小学校に忍者がやって来た時には驚いた。手提鞄ほどの大きな丸石を手刀で打ち砕いたり、先生を四人ばかり壇上に呼び上げて、二人には椅子に座った自分の背中を押えさせ、残る二人に鉄パイプの両端を持たせて、咽首(のどくび)でこのパイプを曲げてしまったり、壇上に上げた生徒に催眠術をかけて頭にあてた手を離せなくさせたり、おまけに頭から離れなくなった証拠に、その手を持ってぐるぐると振り回したり、ついでに戻る生徒にエイッと気合いをかけて途中で動けなくしたりと。
多分、子供の私は口をあんぐりと開けて、この驚異を見詰めていたのだろう。さらに驚異は続いて、忍者は黒板一杯に数字を書かせ、振り返って十秒ほどこれを見詰めた後、また黒板に背を向けてすらすらと数字を読み上げた。忍者は言う。敵の城の中を写真機のように、頭の中に収めるのだと。
目で見た風景を頭にありありと思い浮かべる、というのは私にとって難しい。学生の頃には、頭の中の風景に色がついていない事に気付いて、愕然としたことがある。ところどころボケた写真のように風景を思い浮かべることができるようになったのは、それから大分年月が過ぎてからのように思う。できるなら、桜の大木に花の咲いた風景を、写真機のように眼に焼付けたい、あの不思議な忍者のように。
topパリはローマ人からパリージェと田舎くさい名で呼ばれていたらしいが、ニューヨークが物騒かつアングロサクソン以外には、剣呑(けんのん)な場所となってからは、花の都の名前がますます相応しくなっているような気がする。好運なことにパリには三回行った事がある。残念な事に仕事だったから、観光シーズンから外れた暑い時か寒い時かのどちらかだったのだけれど。初めての海外だったものだから、パリはお上りさんを舞い上がらせるのに、魅力十分で、帰りの飛行機に乗り遅れる位だったのだ。
その時分は自分も若かったものだから、一人でカフェーやレストランにも入ったことがない。おぼつかない同士か、これもお上りのアメリカ人と親しく話を交わした程だった。この時に考え着いたのが私の旅の格言で、日本でした事がない事は外国でもするな、だ。だが三回のパリでは、毎回ルーブルに行った。ルーブルの休館の時にはオルセーに行った。確かに通って良かった。人里離れた所に住んでいては、女性を見ても美人かどうか分からないのと同じで、良い絵画を沢山見なくては、傑作か駄作かの区別が付かないのだ。アメリカはデンバー市美術館に入ったことがある。ヨーロッパスタイルの肖像画に始まり、駄作で埋め尽くされていて、もう十分だと足早に出ようとした時、部屋の反対側に美しい絵を見つけた。近寄ってみたらクニヨシだった。忘れ難い出来事だ。
さて、今ではレストランでもカフェーでも、東京でもパリでも、何の気遅れもなく自然に入ることができる。だがパリのレストランは二人以上じゃないと如何にも面白くない。女房も連れて一週間も滞在すれば、新しい旅行鞄には、パリの匂いが染み着くに違いない。
topむやみに歩き回った結果、腰を悪くしたのだ、と女房は云うが、そうではない、と言いたい。まず、闇雲(やみくも)に歩き回ったのではなくて、路と足の関わりを今一度求めたのだ。学生の時代の山歩きというのは、もっと自然に密着していた。物理的にもだ。足の裏で路の土、石、苔なんてものを感じながら歩いていた。
だから私が好み、仲間も好んでいたのは地下足袋(ちかたび)に草鞋(わらじ)を取り付けた沢登りだったし、沢を辿らない場合には、スニーカーか長靴だったのだ。足の裏の部分が薄いから水の中の丸い石に生えた苔の柔らかさ、が足の裏に感覚として残っている。乗っても動かないと見当をつけた、一抱え程の石の表面の丸みや窪み、それを踏む前に品定めをし、そして踏んで又は飛び乗ってその感触を確かめたのだった。そうして一足づつ、石に足の裏を載せていくのが、沢登りだったのだ。
尾根に上がれば、這松(はいまつ)の幹が縦横に横たわっていて、足首を開いたり閉じたりしながら、幹に縦に足を置くのか、横に踏み付けるのか、松ヤニの感触を感じながら飛び渡るのが、尾根歩きだった。長靴を履いた秋の山道も記憶に残る。楓の落ち葉が路に積もって雨水を抱えていた。踏みつけると落ち葉の層からチュッといって流れ出る水の音や、あたりに漂う楓の甘い匂い。
