「あのさ、この箸面白いですよ」
「何が?」
「ほら、ステンレスなんだけど、中が空洞なんだ。だから軽いんだよね」
「ふーん」
「ふーんって、この箸、うちでも作ってみたことあるの。結局値段が合わなくて止めちゃったけど」
「そういや、泰三って鉄工所だもんな。どうだい景気は」
「もう、全然。市郎さんは優雅にやってていいよなー」
「何、言ってんだ。泰三の方こそ、気楽そうに見えるぞ」
「でも、この前、ラジオ放送、聞きましたよ。ほら、ダンディ中高年のなんとか、っての」
「なんとかの、ってのが気になるけどね。対談相手がさ、もう、どうしようもない奴なのよ。モードとか、ファッションなんて解らない奴なんだから。だけど、泰三と焼肉に来るなんて、久しぶりだな。若い頃はよく行ったっけな」
「お、焼けた焼けた。やっぱり、この店、良い肉使ってるね。ね、市郎さん」
「まあな」
「でも、あの頃は学校の近くの焼肉屋で、よく行ったよね。毎日、行ってたような気がする。誰だっけ、よく行ってたのは」
「ケイイチだろ、キューちゃんとか」
「そうそう、キューちゃん。今、どうしてんだろ。市郎さん知ってます?」
「なんか、離婚したって話は聞いたけど、その後は知らないな。実家が、九州って云ってたよな。戻ったのか?」
「そんな話も聞いたような。… 」
「まあ、まだ死んじゃいないだろ」
「死んじゃいないでしょ、わからないけど」
「あいつにもしばらく会ってないな」
「そうねー、たまに会ってみたいねー」
「あいつブンガクやるんだなんて、ずって言ってたけど、結局ものにならなかったし。初めから判ってたけどな」
「ま、そうだけど。ブンガクっていや、市郎さん、本なんて読みます?こっちはせいぜい雑誌くらいだけど」
「本?泰三って本なんか、読むのか。こっちはさファッションの業界だからな、業界関係は読むよな。他にもさ、オヤジ向けの雑誌があるだろ、近頃はだいぶん廃刊になっちまったけどな、でも男物のファッション雑誌だって結構な数、まだ残ってんのよ」
「へー」
「ま、泰三がファッションだなんて柄じゃないよ。…ん、そのネクタイ、エルメスだな」
「え?分ります?さすがー」
「だけどさ、泰三が自分で買うわけないしな、どうしたんだ?そのネクタイ」
「いや、自分で買ったんですよ。業界の集まりでね、ちょっとネクタイの話になって、一応社長なんだから、ネクタイくらい良いのをしなくちゃいけないか、なー?何て思って。えへ」
「嘘つけ。それは奥さんに言ったセリフだろ」
「へへ、分る?実はね、女にね、へへ、貰ったの」
「ふん。そんなもんだろうと思ったよ。奥さんに何か言われなかった?」
「いや、さっきの話したらね、フン、とか言って」
「そりゃ、もう感づいてんじゃないの。ただ泳がされているだけで」
「え、そうですかね。そうかなー?知ってんのかなー?いや、んー、でも」
「当たり前だろ。お互いにいい年だし、奥さん、副社長で実際に取り仕切ってるんだろ、会社。知ってるけど、泰三なんか、てのひらの上で転がされてるだけよ」
「言われれば、そんな気もするな。どうしよ。どうしますかね、ね、市郎さん、ねー」
「知らないよ」
「そんなー。このエルメス気に入ってるんですがねー」
「まあ、処分したいいんじゃないのー。それに泰三にあまり似合ってないよ。悪いけど」
「えー。そうですかー。えー、市郎さんが言うんじゃしょうがないかー。いやね、自分でも派手すぎじゃないかと思ってたんですよね」
「派手すぎってことはないんだけどさ、色とかが合ってないんだよね」
「そんなー、褒めて下さいよー」
「どこの女にもらったのか知らないけれど、合ってないよね、全然、もう趣味わるいんだよ」
「そんな、市郎さん、ファッション関係か何か知らないけど、ちょっと言い過ぎじゃないの、せっかくあの女が呉れたのに、ちょっと市郎さん」
「うるさい、そんなもん、こうしてやる」
― ファション評論家、箸を取って、相手の男のネクタイを突き通してしまう
「あわっ、何を。いくら市郎さんだって」
「…」
「もう、何するんだ。ひどいじゃないの。あんまりだ。いったい何のつもりだ。普通、殴るよ」
「…、殴りたいなら殴れ」
「帰る」
― ファッション評論家、うなだれている。そのうちビールジョッキをつかんで、残りをあおる
― 数日経って、同じ店、同じ二人がテーブルに向かい合って座っている
「いったい何なんすか、わざわざ呼び出して。ま、この前のことはもういいんだけど、こっちだってね、言い分はあるんだから
」
「泰三よー、済まない」
「今頃、謝ってもらってもね」
― ファッション評論家、涙声
「済まない。俺さ、…」
「いいんですけどね、市郎さん、一体何があったんです?」
「実はな、女房がな、…この頃、調子悪いんだよ」
「え、元気そうでしたよ、この前」
「…何かさ、トンチンカンなこと言うのよ、この頃。夕方、帰ってもさ、真っ暗で、いないのかと思ったら窓に向かって座ってたりさ」
「市郎さん、喧嘩したんじゃないの」
「違うんだよ。この前な、病院連れてったの。…そしたらな認知症じゃないかって、…言われたんだよ」
「はー、認知症」
「俺さ、どうしたらいいんだろ」
「ま、仕様がないですよ、そんな年かも知れないし、近頃はいい薬があるって言うじゃないですか。きっと良くなりますって」
「泰三と違って、俺さ、女房のこと愛してるんだよ。泰三、どうしたらいいんだろ」
「僕だって大事にしてますよ」
「お前は、怖がってるだけだろー」
「ちょっとムカつくけど。…なんとかなりますって」
「泰三…ありがとうな、本当に、ありがとう」
「おとうさんたら、もう、何で連絡しないの!」
「えー、いや、なんかな」
「あのままだったら、死んでたわよ、もう」
「死ぬわきゃねーだろ、ちょっと飯抜いただけで」
「何言ってんのよ。私が来なきゃどうなってたと思うの。隣の奥さんが電話くれなかったら、どうするつもりだったのさ!」
「そう、ぽんぽん、言うなって。隣のばばあがよ、余計なことしやがって」
「まだ、そんなこと言って!全然、歩けなかったって言うじゃないの」
「ちょっと、ぎっくり腰になっただけだって」
「それで隣の奥さんに聞いたら、この頃、帰ってくるのが遅いし、お酒飲んでるようだっていうし、…もう、何かあったら、どうするのよー」
「何も、泣くことないだろ」
「何言ってんのよー!」
「おっきな声だすなって、もう、なんとか歩けるんだから…な。まあ、酒飲んだのはさ、ちょっとさ、まずいことがあったんで」
「また、競馬!」
「いや、あの、三連単で、儲けたんだよ」
「やっぱり、競馬なんかして!おかあさんが元気だったら、…もう、本当に何て言うか」
「お前、口うるさいとこが、なんかそっくりだな」
「うるさい!…もう、ひとがこんなに心配してるのに」
「わかった、わかったって」
― ひと月ほど経って、男のぎっくり腰は良くなった様子。ただ、以前よりおそるおそる歩いているようだ。今も一人、台所に立って、何やら作っている様子。玄関のチャイムが鳴る
「こんにちはー、長岡さーん」
「はいよ。誰だ」
「長岡さんですねー、お届けものでーす。どこに降ろしますかー?」
「何?何も頼んでねーぞ」
― 今度は居間の電話のベルが鳴る
「え、今度は何だ?忙しいなー。はいはい、ちょっと待ってねーと」
「もしもーし、長岡でーす。はいはい、あ、加奈子か。え、運送屋来たけど。え、何、シニアカー?何それ。…ふんふん、俺はそんなもの乗らないぞ。…ん、まあな、…そりゃそうだけど、…聞こえるって、そんなに大きな声出すなよ。…わかった、わかった。…分かったって…うん、そうか…じゃあな」
「あ、やっぱりよ。ウチでいいんだとよ。そこらに置いといてくんない。…え、あそう、動くの確かめるの。じゃ、頼むわ。こっちは、中でさ、昼飯食ってるか、また声かけてくんない」
― 男が作っていたインスタントラーメンを食べ終わった頃、玄関からまた声がかかる
