深川は富岡八幡の横隣、深川不動の参道に、その名も冨岡華という菓子屋がある。そこのきんつばがうまい、という評判を聞き付けてお参りのついでに買い込んだことがある。
きんつばは餡の中の煮崩れていない小豆が、一口噛じった時に餡の中からほろりと取れて舌に落ちるのがよろしい。これは寒天の入っているせいなんだが、いかにも寒天を入れました、というのも餡のねっとりとした感じが失われて、面白くない。またきんつばの四角いのも微妙かつ捨てがたいところだ。普通、四角い菓子、カステラみたいなのは、角はぽろぽろとくずれるばかりで膝の上を散らかしてしまう。羊羹はどうか、と言う方もいらっしゃるだろうが、考えて頂きたい。羊羹は角だろうが中だろうが同じ味だが、きんつばの角は固くもなく、柔らかくもなく、甘くもなく、酸っぱくもなくて、平々凡々とありながら、中身の餡をしっかりと極めているところが偉い。
ところで伝聞によればこのきんつば、出自(しゅつじ)は関西方面で、元はぎんつばと呼ばれていたそうな。その頃は形も丸くて刀の鍔にみたて、表面の皮の白いところを銀に見立てて、ぎんつば、と呼んでいたのが関東にやってきた折り、銀が金に変わってその名も、きんつば、になったのだという。これを受けてか、栄太郎のきんつばは丸い。餡はおいしいが私としては、餡に寒天の入った四角いのが好みだ。
top酒に団子がよく合う、とは誰ぞが言っていたが、さもありなんと思う、しっかりとしたバランスの酒は、どんな食べ物にも合わせることができる。以前に獺祭(だつさい)で焼肉を食べたことがあったが、にんにくの利いた牛肉にさえ、この銘酒は負けなかった。立派だ。ただしもっと甘いものに合わせる、となるとさすがに酒の方も限られてくる。
この間、クリスマスケーキを食べる時に合わせたのは、瀧津瀬(たきつせ)だったか。甘味の強い酒が舌に残るケーキの油分を洗い流すと、酒本来の旨味とアルコールによる酔いがまた、炭水化物の塊であるケーキへの食欲を促し、大きな一切れをするりと食べてしまった。だが、この組合せは流石に、体には良くないと思われたので、その後は自制することとした。無茶な食べ方をしたその後、ケーキを純粋に作ることも楽しいんじゃないかと、思いついた。
これは伏線があって、料理を作って四五人の客を呼んだ折、一度だけだったがデザートを付けたことがあったのだ。あまり甘くしないヨーグルト入りのゆるいゼリーを、クレープで包み、出盛りの黒葡萄を煮詰めたソースをかけたものだった。これが意外に好評だったのだ。将来、酒が飲めないシチュエーションも有り得ること、も考えて、菓子作りに慣れておきたい。取り敢えず、スポンジ作りから始めよう、と。
top北京に仕事で行ったことがある。僅か五日程の旅だったが、よく覚えている。宿から打ち合わせの場まで朝、歩いている途中に饅頭やら、白粥やら、油条だのの屋台が出ていて、毎日、屋台の椅子に座り込んで食べていたからだ。この時は、信州大学の先生と一緒で、先生、中国からの留学生を一緒に連れていた。里帰りさせるのと案内役にするのと一緒にしていたものと思われる。私も彼等に便乗して、北京のあちこちをついて回った。
案内役の中国人について回って、中国の饅頭のおいしさに目覚めたわけだ。中国の北方は、様々の饅頭がある。同じ材料、同じ味付けであっても、形が違えば味わいが違ってくるというのも新しい経験で、歴史の深さはこんなところにも現れてくるのか、と納得した。まだ冬場と言っていいぐらいの春の時節だったから、饅頭の暖かさが味の記憶と一緒になって、外国のことなのに懐かしく思える。だから、寒くなると中国式の饅頭を作りたくなる。
ところで、この時、晩飯というべきか夜の酒のつまみに日本では見受けない、赤黒いゼリーのようなものを見つけた。最初、レバーかと思ったが違う、豚の血を固まらせたものだろうと、見当はついたので、珍しさに、ビールと一緒に食べた。だがその夜、ひどい腹痛と下痢に襲われた。例の中国からの留学生に聞いてみたら、それは体を冷やす食べ物なので、あまり良くない、との事。食べて分った。食べないと分らなかった、とは言うまい。
