六十年代の終わりから七十年代の初めというのが、一番よく喫茶店に通っていた頃で、♪君とよくこの店に来たものさ、なる歌が流行った頃だったような気がする。もう三十年以上昔のことだ。で、その頃の馴染みの喫茶店なんだが、間口の一間もないような、おまけに入り口の間近に電柱が建っているものだから余計に狭く感じる店だった。五十がらみの親父がマスターだった。
若い時分だから年輩者の年なんかには興味がない、六十に手が届いていたかも知れない。この親父、小さな食料品問屋を経営していて、あまり忙しそうには見えなかったが、暇で困っている風でもなかった。学生街の喫茶店亭主は、客に説教する程深入りするわけでなく、無視するわけでもなく、程好いさらりとした関係の客と亭主なのである。
いい年となった私は、この親父のように、とびきりうまいわけではないが、さりとて不味いわけでもないコーヒーを出して、無愛想ではないが、愛想のよいわけでもない、喫茶店をやってみたいものだと思っている。
悠揚せまらざる物腰でひいたばかりのコーヒー粉をネルのフィルタに入れ、沸いたばかりの湯の入ったポットを持ち上げて、ゆっくりとかけ回す親父の様子は、確かに心に残っている。もっとも、あの空気みたいだった喫茶店の親父なんだが、若い女の客には色目を使っていたのじゃないか、という話もある。
top糊のきいたワイシャツに黒い蝶ネクタイを付け、長めの黒い革の前掛けが、後ろから見ると腰骨のあたりで紐を結んだギャルソンは、その年齢を問わず恰好が佳い。前掛けのない方が多いようだが、している方が料理人との間の距離が近いようなのが好ましい。一度はやってみたい職業だ。
なぜギャルソンかと言うと、客との間の微妙な間隔があると思うからだ。お客は金を運んでくるから神様ではない。顔見知りになれば名前で呼びかけることもあるだろうが友達ではない。店の料理はこちらが一番知っているから客をあしらうことができるが見下すことはできない。
ギャルソンになって何が楽しいかと想像すれば、まずどんな客が来るのかが楽しみだ。初なアベックだったらあれこれと世話をやいて、店では自信作だが儲からない一品を勧めよう。同伴出勤のカップルには、ボリュームがなくてもおいしい一品にうんと高いワインを勧めよう。ヤクザとその情婦には、体に悪いぐらいに濃厚な料理とそれに全く合わないワインをおどおどしながら勧めよう。舌の肥えたおばさんグループにはなす術がない。ひたすらぺこぺことサービスするしかない。
客からチップをもらう楽しみもある。秘かに気に入った客からもらったチップで、帰りに一杯やるのはさぞ楽しかろう。
topもう微かな記憶となってしまっているのだが生家の前の川を挟んで反対側で熊が獲れたというのを聞いて近所のなじみと一緒に恐々(こわごわ)見に行ったのを覚えている。鳥居のような形に棒丸太が組んであって、仕留められた真っ黒な熊が立ち上がっている恰好で横木に架けられていた。今考えれば町中で熊を獲るわけはないので、近くの山の中から運んで来たものと思われる。子供心にもそれほど恐ろしかった覚えはないので割合に小さな熊だったのだろう。
学生の頃にはある年の春山を下山してきた麓で、熊撃ちのグループに出会った事がある。最初は大砲のような音がして後で聞いたらライフルの試し撃ちをしていたのだと言う。山から下りてきて春先の雨に雨具もないまま濡れている我々を見て、一休みしていけと小屋に入れてくれたのだった。床には薬莢が散らばっていて、長さは八糎もあったろうか、弾がついていたら十糎もあるような巨大な弾丸で、いくら熊であってもこれではひとたまりもあるまいと、熊が気の毒になった程だった。体が温ったまると湯呑みに注いでくれた焼酎を飲みながら、熊を追いかける話も聞いた。犬を先頭に冬穴から出た熊を飲まず食わずで追いかけて仕留めるのだと言う。仕留めたら直ぐにその血を飲んで、渇きに渇いた喉を癒すのだと。
さて、近頃はフランス料理もそのレストランも身近になって、秋口になったらジビエを食べたいだの、エゾシカのローストを食べさせる店があるだのとグルメ雑誌に喧しい。一方北海道発のニュースには、近年エゾシカが増えて農作物や植林した若木への食害に困っている、とある。それでは鹿撃ちをして都会のレストランに鹿肉を卸したら、自然保護にもなり、収入も得られて一挙両得だろうと。