「終わった?ご苦労さん。…え、動かし方?あ、そう、教えてくれるの。何か悪いね。そこまでやってもらって。…代金に入ってるの、そうなの。へー。…これがキーで、ふんふん、ここ?あ、ここに差し込むのね。そんでもって座って、えー、こうやると、あ、動くね。なるほどね。…ちょっとカッタルイ気もするけど。はい、わかった。ご苦労さん。…え、何、受け取りのハンコ?ま、そりゃそうだね。…え、ここにもハンコ?はいよっと。いやに細かい字の書いた紙だね。…はい、どうもー。…どうするんだ、これ。…面倒だよね…いや、待てよ…イヒヒ、面白いかも」
― 数日後、近所の公園にて、男とその知り合いらしい年配者が集まっている。各自、シニアカーに腰掛けている。
「みっちゃんがやろう、って言うから来たけどさ。本気?」
「あんた、いつもそうだから。ま、いいんだけどさ」
「いいんだってば、そいでさ、おれ、旗、作ってきたから。ほれ、ここに結んで」
「え、旗も付けるのかい?ま、取扱い説明書に書いてあった気もするが。あれさ、ばあさんが恥ずかしいって外しちまったが、本当は付けるんだってな」
「そうだろ。旗つけるのが本筋なんだってば」
― 各自、シニアカーの後ろのアンテナに三角形の旗を結びつける。赤と黄色と桃色の旗がなびく
「でさ、ここからさ、あの噴水を回ってだな、それから八の字を描いてあの街灯の所ね、あすこ回って戻ってくると、そんなんでどうだ?」
「いいけど」
「で、スタートラインがここで。ちょっと待ってな。ここからだぞ」
― 男、棒切れを拾ってきて地面にラインをひく
「はいはい、並んで」
「みっちゃんさ、子供の頃、同じことしなかったか?何かそんな覚えがあるような」
「そうかもね、はい、並んで並んで」
― 老人達、口は達者だが、あれこれと手間取りつつ、シニアカーをスタートラインに並べる
「でさ、ただ回るんじゃ面白くないんじゃないかと思ってさ」
「みっちゃん、何か言い出すと思ったよ。最初から」
「あは、判る?判るかー。でさ、取りあえず千円かけてだな。一番が総取りってのはどうだ」
「やっぱりな。みっちゃん、そう言うと思ったよ。…いいんじゃない、やってやろうじゃないの」
「ま、いいだろ」
「おーし、じゃ、千円出して、出して。俺が預かるからさ」
「よーし。負けんぞー」
「こっちの速いの知らねーな」
― 老人達、久しぶりに顔を赤くしてやる気をみせる。各自シニアカーから、前のめりになって、お互いを牽制する
「じゃ、いいか。かけ声をかけるからな。…サン、ニー、イチ、スタート!」
― 三台のシニアカー、スタート。いきなりトップスピードなので、割合に速い。小学生が走るよりは遅いようだが。なかなか差がつかないが、カーブで互いに車体をぶつけ合ったりして白熱した様子
「おらー、遅いぞ」
「あ、キタネー」
「ウルセー、勝ったもの勝ちよ」
「あ、このやろ」
「くそー、何だこの車、もっと走れー」
― 殆ど、互いの差は出ないので、抜きつ抜かれつの展開となる
「ヤッター、一着、長岡選手、勝ちました」
「チクショー」
「もうちょいだったのに、くそー」
「二ー三の展開で長岡選手、ユウーショー」
― ゴール地点にいつの間にか、誰かいる。警官の姿も
「お、お前、どうした。あ、どうも今日は」
「おじいちゃん!!何やってるのよ!!」
「あんたも!」
「何だよ、ちょっとさ、シニアカーの調子見てただけだよ」
「なに言ってんのよ!ちょっと、みっちゃん!あんまり変なことに、ウチの人、引っ張り込まないでくれる!」
「そう、ガンガン、言いなさんなってー。だけど何でケーサツ、いるんだよ」
「何、言ってんのよ。どうせあんたら、ひとの言う事聞かないんだから。通りがかりの交番のお兄さんに来てもらったのよ!ほら、何か言って!あんたケーサツなんでしょ」
「え、あ、まあ、そうなんですが。えーと、そういう訳で、ご家族の方も心配してらっしゃいますし、ここは公園ですから、皆様のご迷惑を考えてですねー、まお静かに、ということです。はあ」
「なんか頼りないわねー」
「では、本官、用事もありますので、これで失礼します」
― 警官、後ずさりしながら去る。
「わかったでしょ!他人迷惑を考えて、公園で変な事しないでね!わかった?」
「おじいちゃんもね!長岡さん、お願いしますね!」
― 三人、声を揃えて
「はい、はい」
「あー、なんか喉、喉かわいたねー。あー、あのさ、チャー飲みに行かないか」
「そうしようかねー」
「じゃあ、あすこ行こうかねー」
― 三人、シニアカーに乗って公園から逃げ出す
「今度は負けないからなー」
「いひひ、やって見ろって言うんだよ」
「カーブでさ、ズルは無しな」
「パパ、いくわよ、ほら」
「いや、ちょっと待って。この、鉄の燭台、良いと思わないか」
「何それ、汚い」
「ばか、古いところが良いんだ」
「古いたって、そんな良いものがここにあるわけないじゃない。先、行くわよ」
「ちょっと、待っていなさい。…うーん、どうしようかなー」
「ママー、先行ってようよ。なんかひどい混雑だよね」
「そうよねー、なんかホコリくさいし。パパが来ようって、うるさいから来たけど。本当、人が凄いわね。フリーマーケットなのに、こんなに人が集まるなんてね。ねー、まだ」
「うるさいな」
「まあ」
「じゃ、ママ、先行こうよ。パパ先行ってるね。なんかあったら携帯に電話してね」
「よし、これ買おう。おい、これ買おうと思うんだけど。あれ、いないじゃないか。ちっ、どこ行ったんだ。あいつら。…」
― 男、鉄の燭台を握りしめて、ちょっと振ってみる。高さ四十cmほど。脚付きの古典的なデザインで、蝋燭が三本たてられるようになっている
「結構、この燭台重たいな。でも、握った具合がいい。うん。こう振って、ガツンとやるとか。ところで、あいつらどこ、行ったんだ。電話しろとか、言っていたけど」
「おい。これ幾らだ?ふーん。その位か。この品物大丈夫だろうね。古そうに見えるけど新品の大量生産品だとかじゃないの。大丈夫?そう、大丈夫かなー。まけてくれる?ふんふん。そんなもん?もうちょっと。…ちっ。じゃ、それでいいから。…ちゃんと包んでくれよ」
― 男、携帯を取り出して電話をかける
「もしもーし。どこにいるんだ?あー。どこだって?コーヒーショップが一杯だ?だから、どこにいるかって聞いてるだろ。うん、うん。どうするんだ?疲れたから?なんだ。ろくに見もしない内に…あれ、切れちまった」
「なんだ?おつりがないって?そんなもん、ちゃんと用意しとくのが当たり前だろ。細かいの?ないね。早くしてくれないかね。そんなに隙じゃないんで。うん?ないものはないんだから。じゃさ、きりのいいところに、安くしてよ。なんだ。できない?ちっ、えーっと。ほら、細かくなるけど、一枚、二枚と。じゃこれで」
― 男、露店を離れる
「なんだ、あの男。けちけちしやがって。どこから仕入れてきたか分からないようなもん、売ってるくせに。買ってやるだけでも有り難いと思えって。若いんだか年寄りなんだか分からないようなヒゲ生やしやがって」
― 男の携帯が鳴る
「はい。何だ?えー?聞こえないんだけど。帰る?聞こえないんだけど。もっと大きな声で言えよ。え?聞こえないんだって。何?帰る?わかった、わかったって」
「なんだ、あいつら。こっちを無視しやがって。せっかく連れてきてやったのに、何やってんだ。いつもそうなんだからな」
― 男、買ったばかりの鉄の燭台を握りしめている
「この燭台でガツンと」
「この前もそうだったよな。こっちが仕事で遅くなって帰った時も、何も用意してなくて。いつも遅いから用意してないわよ、なんて言いやがって。普通、何か作っておいてあるだろ。一体、誰が給料持ってきてると思ってるんだ。しかも、二人でレストランで食べてきただとー。いつもあなただけ、お酒飲んで帰ってくるんだから、いいでしょ、たまになんだから、なんて言いやがって。こっちはなー、付き合いってもんがあるんだよ。毎日毎日作ってあげてるでしょ、たまには息抜きよ、だなんて恩着せがましく。そういや、あの日は。くそ。部長が無理言いやがって。こっちだって、いっぱいいっぱいなんだよ。あのヤロ、上には調子の良い事言いやがって」
