「先生、サイナラー」
「はい、オツカレー。気いつけてなー、もう暗いから。・・加藤君、ちょっと待っててくれる」
「はあ?」
「今、これ片付けるからさ、ちょっと待っててよ」
「なんですかー?」
― 塾の講師、白板を消し、プリントを整理している
「まあ、まあ、ちょっと待っててよ」
― 男の子所在なげにドアのところで待っている。小学生が十人も入れば一杯になりそうな小さな学習塾である。男、片付け終わって、ドアまできて、明かりのスイッチを切る
「一緒に帰ろ」
「はあ」
― 狭い階段を降りて、二人、表に出る
「加藤君ち、こっちだっけ?」
「そうだよ」
― 二人、夜道を歩き出す。まわりは住宅地だが、所々に商店が店を開けている
「ね、加藤君さ、明日、伊勢に行かない?先生と」
「えー、なんですか」
「ほら、前、言ったでしょ。加藤君のお父さんさ、先生の舎弟だって」
「おとうさんじゃないよ」
「ま、ま、一緒にいるんだから、おとうさんってことで。家族はね、必要なんだよね、おとうさんとおかあさん、そして子供。うん、そうなんだよ。大事なんだよねー」
「はあ」
「それでさ、加藤君のおとうさんをね、今、伊勢に修行に出してんのよ、ウチから。それで、先生がね、先方に挨拶に行くもんだから、加藤君、一緒にどうかと思って」
「はあ」
「それでさ、いきなりって訳にはいかないからさ、加藤君のおかあさんにちょっと言っとこうと思って」
「なんだかわからないけど、いいよ。伊勢ってどこなの?」
「名古屋の先だよ」
「ふーん」
― 二人、五分程歩いて、とあるアパートの前に
「ここ」
「ここかい。おかあさんいるかな」
「いると思うよ」
― ガンガンという鉄の階段をあがる音。小学生、ドアを開ける
「ただいまー。おかあさん、ボクさ、伊勢に行くんだよー。名古屋の先なんだって」
「お帰りー。なんだー?イセ?」
「どうも、今晩はです」
「あっ。いや、はい、どうも入生田さん、今晩は。あ、いらっしゃいませ。はい。あのー」
「いやいや、どうぞー、まあ、お気楽に」
「あの、どういった。あの、ウチのが何か」
「いや、そうじゃないんですが、あっちの方はね、ま、よくやってるようなんですがね。実は、明日、あいつ預かってもらってる伊勢の組にね、挨拶に行こうと思ってるんですよ。それでね、ついでといっちゃ、なんだけど、大輔君をね、連れてってもいいかなー、なんてね。思いついたもんだから」
「いつも、ダイスケがお世話になって、…それで、ダイスケを一緒にですか?」
「そう。あいつをね、あっちにやったきりじゃないですか。いや、家庭にはね、おとうさんとおかあさんがね、必要なんですよ、こう。暖かい家庭ね、うん」
「はあ?…はあー、そうです…ね」
「それでね、大輔君ね、おとうさんとね、なかなかうまく行ってない所もあるみたいだし。ボクと一緒にね、あいつに会ってみるのもどうカナー、ナンテ思って。ボク、教師ですし。はは」
― 翌日、祭りの夜。この土地にこんなにも人が、と思われる程の人出。屋台が道の両側に一杯並んでいる。走り回る男の子達の声、それを指差して笑い合う女の子達、うちわを片手に浮かれた若い女達の笑い声、赤い顔をした中年男同士の話し声、太鼓の音、わずかに聞こえてきた鉦の音
「おー、伊勢神宮もなんか凄かったけど、ここも、こんなに賑やかとは思わなかったなー。なあ、大輔」
「うん、凄いね」
「聞いて来たとこだと、あっちの方に店出してる筈なんだけどなー。おっ、大輔。あっちの通りで何か始まってるぞ。なんだー。パレードか?いや、踊ってるね。おっ、跳ねてるよ、大輔。ほらー」
「えっ、どこ?見えないよ」
「そうだよな。この人出じゃ、大輔からは、人の尻ばかりか。おっ、あの姐ちゃんの尻、いいなー」
― 大きな声なものだから、前の中年の女連れ、振り返って睨みつける。通りの両側には人垣が出来ていて、通りを揃いの浴衣の踊りの連が、次々に通るところ。提灯の赤みがかった灯りが、踊り手を淡く照らし、白に紺の文字を染め抜いた浴衣の列が、灯りに淡く染まっている。踊り手が鉦に合わせて、跳ぶのであるが、ほの暗い水の中を、群れなす魚がゆるやかに泳いでいるように見える。さらに、見つめると鉦と太鼓の音が夜空に溶け去っていくようだ
「よし、大輔、先生が肩車してやるぞー」
「えー、いいよ。先生。もう小学生なんだから」
「何だー、恥ずかしいのかー。それとも何だ、先生の言う事、聞けないってか!」
「え、いや、そんなことないけど」
「そうだろー、ほら、かついでやるぞ」
― 男、男の子を肩車にする。恥ずかしそうな男の子
「ほら、大輔!よく見えるだろー」
「あ、本当だ、よく見えるよ先生。踊っているよー、…きれいだなー、先生」
― 男と、大輔の顔が提灯の灯りに照らされて赤くなっている
「先生、ほらー、ずーっと、提灯が。あんなに遠くまで。こっちも人がいっぱいだ」
「そうだろ、そうだろ。うん、よく見えるだろ」
「よく見えるよ。…先生、ボクさ…おとうさんって呼んでみることにするよ」
「ん、何だって。お、あの娘、可愛いなー、いいねー」
「はぁー?」
「ジュンちゃんさ、海外ロケあるんだけど、行く?」
「やらせて頂きマス」
「おっ、話が早いねー。チベットなんだけど」
「ちょっと、都合を思い出しまして。無理デス」
「ま、そんなに嫌わなくても」
「無理デス」
「そんな事、言ってていいのー?来月から仕事入っていたっけ?」
「うぐ。…まあ、どうしてもって言われれば、要相談、ってことで」
「今回、ギャラいいよー。事務所にはね、もう話しつけてあるから、じゃ決まりね」
「えっ、そんな即決でー」
「いいから、いいから」
― 二三日経って。小さな会議室で、ディレクター(D)とレポーター(R)とアシスタント・ディレクター(AD)がおります
「じゃさ、概要、説明すっから」
「あのー、中村さん。カメラマンさん、呼ばなくていいんですかー?」
「いいの、いいの」
「後から来るんですかー?」
「まあ、それは置いておいてね。さてと。スケジュールはね、二週間ね。今度のロケはね、キホン、画が撮れればいいから」
「ユウイチはさ、このリストに必要な機材書いてあるからさ、集めといてよ。俺の名前出してさ、話はつけてあるから」
「私、どんな準備したらいいでしょうか?」
「ジュンちゃん、海外は行ったことあるだろー?」
「ありますよー、海外旅行ぐらいは、私だって」
「そうだろー。だから、いつもと同じでいいよ。パスポートと身の回りのもんな。あー、それからさ、大きな荷物は駄目だぞー。移動距離長いし。背負える位かなー」
「えーっ、山に登るんですかー?そんなー、聞いてないし」
「あー?うんっ。はは、全然大丈夫だよ。山になんか登るわけないじゃない。ちょっと途中でね、歩くかもしんないけどさ」
「そうなんですかー?」
「ユウイチはさ、昔、山登ったことあるって言ってたよな?」
「へへ、まあ、一応」
「そっか。じゃ大丈夫だよな。ユウイチ、ガタイがいいし。たよりにしてるからな」
「えっ、へへー、そうすかー?ま、体が丈夫なのが取り柄で」
「中村さん、もしかしたら、私の他は、高野クンだけだとか」
「おっ、ジュンちゃん、カンがいいねー」
「……やっぱり」
「あ、それからなユウイチ、Uさんにな、カメラの扱い方、もう一度習っといてな。Uさんには、頼んであるから」
「わっかりましたー」
― というわけで、飛行機を乗り継いで、三人、ラサ空港にやってまいりました。空港からはバスは出来たばかりらしい真新しい高速道路を通って、ラサのホテル前に到着いたします
「中村さん、着きましたねー。ほらー、空が真っ青ですよー。中国本土じゃこうは行きませんよー。いやー、いいなー」
― ディレクター、何となく元気がない様子です
「ユウイチよー、はあー、お前元気だなー」
「そうすかー。中村さん風邪でもひきました?」
「ばかやろー、これからが大変なんだよー。あ、ジュンちゃん。ジュンちゃん、だいじょぶだから。ほら、高速道路、思ったよりずっとよかったでしょ。チベットだからってね、馬鹿にしちゃいけませんよ」
「まあ、道路は良かったですよね。新しかったし」
「そうそう、全然へーきよ。今日はね、一応、体を慣らすってことでね、ささ、ホテルでね、チェクインして、ゆっくり休養ってことでね」
「ここ、割と奇麗なホテルですよね。ちょっと安心しましたー」
「そうだろ、そうだろ、じゃ、明日はロビーに、朝五時半集合ってことで」
「ええっ、休養じゃないんですか?」
「一晩寝りゃ休養だっつーの。なあ、ユウイチよー、そうだろ」
「はあー」
「そうなんだよー。…ま、荷物部屋においたらさ、晩飯喰いに行こうよ」
― その夜、なんだかんだと言いながら三人は夕食をとりまして、次の日の早朝、手配していたオフロード車で、西に向かうことが知らされます。詳しいことはディレクターも知らない様子で、現地の旅行社に一任しているらしく思われます
― さて、次の日の早朝、ラサの旅行社にて。交渉は両者つたない英語なので、ここでは日本語にて記すと致しましょう
「おっ、ここだ、ここだよ」
「中村さん、よく知ってましたねー」
「インターネットで調べてきたんだよー」
「そんなんでいいんでしょうかー」
「いいんだよ。ちゃんとガイドも頼んでおいたからな。万全だよ」
― 契約書を巡って、半分は訳の分らないやりとりがあった末、ラサを出発。テレビクルーの三人、それから長い長い道のりを四輪駆動車に乗って、三日後にタルチェンという村へ、やっとの思いで着きました。車が停車して、レポーターが飛び出しまして
「ウオオー、ハウオー」
「おーい、ジュンちゃん。どこ行くんだー」
「なんか、もの凄い勢いですよね」
