その十件
噂の真相

茶室を作る

身の周りに色んな物がごたごたと在る事に、嫌気を感じることがないか。最低限の物しか持っていない、という身軽さ、何時でも何処へでも行ける、と云う軽快感は、絶えて久しい感覚だ。リュックサックに腰を下ろして、這松の上を渡って来る少し松脂の匂いのする、冷たい風に吹かれている時の爽快感は忘れられない。

空は少し黒い程に晴れていて、私は雪の残る稜線の鞍部にいる。下って来た山とこれから登る山の両方を眺めることができる。私が携えているのは、ツェルト、マット、寝袋、合羽、セーター、ラヂウス、食料、小ナベ、医療キットと工具それに筆記具の類のはいった小さな行李だ。これだけだった。

それから長い時間が経って、職業を持ち、妻を持ち、子供を拵え、家を持ち、大木に連なる葉のような地位も得た。私は山のように物を持ってしまった。だが家康の言ったが如く、人の道は大きな荷を背負って歩くようなものだ。一度背負ったものを放り投げることには、依然深い抵抗感がある。こうして断たれぬ身軽さへの想いは、確かに必要な物だけが存在できる空間に在る時、満たされよう。私は茶室をそんな風に考える。

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暑中見舞を出す

君子の交わりは水のように淡し、だったか、こっちは君子には程遠い輩ではあるが、さっぱりとした人付き合いをしたいものと考える。今年になってから仕事の合間、合間を見つけては、仕事上で交換した名刺を整理した。一つには電子メールのアドレスを名刺から書き写しておくのが目的だったのだが、ついでにこれまで貯め込んであったのも全部、電子化しよう等と余計なことを考えたために、都合数ヶ月程かかってしまった。

合わせて千数百枚にも及ぶ名刺を一枚づつパソコンに入力しながら、思い出す顔あり、思い出す出来事あり、と内職のように地道な手仕事ながら、つまらないという感じはしなかった。全てを入力し終えて改めて感じたのが、仕事絡みの付き合いは友達付き合いになり難い、ということだ。私自身の人付き合いの悪さがその原因とは言え、千数百人と出会ってその中に誰一人、その後の付き合いがない、というのは我ながら呆れる他ない。

振り返れば私自身、仕事絡みの付き合いに関しては、精々、年賀状を交換する位で、それも仕事の関係が終ればあっと言う間に解消されてしまっていた。一方、よく言われるように学生時代の付き合いは、ずっと続いている。まるで卒業した途端に時間が止まってしまった様にだ。仕事絡みの付き合いについては、確かに私自身の努力がなかったに等しい。反省しています。取り敢えず暑中見舞を出すようにしようと思っている。

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和服に着慣れる

上司だったこともあるHNM氏は、この間亡くなったのだが、家では和服を着て居て、近所の人からは文士と思われていたらしい。痩せぎすな人で、少し首を振って鶴のように歩いていたから、和服がよく似合っていたと思われる。大連工科大学の出で、細かいことには拘泥せず、大口をたたくが立身にはシャイで、大陸浪人とはかくや、と思わせる人であった。

改めて調べたら、私の記憶違いで大連工科大学ではなく、旅順工科大学であろうことがわかった。この大学、明治42年に旅順工科学堂として設立され、大正11年に昇格、大学となったようだ。計画では昭和21年から帝国大学となる筈だったが、もちろん廃校になってしまった。建物もロシア海兵団のものを使っていたというし、学生全員が運動部所属にして全寮制度が取り入れられていたというから、学生生活がインパクトのあるものであったことは間違いない。現在、その敷地は大連理工大として利用されているという。

かの人が学問的にどうであったかは、今となっては確かめる術もない。ただ、ある大きな装置を導入する決断をした人で、決断力の不足だらけの今の世では、惜しむべき人であった。そう思い出して、私も和服に着慣れようと。

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京都の町屋に住む

縮みゆく人間という題名のSF映画を子供時代に観た。調べたら1957年の映画だったから、恐らく私が10歳前後の頃だったろう。モーターボートで沖に出た主人公が放射能を浴びて、その日以来、段々と体が小さくなって行く、という話だ。鼠程度の大きさの時には、猫が襲って来ても奥さんが助けてくれるが、そのうちドールハウスに住んで、スプーンより小さくなった頃には、奥さんに愛人ができて、見捨てられてしまう。救いもなく小さくなり続けて、死んで行くであろう主人公という点が、子供心に強い印象として残っている。