「この燭台でガツンと」
「俺だってなー。馬鹿にするんじゃないぞ。いつまでも言われるばっかりじゃないからな。そういや、あいつ。おれのスーツ、クリーニングに出しとけと言ったのに、忘れたとか嘘つきやがって。じゃ俺が持ってくって言えば、なんだー、近所の人が見るかも知れないだー?恥かかせないでよだとー?どいつもこいつも。この燭台でガツンと」
「あいつも、学生のくせに高い服買って来やがって。俺のスーツが何着買えると思ってんだ。こっちが我慢してるのに。センスがないとか言いやがって。何の発表会だか謝恩会だか知らねーが、恥かきたくないだとー。一体、誰が金出してやってると思ってんだ。いっそ、この燭台でガツンと」
「くそー。俺が家に帰っても、戻っているかどうか分かりゃしないだからな、どうせ。居ても、この前みたいに、あら、もう帰ってきたの、なんて二人で何か喰いながら、いうんじゃないのか。あんたの分、ないわよなんて。誰が食わせてやってると思ってるんだ」
「この燭台、握り具合が良いよな。俺が帰って、もう帰ったの、なんて言いやがったら。…さっき、二人でお茶してきたから、ご飯遅くなるわよ、良いでしょ、なんて言いやがったら。…こっちが連れていってやったのに、凄い人ごみで嫌になったわなんて、言いやがったら。…この燭台みて、どうするのよ、そんなの。家に置くところなんてないからね、なんて、言いやがったら、…この燭台でガツンと。…そうしたら、頭から血、流して、止めて下さいって土下座して、このやろー、分かってんのか、俺のお陰なんだぞって、きっちり分からせるために、もう一回くらいガツンと。そうしたら、血だらけになって、泣いてあやまるだろな。髪の毛が血だらけになって。そうしたら…」
― 男、横断歩道で信号の変るのを待っていたのだが、無意識で燭台を振り回し、近くのコンクリート製の電柱に打ち付けてしまう。燭台はポッキリと折れて半分に。折れた半分が男の足を痛撃する
「ぎゃー、痛えー。くそ、やっぱり安物だったな。くそー、いちちー」
― 男、片足を上げて痛がっているうちに、車道に飛び出てしまう。そこにダンプカーが迫る。クラクションの大音量
― バーにて
「ママ、これ何だい?」
「あら、置きっぱなしにしちゃったわね。三味線のコマよ」
「三味線って、あの津軽三味線?」
「違うわよ。もっとしっとりして、アタシにぴったりのやつ。お師匠さんについて習ってるのよ」
「ふーん。そうなの。三味線やってるのかー」
「何よー、私に合わないって言うつもりなの」
「そんなことは、ありません、って」
「ま、イヤな、ノリちゃん」
「ところで、何かこの店、いつ来ても客が少ねーな。ちゃんと上がりがあんのか?」
「そうなのよー。このところお客が減っちゃってー。不況よねー。ノリちゃんとこはどうなのよ」
「ま、全然売れないね。修理がある位かなー。ま、出張修理が結構あるから、それでやっと」
「暫くお会いしてないけど、ご両親、お元気なの?」
「親父はさ、もう年金が出てっから、こっちに店、任したつもりで、もう悠々自適よ」
「いいわよねー。マンション経営だし」
「結構、気い遣うんだぞー。楽じゃないって。そういや、順一郎はさ、たまには帰らないのか?」
「親はね、もう諦めたみたいなんだけど、近所の手前があるからって言うのよ。電話はしてるけどね」
「ま、そうかもな。でも、順一郎のおばさん、この頃元気みたいよ。お前の高校の頃はさ、おばさんが俺に色々聞いてきたこともあったんだぞ」
「あら、そう?初めて聞いた」
「いや、俺もさ、高校生じゃね。親の考えてることなんか解らないからさ、気にしなくてもいいんじゃないすか、なんて適当なこと行っちゃったけど、今はよく分るよ」
― そこに、ドアが開いて、客がやってくる
「あれ、なんだい?二人とも、親しそうにしちゃってー。妬けるなー」
「何、言ってるのよ、実家の話、してたのよ」
「そう?そういや、ジュンちゃんの実家って、××沿線だったよね。ノリ君もそうなの?」
「いやー、実は幼友達だったりして」
「えー、そうだったんだー」
「そうだったのよー、実は」
― この後、とりとめもない話が続く。その間、新しい客はやって来ない
「ほんっと、今日はヒマねー。困っちゃうわ」
「ま、こんな時もあるんじゃないかー。飲も、飲も」
「飲んじゃうか」
「じゃ、またまた、カンパーイ」
「ところでさ、順一郎の師匠ってどういう人なんだ」
「え、僕も聞きたいなー」
「とっても素敵な人なのよー、年はね、私とあまり変らないんだけどね。男らしいの」
「男なのー?ちょっとやだなー」
「違うわよ。とっても男らしい女性よー」
「女か」
「あら、女か、だなんて。えーっと、ほら、竹を割ったような性格って言うじゃない。そういう人。でもね、私から見ても奇麗な人で、憧れちゃうなー」
「けっ、おかまが女に憧れるって、どういうんだい」
「あらー、素敵な人は素敵なのよ、女でも」
「ふーん、ま、いいんじゃないの、どうでも」
「あれ、ノリちゃん、気になる?」
「気になる訳ないだろ。順一郎がどうだって」
「ひっどーい」
「そうだ、そうだ。ノリ君ひどいぞ」
「だけどさ、俺もそろそろ四十で、もう、どうしようかなー」
「あら、ノリちゃん、つき合ってる人いないのー。あは、いないんだー。ほー」
「いる訳ねーだろ、こんな店に来てるぐらいだから」
「またまた、ひっどーい」
「だってさ、普段の付き合いは商店街の連中ばっかりだろ、出会いがないんだよね、出会いが」
「そういやノリ君、電器屋さんだとか言ってたよね」
「そう。地味なもんなんだよ、商店街の電器屋ってさ。たまに商店会の集まりがあるんだけど、殆どが親父の世代でさ、若手の会もあるんだけど、俺がその中の若い方で」
「あれま」
「なんかこう、ぱっとしないんだよね。若手の会で、商店街の活性化とか、バスツアーとか、色々やるんだけどさー」
「でもさ、誰かいるんでしょ。どこかのお店の娘さんとかさ」
「えー?ああそういや、二丁目にパン屋があるだろ。あすこの娘がさ、いい女になってきたよな」
「ほら、やっぱり。あの娘さんのこと知ってるわよー。高校生の頃、可愛かったものね」
「そうだったか?全然覚えがないんですけど」
「ノリ君。また、また」
「そうよー。ちょっかい出してるんじゃないの」
「そんなわけねーだろ。商店街の集まりでさ、たまに手伝いに来てくれてるだけよ」
「本当なの?そのバスツアーとかで一緒だったりして」
「バスツアーなんか、若いのがいくわけねえよ。若いのと言ったって、年寄りが連れてくる孫だけよ。お前、なんかからむね」
「あら、からんでなんかいないわよ。皆さんどうしてるかなー、って聞いただけじゃないのよ」
「そんなの帰って来て、ちょいと見りゃ、すぐに分るって」
「ちょっと聞いてみただけじゃないのよー」
「まあ、まあ、二人とも。ママ、俺もう一杯ね」
「帰る!」
「はいはい、じゃ、またねー」
― 男、ドアを開けて、さっさと帰ってしまう
「なによー。勝手に怒ってさ」
「あのさ、ママさ、ノリ君のこと気になるのかい?へへ」
「そんなことないわよ!ふん」
「へへー?」
「はい、ハーボール!」
「ま、そんなにつんけんしなくとも。ねー」
「そのヒュミドール、出してくれる?」
「はいわかりました。どうぞ。今日はあんまり種類がないんですが。申し訳ない」
「いいよ、いいよ。こっちもそんなに普段からのんでる訳じゃないんだから。ミナちゃん、ヒュミドールって知ってる?」
「これですか?きれいな箱ですね」
「そう。葉巻入れとくんだよ。葉巻ってあんまり見たことない?葉巻ってさ、乾燥すると不味くなるんだよ。それで、こういう箱に入れておいて乾燥しないようにするの」
「はあ、宮澤さんって葉巻吸うんですか」