ー レポーター、北に向かって大声で吼えているようです。北に堂々たる独立峰が見えます。あれが聖なる山、カイラスです。仏教、ボン教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の聖地であり、カイラスの南にあるマナサルワール湖は、ガンジス河の源流であります
「どうします?」
「どうって、オレ頭痛いんだよね。ユウイチ、大丈夫か?」
「はあ、まあ」
「オマエさ、何、聞いても、はあ、だよな。ハァー」
「大丈夫ですか?」
「だいじょうぶな訳ねえだろ。ユウイチさ、ジュンちゃん、止めてきてくんないか」
「はいー。ジュンちゃん、この二三日で変りましたよねー」
「変り過ぎだよ。あー、頭いてエ」
「なんか、目がイッちゃってるし」
ー アシスタント・ディレクター、レポーターに近づいて声をかけます
「ね、ジュンちゃん、お茶でも飲む?」
「お前は、何者だ」
「へっ?ユウイチですけど」
「そんなことは判っておる。お前は何者だと聞いておる」
「はあー?中村さーん。お茶にしましょうか?」
「ああ、そうだな。頭痛い時は、水分とれってガイドに言われてたよな。あー、頭いてえ」
― レポーター、まだ、何か山に向かって声を上げているいる。何を言っているのか判らない。アシスタント・ディレクター、ディレクターの所に戻って
「なんかよく判らないけど、ジュンちゃんにお茶にしましょうって、言ってきました」
「うん、そうか。ガイドにお茶持ってこいって言ってよ」
「はーい」
ー その日、三人はタルチェンに宿泊する。タルチェンは聖地カイラス山巡礼の基地で、巡礼者はここから右回りにカイラス山を一周する。一周は52km。チベット人の巡礼者はこれを一日でやり遂げるが、平地に住む人間には到底無理と思われる。タルチェンの標高は4575mであり、途中には標高5630mの峠がある。
― 次の日の早朝、天気は良好、気温は冷涼である
「オハヨーございます。…中村さん、どうです具合は」
「まだ頭痛いんだよー。それでさ、ユウイチに頼みたいんだけどさ」
「えー、何すかー?」
「あのさ、ユウイチとジュンちゃんでさ、あの山の近くまで行ってさ、適当にいい絵、撮って来てくんねーか?俺、ここで待ってるから」
「えー?ディレクターがいないと、どんな絵、撮ればいいのか解んないすよー」
「いいんだよ。山の近くに行けばさ、あんだけデカイ山なんだから、誰だってなんとかなるさ。どうせ後で編集するんだからさ。ジュンちゃんと山が映ってりゃいいんだよ、もう。あー、頭、いてえ。俺さ、昨日の夜中、吐いちゃったよ」
「中村さん、大丈夫ですか?」
「ああ、ここで大人しくしてりゃ、なんとかなるだろ。それによ。ガイドには山、一周分のガイド料、追加してあるんだから。頼むよ」
「はあー、解りましたー。行ってきますー」
「ああ、頼むよ」
― という訳で、ガイドが先頭に立ち、次にレポーター。その後ろにカメラを背負ったアシスタント・ディレクター。三人はタルチェンを出発いたします。レポーター、今日は大人しくしております。ディレクターに言い含められた所為でしょうか
「ジュンちゃん、具合どう?頭痛くない?…朝ご飯はちゃんと食べてたようだから大丈夫そうに見えるけど」
「…」
― やがて一行、広い河原に出ました。カイラス山が右手に再び望める場所であります。前方に高い柱が見えます。色とりどりの布を巻き付けた綱が何本もこの柱を支えております。一体、何なのでしょうか
「なんだー、あれ」
「タルボチェじゃ」
「タツボチェって云うのかー。えー?ジュンちゃん、何で知ってるのー」
「お前が知らないからじゃ」
「なるほどー。でも何かキレイだなー。そうそう、仕事しなくちゃ。おーいガイドさん。ちょっと仕事だよー」
― アシスタント・ディレクター、ここで、カメラを準備して、撮影を開始いたします
「おお、いいねー。ジュンちゃん、そっちに立ってくれるー。そうそう。それから、カイラスを指さしてー、いいよ、いいよ。いいねー。風にはためく五色の旗、その向こうにカイラス山。うーん、我ながら好い絵が撮れてるよー」
― アシスタント・ディレクター、今度は撮った画像をチェックします
「お、なかなかだねー。でも、ちょっとカイラスが小さいかな。ジュンちゃん、もう少し先行ってみる?」
「行くのじゃ」
「大丈夫みたいだよね。じゃ、もう少し先までってことで」
― 一行、さらに歩き続けます。明け方に出発しまして、そろそろ昼に近い時刻となりました。やがて、右手にカイラス山の西面を見る事のできる場所、タムドンに到着いたしました。カイラス山はいまや、間近にせまり、近くの赤茶けた岩山が菩薩の裳裾あるいは蓮華座、カイラス山の黒々とした巨大な岩塊は、いまや釈迦牟尼仏そのものとも見えます
「いや、凄いね、山が真ん前だよ、大絶壁だね、いやー。凄い。そう、カメラ、カメラ。ジュンちゃーん、撮影するよー」
― アシスタント・ディレクター、一人で興奮しながら、撮影。カメラマン気取りで、レポーターにあれこれ注文するも、レポーター、素直にポーズをとる
「ジュンちゃん、いいよー。…なんかぶつぶつ言ってるようだけど。…まっ、いいか、どうせ後からアテレコすりゃいいんだから。…いい絵だなー、俺って才能あるのかもー」
「はい、おつかれー。ジュンちゃん、見てみてー。ほら再生してみるから。…ほらー、いい絵が撮れたでしょ…いいねー。よし、じゃ、引き返そうか。もう昼だし、ご飯食べてから」
「行くのじゃ」
「ジュンちゃん、はい、お茶」
「行くのじゃ」
「え?何?もう、好い絵撮れたから、帰ろうよー。中村さんも待ってるしー」
― レポーター、恐ろしい声を出します
「行くのじゃー」
「ど、どうしたのさ、ジュンちゃん?大丈夫?」
「お前は、何者じゃ」
「え、ユウイチだけど」
「お前は、何処にいるのじゃ」
「えー、カイラス山巡礼の路」
「そうじゃ、だから、そなたの路を全うするのじゃ」
― レポーターの迫力に、アシスタント・ディレクター、少し後ずさりいたします。そしてレポーターの一言に、思わず従ってしまいます
「行くのじゃ」
「はい」
― レポーターは、すたすたと先に行ってしまいます。
「おーい、ジュンちゃん。待って。…あれー、どんどん行っちゃうよー。おーい、待って。俺、中村さんに怒られちゃうよー。えー。どしたら好いだろー、ジュンちゃーん。一本道だから追いつくとは思うけど、一体、どうしちゃったんだろ。困ったー。…えーっと」
― アシスタント・ディレクター、手帳を取り出して何やら書き付け、破り取ったものをガイドに渡して何やら相談しております。ガイド、頷いて、右手を出します。アシスタント・ディレクター、レポーターを目で追いながら、財布を取り出し、ガイドに金を握らせます。ガイド、にやりとして、反対方向から歩いてきた巡礼者に何やら話しかけております。アシスタント・ディレクター、気が気ではありません。話はすぐに着いたらしく、くだんの巡礼者、にっこり笑って、アシスタント・ディレクターの脇を通って行きました。
「大丈夫かなー。おーい、ジュンちゃーん、待ってくれー」
― 夕暮れが濃くなって来た頃、一行は、ディラプール・ゴンパの宿へ到着です。もう、月が出ました。満月です。空はもう濃い藍色で、それを背景にして黒々とした岩肌のカイラス山が恐ろしい程の迫力で迫っております。カイラス山の北面です。頂上の万年雪がもう、月の光を受けて輝いております。
「やー、ここからも凄い景色が見えるよなー。いや、凄いわこれ。ほんと、聖地だねー。でも思ったより早く着いてよかったなー。ねえ、ジュンちゃん、大丈夫?少し青い顔してるようだけど。高山病じゃないとは思うけど。腹減った?」
「…」
「歩き慣れてないと、相当、キツイと思うよ。…なんか、ちょっと頭も痛そうだしー。ね、ダイアモックス、持って来てるからね、これ飲みなよ、高山病の薬」
― お茶を飲んでいて、あまり食事を取っていないようだったレポーターに、薬を差し出すと、レポーター、素直にこれを飲みました。
「割と、効くんだよね、それ。でも、明日は峠越えがあるから、大丈夫かなー。心配だよー。なんかあったら中村さんに怒られるよなー」
― 次の日の早朝、今日も天気は好いようです。一行は簡単な朝食とお茶をとり、出発いたします。朝焼けに、カイラス山の山頂の雪が茜色から、金色に変ってまいります。レポーター、山に向かって何やらぶつぶつと言っております。やがて巡礼の道は最後の登りにかかります。長いがらがらとした石だらけの登り道であります。石だらけの道の両側の所々に石が積んであります。三途の川の石積みを想いだすような風景であります。つらい道を登りつめます。さすがのユウイチも薄い空気に喘いでおります。着きました。ここがドルマ・ラ、高度5630m、巡礼の道の最高点であります。レポーター、ここで、座り込み、何やらぶつぶつと言っております。アシスタント・ディレクター、おそるおそる近づきます。
「…フー。ジュンちゃん、大丈夫?」
「大丈夫じゃ。さあ、行くぞ」
「はー」
― 一行、今度は急な道を下ります。どんどん下ります。脚ががくがくいたします。峠を越えて空気が少しばかり濃くなって、一行の足取りも少しは確かになったように見えます。しかし、実際のところは、ゆっくり、無言であるき続けます。途中ズルフク・ゴンパという僧院を過ぎます。巡礼路の終点、タルチェンまで、もう少しです。いつの間にか夕暮れ。ほら、タルチェンの集落が見えてまいりました。遠くに男が見えます。こちらを見つけたようです。暗くなってきましたので、はっきりとは見えませんが走りだしたようです。こちらに向かっているのではないでしょうか。…一行、歩き続けます。あ、そうです。ディレクターの中村さんです、確かに。よろよろとしながら、それでも走ってきました。歩くと同じくらいの速さですが。