ここで何故、鹿を獲ったら自然保護になるのかを説明しておく必要があろう。鹿のような草食動物は本来、肉食動物と共存するように進化してきて、何らかの原因で肉食動物がいなくなると急激に増える。草食動物が増え過ぎる結果、今度は植物が食い尽くされて、環境が荒廃し草食動物の全滅を招くことが知られている。北海道では明治初期まで居たと言われているオオカミが人間により絶滅させられてしまった。こんな訳で、生態系を守るためには、オオカミの代わりに人間がエゾシカを間引きする必要があるのだ。
鹿撃ちの話なんだが、鹿を追いかけるには固い残雪が残っていて、その上を自由に歩ける春先が都合が良い。だが鹿の栄養状態から言えばもちろん最悪だ。鹿の肉は鹿の栄養状態から見て秋の終わり頃に一番充実しているのは明らかで、鹿撃ちの点からも樹々が落葉してある程度見通しのよくなったこの時期しかない。問題は獲った鹿の肉をどうしたら素早く出荷できるかだ。林道から離れ過ぎると持ち帰るまでが大変だ。仕留めた場所で血抜き・解体し、肉を切り取ってから臭いが後々まで残らないように処理することまで考えると、かなりポイントを選んでおいて、鹿がやってくるのを山の中でじっと待つ、ということになると思われる。
狩猟ライセンスも割合簡単に取れることがわかったので、最初はどこかの猟友会に入って基本的なことを修得しようと思ったのだが、思わぬ横槍が入った。家人の、動物を殺すのはよくないという意見だ。楽しみで動物を撃ち殺すゲームハンティングのような残酷なものではない、と言ったが無理押しするような事でもないので、時期を待つこととした。
topすぐに自給自足とまではいかないだろうが、用心のために農地を確保しておいて、いざという時には、喰いぶちぐらいは確保して置きたい。土間のある家を用意したり、馬を飼う、馬車を買うなどは農業を始めないことには、またある程度広い地所のないことには、話が始まらない。場所としては静岡辺りの温かい土地が望ましいものの、私の生まれからいって雪の少しは積もるのが相応しかろう。
農業といってもいきなり稲作は難しいと思われる。手間のかからない、そば、ヒエ、アワ何ぞの雑穀から始めて、虫の心配をしなけりゃならない豆や野菜に手を拡げたい。三四年して土地や近所となじみになってから米を作り始めることにしよう。プロなら一反七俵は収穫するだろうが、ここは五俵、三百瓩位を目指したい。一人一日五百瓦の米を食べるとして、一年で百五十瓩、二人が喰える勘定だ。
topこのリストは実現したい事を具体的に、描くというのがコンセプトなんだが、退職後の仕事として考えている項目も幾つかある。そういう仕事の受け皿としては、会社組織になっている方が便利だろう。以前は会社を作るのに大仰な資金が必要だったが、近頃は大分緩和された。らしい。業務内容がそんなに拡大する訳もないので、有限会社ぐらいがよかろう。
で、登録するためには会社の名前が必要だ。名前には凝りたい。何と言っても自分で考える分には、費用がかからないからだ。まず、どんな言葉や漢字がよいか、連想してみる。計算機用のプログラムも仕事の範囲に入れたい。そうすると計算機プログラムは、日本語で算譜、アルゴリズムは算法、小さな商店だが文化に関わる商売をするので、××堂。主人が抹香くさいことを言うことがあるので三宝。取り混ぜて算宝堂とした。
top♪サイン・コサイン何になる~という唄があったように、算数は嫌いだ、数学と聞いただけで身震いする、という人は多い。だが不思議なことに、足し算引き算は苦手という人はいるが、金勘定ができない、という人は余り聞かない。子供が最初に覚えるのが金額の多少だし、惚けた老人の一番の心配も金だ。
算数は文字通り、数を算えるのだから金勘定と同じなのだが、大抵の場合、算数、が数学に変わる辺りでこの科目が嫌いになるようだ。確かに中学校、高校の教科書を眺めてみると、将来数学を駆使する専門家になる学生にとって必要な基礎知識を提供するための教科書として構成されていることが分かる。だから数学をあまり必要としない職業に就くことになる大部分の学生にとって、数学の授業や試験が苦痛以外の何者でもない、というのは十分に理解できる。