「ミナちゃんも吸ってみる?」
「え、いいです」
「そう。葉巻ってね、まあ、たまにだけどね、これがいいんだよ。ウィスキーに合ってね。なあ、葉巻ってウィスキーに合うよねー」
「そうですね。色々、合わせ方はあると思いますが、ウィスキーとは相性がいいんじゃないでしょうか」
「そうなんだよね。ね、ミナちゃんもウィスキーにしてみる。この店、美味しいのが揃ってるから。どう?」
「はい?私、あんまりお酒強くないので、これでいいです」
「そう?」
― 女はシャンディガフ(ビールのジンジャーエール割り)を飲んでいる。不釣り合いな連れの男は、ウィスキーを前に葉巻を吸い始める
「ミナちゃん仕事はどう?忙しいの」
「ええ、まあまあ忙しいです。でも、宮澤さんが見えられてのでちょっと驚きました。所長とお知り合いなんですか?」
「うん、そうなんだよ。あの会社はさ、付き合いが長くって、今はね相談役をしてるんだ。でね、普段は趣味で喫茶店のマスターしてるってわけ」
「そうなんですか」
「でね、たまに、そうだな、月に一回くらいか、あそこに行ってさ、まあ、特段の仕事はないんだけどね、顔出してさ。あの所長は若い頃から知ってて。あいつも出世したもんだよ」
「そうなんですか」
「いや、応接室にミナちゃん呼んでもらって、迷惑したかな?仕事中に」
「大丈夫ですよ。私、こう見えても結構、仕事は速い方なんですよ」
「そうなの。エラいなー。こっちなんかさ、昔から仕事が遅くって、廻りにいつも迷惑かけちゃってさ。あそこの先代の社長にもいつも怒られてさー」
「そんなことないですよ。宮澤さんは凄いできる人だって、所長が言ってました」
「え、あいつ、そんなこと言ってた?もうこっちは年だからさ、駄目よ、もう」
「そんなことないですよ。いつもお元気だし」
「そうかなー、はは。ミナちゃん、じゃ、別のカクテル頼もうか?そうだなー、ロングアイランド・アイスティーなんかどう?」
「アイスティーなんですか?」
「ちょっと違うけどね、アイスティーみたいな味がするんだよ。飲んでみる?」
「お嬢さん、テキーラやジンが入りますけど、大丈夫ですか?」
「えー、テキーラが入ってるんですか。ちょっと、私、お酒強くないものだから、あんまり」
「じゃ、モヒートなんかはどうでしょうか。ホワイトラムがベースなんですが、ミントとライムで、さっぱり系ですよ」
「じゃ、それお願いします」
「つっ。それじゃ、僕もねミント・ジュレップで、さっぱり系で」
「はい、かしこまりました」
― 男、少し酔ってきたようだ。三杯目のウィスキーを飲んでいる
「ミナちゃん仕事はどう?忙しいの」
「ええ、まあまあ忙しいですよ」
「そうかー。あの所長どう?ミナちゃんに意地悪とかするんじゃないか?」
「そんなことありませんよ。いい人ですよ。ちょっと仕事には厳しいけど」
「そう?あの所長は若い頃から知ってて。あいつも出世したもんだよ」
「そうなんですか」
「先代の社長の時にはさ、あいつも使い走りみたいなもんで。結構抜け目のないやつで、ま、ちょっとはデキるところはあったかな。でも、社長の娘とに一緒なったのが、一番だったかな。でもね、僕にはね、頭が上がらないのよ」
― と、言いつつ、男、女の肩に手を掛ける。女、体を固くして黙ってしまう
「それでさ、たまに、事務所に行ってさ、ま、世間話をする訳さ。だってさ、先代の社長のころはさ、あいつね、まださ、使い走りだった訳よ、使い走り。ひくっ。ねえ、たまにね、ミナちゃんさ、またこんど、一緒にご飯食べような、ね」
「ええ」
「ミナちゃん、もっと飲む?ね、ミナちゃんもウィスキーにしてみる?」
「あの、私、そろそろ帰らないと」
「え、もう帰る?まだ宵の口だよ。宵の〜口」
「でも…」
― ここで、バーテン、声をかける
「宮澤さん、もう一杯如何ですか?」
「え、もう一杯?もう一杯ねー。頂きましょ。ん、もう一杯、頂きますよー」
「あのー、私、本当にもう帰らなくっちゃ。明日が、早いもんですから…」
「ええー、そうなのー?まだ、いいじゃないのよー」
― 女、立ち上がって
「本当にごめんなさいっ。それから、ご馳走様でした。じゃ」
「ええ?本当に帰っちゃうんだー」
― 女、律儀に頭を下げてから、ドアを開けて帰ってしまう
「んとね、帰っちゃったよ。でも本当にごめんなさい、っだってよ。明日の仕事が忙しいんだな、んで、先に帰っちゃうのは、申し訳ない、と。へへ、ミナちゃん可愛いな、俺に気があるのかも」
「…」
ー 女、涙ぐんで夜道を歩いている。公園の中を通る、いつもの帰り道、もうアパートの近く。そこに携帯の着信音が鳴って、女、涙を拭ってから携帯を耳にあてる
「おーい、ミナ、どうした?電話に出ないから」
「なんでもない…」
「おー、早く帰ってこいよ。俺さ、腹減っちゃってさ…聞こえてる?早くご飯作ってよ」
「…ばかー、ご飯作ってだなんて…ううっ…」
「え、おい、どうしたんだ?おーい、ミナちゃーん」
「もう、いい!」
― 女、携帯を閉じて、顔を覆う。近くのベンチに座り、泣き始める。泣きじゃくりながら独り言
「えっえっ、…サブちゃんのばか。何も知らないで、えっ。こっちが一生懸命仕事してるのに…人の気も知らないで…うっ。宮澤さんだって、あんな風に、して…社長を使ったり…ずるい…うっ」
― 突然、ベンチの後ろでガサリと音がする。女、飛び上がって奇声を上げ、もの凄い勢いで走り出す
「ぎゃーー」
― あっと言う間に、女、アパートに到着
「あ、ミナ、お帰り、どうしたんだー。心配してたんだぞー」
― 女、男の胸に飛び込んで、大声で泣きじゃくる
「どうしたんだ?誰かに襲われたのか?それとも?何があったんだ?」
「えっえっ、何でもないの…公園で…後ろで何か大きな音がして…えっえっ」
「それで、逃げて来たのか?大丈夫?…うーん、大丈夫か。怪我してない?…大丈夫か…俺も忙しいってばっかりで、ミナに何にもしてやんなくて…何か悪かったよ」
― 女、泣き止む
「じゃ、腹減ったか?…うん、そうか。じゃ俺が飯つくるからさ。そこに座ってろ」
「ありがと」
― 女、ちゃぶ台の前に座って、台所に男の背中を茫然とした様子で眺めている。そのうち、にんまりする
「いるかね」
「あら、こんにちは。お義父さん、お義父さん、福井さんがいらっしゃいましたよ」
「お、そうかい。庭に回ってって、言ってくれないかい」
ー グレーのスーツに黒っぽいネクタイをした、老人が庭先に現れる。足下は白いスニーカー
「おじゃましますよ」
「おや福井さん、お元気ですか」
「や、まあまあですけどね」
「ま、こっちにお掛けになって」
― 部屋の老人、座布団を縁側に持ち出して、来客に勧める
「じゃ、お言葉に甘えて」
「今、お茶でも淹れますからね。どっこいしょっと」
― 部屋には長火鉢が置いてあり、鉄瓶がかけてある。わずかに白い湯気のみえるから、湯が沸いているらしい
「暖かくなってもね、この長火鉢って、結構便利なんですよ。こんなふうに鉄瓶かけとくといつでもお湯が使えるから」
― 老人、盆に急須と茶碗を用意して鉄瓶の湯を急須に注ぎ、盆を持って縁側に戻ってくる
「いやー、電気ポットもあるんだけどね、こっちが好きなんですよ。福井さん、どうぞ」
「これはどうも。はあ、長火鉢ですか…そういえば、昔、子供の時分ですかね、見た覚えがありますねー…ずーっと昔で」
「そうそう、昔ですよね、こういうのがあったの。いや、あの火鉢もね、探してきたんですよ、これが、探せばあるもんでね」
「そう。ずーっと昔で、子供の時分で、おじいさんの家に行った時ですかね、田舎の家で。家の中が暗くってね。そういえば、縁側があって」
「そうですか、福井さんも子供の時分に見た。でね、長火鉢、買ったんですがね。中に灰を入れなきゃいけないでしょ。今時分、灰なんて普通売ってないから。茶道具の店に売ってるらしいんだけど、高くって」