top年に似合わず、よくテレビを見ていると我ながら思う。しかしドラマは見ない。ニュースも見ない。殆どはお笑い芸人の出て来るバラエティ番組だ。肩の力の抜けたもの程、好ましい。タケちゃんマンは傑作だったと思う。政治討論番組などは、反対の極にあるので、好ましくない。今にして考えると中学生の頃は政治的だった。現在の私はその反動かも知れない。
何せ生徒会の役員だった頃、生徒会の指導教官がバリバリの日教組左派の若憎で、金日成のチュチェ、主体思想の信奉者だったのだ。この先生、朝鮮学校に生徒会役員を連れていくやら、壁新聞を作っては、自主管理、生徒は自主的に学習すべきで教師批判も辞さないという運動を、生徒会の垂範(すいはん)で繰り広げるやらで、一番ショックだったのは、内心好ましく思っていた女生徒が、今までの私は間違っていて自主管理に目覚めた、なんて言い出した時だった。
家は全くの労働者の家庭で、社会運動を憎んでいた訳ではない。しかしこの先生、若くて純粋な先生であることは判っても、そのやり方に胡散(うさん)臭いものを感じていた。そうなると、生徒会内部で非協力的だとの吊し上げを喰った上、分派工作を行なう裏切り者扱いされて、同じクラスの生徒による監視まで受けるようになってしまった。勿論そこは中学生、それ以上の事は起こらなかったのだが。実は市会議員が学校の動きを嗅ぎ付けて、全体が鎮静に向かったのでウヤムヤになったのだが。
そんな訳で相変わらずバラエティ番組を眺めていたら、魚焼き器を使えば僅か十五分でピザができる、という番組があって思わず身を乗り出した。成程と膝を打って、試してみたが見事失敗してしまった。再度朝鮮、じゃなかった、挑戦するつもりだ。
topおにぎりを作る、なんてのは和食の基本のキなんだろうが、この年になるまで試した事がない。梅干が嫌いでなくなったのは、極めて最近のことなので、そこまでのおよそ四五十年の間は、殆どの場合、おかか、のおにぎりを食べていたことになる。形も問題になるだろう。三角形のおにぎりは作るのが難しいと言われているが本当か、それでは丸いのはどうか、母親が作ってくれていたのは、確か、丸かったような記憶があるから、もしかすると三角形にできなかったのだろうか、等々だ。
海苔が全体を湿った状態で覆っている風にするのか、ぱりぱりの状態の海苔で軽く覆っただけにするのか、あるいは、指のあたる両面だけに海苔を貼付けるのか、なんて問題もある。大きい小さいの話も残っている。だが、最大の問題は、という程のものでは全くないが、何を入れるかだ。梅干しが割合に好きになったことは言った。おかかも良し、タラコも良し、天むすというのは試したことがないので、自分で作る前にどこかで食べてみなけりゃならない。
ツナマヨが出始めた時は、年甲斐もなくおいしいと思った覚えがある。その他にも、おこわ、焼きおにぎりという変化球もあるので、あなどれない。東海林クンの御馳走探検隊のようになってきたが、やむを得まい。
*1 ご存知、東海林さだおの丸かじりシリーズだ。
そのトンカツは、外側のパン粉が少し焦げていたし、肉も固かったけれど不味くはなかった。二十歳か二十一の頃か、教室の大学院生のStk氏の観測補助員として、真冬の山頂の観測小屋に二人きりで、一週間居た。
観測小屋だから観測が主で、二段ベッドのある狭い居室に台所兼廊下、便所がついているだけであった。観測補助員と云うのは、実際には、山の中で一人というのは不慮の事態のあった時には危険だというので、学生だった私が、料理当番も兼ねて付けられたのだった。ロープウェイはあったものの、吹雪の時には止まる畏れがあったし、夕方以降は山全体に人がいなくなってしまう。だから全て三食は自炊することにして、食材は全部最初に荷揚げしてあった。
貴重な蛋白質である豚肉は、ロースのブロックから、少しづつ使って居た。そのうち、最終日に近くなって、献立の目処が立ったので、厚切りのトンカツを奢ったのだった。ところでこの時は、料理番が役目であるとしても、一応観測の補助員だったので、毎日定時の温湿度測定が仕事だった。薄汚れているが充分に暖かい黄色い極地用羽毛服を着込んでから、吹雪の中、スコップ片手に雪に半分埋もれた百葉箱までたどり着いて、その中の凍り付いた温度計の読み取り、というのは、「何のために」と問われたら、「そこに温度計があるから」としか答えられない所業だった。これ以後、私が揚げ物を作った事はない。それから三十年経って、また改めて始めようと思う。