それからずっと歩き続けて、足裏の官能は微かに記憶に残るだけだけれども、今度は人々の住む街を歩みたい。気になる店の暖簾を潜って、気軽に声をかけるというのは、この年になってようやく覚えた人付き合いの術だ。あの街、この宿場に住む人々に声をかけて、そして京都にまで旅したい。ところで腰痛は怒りだ、というがつらつら振り返るとそんな気がしないでもない。
top根が薄情な所為か、戻ってみたいという場所が案外に少ない。啄木は「かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川」と詠んだが、私の生まれ育った家には山も迫り、川も目の前を流れているのだが、このように懐かしい気持ちは、私にはない。もっと大きくなって学生時分に通った谷間の小屋は、懐かしいというより記憶に強く留まっている。
冬の朝、街を出て、昼過ぎには余裕を持って到着する筈のこの小屋に、深い雪と吹雪のために小屋を見下ろす位置にある山稜に、ビバークせざるを得なかった時があった。次の朝、晴れ間が出て、見下ろす山小屋は厚い雪を屋根に冠り、煤けた小屋のまわりは誰のトレースもない真っ白な雪が囲んでいた。一刻も早く降りたいと思った。あそこまで降りれば、体を延ばして濡れた服を暖かいストーブで乾かすことができると。夏は強い陽射しの中、首から下げたタオルで汗をふきふき登ってきて、笹薮の小道を右に曲がったところが小屋だ。曲がる前から、薪を燃やした匂いと小便の混じった匂いがやってきて、到着した、涼しい小屋と仲間と冷たい水がもう直ぐだ、と最初に考えた。
だが、故郷も谷の山小屋も遠くに離れ、既に私の戻るべき場所ではない。だが今あこがれる場所はある。ある時職場の同僚に紹介してもらったのが縁で、実はその同僚も別の人に紹介されたのだが、京都の定宿にしている旅館がある。石畳の小路の途中にあって、以前はお茶屋をしていたこともある、と云う。旅館というより宿屋なのだが、便所の小窓から由緒ある寺のお庭が見えたり、下駄を借りて風呂屋に向かい、帰りに一杯ができる所が近場にあって、しっくりと私に馴染む場所なのだ。
ここに真夏の時分に泊まっていたある時だった。市内で開かれていた国際会合から戻ってきて、暑い盛りの夕方だったのだが、打ち水されたこの小路に足を踏み入れた途端に、ああ帰ってきた、という気分になったのは、自分の家でもないのに、初めての感覚に我ながら驚いた。だが、単純にミーハー気分の所為(せい)ということも十分考えられるので、一体、なぜ自分はそう思うのか、一ヶ月位は逗留して考えてみたい。一泊五千円にしてくれるだろうから三十日間で十五万円、飲み代を考えて三十万あればよかろう。
topP.メールがかの「贅沢の探求」中で葉巻はキューバの葉巻工場の若い女性の太股の上で巻かれる、たとえ機械で作られているとしても想像は自由だ、と書いたが、本当はどうか。別の筋の話によると、太股に載せて葉の色から品質の善し悪しを見分けるのだという。女性は肌の色の変化から赤ん坊の具合を確かめることのできるよう、色の違いを見分ける能力が男性より優れているのだというが、話のあやしさはますます高い。
実際のところはこの目で確かめる必要がある。それにキューバはカストロの生きているうちに行ってみたい。カストロが死んでしまえば、あっと言う間に米国資本が入ってきて貧乏くさいがのんびりした空気がなくなってしまうと思われるからだ。
ところでキューバの旅行記を覗いてみると、キューバを訪ねるにはサルサも踊れた方が楽しいなんてことが書いてある。で、サルサが話題となっているページを調べると、セクシーなとか、外人好きの、ダンス教室では、男女の仲に、なんて臭い話が満載で、これは立ち入らない方がよかろうと直ちに判った。やはりここは葉巻きとラムの限る、ということでラムの飲み方の話となる。