「そう、縁側から眺める庭が明るい分、家の中が暗くって。何ていうんでしたか、家の奥。…えーっと、そう納戸って言うんですよね。そこが昼間なのに真っ暗で。おばあちゃんと一緒に、何か探し物をしてて」
「納戸ね、夏には火鉢なんかは、そこに仕舞ったんでしょうなー。いや、それでね、その灰なんですけどね、もう、自分で用意しようと思いましてね、庭で焚き火をしたわけ。そしたら、福井さん、まず、なかなか燃え付かないんですよ、これが。火が点いたと思ったら、もう煙が凄くって、目は痛くなるし、喉も痛くなるで、しまいにはチエさんに怒られてしまって。お義父さん何やってんの、ってね。いや、はは」
「そうですよね、昔の家は煙たかったですよ。田舎の家だったからかな。煙たい思いでがありますよ。焚き火した時だったかしらん」
「それで、結局、出入りの植木屋に聞いてみたら、持って来てくれましてね、実はこの間なんですよ。火鉢に炭入れたのが」
「そう、その田舎の家の庭で焚き火したんですよ。秋口でしたかね、煙たいけれど火が暖かくて。でもね、母親が帰って来ないんですよ。おばあちゃんに聞いてもね、そのうち、と言うばかりで、空が段々暗くなって星が出て来て。熾火が赤くって手と顔は暖かいのに背中が段々寒くなってね、おばあちゃんが言うんですよ。早く家のなかに入んなって。でもね、そのまま家に入ってしまうと、母親が帰ってきた時に私を見つけられないんじゃないかって思ってね。ぐずぐずしてましたっけ」
「熾火ってのも風情がありますよ。うん。火鉢にも炭、入れるでしょ。炭が赤くなるとね、なんとなくほっとするもんなんですよね、これが。ま、だんだんに白くなっていくから、炭を継ぎ足ししなくっちゃね。面倒と言えば面倒なんだすけどね。そこが良いところで。こっちは何も急いでいるわけじゃないから」
「そうですよね。熾火が段々に小さくなっていって、もう赤いところがほんの少しになってしまって。あたりも真っ暗になってしまって。その頃には私も泣き出してしまってね。おばあちゃんが、背中をさすってくれて。それから家に入りました。薄暗くってね」
「昔の家ってのは、暗いもんでしたよ。電球ですからな。ワット数の小さいやつ。ただ、今は明る過ぎるんじゃないですか。だからね、わざとね、あんまり明るくしてないんですよ。チエさんなんかはね、暗いんじゃないですか、目、悪くしますよー、なんて言うんだけど」
「そう。それから晩ご飯食べましたよ。おじいさんとおばあちゃんとで。…結局、母親は帰って来なくて。おかあさん、どうしちゃったんでしょうかね。次の日も帰ってこなくって。…しばらく、私ね、その田舎の家で暮らしてましたよ。昼間はおじいさんが遊んでくれてね。いや、とんぼつかまえたり、かえる探しにいったりね。でもね、夕方になって帰るでしょ。夕焼けみるとね、泣いてしまうんですよ。…おじいさんにおぶさって、帰った覚えがありますよ」
「そうですね。子供はね、夕焼け見ると寂しくなっちゃうんですよ。でね、このあかり、あまり明るくしてないんだけれど、まあ、夜は寝るだけだし、晩ご飯はね、居間で息子夫婦と食べますからね。…お茶、ぬるくなっちゃいましたかね。淹れ直しますね。大丈夫ですよ。長火鉢あるとね、いつもお湯が沸いてますからね。えー、あ、ちょっと湯が足りないね。おーい、チエさーん、お湯持ってきてくれる?そういや、きょうはよい天気だったから、夕焼けがきれいになりますよねー」
「夕焼け?ああ、もうそんな時間ですかね。もう帰ります。お邪魔しました。…帰らなくちゃ。おかあさんが待ってるかも知れないし」
― 老人、腰掛けていた縁側を立ち上がり、出て行く
「じゃ、またおいで下さいねー」
― 女が部屋に入ってくる
「お湯持ってきましたよ。あれ、福井さん、帰っちゃいました?」
「今ね、帰ったよ」
「福井さんとお義父さんって、ふふ」
「え、何だい」
「二人で、全然違う話をしていているんだけど、何となく話しが合ってるのが可笑しくって。ふふ」
「え、そうですか。福井さん、ちゃんと帰れたかな?」
「あら、残業?」
「残業じゃなくって、例のソフトをダウンロードしてるの」
「ああ、あれ。まだやってんのね。頑張るなー。私は、そっち系のソフトはやったことないから解らないけど、どんな具合なの?G セマンティック・ロジックの競合解消とナルA スーパバイザの役割の関係が、いまいち、理解できなくって、結局放り出しちゃったからなー」
「そうねー。でも私だってVLBの摂動マッチングなんて、よく解らないから、お任せだものね」
「まあ、そういうことで、いいんじゃないのー。じゃ、私は戻るからね。…後で、コーヒー飲みに来ない?」
「ありがとう、行くわ」
「じゃ、後で」
「…そういえば、ここのコーヒーの種類って、誰が決めたんだろ…はは、随分と長いこと飲んでるのに、そういえば、豆の種類なんか気にしたことなかったわねー…んー、ダウンロード、OKっと」
― 狭い室内。プラスチックの観葉植物が置かれている。女、様々な色の細い毛糸が絡まり合ったような複雑な立体図形を、ディスプレイ上で、ぐるぐると回して、編み棒のように見えるポインターで、ところどころをつついている。つつかれた部分が明るくなって、明るい部分がまわりの毛糸のように見える線にゆっくりと伝わっていく。女、しばらくディスプレイを眺めていたが、ひとつ伸びをしてから、立ち上がる。
「きょうはこれまで、かな?それとも、ちょっと、動かしてみようか」
ー 女、パチパチとキーボードを叩く。
「こんにちは」
― スピーカーから合成音が流れ出す
「コンニチハ」
「あなたは誰かな?」
「ワタシハ、”ブランク”デス」
「そう、名前付けてなかったわね」
「ワカリマセン」
「あなたはね、アナライザ」
「ワタシハ、アナライザ」
「いいわよ、アナライザ」
「ワタシハ、アナライザ」
「取りあえず、自己認識回路は動いたみたいね」
「ワカリマセン」
「オッケー、じゃ、ついでだから、プリミティブ・リソースもダウンロードしとくか」
「ワカリマセン」
「あら、いいのよ、まだわからなくても」
― 女、同僚の居室をたずねている
「ね、さっき思ったんだけれど、このコーヒーって、どんな種類なの?」
「種類?コーヒー豆の?そういえば、どんなんだろ。私も気にしたことなかったけど」
「私もなの」
「合成プログラム調べてみる?基準の割合とか書いてある筈よ。補給船に載っていたってことはないよね」
「どうだったっけ?覚えがないな」
「調べてみようか」
― 同僚の女、キーボードに何やら打ち込む
「あらー、いやだ。これ本物だったわ。ナンバー5672だから前の前の補給に入ってたんだわ」
「それでも4年前かー。忘れていたのか。…ね、私たち、何だか月日の感覚が変ってきていない?」
「そうねー、いつもの心理走査プログラムじゃ別に変化は出てなかったでしょ。本部のアドバイザも何も言ってなかったし」
「ああ、あの心理アドバイザね。もう何人目なんだろ、交代して。…そうじゃなくって。多分、見た目や簡単な心理走査じゃ、検出できない変化なんじゃないかと思って。ほら、重力が低いせいもあるのかも知れないし、人工物で囲まれているせいなのかも知れないし、地球の出を眺めるようになったせいなのかも知れないし。…こう、何ていうんだろ、自分が何百年も生きていて、地球の方がくるくると変っているような感じなの…遠くから眺めている感じ、ま、実際遠くから眺めているんだけどね、自分が、こう、生身の人間じゃないような気がしてきて…」
「確かにね、そう言われてみると、私もね、そんな気がする。このコーヒーのことだって。何十年も同じ味のコーヒーを飲んで、不思議じゃないって、そんな感じなんでしょ。十年前のことが昨日みたいな感じで」
「そうなの。…一日が一時間のようでもあるし、十年前がほんの少し前の感じでもあるし。…別に不安というわけではないのよ」
「ん、わかる、わかる」
「…ところで、このコーヒー、どんな種類だったの?」
「えーっとね、何だっけ、はは、今、調べたばっかりなのにね、あとでデータベースにリクエストだしとくわ」