だが人生という名のサイコロを振り続けていて、ピンの目がもう十回も出ていないから、この次こそ出る筈だ、というのは間違いであって、 十回も出ていないんじゃ此の先も余り見込みがない、という事の方が正しい、というのは数学を通じて学んでよいと思われるし、政府の発表する世帯平均の貯蓄額が、我が家より多いのは、我が家が貧乏なのではなくて、金持ちの預金が世帯全部の貯蓄額の大部分を占めているのだと理解するにも数学が必要だ。こんな事柄を近所のおばさんに伝授する算数塾を開いてみたい。
top高校生くらいまでは、戦後教育の成果か、過剰とも思える装飾や平面的に詰め込まれたもの、猥雑さなんてものは、遅れていて日本的で変革すべき対象だ、等と浅はかにも考えていたが、間もなく近代的なシンプルさとか西欧的モダンさ、なんてものはその裏側に本来あるべき姿が隠され貶められているだけだということが分った。
ごみごみした路地や、うじうじした人間関係、泥だらけの地面なんかがトータルな姿で、それまでに自分が憧れていたものは単にバックヤードに汚れ物を押し込んだ結果、奇麗に見えていただけだったのだ。日本の原風景は、入ってくるものと出ていくものが全て見えて、それを納得の上、暮らしていく、という覚悟の見えるところが好ましい。浅草寺とその周辺は、そういう日本人の覚悟が千年も続いていて、素晴らしい。
好きな街だから、しじゅう出入りしていたい。ボランティアガイドなら、頻繁に行く理由になるだろう、というのがこの話の元々の理屈だ。調べたら台東区ボランティアガイドという組織があった。40人程の団体らしい。その他にもSGG(Systematized good-will guide)なる組織の都内グループもあって、こちらは英語でガイドしているらしい。ところでボランティアグループというのも、一種独特の雰囲気なんだろうと思われる。以前、老後の付き合いの練習を考えて、中学校のPTAに、参加したことがある。PTA会長なんてのはまた、組織的な機能が入るので違うのだろうが、男親でヒラのPTA役員というのは、基本的に母親連中がベースだから、何となく付き合いに違和感があるような、ないような微妙な感触だった。たぶん、おばさん連はこんな風にして、微妙な距離感と人間関係の調整に長けていくのだろうと思われた。
topやってみたい仕事ではなくて、やらざるを得ない仕事かも知れないという事で、この文の趣旨に反するのだが、現実的に考えれば定年退職後は、この仕事の可能性が一番高いかも知れない。
年を取ると眠りも浅くなって、そのうちに起きているのか寝ているのか分からなくなるだろうが、睡眠不足には強くなるだろから、働き口があれば暫くは続けられよう。やってみたいという希望を聞いてもらえるとして、どういう夜警がよいだろうか。
港の倉庫番、空港の夜警なんてのは、長い夜が明けて朝日を地平線近くに見ることができて気分がよかろう。雑居ビルの夜警なら白々しく明けた都会の朝に、烏と一緒に化粧の剥げかかった朝帰りの若い女を眺めるのも好かろう。
top三味線に興味を持ったのが四十六の時で、家族に馬鹿にされながら、近所の小唄の先生に習い始めた。しばらく田舎の旦那風情で小唄をうなっていたが、先生が養老院に入って地元から離れてしまったので、これも近くの長唄の先生に習い始めたのが四十九。そのうち邦楽とはどのようなものがあるかの区別がつくようになった頃、現代三味線の会と称したそれぞれの分野の第一人者が順に演奏する会に通うようになった。ここで今の師匠の演奏に出会って、一流とは如何なるものかが判った。
相手にしてくれる筈がないと、またも家族に馬鹿にされながらも、入門願いの電話をして運よく門下となったのが五十の歳。家元に教わって初めて邦楽らしい声の出るようになって五十一。撥を持ってやっと三味線らしい音が出せるようになったのが五十三。さてここからは先の話なんだが、得意の唄を持つのが五十四で、家元の演奏の地方の末席に並ぶのが五十六、家元の高弟の地方や代理ができるようになるのが五十八。そうなると名前をもらっていないことには世間付き合いが済まない。五十八、九が名取の取り頃か。
