりにおしぼりに焼き魚の脂の臭いがついていた。
十軒目 すし鉄 ¥800 05/12/12
値段を考えれば、この内容でよしとすべきという意見もあるだろう。赤身2、白身(カレイか)、甘エビ、イカ、タコ、アナゴ、玉子、各1、かっぱ巻き、鉄火巻きが各2。ネタが少々薄くて小さくとも、澄ましの椀にダシがきいていなくとも、ま、相応とする意見もあるだろう。だがシャリの舌にあたる感じがざらつくのはちょっと。古米を使っているのか、炊き方が悪かったかのどちらかと思われるが、前者であったとしたら、また行くのはかなりの程度で躊躇われる。
日本橋にはまだ寿司屋があるんだが、番外勝負といくかどうかは検討中だ。気が向いたら、ということで。
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折角十軒も廻ったのだからということで、残りの店も訪ねることとした。
十一軒目 ごさろ ¥950 05/12/14
延命地蔵尊の近く。すしとそばの店、と道に出たあんどんに書いてあって、中途半端な店じゃなかろうかとすこし躊躇したが入ってみた。小振りの握りが九貫に、巻物が六個、そつなくまとまっている。普通寿司屋と言えば、親父が店を仕切っている個人経営の店が殆どなのだが、この店、職人とは別個のオーナーがいるのではないかと思われる。ネタにサケと中トロがあるのに赤身がなくて脂っぽいのを喜ぶ今時の人に合わせているところや器や盛り込みの仕方に気を遣っているところにそれを感じた。シャリに寿司にはぎりぎりの安い米を使っているところにもだ。
十二軒目 美家古 ¥900 05/12/15
女性が二人連れあるいは一人で入っていく寿司屋が不味いわけはない。ただし、連れとのおしゃべりに夢中になると、店主から早く喰えネタが乾いちまうじゃねえか、という注意が入る。この店は親父が一生懸命に握っているのだから客もわき目もふらず食べなければいけないのだ。すしについては並すしのこの値段を考えるとネタもシャリも文句のつけようがない。尤も私としては他を削っても赤身を入れてほしかったのだが。
十三軒目 松海鮨 ¥840 05/12/20
六貫の握りに赤身が二貫入っているのは嬉しい。あとはエビ、タコ、サバ、玉子、それに鉄火巻きがつく。だがランチの味噌椀には殆どダシがきいていないし、シャリがざらざらとしているのではどうにもならない。サービスのつもりか、ガリのわきに自家製らしいタクアンが添えてあるのがわびしい。
十四軒目 吉野鮨本店 ¥1575 05/12/22
店の入り口には何も貼っていないので、一見さんにはランチがあるかどうかは不明で値段すら判らない。中トロはよく吟味してあって、赤身には薄く煮きりがかかっており、イカも生のようにみえても手が入っていてねっとり感が楽しめる。アナゴ焼き立てで香ばしい。シャリにも工夫があって握りと巻きものとで酢味を変えているようだ。誰を連れていっても喜ばれよう。一つ文句をつけるとすれば、ガリは自家製のようなのだがバルサミコのような酢味がきつくはないか。
十五軒目 御旦狐 ¥1000 05/12/28
ネタは水準以上と言える。8貫の握りに赤身と中トロ、それにしかとは名前が判らないがみる貝と思える貝ネタが入っているのは珍しくも嬉しい。シャリも最高とは言えないがよいコメで、固すぎず柔らか過ぎず握られている。カウンターに座ってつけ台に敷き笹が置かれると、職人が握った順に置いてくれる。惜しむらくは、最後に握られたいくらの軍艦と玉子焼きの置く場所がなくなってガリの上に半分かかって置かれたことだ。職人のきびしさに少し欠けるかっ、ざんねーん。
というわけで、日本橋の寿司屋十五番勝負?は終了した。結論としては旨い店は旨い。そうでない店はそれなりということで、しかも情報雑誌に載っているからといって油断はならない、ということだ。日本橋にはまだ数軒の寿司屋があって、例えば高島屋には名うてのおけいすし、なんて店も入っているようなので、ぼちぼちと日本橋に通って全部の店の味を確認してみたい。