ラムと言えば菓子に使うくらいしか思い付かない。葉巻きの縁にちょいと付けるなんてのも聞いたことがあるが葉巻本来の香りを楽しむ上で、これは明らかに邪道だ。他にラムと言えば暑いさかりのカクテル、モヒートというものがある、らしいというだけで、これで記憶の引き出しがからっぽとなった。じゃ後は何にも知らない状態でキューバに行って、海岸の椅子に座って右手に葉巻きをはさんで左手にはラムというのをやってみたら何かが感じられるのかも知れない。
だがいつも計画だてて仕事をしてきたサラリーマンだから調べておかないと不安だ。取り合えずバーに行ってモヒートについて蘊蓄を聞いて来るとするか。 top
雀は近場を飛び回っているだけかと思っていたら、鳥の大好きな研究者がいて、その観察によれば、雀にだって百キロ米程度の行動範囲を持つ個体が居るという。その飛翔能力を以って、頑張れば、佐渡に渡るぐらいの事はできるのだと。人間は飛ばなくとも海を渡れるから、佐渡に行ってみたい。大分以前に一度行ったことがあるが落ち着いた土地であるところが気にいった。その時は夏だったので、今度は冬に訪れてみたいと思っている。
ところで、鳥の能力は素晴らしいものがある。モンスーン前の晴れ間を縫ってインドからチベットに渡るナベ鶴の群がエベレストのサウスコルを突っ切って飛ぶ話だとか、極域から極域へと渡るキョクアジサシなぞは有名な所だ。
近場の話では、私が風呂屋から戻る頃によく見かけるのだが、夜中の十二時も近いのに二三羽の烏が遠くから帰って来るのに出会う。なぜ遠くから来たかと推定できるかと言えば、まずかなり高いところを飛んでいること。近所からやって来たのなら、もっと低い所を飛ぶだろう。夜中からどこかに出掛けるというのも考え難いので、帰って来たのだと推定できる。昼間の烏は大体単独で行動しているから、二三羽連れ立って飛んでいるというのはエサ場からの帰りだろう。私の住んでいる狛江から例えば渋谷は直線で七、八キロ米だから、烏が時速二十キロ米で飛ぶとすれば、二十四、五分で帰って来られる距離だ。つい夜遊びが過ぎて帰りの遅くなるのも無理はないか。
topキャンピングカーをレンタルしてまで仕事をしたのは1996年1月のオーストラリアは、一番暑いアリス・スプリングスの、町からさらに100kmも奥の野外観測フィールドだった。この時、衛星観測との比較実験のために飛行機と地上の両方の観測実験を実行したのだ。
キャンピングカーの狭いベッドで夜はひたすら暑く、トイレを使うと後で自分達で処理しなくてはならない、というので用はオーストラリアの大地に済まし、昼日中も周りは葉のない木ばかりで、日陰と云えばこのキャンピングカーの中しかないのだった。赤い地面とその上の暑い空気は内陸なのにからりと乾いているでもなく、風で砂塵が巻き上げられてもいないのに何と無く空が濁っているのだった。暑さにクーラーボックスの氷もあっという間に融けてしまって、次の朝食の材料も傷んでしまった。
町からやって来た交替要員は、現場の状況を何も知らず、ただ手ぶらでやって来て、なけなしの材料で作った朝飯を当然のように食らうのだった。どういう訳か、単純な地上観測もうまくいかなかった。飛行機からの観測はまるで駄目だった。現場は牧場の中で痩せた牛が僅かに生えた木にできた日陰にポツリポツリと居るのだ。牛が何を食っているのかと見れば、笹竹のように硬い植物の根で、いくら牛とはいえ、哀れなものだった。
その赤い荒れ野からアリス・スプリングスのホテルに戻って青いプールの水に体を浸せば、確かにオーストラリアではパンと水があれば充分という気になったのだった。だが実験の責任者というので余裕がなかった。かのエアーズロックはすぐ近くにあるので、この時登っておけば良かった。
topオートルート(Haute Route)というのはフランス語で「高い道」という意味で、ヨーロッパアルプスをスキーを使って縦走するルートのことだ。勿論登りもあるのだが長い氷河の斜面を針峰群を見ながら滑ることのできるのが魅力だ。私が今までで一番長い滑降をしたのはアラスカのSanfordに懸かる氷河だった。標高差で二千米はあったから十数kmは滑っただろう。だが雪の良いところは霧に迷わないように雪面に打った赤旗頼りだったし、その後は荷物を背負ってクレバスに注意しながらの滑降だったから心の満足はあっても、スキーの持つ享楽からは遠いものだったと言える。若いうちから享楽的になってはいけないとの意見はあるのだが。