ところでつい先日、ドールハウスならぬ京都の町屋のペーパークラフトがWebにあるのを見つけたので、作ってみた。このペーパークラフトは、ダウンロードしてから印刷して切りぬき、糊で組み上げていくのだが、プリンタ用紙では薄過ぎるし、適当な厚みの紙もなかったので、趣向を変えてOHP用の透明フィルムを使ってみた。半透明な仕上がりが、思いの他良かった。うなぎの寝床のように奥行きがある、奥に坪庭が付いている等が、京の町屋の特徴としてよく知られているが、実際に立体模型を組み立ててみると、あれこれ気付く点が多い。長い土間の使い道がありそうだし、店と内が内玄関でシンボル的に区切られているところだとか、床の間のある奥座敷から坪庭を眺めるようになっているところだとか、竃のある土間からの吹抜けの意外に高さのあって気持ちのよさそうな処などがよろしい。

全体の造りとしては、総二階なのだが、通りに面した部分が中二階となっている。表の通りから見て通行人に圧迫感を与えない、かつ通りの日当たりを良くするためとひいき目で見れば、京の人の心配りは大したものと思われる。というわけで、京の心を理解するためには、京の町屋に住みたい。勿論、ペーパークラフトの中にではないぞ。

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山の上ホテルで2泊

アスキー社の西和彦氏がホテル住いをしているという話を聞いたことがある。ホテル住いをしている著名人というのは何人か聞いた覚えがあるが、この西氏が一番若い方ではないのか。ホテル住いをする利点として挙げられるのは、掃除洗濯を始め、全ての家事をする必要がない、電話一つで用事が足せる、顔を合わせると丁寧な挨拶をしてくれる、等だろうか。

謂わば自分専用ではないが、雇ったり馘首にしたりの面倒を一切考える必要のない使用人の使えるところだろう。こう考えるとホテルというのは、沢山の召使に囲まれた貴族の暮らしをプチブルジョワのために実現する装置と考えることができる。だから、ベッドに居ながら朝飯の食べられるルームサービスや、好みの酒を覚えていてくるバーテンのいるバー、雑用を頼めるコンシェルジュ、ドアマンにベルボーイ、附属の理容室等が必須なのだと言える。

だから、使用人のいないセルフサービスの宿屋をホテルと呼ぶのはお烏滸がましいし、ビジネスとホテルをくっつけるなんぞはもってのほかである。とは言ってみたものの、掃除も洗濯までするご主人様としては、ホテルに住まって使用人を顎で使うのは考えるだけでも尻がむずむずする。居心地の良いと言われる駿河台山の上ホテルも二三日が限度か。

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沖縄で島唄と三線に浸る

自慢じゃないが種子島より南に行ったことがない。昔々、学生最後の年になって夏山に出かけるのも億劫になって、南を目指すことにした。何のあてもなかったのだが、取り合えず手持ちの金を懐に入れ、寝袋をサブザックに詰め込めばそれで準備完了だったので、あまり考えもせず列車に乗った。適当に降りては駅に泊まる、というのを繰り返しながら、日本海沿いを南下し、京都に着いた。京都では京都大学の吉田寮に投宿し、近くの銭湯に行って、京都言葉を聞きながら垢を落とした覚えがある。もとより社寺仏閣にそれ程興味のあるわけもなく、二三日で出立して神戸へ着いた。

ここで、手持ちの金がなくなったので、今度は先輩の寮に転がり込んだ。そのころは皆,鷹揚なのか、無礼で世間知らずの男でも友達というだけで泊めてくれたのだ。さて神戸では、新聞でアルバイト募集を探して、港の原綿の取り扱い埠頭で仕事をした。輸入された原綿の大きなブロックを一度ほぐして、大きなゴミをざっと取り除き、またロープで締め上げる、というのが仕事だった。夏の暑い盛りだったが、別にきつい仕事とも思わず、一週間程働いただろうか。毎晩飲んだせいか、思ったより金は貯まらなかったものの、旅を続けた。

九州に入って鹿児島までたどり着き、沖縄まで行こうか迷ったことを覚えている。ここまでの道程、色々なことがあった筈だが、記憶にない。おそらく人間については、何も分らない、感ずることの鈍い自分がいたのだろう。近頃になってまた、沖縄に行ってみたいと思う。端唄の師匠がある時、クリスマスソングを唄った。沖縄音階のきよしこの夜は、確かに、沖縄音楽が大陸と繋がっていることを私に示した。沖縄奏法が洗練されているとは思われない。しかし確かに源流がそこにあると。

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服装を考える

ファッションは最も関心の薄いジャンルだったが、体の動きの衰えを自覚するにつれ、老人がどのような服装をしているのかに興味を持つようになった。あらかじめ言っておくが、老人の範囲に女性は含めない。後々面倒なことになるからだ。