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また職場が変わって、今度は麹町のビルに通うようになった。都心なのだが近くに飲食店が少ないせいか地下に食堂が付属している。職場の福利厚生部門が関わっているので、もちろん値段は近所の定食屋より三割方、安い。主菜が三品のなかから選べたり、小鉢が二三種類用意されていたりで、中々行き届いている。今日の主菜は、フライ盛り合わせ、豚肉の生姜焼き、麻婆豆腐、だったな。そんならいいじゃないか、という声が聞こえるので、その通りでございます、何の不服もありません、と答えるしかない。だから毎日、食べている。
しかし、「それでお前はいいのか」とつぶやく私の内面の声が聞こえる。「グルメというのはあてがいぶちを喰うことなのか、B級だけど」と誰かが囁く。「いいんだ、所詮B級グルメなんだし、安いんだからいいんだ」と答える声も聞こえる。付属の食堂には、十二時きっかりに中高年に年齢分布のかたよった職員が詰めかけてきて、たちまちに全ての席が埋まってしまう。私も列に並び、カウンターで体によさそうな麻婆豆腐を選び、野菜サラダの小鉢を取って、席につき、前に座る見知らぬ人に視線を投げつけぬように、伏し目がちにひっそりと食事をとった。
テーブルの上には調味料をのせた小さなトレイと、「きょうの健康」を標榜する小さなカードホルダがたっていて、カードには「恐ろしいメタボリックシンドローム」の題名であれこれと書かれている。いわく「高脂血、血圧の高い人、ウェストサイズが85cm以上、のどれかにあてはまる人は、メタボリックシンドロームの予備軍です。このままでは、脳溢血、心臓病、糖尿病に起因する様々な病気のどれかになってしまいます。日本人の三割はこのどれかの原因で死んでいるんです」。挿し絵も入っていて、太った中年の男が「そうなんだ、ゾ〜、恐ろしい」なんてフキだしとともに描かれている。「あ〜、俺もダイエットしなくちゃ、この前の健康診断では血圧も高かったし、そういえば心臓も調子悪いような気がするな〜」と思いつつ、薄味の味噌汁をすすり、辛くない麻婆豆腐を口に運んだ。食い終わったら、背を曲げてぺたぺたとスリッパを引きずって歩く男の後ろについて、トレーを厨房に戻す列に並んだ。
てなふうに、あてがいぶちを食うだけでは、このB級グルメのコラムは続かない。麻婆豆腐は山椒で舌が痺れなきゃいけないし、生姜焼きはジュージューといってる皿じゃなくてはいけない。気合いを入れて昼飯を探すことにするか、気合いもB級だけどな。(2006/5/19)
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昼飯にそばを喰った奴とトンカツを喰ったやつを比べた、東海林さだおの挿絵が頭に残っている。そばを喰ったオジさんが何となくしょぼくれた感じで歩いているのに比べて、トンカツを喰ったオヤジは顔も脂ぎって、「ゲフッ」といいつつ歩きながらつまようじを使っている、という場面だ。しょぼくれたオジさんが多いというわけでもなかろうが、麹町界隈にはそば屋が多い、ような気がする。トンカツ屋は少ない、ような気がする。気がするだけなので、主張してるわけではない。そこんとこよろしく。
というわけで、寿司十番勝負程のリキは入っていないので、脱力しながら、いきあたりばったりそば屋を喰ってあるくことにした。目標としては十店程度にして、ぼんやりしながら歩いているうちに見つけた順に、店のノレンをくぐることにした。☆の数は主観的につけたものなので、関係者は気にしないでほしい。まあ、見やしないと思うが。
一軒目:吉田:一番町:☆☆☆☆
せいろ大盛り:880円