名取になっても、弟子を集めてよい金にするのは無理だろう。例えば弟子の数、五六人も集めるのが精一杯だろうし、それも月二回教えるとして一人六千円が相場だろう。一回三十分として月に六時間、都合三万円程度にしかならない。逆に名取になっているだけで月に会費その他で五万は必要だろうし、時々の御祝儀も入り用になろう。均して月に七、八万円がところか。この時分はまだ年金なぞは出ないだろうから、別の仕事をしながら家元に貢がなきゃいけない。こうして六年間、名取でお付き合いしているうちに、あっという間に六十五か。そろそろ年金が出るようになって、体の自由も利かなくなる頃だな。
ここからは三味線を続けるにしても、先のことだから色々なケースが考えられる。望ましい方から三つ程度挙げてみれば、(1)体が利いて小遣い程度の収入のある場合は、七十まで家元に付き合う、(2)体が利いても収入のない場合は、三味線を使ったボランティア、(3)体も利かず収入もない場合は、三味線を独り楽しむ。これで七十。だがこの歳になっても邦楽を始めて僅か二十四年、確かに現在の家元の音楽人生の半分に満たない。しかしまあ、七十の歳までうまく生きてまだ三味線が持つことができれば、御の字か。
top修理というのは作るというのとは別の楽しみがある。まず何が悪いのか何処が壊れているのかを探し出す楽しみ、また工業製品であればそれを分解する楽しみがあり破壊慾を満たす。次に、壊れている所が見つかったらどんな風に直すかの戦略を立てる楽しみ。たかが家庭用品を直すのに戦略とは大げさな、と言われそうだが放っておいてほしい。
例えば壊れた家電をどう直すかと言えば、これで結構選択肢がある。まず壊れたまま使わない、という選択。どういうことかと言えば、ある時、家の冷蔵庫が冷えなくなってしまった。ドアの周りが熱くなっていた。本体の裏に回路図が貼り付けてあって、これから推測するに霜取りスイッチが入りっぱなしになっているようなので、スイッチを切り離した。古い冷蔵庫はまた冷えるようになった。またガス台の火が着かなくなってしまった。これも開けると中に回路図が入っていて、空焚き防止用の温度センサーが壊れているように思われる。温度センサーの代わりに固定抵抗を入れてやったら、また着火できるようになった。どちらも付加的な機能はなくなってしまったが、使えることは使えるようになった例だ。
別の対応としては、普通に部品を取り替えるという選択肢がある。特にプラスチック部品が破損している場合には、接着剤だけでは元の強度を回復できないので、殆どといってよい程、修理は不可能となる。メーカーに問い合わせれば結構部品をもっているので取り替えることができる。洗濯機の洗濯時間設定のつまみや自転車はこうして修理した。つけ加えるならば自転車部品はよく標準化されているのでどのメーカの部品でも共用できる。だから自転車の場合には新品部品でなくとも他から持ってきたもので十分なことがある。修理も考慮してある機械として非常に優れているのに、現在では消耗品と思われているところが情けない。
最後の選択肢が、壊れた部分を作ってしまう、という手で、手間暇と金がかかるので、修理という目的からは離れてしまうが一番面白いとも言える。大昔のことだったが捨てられていたポータブルテレビ(今はこんな言葉は死語になっているのだが、室内で持ち運びできる小型テレビということだ。もちろんまだ白黒が全盛の時代)を拾ってきて、回路図も本屋で買ってきて、故障トランジスタをつきとめ、適当なトランジスタを見繕い、ロッドアンテナの基部が折れ曲がっていたのを真鍮で作り直して、ついに使えるようにしたことがある。
今はトランジスタなんてものはなくなってIC化されてしまったのだが、それなりの電子設備を準備をしておけば、今でも同じようなことはできよう。私の住んでいる市内には、おもちゃ病院なるボランティアグループがあるようなので、ここに入ることから始めようと考えている。
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