さて、駅や電車の中、あるいは街の雑踏の中、老人の姿を見掛けたら、頭の天辺から爪先まで、失礼のない範囲でじろじろと観ることにしている。街中で出会うような範囲では、老人の服装に余り大きな違いはないように見える。

ホームレスの人は紺色あるいは黒を基調にしている場合が多い。上着はブルゾンが多数だが背広族もたまにいる。ネクタイを締めている人を見たこともある。特徴的なのは、厚着をしていることと、髪や髭が伸びていて、かつ手入れされていないことだ。

次に定年をとうに過ぎたと思われる老人に、ネクタイを絞めたサラリーマン風の服装をしている人がいる。サラリーマンの色と云える濃紺の場合が多い。老人となると肩周りの肉が落ちるので、背広の肩から胸にかけてが平に削げたようになってしまう。殊に背が曲ってきている場合には、これが強調されてしまう。また太股が細くなるので、腰から下のボリューム感が失われる。どちらも老人の背広姿を一層貧弱にする結果となっている。

割合に多いのはジャケットにシャツの組合わせだ。白っぽい茶色等明るい色をジャケットにもズボンにも選んでいるようだ。ネクタイは締めていない場合が多いが、下に無地のシャツを着ているのは逆に少なくて、チェックや柄物であることが多い。前ボタンを中心に左右非対象の色柄を選んでいる老人を見掛けたが、ジャケットによく合っているように思えた。靴は黒くない革靴が良いように思える。これがスニーカーになると一気におかしく見えるのは何故だろうか。

もう少し、くだけた感じの着こなしをしている老人もいる。長めのアンコンのジャケットにゆったりめのズボンで茶色いツートーンの革靴などを履いている。野球帽のようなつばの付いた帽子を被っている場合もある。

これがどこかのチームマークの入った本当の野球帽になった老人は、場外馬券売場や競輪場もよりの駅でよく見掛ける。紺色あるいは黒を基調にしている場合が多く、上着はブルゾンが多数派だが、スニーカーを履いている割合が高いのが特徴だ。

私が老人になった場合には、以上のなかからどれを選ぶか、を決めなくてはいけないが、少なくとも汚いからと石をぶつけられるのは嫌なので、今から試行錯誤してみようと思っている。

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アトリエを用意する

やってみたい仕事の一つに鉄製の家具を造ってみたい、と云うのを挙げた。ただ、鉄を扱うとなると炉も要るし、溶接設備も玄関先というわけにもいかないだろうから、どうしても土間のある場所、アトリエだな、これが欲しい。他にも木工・金工作業にもそれなりの場所が欲しい。アトリエ(atelier)等と云えば如何にも芸術家の仕事場のようだが、本当のところ職人の工房だ。もともと、アートの語源がラテン語のアルスであり、これはギリシア語のテクネを古代ローマ人が翻訳したものだから、両者が親戚どころか同一人物だったと言える。取り敢えずどんな具合のアトリエにするのがよいだろうか。

まず床で、先に土間と言ったが、佐和土やコンクリートは冬に底冷えがするのが辛いし、作業中に、工具や工作物を落したりすると壊れる畏れがある。煉瓦も湿気を貯めるのでよくない。木煉瓦の床としたい。木材の長方形のブロックの長辺を鉛直方向にびっしりと敷き詰めたものだ。これとは別に、金床を据え付けるために直径50 cm長さ1.5 m程の松の丸太を用意してこれを50 cm程地面に埋め込む。作業台も必要だ。できれば天板の厚さに5 cmは欲しい。勿論木製であること。なぜあちこちに木を使うのかというと、木というのは弾力性があるためだ。なぜ弾力性が必要かと言えば作業がしやすいからだ。例えばハンマーを使って鉄を叩き延ばすことを考える。当然、重量のある金床の上で叩くのだが、この金床が木の丸太の上にあるのか、地面にうたれたコンクリートの上にあるかの違いで、振り上げるハンマーを持つ手にくる衝撃が随分と違う。コンクリートの上の金床では、衝撃が強すぎて最後までハンマーを握りしめているのはつらいのだ。だから、ハンマーで叩いた最後の瞬間にハンマーの打面をうまくコントロールできず、作業の精度が下がってしまう。

岩に打ち込む楔で、ハーケンと呼ばれるものがあるが、やはりこれを打ち込むときには、ハンマー遣いに木に釘を打つときとの違いが出てくる。ハーケンから戻ってくる衝撃が激しいので、ハンマーを軽く握ってその反力を逃がしながら少しずつ打ち込む。うまくハーケンが利いていると、登山家が気取って言うようにハーケンが唄って、軽やかな金属の音程がだんだん高くなって、ハーケンが唄い終わった時、丁度岩にしっかりと打ち込まれたことになる。