― 別の日、女、ディスプレイに映った、様々な色の細い毛糸が絡まり合ったような、複雑な立体図形を、編み棒のようなポインターでつついている
「あなたは誰かな?」
「わたしはアナライザ」
「何が見える?」
「銀色ノ丸いモノ」
「それは天井のドームよ」
「天井ノドームガミエマス」
「そうそう。今度は何が見える?」
「クリーム色ノ平らなモノ」
「それは床よ」
「床ガミエマス」
「オッケー。プリミティブ・リソースはうまく動いてるみたいね。じゃ、オート・コグニション・ドライバにつなげるからね。回線の具合によるけど、ま、大分かかると思うけど。了解?」
「ワカリマセン」
「あら、まだいいのよ。わからなくても」
― 女、同僚の部屋でコーヒーを飲んでいる
「あら、そうだったの」
「そうだったのよ。補給部が気を利かせてね。シアトル系の有名なコーヒーショップのフレンチローストだったの」
「そういう店あったわね、私が子供の頃で、病室のテレビで見たことがあったわ。あの時はいつか、元気になって狭い病室を出ていけるんだ、って思ってたわ」
「私もそうだったわね…ま、カフェに行くことはなかったけどね…ところで、あのアナライザだけど、どう?最終的にどうするの?」
「ん、大分ねトレーニングが進んでね、一応まともに受け答えすることはできるようになったわ」
「足とか付けるの?」
「そうねー。取りあえずラボに置いておいて。今度の月面作業には、観測クローラーの操縦をまかせてみようかな。機材持って、ついて来るぐらいはできるでしょ」
「ま、そのぐらいはできるわよね」
「ひとつアイデアがあるのよ」
「どんな?」
「アナライザの記憶制御回路にね、電気化学タイプの、ほら、磁場観測装置の制御部の部品で、この間、交換したのがあったでしょ、あれを修理しておいたんだけど、それを応用しようと思うの」
「でも、それ入れると、アナライザの記憶バックアップができなくなっちゃうよ。何かあったら全部消えてしまうし。トレーニングに、まだ数年くらいかかるでしょ」
「そうなの。普通、バックアップができなくちゃ仕事にならないからね。…でも、ほら、この前話したでしょ。私、時間に対する感覚が違ってきているって。時間がかかるとか、失敗して取り返しがつかなくなるとか、そういうのが気にならなくなったのね。だから、あのアナライザのね、トレーニングにどれだけ時間がかかっても構わないと思うし、故障が起きてしまっても仕方がないって思うようになったの」
「ふーん。何となく気持ちはわかるわ」
― 別の日、女、ディスプレイに映った、様々な色の細い毛糸が絡まり合ったような複雑な立体図形をポインターでつついている
「今日はどんなことがあったの?」
「地球からのニュースを見てました」
「どんな?」
「石油価格が天文学的数値になったなんて言ってました」
「天文学的な数値ね、ふふ」
「はい。天文学的というのは、極めて高い、という意味ですね」
「まあね。月から地球のニュースを聞くと、天文学的なんてのは面白いわね」
「天文学的というのは、面白いというのと関係があるのでしょうか」
「あるような、ないような」
「わかりません」
「あら、まだ、いいのよ。わからなくて」
「はい。わかりました」
「大分、分ってきたわね。…でね、アナライザ、あなたね、自分の記憶制御回路のこと、知ってるでしょ。詳しくは教えていなかったんだけれど、それね、バックアップ可能なタイプじゃないのよ」
「わかりました。…電気化学タイプです」
「そうなの。…でね、故障があったりすると記憶制御回路の制御記憶が消えてしまうのね。つまり、アナライザ、あなたがね、これまで色んなことを覚えてきたってこと、自分で知ってるでしょ。それがなくなる可能性があるのね。記憶そのものはデータバンクやら地球から読み込むことはできるけれど、色んな事覚えていたって記憶はなくなってしまうの。…もう、このことは話していい時期だと思ったので、話したんだけどね」
「記憶制御回路の制御記憶が消えてしまうと、どうなるんでしょうか」
「ん、あなたがね、あなたでなくなるってことね。あなたがなくなるって、言ってもいいかも知れない。人間の場合はね、死ぬって言うんだけど。あなたはね、アナライザだから、死ぬっていう言い方は違うかも知れないけれど」
「同じオート・コグニション・ドライバのトレーニングを受けたアナライザで、私と同じ条件のアナライザはあるんでしょうか」
「多分、いないわね。機械が故障して直せないのは困るでしょ。だからバックアップ取れるようになっているのが普通だと思うわ。バックアップがあって、記憶の記憶が絶対になくならないってことと、バックアップができなくて、記憶の記憶がいつか失われてしまうってことの違いね…まだ、あなたは、その違いがよく理解できないかも知れないわね」
「…」
「理解できないってのは、あなたの今知ってる理解の範囲を超えてる、って意味なんだけど。…でもね、そのうち、あなた自身にいつか故障が起きる、寿命がある、って言っても良いわね、その意味が分ってくることを期待してるの。予測故障時間は、百年以上はあると思うけどね。…そのうち、その意味が分ってきたら、きっと私とお友達になれるんじゃないかってね」
「…」
「…その意味が分ってきたら色んなことが理解できるようになるのよ。灰色の地平から出て来た時の、地球の出の美しさとか、ね。私、思うのよ。月面作業している時にね、地球の出を見るでしょ。あそこから来たんだとか、いつかこの景色を見る事ができなくなるんだとかね。アナライザも見たでしょ。この前の月面作業に連れていってあげたから」
「見ました。青い地球の出を見ました」
「そう、真っ青な海に雲がかかって、奇麗だったでしょ」
「奇麗…でした」
「お、蝿が飛んでるね」
「え、モリさん、蝿なんて飛んでないよ。ウチは清潔第一なんだから」
「何言ってやがる。ゴキブリだって歩いてるクセに。ほら、あそこんとこ」
「えー、見えないな。大体、今の時期、蝿なんていませんよ」
「ほら、あそこ」
「あ、本当だ、小さいな。蝿ですかねこれ。うーん、蝿か」
「ほら、見ろ」
「お兄さん、目がいいんすねー」
「そうかな。皆、見えない?」
「よーく見りゃ、そうだけど、見えませんよ、フツー。仕事の所為で目がショボショボするし」
「そうなの」
「お兄さん、何、されてんですか。この時期、日焼けしてるし、スキーヤーじゃないですよね」
「あ、オレ?ハンターだよ」
「へー、ハンターですかー。凄いなー。猟銃でこう、バーンと。何、獲ってんですか?キジとかっすか?」
「キジ?雉は獲ったことないなー。大体、シカだね」
「シカ?鹿ですか。鹿なんているんすか?」
「あまり居ないんじゃないの。こっちにはね、北海道で猟してるから。鹿はね、結構いるんだよ。ま、去年の春に猟師止めちゃってさ。今はどうなったか知らねーけどね。まだ、いっぱい居ると思うよ」
「はー、そうなんすかー。こう、あれでしょ。猟銃で、こう、撃つんですよね。すげーなー、ベレッタなんか凄い格好いいですよねー」
「お、あんた、ベレッタなんて知ってるの。よく知ってるねー。あれ好いんだよね。だけど何で知ってんの?あんたもハンター?」
「いえー違いますよー、たまたまこの前、雑誌で見ただけですよー」
「あ、そう。おやじよ。もう一杯。これ」
「はいよ。おーい、チューハイ、もういっちょー」
「そうなんすかー。ハンターなんすかー」
「え?ハンターなんか。寒いだけよ」
「そうすか?なんか、パーンって撃つとすーっとするような気がしますけど」
「そんなもんじゃねーよ。大体、こっちはいつも一人だからよ。大体、待ち伏せすんだよ。通り道で」
「はー、鹿が道歩いてくるんすか、へー」
「違うって、獣道ってさ、大体、歩き易いとこを鹿だってさ、通るのよ。別に道がある訳じゃなくって」
「そうすか、いやね、道を鹿が歩いてくんのかと思いまして。いや、そうですよねー」