「へっ、へっ、ユウイチー、ジュンちゃーん。大丈夫だったかー」
「あ、中村さんだ」
「はっ、はっ、心配したよー。いやー、良かった」
「あの手紙、着きました?」
「はーっ、着いたよ。最初、なんだ、こいつと思ってたら、ユウイチの手紙でさ。好い絵撮ったら、帰れって言ってあるのに、行くからってあるし、この、バカヤロ」
「あのー、僕もそう思ったんですがー、ジュンちゃんが、もうあのまんまで、引き止められなくって、スイマセンでした」
「ばっきゃろ、スイマせんで済むかー。…でも、取りあえずよかったよ。無事、帰ってきてくれて。でも、ちゃんと、絵は撮ってきたろうな」
「そりゃばっちりですよー。ケッサクです」
「まあ、山が映ってりゃ、誰が撮っても、ここらあたりじゃ好い絵になるからな」
「えー」
「ジュンちゃん、ジュンちゃん。大丈夫?」
「…」
「ま、取りあえず、宿に戻ろ」
― 宿に着くと、レポーターは倒れるように眠り込んでしまいます。ディレクター、撮影したビデオを確認しながら、さかんにアシスタント・ディレクターに文句をつけておりますが、最後には諦めたようであります。その後、二人ビールを飲んでから寝てしまいました。
― 次の日の朝、二人が目を覚ますともう、朝ご飯の準備が整っておりました。レポーターも起きました。
「いやー、やっぱり、二日で一回りするのはきつかったですよー」
「何、言ってやがる、地元の人間は一日で一回りして、十三回も巡るんだってよ」
「そりゃ、こっちには無理ですって」
「まあ、後は帰るだけだからな。…ジュンちゃん。これから帰るだけだからな。おい、ユウイチ、ジュンちゃん、ずっとあんなか?」
「あー、まあ、そうですねー。でも、歩いてる時はですね、こう、何ていうか迫力があってですね、こっちからは、何も言えないんですよー。でも、戻ってきてからは、あの、目がイッちゃってる感じはないですよね」
「うん、そうだな。ま、ラサあたりまで戻ればなんとかなるだろ」
― この後もラサまでの長い道のりがあり、ラサから飛行機に乗って、一行、やっとの思いで、日本に帰って参りました。数日後、テレビ局に三人が集まりました。
「よー、ジュンちゃん、大丈夫だった?」
「どーもー。大丈夫ですよー」
「何か覚えてる?タルチェンからずっと黙ってたから」
「えー、タルチェンってどこでしたっけ?ところどころ覚えてるんですけど、なんか、もうずーっと、ぼーっとしちゃってー。高山病だったんですかねー。あんまり良く覚えてないんですよー。でも、このビデオみると、意外とちゃんとしてますよね、私。こんなとこ行ったんですかね?」
「行ったね。でも、ジュンちゃん凄かったすよ。なんか、こう、別人みたいになっちゃって、俺をね、こう、なんか、引っ張ってくんですよ」
「うーん、もう、普段のジュンちゃんと全然違ってたね。俺なんか、ジュンちゃんが帰ってきて、思わず両手を合わせちゃったよ。ほら、チベットで何て言ったっけ?」
「えー、そうですかー?なんか覚えてないんですけどー。でもねー、帰ってきたでしょ。体重計ってみたら。きゃ、すごい減ってたんですよー。ダイエットしても全然減らなかったのにー。で、体調もすっかり良くなってー、ほら、ずっと何か頭、痛かったりしてたでしょ。もう全然。良かったー」
「…」
「キター、きたよー、おい、キター」
「来ましたか。ほほー」
「やったー」
ー 初老の男、跳び上がらんばかり。実際にはもちろん跳び上がってはいない。齢だから。
「いくら、きたんです?」
「三連単だから、えーっと。・・ところで、あんた誰?」
「いや、単なる競馬ファンですよ。お兄さんとよく会うなと思いまして」
「そういや、見た事があるような、ないような」
「そうでしょ。怪しい奴じゃありませんよ」
「いや、全然、怪しいんだけど」
「まあ、いいじゃありませんか。別に金目当てじゃありませんから。ほら、私もね、お兄さんと同じ三連単、取ったんですよー、ほら」
― 男、馬券をヒラヒラさせる
「おっ、二枚も当てたんかい」
「えへへ、まあ、そんな具合で」
― 初老の男、急に警戒心を解いて
「おー、そうかい、そうかい。よくあのレース、取ったよな、あんた凄いじゃねーか」
「いえいえ、まぐれですよー、まぐれ。たまたまなんすからね。それより、お兄さんの方こそ凄いじゃないすか。よく当てるんでしょ?」
「いや、たまにはな。この前のG1は難しかったけど、取ったことは取ったね」
「じゃ、今日も入れて殆ど連ちゃんで取ってるじゃないすかー。やるなー」
「えへへ、そうかい。ま、日頃の、あれだね。ケンキュウかな」
「やっぱり、長年の経験ですかねー。いや、やるなー。こっちは、まぐれでしか取れなくて」
「そうかい。後はね、カンだね、勘。これがないとね。本命だってね、取れないよ」
「そうですかね。こっちは、勘が働かなくってね。いや、ほんと・・・」
「どしたい。三連単、取ったんだろ」
「そ、そうですよね。落ち込むこたー、ないんだ」
「そうよ」
「そうですよね。いや、何か落ち込んでたもんだから。なんか、気付かされましたよ。いや、ありがとうございます」
「いや、礼なんていらねーよ」
「そんなことないスよ。そうだ。このあたりで一杯、やりません?」
「酒?そうだなー。どうすっかな」
「いや、お兄さん。奢らせてくださいよ。こっちも三連単取ったばっかりだし」
「そう?悪いね」
― 二人、場外馬券売り場近くのモツ煮込み屋に
「じゃ、どーも」
「おー、じゃ、どーも」
「で、おめー、誰なんだよ。若いのにこんな昼ひなか」
「はは、いや兄さん、ご紹介遅れました、どーも。いや、実はね、私もね、ちゃんとしたサラリーマンだったんですよ。そりゃ競馬は好きですけどね。これですよ。これ」
― 右手で、首を切るまねをする
「そうかい。不況だもんな」
「はあー…」
ー 少し涙ぐんだ様子
「なんか、悪い事言っちゃったか?」
「いえー、大丈夫ですよ」
「そうかい」
「いえね、聞いて下さいよ。誰にも言えなくてね」
「まあ、そうだろ。ま、ぐっと飲めよ」
「はい…」
「まだ、若いんだからさー」
「はい、ありがとうございます。…こう見えても外資系の商社に勤めていたんですよ。営業系なんですが。…それが、例のサブプライム問題で」
「サブプラムだっけ?なんか騒いでたよな。こっちにはさっぱり分んなかったけどよ。関係ないから」
「そうなんです。そのサブプライム問題で、うちの親会社がつぶれて、そうしたら自動的にこっちもつぶれてしまって…前の日に親会社がつぶれたって大騒ぎしていて…まあ、こっちは何とかなるんじゃないの、なんて皆で話してたら、部長も大丈夫だよみんな、なんて言ってたので。そうしたら次の日、いきなりつぶれてしまって。外資系でしょ。ヒドいもんですよ。明日から会社にも入れないから、今日中に私物まとめて持って帰れ、とか言われて……。次の日会社に行ってみたら。もしかしたら、とか思うじゃないですか。そしたらガードマンと中に知らない男が一人いるだけで、門前払いッスよ」
「なんか、凄いのな。ふーん。そうなの」
「うっ…それだけじゃないんですよ」
「なんだよ。まだあるのか」
「…その晩、彼女に電話して、これこれこうなった、って話したんですよ。そうしたら、いきなり電話切られて。…えっ、と思ってかけ直したら、着信拒否で…うっ…」
「なんだ、なんだ、いい若いもんが泣くんじゃないよ。女なんて他にもいるんだから。まあ、飲めよ」
「はい、ありがとうございます。…そうですよね。ボクもまだ若いんだから。先輩っ、飲みましょう」
― ふたり、チュウハイをどんどんと呑む
「ひくっ、それでよ、あんちゃん。どうするの。若いからね、さ、大丈夫よ」
「そうれすよね。ほんとはですね。仲間とれすね。会社立ち上げたんですよ、これが」
「へー、会社ね。すごいんじゃないの」
「いやいや、たいしたことないスよ。でも、まあ、こっちはね、つぶれた会社の取引先のネットワークがあるんスよ。でね、前の取引先からまだ引き合いがあって。仕事はどんどんあるのに、困るってんですよ。相手が。それでですね、仲間と会社立ち上げたんですよー」
「ほー、なかなかやるじゃねーか」
「そうですよー。でね、今、当面の資金を集めてて。ね、何だって立ち上げには資金がいるんですよ」
「ひくっ、そんなもんかねー」
「でね、親戚やらなんやらに出資してもらって集めてるんですよー。もう、この前、集めたばかりなんですがね、以前の取引先の仕事が順調で。それでなんですよー」
「何だか、よく分らねーが」
「前の会社ね、社長やら部長やら仕事もできねーのに、高給とってー。も、全然っ、だめ。それで仲間で始めた会社が順調でー。もう配当までしちゃったんですよー」
「配当ってなんだー。ひくっ、馬券みたいもんか」
「そう。馬券みたいもん。でもですねー、全然っカタイんですよ。もう。すぐに倍返し」
「そら、すごいなー。へー、倍になるのかー」
「そうですよ、ま、三倍ってことはないですがねー」
「いいなー」
「いいでしょ。ここだけの話っスが」
― 声をひそめる
「先輩になら、なんとか株お分けできますよ。親戚に引き受けてもらうつもりの株があるんスよー。これが。今の調子だとね、三ヶ月くらいかな倍になるのに。五十万が半年も経たずに百万になるのに。親戚ったら、ウチはね、固いから株なんかやらないんだ、なんてね。ほんと、固いんだから。ね、先輩、確実なのにね、カンが働かないんですよー。駄目なんだよなー」
「そうよー。ひくっ。馬だってね、ケンキュウとカンだよ。うん」