このシリーズを始めて、最初に入った店だ。半蔵門線の番町の出口を出て、麹町に向かってなるべく坂道を上らないように、脱力しながら歩いていくと左手にある。割合に高級な店として知られているらしい。昼休みに女子事務員相手にビールを飲んでいるオジさんをみたからな。で、つゆは、よくかつおだしが効いていておいしい。そばは、コシはあるんだが、香りにかけるようだ。なんて、考えているところで、となりに一人でそばを喰っていた女が、領収書を出して欲しいと、いったのが聞くともなしに耳に入った。女社長なのか、それとも不逞な経理担当者なのか、経費でそばを喰う女はどんな奴なのか、ちらりと顔を見たが判然としなかった。
二軒目:丸屋:一番町:☆
大ざる:900円
石臼ひきそば、とうたっているが、そばには薄く緑がかった色がついている。茶でも混じっているのかと思われる。朝、この店の前を通ると、だしと醤油のよい匂いがする時があるのだが、出て来たつゆに、だしはあまりきいていないように思う。しかし、大ざるでこの値段は高すぎるんじゃないの。
三軒目:松月庵:二番町:☆☆
大ざる:630円
ミニ天丼ともりそばセットを客が頼むような至って気楽な店。つゆはさばぶしが混じっているような気がする。そばは駅そばレベル。スポーツ新聞を眺めながら、柳沢のアホー、お前がしくじんなきゃ抜け出せたのによー、と力なく肩を落とすのにふさわしい店だ。嫌いじゃない。
四軒目:更級:九段南四:☆☆☆☆
大ざる:600円
東郷元帥記念公園の横の坂道を上がると、九段の古い商店街が現れる。ちまちまと小さな店が二七通りの両脇に並んでいて、昔はもっと風情があったんだろな、と思われる。更級だから白いそば。つゆはだしより醤油のかった味。最初は少し塩辛いかと思われるが、食べ進むとそばの甘みがまじってきて、ほどよい具合となる。重い木の引き戸をがらがらとあける店の構えも、悪くはない。
五軒目:えん重:九段南四:☆☆
大ざる:650円
やはり九段の二七通りをちょいと左におれたところにある。いわくありげな店名と下町風情に、ちょいと気がひかれる。そばは更級系の白いそばなんだが、つゆが薄くて頼りないな。
そばを食べ続けていると、肩の力が抜けてくるのはよいとしても、おなかはぽっこりとなっても手足に力が入らない、という老人風になってくるところが気になるところだ。食べ比べてあらためて思ったことだが、そばはどうも華やかさにかけるな。それに店の違いを見つけるのが難しい。そばの固い柔らかい、香りがあるかどうか、つゆが甘いか塩辛いか程度の違いがあるだけで、その組み合わせの数もそうあるわけではない。まあ逆に言えばそれだけ微妙なところがある、ということなんだろう。(2006/6/21)
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脱力しながらそばを喰うというシリーズの後半脱力戦だ。季節はつゆが続いて、そろそろ太陽のそばも懐かしい、という時期だが(我ながらサムい。梅雨寒か)、雨の合間をみてはぶらぶらと歩きまわっている。
六軒目:大川や:九段南三:☆☆☆☆☆
せいろ大盛り:800円
そばはコシがあって味わいがある。醤油味のかったつゆは、そばとよく合っている。そばの表面のなめらかさが、つゆをつけてすすると、まるで生玉子がかかっているように感じる程だ。薬味のネギの細かな木口切りと本わさび、くろもじをおいてあるのも好ましい。おすすめだ。二七通りの一本市ヶ谷よりにある。
七軒目:ゆで太郎:麹町三:☆☆
大もり:320円
そばが白いのは更級系だからではもちろんなく、小麦粉が多いせいで、冷麦に近い。ただし冷麦の滑らかさはないので、やっぱりそばかと。つゆは甘ったるい出来合いと思われる。だが値段を考えれば文句の言う筋合いではない。チェーン店で、麹町周辺だけで4〜5店ある。
八軒目:田毎:九段南三:☆☆☆
大ざる:800円