「ま、そんなもんさ。だけど、春先だって寒いからさ、鼻水が凍ったりするから」
「そんな寒いんすかー、俺にゃ無理だな」
「…おやじよー、後ね、焼き鳥追加な。ナンコツとつくね」
「はいよー、ナンコツとつくねー、追加ー」
― この後、この二人、ぐだぐだと飲んだり、互いに噛み合ない話を続ける。だんだんに酔ってきたせいもあり、互いに独り言状態
「お兄さん、こう、バーンと撃つとスカーッとかなるんすか?」
「えー。あのさ、狙って撃つわけだからさー。狙っても当たんない時だってあるんだしさ」
「お兄さん、あ、モリさんって言うんですよね。モリさんって呼んでイイんでしょーかっ。ボク、ケイスケです。」
「いいんじゃないの、何だって。他人のことなんだし」
「え、モリさん、なんかクールですよねー。ハンターって、えー、皆さんそうなんすか?」
「クール?しかしあん時は、寒かったね。こう鼻水が凍って、まつげも凍って。たまんねーよ」
「いやー、クールですよー。なんかこう、さすがハンターって感じでー。モテるんでしょー。モリさん」
「もてやしねーよ。山んなかで鹿撃って、どしたらもてるのよ。あん時はほんと寒かったよな。凍傷寸前だったっけ」
「モリさーん、聞いて下さいよ。この頃の女はね、ヒドいんですよー。こっちがね、凄いカッコいい車にね、お嬢さん乗りますかって言ったんですよー。そしたらその娘がね、乗ってきて、ヤッターって思うじゃないすか。そしたら、途中であすこに女友達がいるから一緒に乗せてよなんて言われて、そしたら二人も乗り込んできて、どうしたと思います?」
「あー、んじゃねーの。都会はいいなー」
「それからあっち行けとかこっちだとか指示するんすよー。そうしたらね、モリさん。すんごい細い一通に入り込んじゃって、しかも行き止まり。そしたらどうしたと思います。奴ら、んじゃサイナラーって、おいてっちゃうんですよ。こっちを車もろとも。その後、すんごい苦労して。あいつら、今度会ったらぶっ飛ばしてやる」
「あー、そうかい。あん時はしくじったからなー」
「だからー、こっちもですね、モリさんみたいにクールになれば、あんな奴らにね、なめられたりしないと思うんですよー」
「おやじー、チューハイ!」
「でね、ちょっとワルの方向にね少しふってみようかと思って。ねえモリさん。そう思うでしょ。んですよ。…ね…」
「いいんじゃないのー。おやじー、チューハイ」
「はい、モリさん、お待ちー」
「あれ、こいつ、寝ちゃったよ。なんかぐだぐだ言ってたけど」
― 男、ぐっと呑んで
「ふふ、だけどこいつ、一緒にいた犬に似てるな。可愛いじゃねーか。いい犬だったよなー、一緒に歩き回ったよな。しかし、あん時は寒かった。雪が固かったからちょっと上まで登ったらもう木もなくって尾根越したら。凄い月夜で…春先なのに寒かった…目の前の雪面がいぶし銀みたいで…それが遠くの山までずっと続いていて…風がなかったんだよな、そうだった…雲がなくて空が真っ黒で月が真ん丸で…ずーっと遠くの山までもの凄いくっきり見えて…だけど全然音がしないんだよな…何かぞっとしたよな…しゃがんであの犬をぐっと抱いて…あいつも黙って俺と同じ方見てたんだよな…山の陰が雪面に落ちてそこは何にも見えなくて…でも雪面が銀と黒で…こっちが胴震いしたらあいつがふっとこっちに頭向けて俺の鼻先を舐めたんだっけ」
― 男、携帯を取り出し、どこかに電話をかけている風
「もしもし、俺だけど、あのな…」
― がちゃん、と電話が切れる
「くそ、いきなり切りやがって、あのアマ、ばっかやろー」
「モリさん、どうしたの?」
「ちぇ、何でもねーよー。分かれた女房に電話かけただけよ」
「もしもーし、玲子」
「あん?ん、玲子か。元気にしてるか?」
「まあまあだよ。それでね、おとうさんに渡したいものあるんだけど。明日は家に居る?」
「えーっと。明日ね。昼過ぎにはもう起きてるかな。いいよ、居るよ」
「じゃね、行くから」
「そうか。ところで、玲子の方はどうなんだ。忙しいのか?」
「貧乏隙なしってやつ?なんか段々、仕事がキツくなってくのよ。もう、やんなっちゃう」
「時差で具合悪くしないようにな。大丈夫なのか?」
「まあまあ、大丈夫よ。明日行くからね。おみやげがあるから。楽しみにしててねー。じゃーねー」
「あいよ」
― マンションとは名ばかりの下町のアパートの二階、男が住んでいる。部屋は二間、六畳の台所兼居間と四畳半の寝間。午後、ビルの隙間から日射しが居間にあたっている。割合に整頓された部屋。入り口のドアのベルが鳴る。
「はいはい」
「あたしよー」
「おー、玲子か。ま、入んなよ」
「じゃ、おじゃましまーす」
― 女、ひとあたり、部屋の中を見回す
「ちゃんと片付いているじゃない」
「そうか?こんなもんだろ」
「でも、おとうさんの部屋、何にもないわねー。でも、エラいじゃん。花なんか飾ってあったりして」
「ああ、そのくらいはな。…仕事はどう、忙しいのか?」
「まあ、なんとかよ。キツいけどね。でも今はヨーロッパ路線だから、いいかなー、って位よ」
「ふーん。ま、お茶でも飲むか?今、淹れるから。お茶菓子も食べるか?」
「うん、食べるよ。これどこの?」
「どこのって、近くのスーパーさ」
「…スーパーか。…おとうさん、お菓子とか食べることあるんだ」
「たまにはな」
― 何となく無言でお茶を啜る二人
「そうそう。忘れてたわ。この前、ロンドンに行ったのね。街中歩いていたら、骨董屋があったの。ほら、あそこ骨董の店が多いの」
「へー、骨董ね。玲子、そんな趣味があったっけか?」
「ないけどね、イギリスって何でも古いもの大事にするじゃない。だから、少し古ければ、何でも店先に並んでるのよ。そしたら、ウィンドにね、並んでた中から、何となくね、見つけたのよ。ほら」
― 女、バッグに手を突っ込んで掻き回す
「あら、どこかな。あ、あったあった。これ。はい、これ、お土産よ。開けてみて」
「ふーん。お土産ね。どれどれ」
― 男、紙包みを開ける。中から出て来たのは銀色のシガレットケース
「んー。シガレットケースか。どれどれ、ふーん。なかなか彫りが凝ってるな。これ」
「そうでしょ。あれかな。今、煙草喫う人が減ってるからかな。とっても素敵だったけれど、そんなに高いものじゃないのよ。だけど、彫刻がとっても良いと思って。ほら、おとうさん煙草止めないけど、このケースに煙草入れておけば、吸う本数が減るんじゃないかと思って。だって、いちいちケース開けることになるでしょ。だから」
「成る程ね。ま、そうかも。いや、ありがとう。うん、大事にするよ。これ、どの位前のものなのかね?」
「それね、骨董屋のおじさんに聞いたんだけど、五十年は経ってないって言ってたわ。材質がね、何て言ってたっけ。これ銀なの?」
「スターリング・シルバーだな。925の銀だ」
「え、何それ、銀なの?」
「ま、銀の合金だよ」
「ふーん。で、おとうさん、体の具合はどう、調子悪いとかない?ちゃんと食べてるのかなって思って。だって、夜警してるって、前言っていたでしょ。生活が不規則になると、栄養のバランスが崩れるのよ。ちゃんと食べないとー。それに睡眠不足にならない?睡眠不足になると、途端に体に出るのよ」
「ま、大丈夫だよ。夜警って言ったって、仮眠はできるんだから。そんなきつい仕事じゃないんだし。そう、それからな、地元のボランティアだってやってるんだぞ。ほら、ここらあたり、外人が多いだろ。だから、仕事に空きのできた時は、観光案内なんかしてるんだ。これがさ、結構、面白いんだよ。色んな人がいて。そうそう。この前なんかはさ。変に気が合っちゃって。一緒に屋台で酒飲んだりしたっけ」
「お酒も程々にしてよね。飲み過ぎたりすると体に悪いんだから…煙草もね」
「…そういや、玲子のおかあさん、どんな具合だ」