さて享楽的スキーとは何かと問われれば、年齢と体力による。表層ナダレを起こしつつ急斜面の新雪を滑るのは気力・体力の二つ揃った若い時でなければ楽しめまい。雪煙に包まれて半分空中に浮かびながら滑っているのか落ちているのか分からない様な瞬間は若人のものだ。
一方、あくまでなだらかな広い斜面をよそ見しながら下るというのも楽しい。ピッケルで削った氷片がうなる風に飛ばされて顔にピチピチと当たっていた稜線は遥かに背後で、日はポカポカと暖かく、スキー板の下の雪面は融けかかってシュプールには水が浸み出るような陽気で、下る先にはエゾマツの群落が見えて来る。群落の間のまだまだ広い斜面を縫うようにスキー板の上に突っ立って滑り降りる。暑くなって来たので滑りながら帽子を脱ぎ手袋を取り、ついでに上着も脱いでザックの上に挟み込んでしまう。ザラメにはまだ間があって、雪面はまだまだ滑らかだ。滑らか過ぎて、軽く目をつむると滑っているのか止まっているのか分からなくなって、思わず転びそうになってしまう。あの時、下に見えたのは只の除雪された道路だった。オートルートならあそこに見えるのはシャモニーのレストランだ。
top「かにかくに祇園は恋し寝るときも枕の下を水の流るる」というのは、吉井勇による啄木の歌の下手糞なもじりなんだが、祇園にあるこの歌碑に、芸妓舞子が献花する「かにかくに祭」があるという。啄木の本歌は、実に心を打つが、このもじりの歌は、人生金だよと言われているようで、少し悔しい。到底、祇園の客になれない田舎者の嫉妬と考えてもよいぞ。
だが、東踊りで黒紋付の芸妓がずらりと並んだ豪華絢爛の舞台を見てしまうと、今度は京都、祇園甲部の歌舞練場で開かれる都をどりや、宮下町の京をどりを一度は見なくては、という気持ちになる。祇園甲部というくらいで乙部が昔あって、今は祇園東と言われていて、甲部からはあからさまに差別されている、というような鼻持ちならない嫌らしさが京都にはあるんだが、千年の歴史の重み、というのはこの嫌らしさを紙一重で、貴いものに変えているように思う。
top伊那谷は飯田の上村に初めて行ってその景色の大きさに驚いた。まかり間違えば車の転げ落ちそうな、細い急な葛折りの道を上りきったところに、消防署のあるような大きな集落があることにも驚いた。夕方になると若いのも交えた近所の夫人が数人、畑の端の小草(こぐさ)に並んで座っているのを見た。
畑は公園にある滑り台のように急で、叔母さん連はその天辺で夕焼けの景色を眺めていたのだ。足元に薄い雲と谷底が見える。谷底は既に暗く、まだらの雲が灰色に覆っている。覗き込んでいた顔を上げれば谷を挟んで反対の山が黒々とした壁となって右手も左手も視界の端まで続いている。遠く、山の頂付近だけが夕日に照らされていて、僅かに沢筋の残雪が光っている。
叔母さん連は、こうして昨日も連れ立って景色を楽しんだに違いなく、去年も十年前も、百年前から夕暮れの山を飽きずに眺めていたに違いない。この景色に見飽きた女は疾うに(とうに)街に出て行ったに違いないからだ。
昔の話はさておいて、この村でも観光に力を入れていて、村を日本のチロルに見立てて売り出しているのだと言う。だがこの風景はどう見てもヨーロッパアルプスではなくてヒマラヤの村で、間違いようがない。こんな景色を眺めながら、村から村へと歩いて行きたい。歩けばやがて写真を一目見ただけ忘れられない、あのアマダブラム峰が見えてくるだろう。麓の村を尋ねてから、今度は峠を越えてエベレストに至る街道を歩こう。もう登ることはできないが、雪と岩の山々を見て、アイゼンの下できしむ雪面を思い出すことはできよう。
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