どちらかと言えば更級系の白いそば。コシもあって決して不味いわけではない。しかし、つゆが甘くなく辛くもなく、だしがきいていないではないが、きいているわけでもなく、何の個性もない。そのかわりか、ウズラの玉子がついているのは、味の物足りなさを補う仕組みになっているらしい。
九軒目:叶屋:九段北四:☆☆☆
大もり:800円
越後そばの店とあんどんにある。チェーン店である。そばには大いにコシがあって、大口を開けて喰うと、噛み切るのにあごに力を入れる必要がある。つゆは甘めで、だしは薄い。居酒屋がメインなので、飲んだ後にシメのそばは如何?という店だ。
十軒目:羽前:麹町一:☆☆☆☆
大ざる:700円
コシと舌ざわりと香りのバランスの取れたそば。昆布だしもきいた塩辛目のつゆがよく合う。そば湯でわってもよくのびるつゆ。ちゃんとしたそば屋だ。
ところで、何の説明もしなかったが、どの店でも大もり、大ざる、せいろ大盛り、のどれかを頼んでいるのに読者諸氏気付いていると思われる。その訳はと言えば、実はちょっとばっかり恥ずかしい話なんだが、以前に浅草の並木に入ったことがある。並木と言えば、「美味しんぼ」で持ち上げられていい気になっている店で、つゆの塩辛さは日本一という店だ。で、この店でざるを頼むと竹のざるの背にそばがのってやってくるのだが、日本一少ないとは言い切れないだろうが、ひとはしでざっと掬えるか、というぐらいの少なさで、いくらなんでも少なすぎるのではとちょっとむっとしたことがある。あらためてもう一枚、と頼むのも業腹でそばの喰い方に似合わずちびちびと喰った覚えがある。ということで、「せいろ二枚!」なんて通ぶって頼むのもB級らしからず、大盛りを頼む事にしている、というわけだ。
で、十軒ほどもそば屋を巡ったが、徒歩圏内にまだ数軒あるのは確かめてある。行くかどうかは決めていないんだが。(2006/6/21)
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「完食」なんて言葉はまだ辞書になくて、TVの食べ歩き番組で、残さず料理を食べたことを言うらしい。その含意には、「一皿の料理を残さず食べることは、大食いチャレンジにおける、ポイント、一単位」というのと、「残さず食べたのは、(カロリーを考えながら食べるという)抑制がはずれたためであり、抑制がはずれてしまう程、おいしかった」という二種類がある。つまり、現代の日本人にとって、残さず食べる、というのはもはやある特別な事情の場合でしかない、ということだ。だが、「食べ物を残してはいけない」という教育を受けた上に、そのテーゼが全く正しいことに同意している私にとって、A級であろうが、B級であろうが、食事とは料理を残さず食べる事と等しいのだ。
しかし、信念を持ち続けるのはツライ時もあるのだ(何の信念だか)。先日、例のごとくB級ランチをとろうとして表に出て、さて今日はBの1?それともBの2?、いやBの3か、と一瞬迷ってから、今日は朝にあまり食べなかった所為か、少し腹が減ってるな、じゃカツ系にしようと。そういえば、ちょいと遠くにソースカツのメニューを出していた店があったな、と。店は九段のはずれで、靖国に近い場所にある。ランチ時、客が並んでいるのではないが、店に入る客をみかけたこともあるので、まあよかろうと。
半地下の店に入ると六七分の客の入りで、カウンターが空いていた。「ソースカツ丼ひとつ」と頼んでから、店の中を見回してみると、こぎれいとは言い難いな。こぎれいじゃないから不味い、というわけではないし。うん。カウンターのつけ台が普通と一寸変わっているな。カウンターの板がつけ台の下まで続いていて、醤油さしやらつまようじ入れやらが、客の邪魔にならないように、なってるんだな。なるほどね。だから、みやげ物の人形やら、こまごまとした置物も一緒に並んでいるのね。客を飽きさせないために・・・・そうか?