話をアトリエに戻せば、この土間の広さなんだが八畳間位は欲しい。これに隣接して、一寸休んだり、来客を上げたり汚れを嫌う作業のために、履物を脱いで上がる板の間に六畳程あるとよいだろう。土間と板の間の間に、流しも必要でバーナーも付いていなくてはならない。あとは便所と汗を流す為のシャワーがあれば申し分なしである。明かり取りのための窓は光のやわらかい北向きがよかろう。天窓があると気分の上からも最高だ。こんなことばっかりをしていると、自分勝手だと言われるかも知れないが、そうではありません。朝晩はきちんと家に戻って家族団欒を大切に致しましょう。

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カレンダーを作って配る

江戸時代は太陰暦だった所為で月の大小が毎年変わっていたのだという。現代からすれば不便な様に思えるが、日付けがそのまま月の満ち欠けを表しているので、その日の夜に月明かりがあるかどうかが直ぐに分かって夜遊びの約束に便利だったという意見もある。

月夜のよさなんてのは、近頃ではなかなか味わえないし、月影、星影というような言葉に至っては若者は殆ど知らないと思われる。かくいう私も星影を見た覚えはない。だが月影なら懐かしい。冬山のよく澄んだ月の光の中に見る、山稜に続く青白く長い雪の斜面は、明日も知れぬ冬山の不安さゆえかぞっとするような美しさだったことを覚えている。

ところで江戸時代の月の大小の話なんだが、粋人はこの大小を刷り物にして知人に配ったのだと云う。凝った人はただの刷り物では飽き足らなくて、大小を判じ物にしたり、豪華な錦絵にしたのだと云う。近頃も自前の絵や写真でカレンダーを印刷して知人に配るのが流行(はやり)とまでは行かないが盛んになりつつあるらしい。それなら私も、仲間入りして、絵や写真には自信がないが、少しは楽しんでもらえるようなカレンダーを作って、知人に配りたいと思っているところだ。

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浅草に住う

花の雲鐘は上野か浅草か、という芭蕉の句があるが、江戸で発達した数多くの端唄や長唄などには、江戸の地名が散り嵌められている。作者の土地に対する愛着が感じられて心が緩む(ゆるむ)。なかでも浅草は特別な地位を与えられていて、お上(おかみ)の上野、観音様の浅草との間の違いを意識して暮らす江戸の人の気持ちが判る気がする。

気がするだけでは気が済まないので、もっと理解したい。そのためには浅草に住むのが肝要と考えた。と、これだけではどこかで聞いたような建前に過ぎるし目的が曖昧だと兄(けい)に指摘されるやも知れぬ。全体、もっと知りたいと云うのは、物事が好きになったからで、何故浅草が好きになったかを言えば、第一にその歴史の長さだろう。

漁師の兄弟が墨田川(昔通りに大川と呼んだ方が気持ちが良いように思う)から観音様を引き揚げて、土地の有力者が尊像を見てたちまち頭を丸めて自宅を寺に改装して以来、千三百有余年。単に時間の長さだけでない。爾来、一日も休むことなく本尊に経が上げられ続けているところが凄い。今も朝昼夕と一日三回のお勤めが行なわれている。夕方、と言っても午後二時なのだが本堂に行けば坊さんの読経を聞くことができる。浅草寺のきっかけをつくった三人が三社として神様になってしまったというのも凄い。

以上は観念論的な話なんだが、実際には、仲見世があって浅草芸者がいるから浅草が好きだ。汚い恰好をした自分が近付くのも憚られるような艶やか(あでやか)な振袖さんが連れ立って歩いていたり、正体不明の西洋人が米国国旗の模様のでかでかと入った浴衣を着て五重の塔通りをいきなり横切ったりと、思わぬものに出会す(でくわす)のも魅力だ。

この間はうめ吉が普段通りに日本髪に着物の姿で雷門前に人待ちしているのを見掛けた。うめ吉というのは高座の音曲師で只今売り出し中だ。可愛らしい声を出すので一声聞いただけで気に入ってその日に後援会の会員になった。こういう人と歴史の濃密な所は、死ぬまでとは言わないが一度は住んでみたい。住む場所なんだが、理想的には小さな貸家、場所は観音様裏、三業会館あたりがベストだが、そう都合よくは行くまい。観音様から歩いて十分の範囲を探す積もりだ。

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