「そうですよね。で、もう一回、説明しに行こうと思ってるんですよ。だけどね、あんまりこっちを馬鹿にするもんだから、もうどうしようかと思って。で、先輩、なんか縁を感じるじゃないスか。だから。そうそう。会社ね、この近くなんですよ。見に来ます?すぐそこだから」
「じゃ、見るだけな。まだ買うなんて言ってないから。ひくっ」
「当たり前っスよー。そんなうまい話がそうそうあるわきゃないんだからー」
― 二人、ふらふらしながら歩いて、とあるビルの前に来る
「なんだー。結構いいビルじゃねーか」
「えへへ。やっぱり客商売ですからー。あんまり汚いとね、ほら、信用されないじゃないスか。ちょっとね、様子見てきますんで。そうそう、これね会社案内と株券」
「え、何だよ。おめー、オレが株券持って、逃げちゃったらどうすんだよー」
「大丈夫っスよ。先輩。信じてるから。えへへ、でもね、ほら、あそこにガードマンいるじゃないスか。あれ、ウチの。じゃ、申込書とか持ってきますから。そこのソファに座ってて」
ー男、階段を登っていく。しばらくして、紙をひらひらさせながら戻ってくる
「どーもー。上、もうてんやわんやで。これが申込書なんですよー。ここに書いてもらってー」
「ひくっ、おれ、ハンコもってないぞ」
「今の時代、ハンコなんて、いらないんですよー。この株券がほんとの証拠ですって。私もね、ほんとはもっと自分で買っておきたいんですよね。見えてっから。儲かるのが。先輩、どうします?決まんないと私も、ほら、例の親戚のとこに行かなきゃいけないんですよー」
「うーん。…よし、おれも勝負だ。あんたにかけるぞ」
「先輩っ。ありがとうございます。…ほんとに、先輩に元気づけられた上に、出資までしてもらって、うっ」
「バッキャロー、若いのに泣くんじゃねー」
「うっ。はいっ。じゃ受け取り持ってきますから」
― 男、札束を手に嬉しそうに階段をあがっていく
「なかなか、いい奴じゃねーか」
― ビルの裏手の出入り口に男、現れる
「ふふっ、やった。まあ、ちょろいもんだな。おれも、まだ結構イケルじゃねーか。調子良く涙も出てくるし。あのオヤジに声かける時は、ちょっと声、裏返っちゃったけどな。ムショから出て最初だったからかー」
― 内ポケットに入った札束をぽんぽんと叩いて、スキップしながら遠ざかる男
― 次の日、浅草寺の境内にて
「いひひ、昨日の立川は儲かったなー。三連単取ったし、ついでにオヤジからつまんだし。この財布の中、見てくれって言いたいよなー。帯付きが財布に入ってるってのは久しぶりだゼーって。しっかし、今日は人出がすごいよなー。何かあったっけか。」
― 境内、大賑わい。羽子板市である
「そうだな。久しぶりにお参りして行くか。子供んときはよく来たっけなー」
― 男、本殿の大きな賽銭箱の前に
「よーし、千円くらい奮発して。また、儲かるようにたのむか。しっかし、なんで、こんな人がいるんだ。おーい、押すなよー」
― 男、財布を開いて、札束の中から千円札を一枚、引き出そうとする
「おーい、押すなっての」
ー 男、財布を持ったまま、両手をあげる
「だから、押すなって。おや、おねえさん、可愛いねー。押すなって」
― その途端、男の財布から札束の方がぽろりと落ちて、賽銭箱の奥に、バサリと
「えっ、えっ、えーっ。押すなって。えーっ。このヤロー。金がー。ヤロー、ぶんなぐるぞ」
― 賽銭箱の横に立っているガードマンが男をじろりと睨む
「え、いやー。あのー。いや、いいです」
― 本殿を出て男
「くっそー。チクショー。きっと取り戻してやるからなー。覚えてろー」
― 参詣人、男を睨む
「いやー、来年もお願いしますー。賽銭、たっぷりはずみましたからねー。ほんとにお願いしますよー」
― 男、観音様に向かって手を合わせる
「フライト、どうだった?」
「それがね、また、到着地の休憩時間が短くなってしまって。ヒドいの」
「あー、それって、飛行機が外国に着くでしょ。現地で一泊位して、それから帰りの便に勤務するんじゃないの?」
「一泊はそうなんだけど。この前なんか、夜中にホテルに入って、次の日の朝、五時起きだよ。ヒドくない?」
「そりゃ疲れがとれるどころじゃないね」
「そうでしょー。以前は一泊して次の夜迄はゆっくりできたのに」
「ふーん。そういう時は何してたの」
「そりゃ、あちこち行ったり、買い物したりかなー。でもね、この頃は、ホテルのプールでゆっくりってのもいいんだ」
「そうなんだ」
「そうよー。それなのに、段々きつくなっていくのよねー。お給料だって安いのにー」
「キャビンアテンダントって、給料高いんじゃないの」
「昔の話。まあ、お姐さまあたりはいいんだけれど。私なんか三年目なのにまだ派遣だしー。派遣だよ。お給料、もうすんごく安いのよ。計算したら時給1200円よ。もうどうしようかって」
「そりゃ安いなー。でも、海外行けるからいいよ」
「そりゃそうだけどねー」
「お、ここ曲がるんだな」
― 二人を乗せた車、道沿いの案内看板に導かれて一路温泉宿へ。あたりは、もう暗い
「もうすぐ着くよ。十分くらいかな」
「早かったわねー。すぐ着いちゃうのね」
「うーん。美奈子ちゃんが忙しそうだからね。近くで静かなところっていうので、ちょっとね、調べたんだよ」
「あらー、本当に?」
「えっ?初めてきたんだよ。本当さ」
「ふーん。ちょっと怪しい」
― 男、ちょっとあわてて
「でも、美奈子ちゃんさ。今週は忙しかったみたいだな。なかなかこっちからは連絡がつかないし」
「そうねー。メールが使えるって言っても、海外でしょ。日本みたいには行かないの。この前なんか、これからホテル、チェックアウトしようと言う時に、ドサドサってメールが来たりしたのよ。おかしいでしょ」
「そうなんだー。電話だと時差があるしね」
「でも、ここって温泉なのー?温泉って箱根とかかと思ってた」
「え、いや、好いところ、らしいよ。もうすぐ見えて来ると思うよ」
「そう。それでね、そのメールがいっぱい、来ちゃったでしょ。もう、どうしたと思う?」
「え、あー、そうだなー、そのままパソコンをパタッと閉じて、大急ぎで空港に向かったとか」
「やだー、だって、大事なメールが来てたら困るでしょ。ほら、大野さんからのメールとか、うふ」
「まあ、そうかも」
「そうかも、だなんてー。でね、慌てて、タイトルだけ、ざっと見て、大事なのだけ大急ぎで返事を打ったの」
「時間に間に合った?」
「そう、結構時間くっちゃってー。ホテルの近くにステキなカフェがあったのね。そこで、お茶するの楽しみにしてたのにー、結局、パス」
「そりゃ残念だったね…カフェのお茶ね…いいかも」
― 道の先にライトアップされた白い壁が見えてくる
「ほら、美奈子ちゃん、見えてきた、あれだよ」
「きゃ、きれいー。黒い瓦と白い壁で」
― 車は門をくぐって、宿の敷地へ
「大野さん、これって蔵?」
「うーん、蔵作りの宿って言ってたから、どうなんだろー、中は部屋になってるんだろうけど」
「でも、素敵だー。日本に帰って来たってカンジ。ほら、あそこが竹林になって」
「そうだね」
― 二人、客室に通される。次の間付きのなかなかきれいな和室である。外はもう真っ暗。仲居があれこれと説明する
「あらー、ここ家族風呂ないのー」
「申し訳ございませーん。でも、ここのお湯、お肌がつるつるになるんですよ。夕食をお出しする前にでも、是非、お入りになってくださいませ」
― 男、どきまぎしながら
「えっ、はっ、いや、そうですか、お湯がいいんですよね。オマエ、先に行ってこいよ」
「はーい、アナタ。じゃ、お先に入ってくるわ」
「では、どうぞ、ごゆっくり、それでは、その時間に夕食の準備をさせていただきますので」
「いやっ、どうも、じゃよろしく。あ、これ少ないけど、取っておいて下さい」
「これはどうもー、恐れ入ります」
― 仲居、去る
「大野さん、どうしたの、慌てちゃってー」
「え、美奈子ちゃん、仲居の前で、家族風呂なんて言うもんだからさー」
「えー、今時、普通よー」
「そうかなー。ま、お風呂行っといでよ」
「じゃ、お肌つるつるにしてくるねー」
「うーん、…、ま、行っといでよ」
― この後、思っていた以上に美味しい料理が出て、二人とも満足。その後、二人、いちゃいちゃしたり、◯◯したり、××したりで、夜も更ける
― 次の朝、身支度して、車に乗り込む二人。仲居らに見送られて出発
「なかなか、よかったわー。ごはんも美味しかったしー。朝、ごはん食べるなんて久しぶりー。さあー、しゅっぱーつ!」
「あ、どうもー。…やー、美奈子ちゃん、元気だなー」
「何、言ってんのよー、大野さんだって、昨日、頑張ったじゃなーい」
「えへ、そうだったかな?」
「自分で言ってたじゃないかー」
「え、ああ、精一杯、やらせて頂きました」
「やっだー、大野さんったらー」
「はは。きょうは好い天気だな。ね、美奈子ちゃん、せっかくだから御岳神社に寄ってみない?すぐ近くだから」
「神社?御岳山って、そういえば、小学校の遠足で行ったことあるなー。行こう、行こう」
「そう。美奈子ちゃん、東京生まれだからな。東京の小学生って、御岳山に行くんだろうか」
「どうなんだろ。私の学校ミッション系なのね、あまり、そのあたりは気にしてなかったみたい。おおらかだったのかもね。でも、全然覚えてないなー。そうそう、ケーブルカーに乗ったのだけは覚えてる。下の方を窓から覗いたら、すっごい急で」
「恐かった?」
「全然。で、大野さんは初めて?」
「僕は初めてだよ」
― という訳で、ケーブルカーに乗って、二人、御岳山神社へ。ケーブルカーの駅から二十分程歩いて本殿へ
「いやー、結構、この石段きついな、美奈子ちゃん大丈夫?」
「大丈夫よー。フライトアテンダントって肉体労働なんだから、ジムで鍛えてるしー」