昼飯前には仔細なことは追求しないことにしているので、カウンターに置かれたポットから自分でお茶を注いでおとなしくしていると。まず、漬け物なんかを入れた小鉢が置かれた。なるほどね。えー、昆布の佃煮、しば漬け、成る程ね。それからポテサラ。ポテサラきらいじゃないし。「ソースカツ丼、お待ちどうさまでした」。来たね。丼のご飯の上にキャベツの細切りが敷いてあって、その上に薄い色をしたカツが載せられているね。カツは食べ易いように切られていて、うーん、随分、細く切ってあるね、五ミリくらいかね。厚さに合わせているんかね。
じゃ頂きます。ごはんの上に生のキャベツがのっかっている、というのは本当は好きじゃないんですよ。生野菜とごはんは合わないんだよね。でもソースカツだし、これもアリかと。真ん中の薄く切ったカツにソースがかかってますね、一口、うーん吟味されたソース・・・・じゃないね、これ普通のウスターソースそのままなんだね。なんかカツもニチャニチャしてるし。こっちが歯医者行ったばかりなのを知って、歯に負担がないように考えてくれてんのかね、・・・・そんなことある訳ネエダロー。
まあ、ソースカツなんてメニューは珍しいから、他に何か工夫があるかも知れないしー。カツの下には何があるんだろう・・・・キャベツだね、見たまんまだ。味付けに工夫があるかも知れないしー。食べてみましょ・・・・食べても普通のキャベツだね・・・・ごはんもべちゃべちゃだしー。ちょっとツライかも知れないとこの時、思いました。でもみそ汁はフツーだから。全部がオカシイ訳じゃないんだから。
黙々と箸を動かしていると、「これどうぞ、×××」と言って店のもんが、小鉢に入った卵焼きを出してくれた。×××の部分は何を言ったのか分からなかったのだけれど、「お客さん、ソースカツどうですか?私もこれは、ちょっとどうかと思うんですが、ここのマスターがごはんとキャベツが大好きなんですよ。ま、箸休めに召し上がって下さいな」なんて、言った筈もないな。まあ、お陰で卵焼き齧りながら、丼の中身を減らすことはできるな。うん、卵焼き美味しく感じるよ。
・・・・なんか気持ち悪くなってきた。肉と衣の間がしっとりしてるし(にちゃにちゃ、なんて言葉を思い出すと悪い方向に考えがいきそうなので)、ごはんとキャベツが混じり合ってソースのつんつんした匂いだけが残ってるし、つらいかも。「いや、もう少しだ。頑張れ。B級グルメの本領発揮だ」って、声はしないが、「食べ物は残さず食べる」って掟は守らなくてはいけないな。B級の掟なんだけど。・・・箸のすすみが遅いね、我ながら・・・・あと一口だね・・・・「ごちそうさまでした」・・・・やったぜ、完食。ほっとため息をついたら、店のおばさんが「これどーぞ」ってくれました。ヤクルトだね。甘い奴だね。よく見るとヤクルトでもなかった。競合会社のパチモンだった。ぐっとね。いや甘ったるいね。・・・・完食しました。何も残してません。
ランチを喰った後、しばらく胃がうずうずとしていた。だが夕方になったら、それも忘れてビールを飲んだ。快調だった。なんて、B級にぴったりの体だろうと自分でも思った。(2006/8/23)
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B級グルメではあるが、トップページに「グルメを気取るほど食べ歩いてはいないが、まずいものより、うまいものを食いたいという、正直なところを書き綴ってみた」と書いたように、うまいものを拒否している訳ではない(うまいものの方が食べられるのを拒否している、先立つものの関係で、と云うのはあるが)。で、先日、金沢に行って来たおり(仕事なんだが、所詮)、自分ではうまいと思ったものがあったので、書き記しておこうと思う。
さて、金沢での仕事が終わり、明日も仕事はあるものの、今日の夕方からはたっぷりと時間があるという場面だったので、あのひがし茶屋街へ出かけることとした。金沢にはこの他に、にし茶屋街、主計町茶屋街があるのだという。本当は遊び用に着替えて行きたいところだが、出張族の悲しいところ、背広一丁の着の身着のままなので、地味な背広で行くしかない。駅前からタクシーで行き先を告げると車は小路をすり抜けて、程なく石畳の茶屋街の入り口に着いた。さて通りを覗けば、茶屋が割合に広い道の両側に続いているのが見える。水曜の宵の口だったせいか、人影もまばらで、肝心の茶屋も灯りがついている方が少ないくらいだった。すぐに奥まで着いてしまう通りを往復して入り口に戻ってしまうと、さてどうしようかと、考えているところで、横丁に東湯という銭湯ののれんを見つけた。背広姿のサラリーマンでも、せめて昼間の汗の臭いをふりまきたくはないからだ。