top前にも書いたが仕事の関係で米国はデンバーを訪ねたことがある。仲間で夕食に、デンバー一美味しいという評判のステーキレストランに行こうという事になって出掛けた。さて、少し早い時間だったが店に入った。ステーキ専門の店というだけあって、選択肢が多い。飲物をどうするかから始まって、ボーイがどの部位の肉にするか、大きさは、焼き具合をどうするか、つけ合わせのポテトの調理の仕方はどうするか、サラダのドレッシングはどれにするか、等々、客の少ない早い時間だった所為か、一つ一つ丁寧に聞いて来る。アメリカ人好みで薄暗い程に照明を落した店内も落ち着いている。
さて仕事仲間とワイングラスを上げながらステーキのやってくるの待ったのだが、これが中々運ばれてこない。少し不安になった。それから暫く経ってようやくボーイが皿を運んで来た。お待ちして居りました。米国はコロラド州デンバー一のステーキ殿。だがしかし、不安は的中した。焼き加減はミディアムレアと頼んだのに、周りが黒く焦げていて、そこを削り落さなくては食べられないのだった。一緒のメンバの焼き具合を尋ねたのだが、どれも注文通りの焼け具合とは微妙に違う様だった。つまり注文は色々と受けるのだが出されるものは皆同じものだったのだ。アメリカで食事に期待したこちらが間抜けであった。
それからまた暫く年数の経った頃、今度は銀座の知る人ぞ知ると云うステーキ屋に入る機会を得た。十人も入れば一杯になるような小さな店である。カウンターの向うに鉄板が敷いてあってそこで店のマスターが肉を焼いてくれる。目の前で確かに高そうな霜降り肉が焼かれて霜降りから滲み出た脂がパチパチと細かに跳ねる。分厚い肉なのでマスターは肉の側面も焼いている。だがこのマスター、客へのサービスのつもりか妬きあがった肉をサイコロに切ってから皿に置いてくれた。柔らかい肉なので殆ど噛む必要もない。その代わり顎を一杯に開いて、ぶ厚い肉にかじりつき犬歯で肉を引き裂くという、肉食の悦びともいうものが全く失われてしまっていた。箸で小さな切れ端をつまむというのは、肉が上物だけに情けない。
だが、年をとって、歯がろくに使えなくなった時には有難い店になるのだと思われる。こんな訳でステーキは一度納得の行くまで自分で焼いてみたい、と考えている。歯が駄目になってサイコロステーキしか食べられなくなる前にだ。
topこの寿司屋は旨い、と初めて思ったのは二十年数年も前、東京は世田谷区、祖師ヶ谷大蔵の寿司のAYGだった。兄弟だったのか、若い神経質そうな職人が二人で賄っている店で、カウンターだけの細長い小さな店だったが、きりりとした店全体の感じが味にも現れていた。この時は、私も駆け出しだったので、なぜここの寿司は旨いのか等とは考えもしなかった。
この店、評判が直ぐに広がって、数年のうちに大きな構えも高級そうな店となった。店構えが高級になったら値段も高級になったので、気楽に入ることもできなくなって暫く足が遠ざかっていたのだが、或時、家人を伴って入った。お好みで自由に注文するには懐が心許(こころもと)なかったので、小上がりに座って盛り込みを頼んだ。どんなネタがあったのかは既に覚えていない。
ところで寿司の種の好みは人により様々で、だからお好み寿司と云うのだろうが、私の場合はこはだ、さば、まぐろ、なんぞが好みで何の変哲もない。だが回転寿司あたりでは変わった職人もいて、こはだを頼んだらさばが出てきたことがあった。職人が聞き間違えたのだろうかと、もう一度、「こはだ」と言ったら又さばが出て来た。家人が「あんたがもごもご言っているから聞こえないのよ」と言うのでもう一度、「こはだ」と言ったら又さばが出て来た。やっぱりこの職人、こはだとさばを取り違えているのだろう、と今度は、「さば」と注文したら、確かに今度はさばが出てきた。さすがにもう一度「こはだ」と言うほどの意気地は、もうなかった。
閑話休題、寿司のAYGの店に入った時の話だった。二十年も前のことだから記憶も曖昧になって来た。盛り込みでは少し足りなかったし、軽く酒も飲んで調子も上がったので、追加を頼んだ。で食べて驚いた。最初の盛り込みは太った雇われの職人で、後の追加が相変わらず頬のこけた、神経質そうな店の主が握った寿司だったのだが、同じネタなのに味がまるで違うのだ。店の主人が握ったのは、ふっくらぱらりとしてネタまでもしゃっきりとしていた。