「いやー、なんか脚ががくがくするカンジ?年かなー」
「まだまだ、若いわよー。直ぐに年って言うんだから。ほら着いたー。あそこが本殿ね」
「ああ、着いたね。ほらー、こっち側、いい景色だな。いや、来て良かったー」
「来てよかったね」
「本当はね」
「なーに?」
「美奈子ちゃん誘っても、来るかどうかって心配してたんだよね」
「えー?」
「でもさ、思い切って誘ってみたわけ」
「そう?私も来て、好かったー。天気も好いし、空気もいいし、気持ちいいじゃない?」
― 二人、お賽銭を賽銭箱に入れ、二礼・ニ拍手・一礼
「……」
「美奈子ちゃん、何お願いしたの?」
「おとうさんと、おかあさんが元気で過ごせますように、かな。大野さんは」
「え、自分の店が持てますようにかな、はは、それから、美奈子ちゃんと、もしかしたらだよ。…もしかしたら、一緒になれますように、かな?」
「えー、私、しばらく誰とも結婚する気ないよー。カレともおそらくないしー」
「えっ、美奈子ちゃん、カレいるの?」
「話してなかったっけ?」
「えっ、じゃ、どうして、えっ」
「やっだー、普通よー、大野さんって、いい人だしー、やだー、気にしないでー」
「…えっ…そうなの。そうなんだ…うん…そうだね…はぁー」
「いい天気よねー、何か、歩いてきたらお腹空いちゃった。大野さん、何か食べようよ」
「先輩、きょうは一体、どうしたんすか」
「別に」
「ブレザーでキメてるし。就活ですか?時期ハズレだけど。バイトすか?」
「別に」
「なんか、ニヤついてるし。あっ、わかりましたよ。デートっすね」
「バカヤロー、そんなんじゃねーよ。大人の付き合いよ」
「えーっ、大人の付き合いって、どんなんスか?」
「大人の付き合いってのはなー、大人の付き合いってもんなのよ」
「はー、そんなもんすかね」
「じゃ、行ってくるからなー」
「はー、行ってらっしゃい」
― 若い男、手ぶらで汚いアパートの階段を降り、駅へ向かう
― その数日前、男のバイト先にて
「おーい、辻村くーん」
「はい、何でしょうか。あのポスターのラフは今日中に仕上がると思うんですが」
「違うわよ。これ、これ」
― 女、胸にあてていたチケットを数枚、手を差し出してひらひらさせる
「これよ。カシマ・スタジアムのチケット」
「あ、これ優勝のかかっている試合のじゃないですか。三竹さん、どうしたんですか」
「出入りの業者にもらったのよ、三枚。部の人に聞いたら誰も行けないって言うのよ。もったいないでしょ」
「いいですねー。勝たなきゃ優勝戦線から脱落ですからねー。気合い入ってますよー」
「私、この日空いててね。この試合も観たいのよ。でも、誰も一緒に行ってくれなくて。私一人ってのもアレだし。辻村くん学生だから時間あるし、確かサッカーに詳しかったわよね。辻村くんの友達も誘っていいから、一緒に行かない?」
「えー、ほんとにー、いいんですか?」
「いいわよ。私、一度、ゲームを直に観たかったのよねー」
「えー、ほんとにー」
「ついでだからさ、辻村くん、電車の時間も調べといてくれる?」
「いいすよ」
― 二三日経って、三村のデスクトップに電子メールが入る
「あれ?ああ、辻村君のメールか」
「えーと、これが電車の時間で。ふーん二時間半くらいか。めちゃ遠いって訳でもないのね。カシマサッカースタジアム駅っての。はは、なんか可笑しい」
「じゃ、この電車にするかー」
「それで、えーっと?友達にあちこちメールしたけど、誰も行けないって言うんですー、ってか。いいでしょうか?って。まあ、いいんじゃないの」
― 女、さっさと返事を書いて送信
― 女、コーヒーサーバーからカップを持って、自分の席に帰りつつ
「だけど、辻村くんと二人で、なんかデートみたいよね。へへー」
― 女、ニヤリとするが。直ぐに真顔に戻って
「何、考えてんのよー、自分。ばかみたい。取りあえず仕事、仕事」
― 女、駅に向かって歩いている。ひとり言
「こんな格好で良かったかなー。スキニージーンズで、でもスカートってことはないわよね。スタジアムなんだし」
― 女、道の途中の商店の前を通りかかり、ドアのガラスに自分を映してみる
「ちょっと、ピチピチか?下着の線、見えないわよね」
― 女、歩き続ける
「パーカにしたけど、ジャケットの方が良かったかしら。うーん、田舎くさいって訳じゃないよねー、辻村クン、学生だから、そうキメて来ないだろうから、ま、いいわよね。デートじゃないんだし、サッカー観るんだから。やだ。なんかドキドキしてきた。ばかー、自分」
― スタジアムにて、ゲームは後半、時計はあと七分。両者同点。ホームチームは、パワープレイに入っている。FWがシュート
「きゃー、やったー。えーっ、サイドネット?くっそー」
「いやー、惜しかったですよねー。あと、もうちょっとカーブかかってていたら、入ったのに」
「あと何分?えー、やっだー、五分しかないわよー。ロスタイム出た?まだかー。早く攻めてー」
「パワープレイに入ってるから、裏を取られると危ないな。あっ、やば、あっ、よし。取ったー、上がれ、上がれー」
「行けー、いいぞー。あれっ、ファールでしょ、ファール、レフリー、どこに目つけてんだよー」
「ボールにタックルしてたからなー。時間がないぞー。バックス、下がるんじゃなーい。おしっ、奪い返した。そうだ、放り込めー」
「きゃー、早くー、あっ、取られたー、きゃー、取り返した」
「よーし、コーナーだ。いいぞー」
「コーナーキックね、きゃー、あっ、相手が手で押してる。ファールじゃないのー」
「お、ショートコーナー。あ、くそっ。よしっ、かわした。行けー」
― ゴール前に放り込んだボールをヘッディング。ゴーーール。場内、大興奮。男と女ハイタッチ
「ッギャー、ヤッター」
「やった。やったね」
「もう終わりよね。レフリー、早く笛吹けーっ。ロスタイムあるのかしら」
「ロスタイム、五分ですね」
「えーっ、五分もあるのー、あっ、危ない、取られた」
「こりゃ、やばいな。早く戻れー。あっ、やばい」
「きゃー、止めてー、止めてー、あっ、あっ。あはーっ、きゃー、キーパー、いいぞー」
「ナイス、セービングー」
― ようやくロスタイムが過ぎて、レフリー、ゲーム終了のホイッスル
「きゃー、やったわー。やったー」
「オシ、ヤッター」
― 男と女、ハイタッチ
― 試合の興奮収まって、観客がぞろぞろと駅へ
「いやー、良かったわー」
「最後のキーパーが好かったですよね。あれ、絶対コースに来てた」
「そうよねー」
― 観客に押されて、二人の手が触れる
「あ」
― ここから、ふたりの脳内、独り言
「やだ、自分、意識しちゃってー、さっきハイタッチしちゃったからなー、まあ、あれは試合中だったし、別に関係ないよね、でも、彼の手、温かい」
「三竹さんって、けっこうムネあるよなー、いや、見ちゃだめだー、俺、こういう時、どうしたらいいんだろ、年上でも、なんか言ったらいいんだろうか、えー、おみやげ買っていきませんか、とか」
「やだなー、これから二時間も電車に乗るのかー、意識しちゃうのがオカシイのよ、自分、来た時みたいにフツーにすればいいんだから、こういう時は、リードしてあげるのかな、年下なんだし、そうだ、会社にオミヤゲ買ってこうか、とか」
― 二人、同時に
「おみやげ…」
「あらー」
「シンクロしちゃいましたねー」
「おみやげ、買っていかなくちゃね。ここのおみやげって、何だろ、辻村クン、知ってる?」
「何ですかねー、あの店、ちょっと見てみましょうか」
「そうしよっか」
― あれこれ見てから、アントラーズ・サブレーを買った二人
「あの、おまんじゅうでも好かったわね、サッカーの街って、名前が今イチだけどさ」
「そうですよねー。あ、そのおみやげ僕が持ちます。明日、会社に持って行きますんで」
「あら、そう。じゃお願い」
― ここから、ふたりの脳内、独り言
「よし、自分、普通に戻ったぞー、でも、彼、なかなか気が利くじゃないのさ、いい男だし、え、やだ、また、そんなこと考えたりして、どうしよ」
「こういう時、どうするのかな、へんな事言えないし、いや、なるべくフツーにしてて、キメるところは、キメなくちゃな、彼女とはどう、なんて聞かれたら、いや、三竹さんの方がステキですよー、とか、それから、いひひ」
「困ったなー、話が続くかしら、じっと見つめられたりしてー、そしたら、きゃ、どきどきしてきたー、なんだよ、自分」
― 二人、電車の切符売り場へ、鹿島神宮のポスターあり
「鹿島神宮って近いのね、へーえ」
「え?カシマジングですか」
「違うわよ。鹿島神宮。割と有名な神社なのよ。結構、歴史が古くって」
「はあ?そうなんだー」
「そうだ。私ね、鹿島神宮、寄っていくから、そのおみやげお願いね」
「はい、わかりました。じゃ、お疲れさんでーす」
「どーもー、じゃまた明日ー」
― ここから、ふたりの脳内、独り言
「やっぱり、カレ、若いわよね。あんまり神社とか寺とか興味ないみたいだし、でも、よかったー、ふたりで、いっしょに電車で東京までは、ちょっとねー、親しくなって、会社で噂になっても困るしー」
「ち、ご一緒してもいいですか、って、なんで言えなかったんだよー、俺、はい、わかりましたー、なんて返事しちゃったよ、もしかしたら、誘ってくれたのかも知れないのに、俺バカー」
「いっしょに、神宮によってみない、って言えば良かったかしら、そしたら、神宮の境内でふたりで、こう、並んで、お詣りしたりして、きゃー」
― 女二人、ワインバーにて
「精進料理、美味しかったわねー」
「本当、良かったわー」
「タマミはさ、何が好かった?」
「やっぱり、胡麻豆腐よ。いかにも胡麻豆腐って感じじゃなくって、口のなかに入れてからふーわりと香って。美味しかったわ。菜の花のお寿司もよかったし。ユーコは?あんた結構飲んでたようだけど」