さっぱりと一風呂浴びたところで、番台のお姐さんに(花街だからばあさん、は拙かろうということで)、近くで良い飲み屋はないかと聞いたところ、すぐそこの「次平」がよかろうと言う。お姐さんも家族連れでよく行くと。それではと礼をいって、目と鼻の先の店ののれんをくぐった。
ググッググッと、「いや、ビールは旨いね、何時飲んでも」。「お客さん、どこからですか」。「いや、東京から仕事で。そこの通りを覗いてから、そこの銭湯に入って、そこの番台でこの店教えてもらったものだから」「そうですか」。なんてあたりさわりのない話を、突出しつつきながらするのも、いや良いね。「風呂上がりだからから、またビールがうまいね。もう一杯」。壁にかかった品書きをみていると、金時草とある。「ね、だんな、これ何て読むの」。「これね、きんじそうです。酢のものなんですが」。「キンジソウね、じゃそれひとつ。それから、このフグヌカってのは何ですか?」。「これはふぐのぬか漬けです」。「ほ、ふぐのぬか漬け、じゃそれも」。「はい」。
でてきたキンジソウは、酢の物にしてあるせいで、葉の紫色が酢に溶けでて、見た目もきれいな一皿だ。歯触りが空心菜に似てシャリシャリしているのに、オクラような粘りがあってなかなか美味しいと思った。「ふぐぬかです」。次に、薄くスライスした、からすみよりは色の薄い、橙色の、見るからに酒のつまみがでて来た。端を齧ってみると、魚醤の香りのする、うま味の凝縮された、ビーフジャーキー程ではないが、かまぼこよりはずっと固い、何か、いや「フグヌカ」であった。「いや、こりゃ酒だね。酒は何があるんすか?」。「立山と手取川と、あと萬歳楽ですね」。「じゃ萬歳楽、常温で」。
塩気と魚醤の香りが濃く沁みたふぐの粕漬けは、酒によく合った。酒はおそらく本醸造と思われたが、りっぱにふぐかすを受け止めて、何の不足もない。そのうち、店の女将もでてきて、女将が能登の出身だとか、小唄をやっているとか、店の亭主は生まれもこの街で、謡を子供の時にやらされたがそれっきりだとか、近頃は芸妓が減って、ついこの間も一番年上のが亡くなったとか、平日はなかなか茶屋も一杯にならないとか、客も少なかったせいか、話がはずんだ。もう一本飲もうかと思ったが、出張中の身、明日もあることだと自制して、仕上げに素麺を食べた。いや、なかなかの味だった。値段だけがB級なのも良かった。
店の箸袋をみたら、裏に「東郭入り口」とあったな。ああ、三十年代まで、ここは郭だったんだ。金沢も奥が深いぞ。(2007/7/23)
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この味をB級にクラス分けするのは、実に申し訳ない。しかしながらまだA級に相当する話は殆どなくて、これからもあまり期待できないので、ここに記することにした。
これも仕事絡みで、たまには自費で旅行してみろよ、という声も出そうなのだが、勘弁して頂きたい。で、仕事絡みで、能登半島の先端、奥能登のまだ先、小泊地区の仕事場に行った時の事だ。地域の住民との集まりがあって、お昼に皆で、近所の主婦が提供してくれるお昼を頂くことになった。この地区、能登半島の奥も奥、先も先で、ご多分にもれず人口の減少が続いている。地域の主婦も、ゆくゆくは観光客向けに食堂の一つも開いて、地域振興に役立てたい、てなことを考えているらしい。
で、750円だったか支払って、頂いたお昼が、ただものではなかった。順に記してみよう。まずは鯛の潮汁、これが佳かった。もちろん、ここは料理屋ではない。椀に入る程の小鯛が主だ。透明な汁に小鯛が一匹、菜の花、桜の花の塩漬けが浮かんでいる。「春のたよりの潮汁」だったか、黒板に書かれたメニューの通り、外はまだ冬景色の中で、菜の花の緑が鮮やかだった。一口啜ると、うっすらとした塩味の程よい昆布だしに、鯛のうま味がゆきわたり、そこに桜の花びらのやわらかな塩味が汁の中に漂い出ていた。その軽やかさがよかった。小骨に気をつけてむしる小鯛の身も旨かったが、汁にわずかな、煙の香りがして、それがこの椀の尋常でない味を決定的なものとしていた。なんの香りなんだろうか。