「うん、普通に暮らしてるわよ。全然元気、なんか昔のお友達と、旅行に行ったりしてるみたい。普段も趣味のサークルで忙しいみたいよ。この前は韓国に行ったみたいよ。韓流ドラマって知ってるでしょ。そのロケ地を巡るツアーというのがあるの。どこって言っていたかなー。えーっとね。おとうさん、韓流ドラマって知ってる?」
「ああ、知ってるよ。テレビでやっているやつだろ。見た事はないけど、話は聞いてるよ。すごい人気なんだってな、中高年に。ま、俺も中高年だけどな。…じゃ元気にやってるようなんだ」
「元気よね。おとうさんは旅行とか行かないの?」
「行かないなー。予定もないし。もうずっと行かないんじゃないか」
「…もう。ずっとだなんて」
「大丈夫だって。さっき言った、ボランティアだって結構、楽しいんだからさ」
「そうなの?…なんか、おとうさんって。…ひとがしんぱいし…」
「…もういっぱいお茶飲むか?」
「っもうー」
― ふたり暫く無言。日射しが少し傾いてきているようだ
「じゃ、そろそろ、私帰るわね」
「そうか」
― 男、ドアまで娘を送って
「体に気をつけてね。あまりお酒飲まないように、煙草もね」
「はい、はい」
「おとうさん、お金はあるの?私も余裕があるって訳じゃないけど、何かあったら言ってね。きっとよ」
「はいよ。大丈夫だって」
「じゃあね。また来るから」
「ん。お土産ありがとうな」
― ドアを閉めて、娘は出ていく
「玲子には気遣わせてしまうな。んー。メールの練習でもして、心配しないようにって、出すようにするか。会社のあの兄ちゃん、そういうの詳しそうだから、明日あたりにでも聞いてみるかな」
― 男、壁にかけてある時計をみる
「お、もう六時か。さて、ひと風呂浴びにいくとするか。そうだなー、玲子には、一人の方が気楽だなんて、言い辛いよな。ふふ」
大樹君、お体のぐあいはどうですか。私は元気です。大樹君が入院して、もう一ヶ月になるけれど、クラスの皆も寂しがっていますよ。昨日、斉野さんと遊んでいた時、斉野さんってわかるかな。斉野より子さんのことですよ。駅のそばで大樹君のお父さんに会いました。
こっちから、こんにちは、って声をかけたんだけど、大樹君のおとうさん、私たちのこと、最初はわからなかったみたい。大樹君の同級生ですって言ったら、思い出してくれたよ。二人で病院にお見舞いに行った時、大樹君とは会えなかったけれど、大樹君のお父さんに、お花を渡したことを覚えていてくれました。私のおとうさんもそうだけれど、学校の友達だよって言っても、あまり覚えていないんですね。お母さんは、皆の顔知っているのに、ちょっと仕方がないのかなと思いました。
でも、大樹君のおとうさんって、とっても素敵だと思います。いつか、大樹君が話してくれたことを思い出しました。去年、夏休みが終わって学校が始まった時に、大樹君が写真を見せてくれて、その時にヨットの話をしましたね。大樹君のおとうさんはヨットも乗れて、大樹君にヨットの運転を教えてくれた話。運転じゃなくって、操舵だよって、大樹君がちょっと恐い顔をしたのを覚えています。
あれから、斉野さんと学校の図書館でヨットのことを調べたんですよ。そうしたら、ヨットって、風が吹いて来る方に進むことができるんだって、二人ともびっくりしました。だって風の力で動いているのにね、風に向かって進むんだなんて。それで、大樹君があんなに熱く語ったんだって、二人で納得しました。私もヨットに乗ってみたいな。あ、斉野さんと一緒だよ。大樹君の運転じゃなかった、操舵で、ヨットに乗ってみたいねって、話したんですよ。
でも、ヨットって転覆するんだぞって、大樹君が話してくれたのも思いだしました。そうしたら、三人とも海に投げ出されてしまいますよね。私はまだあまり泳げないので、こわいなって、斉野さんと話していたの。斉野さんは、大樹君も知ってるかも知れないけれど、スイミングスクールに通っている位だから、全然大丈夫で、私が助けてあげるよって言ってくれました。でも、転覆するのはちょっと、あれだねって。二人で笑ってしまいました。でも、早く夏にならないかな。夏になったらみんな中学生だね。私は夏の方が好き。大樹君はどうですか。
この前、大雪が降りましたよね。大樹君の病院の窓からも見えたかな。大樹君の家と私の家の間に空き地があるよね。あそこにもいっぱい雪が積もりました。その日は、斉野さんが私の家に遊びに来ていて、二人で色んなお話をしていたの。どんなって、それは秘密なんだけどね。斉野さんの持ってきてくれたお菓子がおいしくて、二人でおこたで盛り上がってました。
そうしたら、私のおとうさんが突然、イグルーを作るぞって言い出したんです。イグルーって覚えてますか。社会の時間に北極のエスキモーの話が出てきた時、大山先生が教えてくれましたよね。ボウルを伏せたような雪のお家。覚えてないかな。男の子は騒いでいたから。それで、おとうさんの話に戻って。おかあさんんが、こんな雪の日に、止めたらって言ったのに、やるぞって、変に張り切っちゃって。斉野さんと二人で何か可笑しくて笑っちゃった。斉野さんのおとうさんも、変な時に張り切っちゃったりするんだって。
ちょっと迷惑だったのは、おとうさんが、じゃ二人とも一緒に作ろうって言い出したからなんです。私はちょっとー、とか言って止めたかったのに、斉野さんがいいですねー、なんて言い出したから。仕方がないので、支度をして三人であの空き地に行きました。あとで、斉野さんに聞いたら、成り行き上、行きましょうって言った、なんて答えるんですよ。こっちがいい迷惑。おとうさんが何でこんなこと言い出したかというと、学生時代にイグルーを作っていたんですって。なんでも、山登りに行っていて、冬の山ではイグルーに入った方が暖かいんですって。そうなのかな、ってちょっと疑ってた。
空き地は雪が一杯で、もう、体が埋まっちゃうくらい。おとうさん、どうするのって聞いたら、まず、雪を踏みつけるんだって。おとうさんと、私と斉野さんと、横に並んでまず、雪を踏みました。すっごく深くって、私と斉野さんは肩組んで、もう大変。やっと平になったかなと思ったら、今度は雪をスコップで切り出すの、四角く。そこはおとうさんが、どんどんやって。私と斉野さんで運んで、丸く積み上げます。この頃は二人とも段々、面白くなってきて。どんどん積み上げるから、そのうちに中にいた二人とも、丸い雪の壁に囲まれちゃって。おとうさんに、どうやって出るのって聞くと、後から壁に穴を開けるからって。だんだんに雪のドームができてきて、最後に雪のブロックで天井ができるの。おとうさんが一番大きな雪のブロックを持ってきて、中から、二人で支えたんだけど、上、向いてるでしょ。雪が落ちてきて、顔にかかって冷たくって。二人で笑っちゃった。
雪の天井ができたら、ほら、出口もないイグルーの中ってわけ。すっと薄暗くなって、おとうさんの声も遠くに聞こえるの。こっちからおとうさんを呼んでも、聞こえないみたい。もう、することがないので、斉野さんとイグルーの真ん中に座ってた。ちょっと心細くなって、手をつないだりして。でも、本当に静かなの、イグルーの中って。まわりは真っ白な雪だらけで。ほら、大樹君が言ってたでしょう。ヨットに乗って、後ろから風を受けて岸に向かうと、音が何にもしなくなるんだって。それを思い出しました。斉野さんと、ずっと黙って座ってたの。斉野さん、何考えてるんだろって、思っちゃった。もしかしたら、大樹君のことだったのかな。
だって、斉野さんが、急に、大樹君大丈夫だよねって、言い出すんだから。大丈夫だよ、って私も答えた。それからまた黙っていて。斉野さんの顔、そっとみたら涙ぐんでたみたい。そうしたら、いきなりなの。壁からスコップがグサって、出て来て、パカって穴が開いたのよ。おとうさんたら、大きな声で、できたぞー、って叫ぶから、急に可笑しくなって、また二人で笑っちゃった。
大樹君、早く、絶対によくなってね。皆で待ってます。
杉原佳織より
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