「そうだっけ。お酒のこと、なんて言うんだっけ?こんにゃくじゃないし」
「やだ。ハハ。オクコンよー」
「オクコンかー。雅よね。お酒がオクコンで、とうふがオカベで、えーと、お寿司がオスモジで。あの菜の花のお寿司が。なんて言えばいいんだろ、甘さと酢のバランスが好くって、菜の花の苦みが効いてて…」
「さすが、門跡寺院よねー。桜がきれいだったし。私ね、あの山門が見えたでしょ。桜の花が満開で、門の中が一杯に花で埋っているように見えて。なんか涙がでちゃった」
「でも、その後、最中が美味しーって、騒いでたじゃないのよ」
た「あら。でもあの最中と抹茶が好かったわよねー。本当、上品な味で」
― 二人、しばらく無言
「また、行きたいわね。秋くらいに」
「私、尼さんになろうっかなー。…なれないだろうけどさ」
「あそこの尼さん?そうねー。あそこで毎日庭掃除して、庵主さんとお話して。いいかもね…」
― 離れていたウェイターに手をあげて
「同じワイン、もう一杯、お願いね」
「毎日、庭掃除ね、いいかも」
「なんかさ。毎日毎日。別にいいんだけど。なんかね」
「なんかね」
「ユーコさ、なんかこう、お腹のなかから、うっ、てくるものない?」
「もやもやっと?こうギュッとして欲しいって感じ?」
「やだ、ユーコったら、ハハ」
― 二人、しばらく無言
「私さ、デッサン教室に通うって話したでしょ。まあね、忙しいから、あんまり行けないんだけどね」
「あら、上手になった?仕事にきっと役立つって言ってたけど」
「まあ、どうだかね。たまに人体デッサンなんかね」
「あら、人体デッサンってさ、ヌードなでしょ。へーえ、描いてて恥ずかしくない?」
「この齢で、もうどうってことないんだけどね。…ヌードばっかりじゃないのよ。着衣とか。外人とか。殆ど、女性よ」
「ふーん。…じゃ、男性もあるんだ」
「そう、それでね。この前びっくりしたのよ。その男の子がね」
「若い男だったんだ」
「そんなんじゃないのよ。最初からね、なんか顔色悪いなー、この子って思ってたの。そうしたら、なんかふらふら、し出して。それでこうよ、こう。バターッて私の方に倒れてきちゃったのよ。もう、びっくりよ。大丈夫って聞いたら、思ったとおり、朝からご飯食べてないって言うのよ。それで、十人くらいおばさんがいたでしょ。飴やらチョコレートが集まって、食べさせてあげたの」
「まあ、そうでしょうね。で、どうしたのよ」
「別に」
「なんだ。可愛い子だったんでしょ」
「ま、可愛いって言えるのかな。痩せててね。大学の文学部の院生なんだって」
「よく知ってるじゃないのさ。十五六っこ下か」
「…でね、デッサンが終わってね、帰る途中で、また一緒になったのよ、その子と。それでね、ご飯食べさせてあげただけよ」
「ふん、それでメール交換しちゃったわけだ」
「あら、図星。よく解るわね」
「あんたとは、付き合いが長いからね。それでどうするつもりよ」
「別に、たまにご飯くらい食べさせてあげてもいいかな、ってくらいよ。でもね、若い男の子って。なんなんだろ。こう、恥ずかしがりのくせに尊大で、大した経験もないくせに背伸びして。…でもね、こっちの気持ちを見透かしたような事も言うのよね。ばかじゃないのって思って。…お金もないのに。でも、あの子、才能あんのかしら、って思うこともあるのよ。…実際にはさ、そんなことないのはね、解ってんのよ、私だって。いっぱい見て来てるからね…でも、なんかひっかかるのよね、こっちの気持ちに。…夜中にさ、急に思い出したりして。…私って馬鹿よね」
「そんなことないよ。馬鹿ってことはないよ。でもねー」
「先なんてないのよね。…なんか、こうなってしまう、って自分で思い込んでしまって。行き着く先が見えるのに、無理矢理なのか、好き好んでなのか、自分を、こう自分の思っている方向に持って行ってる気がして…あーあ」
「そうねー。そういう気持ちはわかるわ。…まあ、仕様がないんじゃないの」
「しようがないのかなー。どうなんだろ」
「秋になったらさ、また、あの尼寺にいって精進料理食べようよ」
「そうしようっか。きっとまた美味しいよね……ふーっ。私って、なんでいつもこうなんだろ」
「きっとまた美味しいよー、タマミ。元気出せってー」
― オーナーの趣味なのか赤っぽい裸電球が照明器具のフードから見える薄暗い酒場。あまり流行っているようには見えない。いつもかかっている曲はブルース。客はなじみらしい二人だけ。
「北村さん雨に濡れませんでした」
「え、そういえば、さっきね、降ってたよね。ここに来る直前に止んでさ。駅から全然濡れなかったよ。村上ちゃんどうだった」
「俺ですか。俺も、この店にくる前に止んで。そういや、あんまり雨に濡れたことないし」
「そう」
― しばらく両者無言。タバコをくゆらしている
「北村さんって、普段、何してんですか。失礼だけど。毎日みたいにここで会うけど、あまり話ししないじゃないですか」
「え、僕?会社でプログラマーやってるよ」
「プログラマーって忙しいんでしょ。よく聞きますよ」
「まあ、忙しいっていや忙しいんだけど。…この頃、夜中まではやんないことにしてんだ。別に会社にいてもいいんだけどさ。課長がうるさいから」
「はあ、プログラマーなんですか。いや、なんか北村さんって、いつも静かーにしてるじゃないですか。大人だなーって」
「そうかなー。村上ちゃんも。齢の割には落ち着いて見えるよ。あ、マスター。これお代わりお願いします」
「あ、俺も、同じやつ」
― この後も客はふたりきり。ふたりとも相変わらず飲み続けている。
「北村さん。あの、怒らないで下さいよ」
「えー、別に。怒らないよ。何にも」
「北村さんって、俺と同じニオイがするんですよ。いや、あの、ホントに臭う訳じゃないですよ」
「あー、何となく分るそれ。何ていうか。村上ちゃん、僕と同じタイプだって気はするよー」
「なんかそんな気がするでしょ。そう思ったんですよー。…それでー、北村さん、れい能力あります?」
「え?れい?ああ霊能力ね、そういうのはないと思う。何で?」
「俺の友達にね、霊が見えるって言う奴がいるんですよ。そいつがね、この前、飲んでる時なんですがね、俺に向かって、言いづらいんだけどオマエに女の霊がついてるよ、って言うんですよ。こんな話って、気持ち悪いですよね」
「別に。いいんじゃない。僕には何にも見えないし」
「そうですか。俺は別についてても好いって思ってるんですよ。…何となく気配はするような気はしてたんですよ…でもね、変に思うかも知んないですけど、そんなに恐いって感じじゃないんです。…その友達の話の時には、飲み屋で、別のやつも居たんで、止めろよ、なんて怒ってみせて、話を止めさせたんですけど…本当は、もっと聞きたかったんですけどね。他人にいろいろ詮索されるのもヤだし。でもね、本当の話、こんなこと話すのは北村さんが初めてなんですよ。…何か、北村さんなら、なんか分ってくれるんじゃないかって。…大分まえから、思ってたんですけどね、言い出せないし。ほら、ほかの人が居るとヤじゃないですかー」
「ま、そうだよね。そうそう」
― 外は雨がひどいらしく、誰も店に入って来ない。夜も更けているようだが、二人とも気にしていない様子
「ま、僕もさ、あんまり、こう何でも話すほうじゃないからね。霊ねー。僕もなんとなく一人じゃない感じはするけど、あんまり気にしてないんだー。それよか村上ちゃんさ、村上ちゃんのそばっていうか、着かず離れずの距離に、たまに目付きの悪いやついるじゃない。村上ちゃんに付いてるって、男なんじゃないのー」
「違いますよ、全然っ!」
「おっ?いや、ま、ま、気にしないで」
「あれね、刑事なんですよー。北村さんも気付いてました?」
「んー。たまにだけどね、目付きが悪いんで覚えてる。そう、刑事なんだ。なんで?なんて聞いちゃ悪いかなー?」
「いや、いいんですよ。…俺ね、去年、彼女亡くしたんですよ。事故で。…彼女が川に落ちて…」
「そうなの。聞いて悪かったね」
「いや、そんなことないす。俺もあの時から、あの、何か頭がぼーっとすることが多くて。あの時のこともよく覚えていないんですよ。…はっきり覚えてるのは、彼女が岩から川に落ちて、それから静かに浮かんで、…ゆっくり流れのせいで回っていることだけ。スカートとブラウスの色が、こう、映画みたいに奇麗で…」
「そうだったの」
「それで、起訴は、されなかったんですけど、まだ警察は疑ってて、たまに刑事がいるみたいなんですよ。俺がやったなんて、絶対にないのに」
「それで、村上ちゃんに憑いてる女の子が、その彼女じゃないかって、思ったのか。でも、恐くないんだったら」
「俺も、いまさら、その友達に聞くのも嫌だし。…でも、誰かに聞いて欲しかったんです。…本当に。…あの、北村さん。ご迷惑だったでしょうか?」
「いや、いいんだよ。僕だってさ。そんなに大した男じゃないし。ただの安サラリーマンだし。頭、変だし」
「そんなことありませんよ」