根菜の煮物には、厚さ二糎(センチ)はあろうかという椎茸に、人参、じゃがいも、ふき、等が入っていて、柔らかく、かつ煮崩れなく、甘すぎず、仕上がっていた。このあたりから、この昼飯がただものでないことが、分かってきて、食べるこちらにも気合いが入ってきた。確かに人参は総菜なみに大きく切ってあったが、全体の味に濁りがなく、秋から保存されてきた根菜の甘みを活かされていて、実にバランスが佳かった。次に、人参の粕あえを頂く。この酒粕がまた尋常ではなかった。酒粕ではなく、酒を絞る前のたっぷりと酒を含んだ、もろみそのものではないのかと思われる程で、酒の旨さが味わえる。勿論、市販の酒粕でありようがない。そう、酒の味がわかる。こいつは、純米酒で酸味とうま味のバランスのとれた自分好みの酒だ。名を失念したが海藻の酢の物もあった。
片口いわしの腹におからを詰め込んだ熟れ(なれ)寿司があった。いわしの熟れ具合が、自分としてはもう少しいけるのではないかと思ったが、まだ新鮮さが残っている内のいわしも、その酢の具合と、香りは新鮮なままで熟れた身の柔らかさが、好い。みじんの野菜が入ったおからが、酢の味を受け止めていて二つになんの不足もない。小さないわしが一匹だけだったのが口惜しい。メインは回りの小鉢にそぐわずに、一つ浮いてしまった、小鯛の身のから揚げだった。つけ合わせにポテトサラダとキャベツの千切りが添えられているのが、微笑ましい。確かにこの料理を作ったのは料亭の主人ではなく、毎日子供に弁当のおかずを作る主婦であったのだ。
香の物はもちろん飯寿司で、大根が旨い。お茶うけに豆の煮物まで出た。昼の膳は、アルミのお盆に乗せられた、幾つかの朱塗りの椀に盛られていたのも、普通ではなかった。例のキャベツの千切りを従えた鯛のから揚げだけが、瀬戸の皿に乗っかっていたのだった。
ごちそうさまを告げに、汁を椀に注いでいたおばさんの所に行って、この昼飯の尋常でないことを告げた。聞けば、桜の花の塩漬けは、その近くで桜チップの薫製を作っていて、その香りが移ったものらしいこと、潮汁もその他も、塩は、この奥能登の入り浜で作られた塩であること、椎茸は、ふくろがけという手間をかけて丹精したものであること、ふきは前の年に塩蔵しておいたものであること、鯛は近くの漁港で主婦連が手間賃仕事をしていて、売り物にならぬと漁師から分けてもらっていたものであること、いわしのなれ寿司は、腕自慢の近所のおばあさんに作ってもらったこと、そして酒粕は近所の造り酒屋が持って来てくれたもの、であったことが分かった。
おばさん達は「いやー、普段のご飯よ」と謙遜していたのだが、国交省的には僻地と定義されるであろう土地に、謡と茶をたしなむ人々の、北前船以来の伝統が今も息づく文化を背景とした、尋常ならざる普通のお昼ご飯だったのだ。また食べたいぞ。(2008/2/26)
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四谷の若葉町にあるから、わかばのたいやきだ。四谷から新宿通りを少し進んで、左手の細い道に入るとある。いや、こっちもあらかじめ調べて行った訳ではない。昼飯を四谷のしんみち通りの若水で、かきあげ丼を食った後、そういや、新宿通りの反対側には行ってないな、と思いついて、ふらふらしている内に見つけたのだ。
若葉のたいやき
小さな店の前に行列ができていたので、何を売っているのかと覗いてみると、通りから、中で二三人の職人がたいやきを焼いているのが見えた。さらに首をつっこんでみると、焼き方の職人が二人たいやきの型を扱っているのが見えた。古い店だが、掃除が行き届いていると見えて清潔感がある。焼き方の職人が焼き上がったたいやきを型から外して、客が並んでいる表に面したガラスと職人の手前の火元の間に落としている。実はそこがステンレスの樋になっていて、もう一人、その樋の出口に座っている職人のところに滑りおちて行くらしい。その座っている職人、何をしているのかと言えば、鋏で、出来上がったばかりのたいやきの縁を切り落としているのだ。つまり、型からはみ出た生地が焦げる程に焼いてある、ということだな。ん、これはいけそう。