その時から、寿司を食う度に職人の面相と寿司の味を比べる習慣とした。確かに神経質そうな痩せた寿司職人の握った寿司の方が旨い、というのが数少ない寿司屋の経験から得た私の独断だ。
ところで自分で寿司を握るというのは、単にそうしたいからで何の他意もなく、寿司職人の味に勝てる筈もない。握り飯のように大きなシャリにネタをくっつけて、あの時の寿司はこんなに大きくて直ぐに腹一杯になったっけ、とか、小さなシャリを大きなネタで覆って、あの時の高級店は旨かったな、とか思い出したいだけだ。
topこの間家への土産に、上野の岡埜英泉で豆大福を購入した。その前には同じく上野のうさぎ屋でどら焼きを買って帰ったから、始終辺りをふらついていることになる。大福の話だが豆大福の方が好みである。
大体において豆類を好む。例えば黒豆、正月料理の定番だが嫌いでない。よく黒豆をふっくらと煮る方法なんてのが料理本に載っているが柔らか過ぎて美味しくない気がする。表面にシワがよっていたとしてもここは歯ごたえのある方が好きだ。えんどうはみつ豆の中に入っているのでも、ビールのつまみにぴったりな塩えんどうでもよい。
なぜ豆類が好きかと考えてみたら、元来が北海道生まれで、各種の豆の大産地は北海道で小さい頃から食べ慣れていたからに過ぎない。だから同じいんげん豆でも大福とうずら豆、とら豆、金時、花豆なんて区別がついたのだった。逆に言えばこれらが皆、いんげん豆の一種だということを知らなかった。
豆好きで、豆大福の話が出ると当然豆板の話もしなくてはならない。高輪の伊皿子坂の上、交差点のそばに松嶋屋という団子屋がある。豆大福が旨いので通りかかった際、寄って行くことにしている。先日、車で通った折、大福が食べたいなということになって車を脇に止め、家人に行ってもらった。と、しばらくして手ぶらで帰ってきて言うには「大変、誰もいないのよ、殺人事件があったのかしら」。
・・・そういう言動には慣れているので「そんなことはあるまい」と言っている内にバックミラーに客が店に入っていくのが見えたから、「客が入っていったぞ、便所かどこかに行っているんだろうから、もう一度行ったら」と。しばらくして目当てのものと、豆板を持って戻ってきた。豆板の方は主人が恐縮してくれたんだそうだ。
ともかくも買いたいものは買えたのでよかった。豆板は塩味が効いて餅の柔らかさも好みで美味しかった。ついでに言えば豆餅を搗く時には餅米が半分程餅になったころに黒豆を入れるのだが、なぜ豆が潰れずに飯粒だけが潰れて豆餅になるのかが不思議だ。これは子供時代からの疑問なんだがまだ解けていない。ところで団子の話だった。大福を自分で作るのはハードルが高いので取り合えず手軽にできる団子から始めたいと、そういうことだ。
top旨い炒飯を作るには度胸が必要だ、という話を聞いたことがある。つまりこういうことだ。炒飯はパラリと仕上がっていなければ美味しくない。パラリとさせるには、短時間の内に強火で炒める必要がある。途中で味を調整する暇などないので一発で味を決めてしまわなければならず、調理を一旦始めたなら具とご飯を鍋に投げ込むタイミングに迷うことも許されない。たとえ失敗があっても、勢いでカバーする。
勿論、度胸だけではなく、失敗を最小限に押さえるために、材料と調味料を予め整えておく、使う順番を考えて手元に並べる、始める前に手順を頭の中でおさらいして置く、出来上がった後に皿にどう盛るかまで考えておく、等の細心さも必要だ。
私にはそんな度胸も細心さにもまだ足りないので腕を磨いておきたい。炒飯もよいが、洋風が好みの来客のあった時のことも考えて、ここはスパゲッティを選びたい。スパゲッティも麺を茹でている途中にソースを作り、麺が茹で上がった瞬間に、ソースとからめることが必要だから、度胸と細心さの必要なことは炒飯に劣らない。
アルデンテにするとは云っても、ソースと一緒にもう一度フライパンにかかることを考えると、麺を何時湯から引き揚げるかは、一瞬の躊躇なしの決断が要る。ここでは細めの麺とトマトソース、少し太めの麺とクリーム系のソースの組合せで四皿ずつを同時に作れるようになることを目指す。
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