「いや、本当にいいんだ。こっちもさ、ちょっと前まで病院に通ってたんだ。今もわりと早く帰れるのも、上司が気遣ってくれてさ、わりと良い上司で、薬も飲んでるんだけど…こっちが変になったのさ、僕に仕事させ過ぎたんじゃないかと、思ってるみたいなんだ。…でもさ、…違うんだよ。こっちも村上ちゃんみたいに、あれからしばらく頭がぼーっとしちゃってさ。…やっとこの頃だよ。落ち着いてきたの。…こっちもさ、去年さ、彼女亡くしたんだ。…もの凄く急な病気でさ。一週間くらいだったかな。…もう、あっと言う間。こっちも仕事が、あん時は凄く忙しくてさ。…彼女とはずっと電話だけで。おいしいイタリアンがあるから、一緒に行こうって約束してたんだ。…でも、約束…果たせなくて。あん時は、一ヶ月くらいかな、もうずーっと仕事が忙しくて、会ってなくて。たまに電話で、前に見た映画の話なんかしてて。イタリアンに行くの、楽しみにしてたんだよな。…彼女が亡くなったの、どこから聞いたんだっけかな…。そのあたりになるとまださ、こっちも頭がぼーっとしちゃって、よく思い出せないんだ…えーっとさ…。でもさ、なんか彼女と、そのイタリアンに行った気もするんだよ。日にち数えるとさ、そんなことある訳ないんだけど。…その店でさ、彼女の様子とかさ、話したこととかさ、彼女が着てたもんとかさ、よく覚えてるんだよ…変でしょ?」
「いや、変だなんて思いませんよ」
「そう?それからさ、何となく気配がするんだよね、たまにだけど。…別に恐いってんじゃないんだ。…なんか自然に、涙なんか出てきちゃったり。…恐い感じじゃないんだよね」
「そうなんですか…」
「だから、あれかな。村上ちゃんと何となく同じタイプかなって、思ったのかも」
「…」
「だからさ、あんまり気にしなくていいんじゃないのかなー。…なんか、こっちなんかはさ、憑いてて欲しいって気もしてたんだ。…初めてだね、こんなこと話したの」
「俺もなんか気持ちが落ち着かなくって、ずっとどうしようかと思っていて。俺のおじさんにそういう関係の人がいて。俺の親戚、みんな京都に住んでるんですー。相談しようかなって、思ってたんですよ。でも、北村さんと話してみて、あんまり余計なことしない方がいいかなって」
「ん。村上ちゃん京都出身なんだ。どこ?」
「京都ですか?山伏山町っていうんですよ。中学校までだったけど」
「へー。烏丸のそばだよね」
「あれ。北村さん、知ってるんですか?」
「僕もさ京都生まれなんだ。すぐ、こっちに移ってきたんだけど。役行者町の生まれなんだ。ふーん、村上ちゃん、そうなんだー」
「北村さんも京都生まれだったんですか」
「なんか、関係あんのかもな。山伏で」
「じゃ、いただきます」
「いっただきまーす」
「おとうさん。今日の生姜焼き、オイシイよ」
「そうかー。うーん、いいかも」
「味付けが、上手になってきたんじゃないのー」
「そうかなー、へへ」
― 父と娘、食卓をはさんで晩ご飯である
「おかーさん、遅いね」
「そうだなー。仕事が忙しいのかもな」
「おとうさんは、ヒマなの?」
「おや、そりゃ、何だね。おとさんだってさ、別にヒマってわけじゃないんだけど。ま、おかあさんよりは、忙しくないかな」
「でもさ、おとうさんも、メタボ、気をつけた方がいいんだよ。私はお肉が好きだからいいんだけど。野菜とか、とってる?」
「ん、そうだな。お昼ごはんはね、気をつけてるよ。でも、やっぱりお腹出てるかなー」
「そんなんでもないけど、そんなんでもあるよ」
「うーん、そうだよな。由起子もそう思う?やっぱり、あれかな体を鍛えなくちゃな。…ストレスってのもあるらしいぞ」
「…んー。そうだよ。おとうさんは、わりといつも平気な顔してるけど、…ストレス溜まってるんじゃないかって、心配」
「心配してくれるのは由起子だけかなー。はは、大丈夫だよ」
「そうだよね。…でも、おとうさんのこと、…心配だよ…」
― 娘、箸を持ったまま涙ぐむ
「大丈夫さ。おかあさんも戻ってきたし」
「…おとうさんってさ、…偉いと思うよ。…あんなことあったのに。…でもね。あの教頭、居たでしょ、結局、メンショクになったんだって。ホントに悪いやつだったよ」
「そう、クビになったのか。まあ、格好のいい奴だったからな。おかあさんも、格好いい男なんで、ちょっと気を許したんだろなー」
「…おとうさんさ、何で怒らないのか、由起子も分んないよ。…怒っても困るんだけどさ」
「ま、いいじゃないか。オトナってことだよ」
「由起子には、分んないな。あんな教頭より、おとうさんの方がすてきなのに」
「嬉しいこと言ってくれるなー。おとうさん三重苦なのに」
「なに、三重苦って?」
「ハゲ、デブ、チビだよ」
― 娘、泣き笑い
「フハハ、ヤダー、おとうさんって。…でも、本当に体に気をつけてね」
「そうだな。ストレス解消、何かやってみるか」
「ジョギングなんかどう?あそこの川沿いの道あるでしょ。よく走ってる人がいるよ」
「ジョギングなー。いいかも。でも、おとうさん、走ったらゼーゼーいっちゃうかも」
「だから、体にいいのよ」
「見てると、みんな颯爽と走ってるよなー。格好いいし」
「ジムはー?カオリンのパパもジムに行ってるんだってー」
「誰だい?カオリンって」
「んー?お友達」
「ジムねー。こう、機械に乗って走るんだろー。エッサ、ホイサって」
「キャハハ、ヤダー、おとうさん。エッサ、ホイサなんて言わないよ」
「まあ、言わないかー」
― 二三日経って。男は帰宅の途中
「えーっと、買って帰るものがあったよな。牛乳と玉子と、えーっと、醤油はあったし、何か切らしてたような…まあ、明日にするかー」
― 男、寺の脇を通りかかる
「そういや、ここお寺なんだな。全然気付かなかったけど。…俺も相当、テンパってたかもな…
しょうがないけどな…俺って強く出れないし…いつも後で思うんだよなー、ああ言やよかったとか。こう言や良かったとか…ふーん、坐禅の会ねー。初心者でも好いのか」
― 男、寺の掲示板の前で立ち止まる
「坐禅ねー…俺でも、こう、なんかしゃんとするかな…無念無想で、精神統一して、このヤロー、そこに座れ!なんてね。…無念無想じゃないか。こういうのやると、あいつにも強く言えるようになるか?無理かねー。でも由起子に見直されるかもなー。でもなー坐禅だなんて」
― 男、立ち去ろうとするが、もう一度掲示板の前に戻って日にちを確かめる
「坐禅ねー。いいかもー」
― 一週間程経って。男、坐禅堂に座っている(坐禅中は声を出してはいけない。ここからは男の頭の中で考えていること)。
「なんか暗いし、温かいし、眠たくなりそう…眼つぶっちゃいけないんだっけか…壁に向かってるから、他からは見えないよな…いや、無念無想、無念無想…何分経ったかね…まだか、十分くらいか…いや、何も考えないんだよな…無念無想…少し眠たいかな…眠たいか…無念無想…眠たい…晩ご飯何にしようか…無…」
― 突然、男の隣で警策(きょうさく)の音。男、驚いて姿勢を正す
「ひやっ、ひゃー、驚いたー。声が出なかったろうな。結構、大きい音がするね…いや、痛そう…
いや、無念無想…無想……まだ、終わらないのかね…考えない…考えない…こう考えると傍から分ってしまうのかね…あの木の棒もった坊さんに分るんだろか…叩かれたりしないかね…最初の説明では叩いたりしませんなんて言ってたけど…本当かなー…あ、こっちにまた近づいてきたよ…考えないんだよな…無念無想…無念無想…ああ足が痛くなってきたよ…早く終わらないかな…ああこういう風に考えるのもいけないのか…考えても右から左に流せって…言ってたよな…ああ足痛い…由起子の言う通りかも知れないな…なんで俺って怒れないんだろ…このヤローってか…駄目なんだよなー…駄目な俺、浮気されても仕方がないんだ…足が痛いのは罰なのかー…ああ早く終わんないかねー」
― 男、山門から出てくる
「いやー、足が痺れちゃったよー、あれで良かったのかなー、住職は続けることが大事なんです、なんて言ってたけど。何か変ったって訳でもないし、他の人は何かこう、きっちりしてたよなー。なんか修行してるってカンジ?…俺って何やっても今イチなのかも…あーあ、駄目、駄目。しょうがないんだよなー、いや、しょうがない」
― 男、しばらく歩いてから
「そういや、何か腰の痛いのが直ったみたいだな。おや」
― 男、歩きながら、体をよじったり、伸ばしたりする
「あ、なんか良くなったみたい。このところ、ずっと痛かったのにな…いや、本当に良くなったみたいだよ、こりゃ…ハハ、いや良いカンジだよ。こう、背中伸ばして、正座したのが良かったのかも。うん、何か気持ちいいかも」
― 男の足取り軽くなる
「いや、なんか気も楽になったよ…また坐禅に来るとするか。俺にだって出来そうだし。いや、できるよな」
― 梅の名所。老夫婦が床机に座って梅を眺めながら一休みしている
「好い天気ですねー」
「ここの梅の木、ちょっと植え過ぎじゃないのか」
「良い匂いだこと。あの梅の木、白加賀だったわよね。こうして座って眺めても佳いわねー」
「あの、姐さん和服を着こなしているけど。どんな人かね。素人じゃないな」
「ああ、あの方?素人じゃないわね。踊りのお師匠じゃないかしらね」
「男の方はちょっと変だな」
「あら、そんなこと言うもんじゃないわよ。でも帯の結び方が一寸変よね」
― 男と女、梅を眺めながら歩いている。
「たまには、梅なんか、見に来るもんだね」
「そうですよね。いい匂い」
「こう、奇麗なもの見てるとさ、嫌なことも忘れるじゃない」
「はいー」
「♪梅にも〜春の〜色そえて〜なんて佳い唄よね。そういえば、順ちゃん、この端唄、もうあげたっけ?」
「ええ、大分以前に。最初の頃ですか、教わりました」
「そうだっけかね。もう順ちゃんが、うちに通うようになってから随分経つものね。…でもね、今日は、順ちゃんに一緒に来てもらってよかったわよ」
「えへ、そうですか。只の荷物持ちだったみたいで」
「あら、そこが好いのよ。だってさ、順ちゃん黙ってると迫力があるでしょ。私だってさ、一人でもいいけど、気が短いでしょ。やっぱり後ろに順ちゃんが座ってると違うわよ」
「はあ、そうでしたかー。わたし、なんかどきどきしてたんですが」
「あら、そうだった?私が相手に話、したじゃない。ここに来る途中のお寺で中山寺で修行した坊さんの水行があるんですってねって。相手は、こいつ何、言い出すんだと思ったみたいよ」