すでに五六人の行列の後ろに並んだ。もう三月なんだな。昨日は少し、寒かったが、どうしたって春の陽気が感じられるな、なんてぼんやりしていたが、列はなかなか進まない。行列の頭を見ていると、十個、二十個と買って行く客がいる。その他に電話予約した客が取りにくる。店員は紙箱に詰めて包装紙でくるんでいる、という具合で、どうもおつかいものにする客が多いらしいことが分かる。値段は一匹126円で、良心的といってよい値段だから、相手先に喜ばれるとすれば、かなりコストパフォーマンスが高いな。店頭では、あんこだけも売っていて、色からみてもよく練り上げられた餡で、期待を持たせる。それにしても数人の行列が、さっぱり短くならないな。もう十五分も待ったぜ。
待ったぜ、なんてエラそうにいってみたが、一匹だけ買うのも申し訳ないような気になるのは、小生の気の小さいところだな。二匹買って袋に入れてもらった。さっき、もう春の陽気だとは言ったものの、風はまだ冷たく、懐にたいやきを入れると、とっても暖かい。道ばたでかぶりつくような年ではないので、そう、帰る途中の公園で食べようと、懐にはいったたいやきを服の上から押してみる。
公園のさくらはまだ冬のままだな。でも陽射しは十分に暖かい。店先の張り紙には「たいやきを男は頭から、女はしっぽから食べる」なんて書いてあったが、取りあえず頭にかじりつく。皮は香ばしく焼きあがっていて、厚さも最中の皮ほどに薄いのに生地のおいしさが分かる。餡は想像通り、しっかり練られていて、流れることなく、口のなかにほっくりと転がり、充分に甘いが塩のくどさが全くない。粒あんであるが、問屋から仕入れて来たこしあんに小豆をばらまいたようなケチな餡ではなく、店の中だけでしっかりと仕上げた餡であることが分かる。だから餡だけでも売っていたのかと納得する。
一個だけすぐに食べるけれど、残り一匹はどうしようと思っていたのに、次はしっぽから食べてみた。しっぽの先まであんこが詰まっているが、頭のところほど餡の厚みはなくて、焼き上がった生地が余計においしく感じられる。というわけで瞬く間に二匹とも食べてしまったのだった。かきあげ丼にたいやき二匹で、今日はハイ・カロリーな昼ご飯だったな。(2008/3/6)
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そのうち、時間と金をつくって(金がつくれるとは思えないのでしぼりだして)カフェをやりたいとの野望を持っている(そいつは野望じゃなくて、希望でしょ)。カフェと言っても、いわゆるカフェ飯を出したり、何かオシャレなことが起きる感じを醸し出している都心のカフェでなく、どちらかと言えばカフェーと昔風の言い方、絶滅危惧種の純喫茶とも違う、軽い感じのコーヒーショップとしたい。軽いカフェだから、客に供するコーヒーもドリップ方式じゃなくて、エスプレッソをベースにして、オレにカプチーノあたりを主体にしたい。ま、早い話がドリップだのサイフォンだのは面倒そうだし、あまり味に五月蝿い客が来ても対応が大変そうだから、エスプレッソマシンでさっさと淹れることとしたいわけだ。
カプチーノ・アートやってみました
てなことを考えて、昼休みにカフェオレを飲んでいたところで、コーヒースクール開催します、のちらしを見つけて、早速申し込んだわけだ。会場は都心のコーヒーショップ。日時は土曜の昼下がり。土曜なので会社員は少ないのを見込んで、私のような物好きを呼び込んだものだと思われる。定刻に行くと会場はコーヒーショップショップの奥の喫煙エリアで、ごく狭い。Saecoの小型手動式マシンが二台置かれていて、一緒に講習を受ける5人ばかりの生徒と一緒に、始まるのを待つ。
「はい、皆さん、こんにちは。今日、講師を務めさせて頂くXXです」と、普段はこの店でバリスタをしているという女性が現れて挨拶する。「最初に皆さん、これからの講習をスムースに進めるために、自己紹介をしましょうか」と口火が切られて、自分を含めて6人の参加者がそれぞれ自己紹介をする。4人は女性で、いや、なんか、ワクワクするな〜、するな〜、するな〜、って脳内エコーがかかるな〜。なんて、始まったが、講習は至って親切、中身も充実で、初めて習ったエスプレッソマシンでも、普段、この店で飲むカフェオレと変わらないものが出来て、つまり、豆と機械が揃えば、そこそこの味は出せると言う事だ。最後のお楽しみが、カプチーノ・アート。本来はミルクで描くのだが、さすがに初心者では難しかろう、ということで、チョコレートシロップが配られて、これを使って描いたのが、これ。
(2009/7/28)
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