「ああ、相手先に伺う途中の道にですか。ありましたよね。中山寺で厳しい修行したお坊さんが、いらっしゃるって、貼り紙がありましたよね。でも、何でですか。水行の話」
「いえね。私も最初は、一応ご挨拶の積もりで、何気なく話ししたのよ。でも、順ちゃん、坊主頭じゃない。目付きが普通じゃないし。だから、何となくそんな話をしたら、相手がね、仮令、順ちゃんがその修行した坊さんじゃなくってもさ、なんか強く出れないのじゃないかって、思い付いて。相手もさ、順ちゃんのこと、ちらちら見ちゃって、ちょっと緊張してたみたいよ」
「でも、お師匠に言われた通り黙って座ってるだけで。あれで良かったんでしょーか」
「いいのよー。ふふ、だってさ。はは。順ちゃんがさ、口出したら、あは、可笑しいー」
「え、何ですかー?」
「だってさ、順ちゃんが話すとおネー言葉になっちゃうじゃない。そしたらさ、あの緊張している座敷がさ、あっらーらー、ってなっちゃうわよ。ふふ。…でもさ、さっぱりしたわよ。もう、払うものは払ったから、あちらさんとは縁切りにするし。あーあ、さっぱりした。…でも、今日は悪かったわね、ついて来てもらって。お店の方は大丈夫だった?」
「大丈夫ですよー。お店、開けるの遅いですから。お師匠さん、気になさらないで」
「なんか悪いって、思ってるのよ。こっちも少しはね。…順ちゃん、ここ、抹茶があるんだってさ。寄ってく?」
「ああ、いいですねえ。天気も好いし」
― 男と女、茶店に入り、抹茶を頼む。中は暖かい。平日ではあるが客の入りがよい。赤い毛氈のかかった床机に座った、男と女の間に、和菓子と抹茶が運ばれてくる
「ここのお菓子、意外に美味しいわ。…あら、ちょっと大きな声出しちゃったかしら」
「美味しいですよね、お師匠、餅菓子はお好きですか」
「そうねー。あまり自分じゃ買わないけど、このお店のは美味しいわね。今度、買ってみようかしら。順ちゃん、良いお店知ってる?」
「いくつか、心あたりありますよー。私のお店、お師匠、知ってらっしゃるでしょ。あそこから割と近くに和菓子の美味しいお店があるんですよ。夕方になるとすぐに閉まってしまうんですけど。たまにね、お店に行く途中に買ったりするんですよ。それでお客に出したり」
「あら、飲み屋なのに」
「それがね。結構、お酒飲んだ後にね、甘いもの喜ぶお客がいるんです。普通、飲み屋にそんなものないでしょ。だから、余計にびっくりするみたい」
「まあ、順ちゃんのお店、普通の人はびっくりするわよねー、あはは」
「アハハ、だなんてー。ひどいですー」
「あははー。ご免、ご免。…でも、本当に今日は有り難う」
「嫌ですー。お師匠、改まって。当然のことですからー」
― 男、赤くなる。それを見て、女、にっこり
「トクダさん。ね、ヒドいよね」
「まったくですよ!上層部は頭さえ、下げりゃいいと思ってるんですかね」
「組合は何しとるんだ」
「ヤマダさんは委員長、知ってます?」
「うーん。あそこの部署みたいなんだが。顔は見たことあるねー。うちなんて、たいして大きな会社じゃないんだから」
「まったくヒドいですよね。こっちのこと何だと思ってるんだろ。」
「昨日の昨日まで、あの専務、しゃあしゃあとしてやがって。いきなり倒産だなんて。頭下げりゃいいと思ってんのか」
「今年の社長の年始挨拶には、大変な年になるが、頑張りましょう、なんて言ってましたよね。まだ、銀行から支援があるんじゃないんでしょうか…まだ家のローンだって残ってるのに」
「僕たちが頑張って製品作ってきて、どんだけ良いものにしたと思ってるんだ。…良いものだから、必ず受け入れられる筈なんだ」
「…銀行との交渉やらで、弁護士頼んだんですよね」
「ああ、会社の顧問弁護士だったらしいんだけど」
「私ら、どうなっちゃうんでしょうね」
「おーい、オヤジ、酒もう二本!」
― 筆者よりーおまえら、酒飲んでる隙あるのか?金目のもの押さえとかないと債権者に取られちまうぞ
― 職場にて
「トクダさん…このパソコン。もらったけど、どうするね。最新型らしいから高く売れるんじゃないかね?」
「…はあー…、さんざん勤めて、パソコンが残っただけなんて…うっ…うっ」
「労働債務分だって、銀行の紙まわって来たねー…。少しは出るらしいね」
「うっ、あんな、うぐ、雀の涙、うぐっ」
「トクダさん…あそこに酒、呑みに行きますか?」
「…はい…」
― お遍路の道を二人の初老の男が歩いている。よい天気である。道のわきの菜の花畑の黄色が鮮やか。畦にレンゲソウの紫色の花。
「トクダさん。これでお寺いくつ目でしたかねー」
「もう十幾つ廻りましたよねー。えーっと数えてみますよ…」
「まだ、そんなもんかー」
「私、何かまた胃腸の調子が悪くって、朝ごはん、固くありませんでした?おかずも塩辛かったし」
「大丈夫?そうだよね、塩辛かったね。こっちは高血圧の薬飲んでるのに。客の都合なんか全然聞かない宿なんだから」
「そうそう。布団も湿っぽかったし。晩ご飯だって、値段の割には大した事なかったし」
「私の昔、泊まったところ何か、同じ四国なんだけどね、割と良かったなー。あれに比べると、もう全然だね」
「ヤマダさん、四国にはよく出張してたんですか?」
「ほら、昔、ウチの大きな取引先が四国にあっでしょ。その関係でね、よく来ましたよ」
「私もね、来てました。ほらあの会社でしょ。丸亀でしたか、確か。いや、あの時は本社とその会社の話がまとまらなくって、私が行って、まとめてきたようなもんですよ」
「そうでしたか。じゃ、トクダさんと同じ頃かなー。私もね、技術指導にね、よく来ましてね。あの頃は下請けのあの会社も、技術レベルが低くってねー。随分、通ったなー。暫くしたらね、その下請けも技術レベル上がったんだけれども」
― 道の両側の菜の花畑にはモンシロチョウが舞っている。暖かな日射し
「トクダさん。実際のところ、これからどうするんです?」
「どうするって、ヤマダさんと同じですよ。再就職の口探しても、結局見つからなかったし」
「あの窓口の男は、どういうつもりなんだろね、こっちの経歴なんか無視して」
「ヤマダさんもそうでした?なんか、こっちの努力が足らないような口ぶりで、こっちだって、あちこち頭下げて回ってるのに。技術なんて分らないくせに、エラそーなんですよね」
「その通り!」
「ヤマダさんの方は、どうするんですか?」
「いや、もうゆっくり探すしかないんじゃないかと思ってね」
「そうです、そうですよ…でも、会社決まらないと、なんか辛いですよね」
「…まあ、決まると思っていけば」
「そうですよね。…会社が終わってしまって、もう半年ですか…実は…あれ以来、女房がなんか冷たい感じなんですよね。ヤマダさんはそんなことないでしょ?」
「え、トクダさんとこもですか。…ウチの奴もね…急にね、なんか、よそゆきな感じなんだよねー。何考えてるんだか」
「昨日、家に電話したんですよ。そしたら何度かけても留守番電話で。どこか出かけてるらしいんですが。…いえね、夜中近くに繋がったんですよ。そしたら、何の用?ってな具合で…」
「うーん、ウチもね、以前と同じような気もするし、よそゆきな感じ、っていっても、こっちの思い過ごしなのかも知れないし。ほら、出張先から電話すると、普通そんな感じじゃないですか。そんなもんだと思うんだけどねー」
「そうだと私もね、思うんですよー」
「トクダさんのとこ、男の子二人だったよね。どうですか?」
「下の子がね、やっと今年卒業です」
「就職どうでした?」
「ええ、決まったのは決まったんですけど、あんな会社でいいんだろうかってね、女房は良いんじゃない、って言うんですが…ヤマダさんとこは女の子ですよね」
「もう働いてるんで、ま、安心なんだけどね。アメリカの支社に行くかも知れないとか言ってたなー」
「ほー、アメリカですか」
― 道のわきでヒバリが鳴いている。空にはトンビが。突然、携帯が鳴る
「あ、ヤマダさんじゃないですか?」
「そうですな。…ああ、俺だ…何?アメリカ行きが決まったって?…うん、そうか…えっ?何?なんでオマエが…え?いや、そりゃそうだけど…そうだけど、いかにも急なんじゃ…え?…まあ、そりゃ…忙しい?そう?…じゃ」
「奥さんですか?」
「…そう。…なんか、いきなり、女房がね、娘についてアメリカに行くって…一ヶ月だって…場合によってはもっと長くなるかもなんて…そういや、娘の彼がアメリカに赴任しているなんて、聞いたことがあるな…」
― 二人、暫く無言で歩き続ける。また携帯が鳴る
「あ、今度は私だ。…はい、もしもし、僕だよ…そっちはどうだ?…そう。…そう…え?海外旅行?…う、まあそうだけどさ…え、友達と…そう…そうなの…でも…うん…。…あのさ。あれ、切れちゃった」
「どうしたんですか」
「いやね、あんたが四国で暫く帰ってこないんで、女房がね、友達と海外旅行に行くって言うんですよ。そんな話聞いてないぞって言ったら、もう決めちゃったって言うんですよね…」
「なんだろねー、お互いに」
「どういうんだが、女はよく分りませんよ。…私ね、息子が就職して家出たでしょ、それから、あいつとあまり口、聞いてないんですよ…うまく行ってないんです…」
「…私も、もう帰ってもしょうがないな…」
― トンビがのどかに鳴く
「女房、何考えてんだろ…もう駄目なのかも」
「…」
「…あー、トンビが鳴いてますよ。…そういや、この辺り奇麗な景色ですよね。菜の花が一杯で…ねえ…ヤマダさん…ね…奇麗ですよね…ふ、ふぐっ…」
「…今晩、飲みますかね…いーい陽気だし…」
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