「桜の木の下には屍体が埋まっているんだ」
「梶井基次郎ね」
「そう。地下で腐っていく屍体を桜の根が抱きとっているんだ」
「タカシくんってブンガクよねー」
「それってどういう意味?時代遅れってこと?」
「え、そんなことないわよ」
「・・今日は学校の帰り?」
「うん、部活で遅くなったんで、そのまま来たの。タカシくんは?」
「講義は午前中だけだったから、ここにずっと居たんだ」
「あら、ずっと居たの。退屈じゃなかった?」
「僕は、ずっとこの桜を見てたんだ。ずっと見ていて、花が散るのを眺めてた。風もないのに、はなびらが数える間もなく静かに枝を離れて。ゆっくりと、桜のあの黒い幹を隠しながら、地面に向かって沈んでいくんだ。それから、僕は、舞い落ちるはなびらの雲の中に入り込んで、桜の木のてっぺんを見たんだ。やっぱり、はなびらは、天井一杯の花の間から沈んできて、僕のまわりで静止するんだ。僕は息を止めていたからね。静かに息を吐いたら、とたんに花びらが動き始めて、はなびらは僕をかすめて、地面にそっと降り積もったんだ」
「タカシくんって、素敵!」
ー 高台の公園から、桜並木が町まで続いている。夕陽が町並みの屋根に届いているのが見える。
「街が見えるわ、桜の花に埋まって。きれいな夕焼けね」
「夕陽が最後の力で、桜の花を染めているんだ。昼間、あんなに白く輝いていた桜の花びらが、橙色に染められて、見ててごらん、もう墨色が地面から湧き上がってきて。桜の根が地面深くから、真っ黒なものを吸い上げているんだ。昼間は日の光で分からないだけで、夕方にはその真っ黒なものが少しずつ、見えるようになるんだ」
「もうすぐ夜がやってくるわ」
「見ててごらん。あのずらりとつながった提灯に電気の灯が入るから。そうしたら、黒い影が一斉に、街からここにやって来るから。そして、桜の木を一本ずつ取り囲んで、うめき声を、その黒い幹に向かって投げかけるから」
「私、感じるわ、あの街の通りのあちこちに、こっちを見上げている、たくさんの気配がするわ。あの夕暮れの街角にいて、こっちの山の桜で埋め尽くされた山が、どんな風にみえるのかしら。自分の足下が黒くなってきているのに、桜の山が橙色に輝いているのが、きっと見えるんだわ。そして山全体の桜がざわざわと、呼び寄せているの」
「そうさ。でも夕陽が桜を照らしている間は、黒い影は、足を踏み出すことすらできないんだ。こっちを見ているだけさ。・・・ああ、僕の指先がちりちりするよ。あの黒い影の仲間が、電気のスイッチを入れようとしている。ここから、街まで続く、あの長い二列の提灯に灯が入るんだ」
「もうすぐよ。夕陽が西の山に隠れそうだから。橙色なのはやまの縁だけで、もう雲は紫色」
「灯が入ったよ。見て。ここの提灯から、あそこの街まで、影の仲間がもの凄い速さで、電気の灯をつけていったんだ。もうすぐ来るよ、影が」
「もう、見えるわ、黒い影がゆらゆらと、ほら、あんなにたくさん。でも、何も聞こえない。影だからおしゃべりもできないのよ」
ー 若い男、少女の腰に手を回す。少女、その手首をつかんで引き離す。
「まだ、怖くないわ。影は影よ」
ー 若い男、少女の腰に手を回す。少女、その手首をつかんで引き離す。
「タカシ君ってば。・・そうだお団子食べようよ」
「え、団子かい?」
「そうよ。夜桜には団子よ。ちょっと待っててね。私、買ってくるわね」
ー 少女、小走りに走って近くの茶店へ入っていく。少しして、戻ってくる。
「はい、タカシ君の分よ。私はね、これ。・・あ、それからね、・・ちょっと、このお団子も持ってくれる?」
ー 男、右手に団子の串、左手に団子のパックを持つ
「ここのお団子、美味しいわよね」
「僕さ、両手ふさがってんだけど」
「あら、なにかしようっての?」
「・・・」
ー 小春日和のよい天気。街のオープンカフェに丸いテーブルをはさんで男と女。
「先週、パリから帰って来たんだって?」
「そうよ」
「パリは暖かかった?こっちはずっと暖かくってね。暖冬なんだってさ」
「パリもね、いつもより、暖かかったらしいわ。ほら、天気が悪いといつもは、パリって酷く寒いじゃない?。先週は薄手のコートでも充分だったわ」
「そう。でも冬のパリで、一週間も何していたんだい?」
「あら、佐田君知らないの。そうよね、男の人は興味ないかもね。ソルドシーズンだから、買い物には便利なのよ」
「あー、そう。バーゲンか、ソルドって紙がウィンドウにべたべた貼ってある、あれか」
「そうよー。もう、こっちは行く前からね、パリのお友達に聞いておいてね。地図をおいてね、買い物する順番を考えるのよ」
「ほほー。気合いが入っているんだ」
「そうよ。ソルドの始まる二三日前にパリに入るようにしたのよ。わざわざ」
「へー、何で、二三日前からなんだ?」
「チッ、チッ、目当てのをチェックしておくのよ。今回はまず、サンジェルマンに行ってチェックしておくでしょ、それからデパート回ってあたりをつけとくのよ」
「何かすごいね。そこまでやるんだ」
「当たり前よ。わざわざパリに行くんだから。着ていくものだってね、コートの下は薄着にして、すぐに試着できるようにするのよ」
「へー、ヨーコさんの冬の薄着ね。見てみたかったね」
「何、言ってんのよ。すっごい混むのよ、ソルドの時は。試着室が混んじゃうから、人前で下着になるおばさんも居るのよ」
「さすが、バーゲン会場のおばさんか。どこも変わんないんだ。それで、目当てのは買えたのかい?」
「買えたわ。お気に入りのアニエス。いっぱい買っちゃったー」
「そりゃ良かったね。もう一杯コーヒー飲もうかな。おーいっと」
ー 男、手を上げてボーイを呼ぶ
「コーヒー、もう一杯」
「かしこまりました」
「あ、私もね」
「パリでは買い物してただけ?」
「そうね。ほとんどそう。後はダンナの下着や日用品もね、ソルドでまとめ買いしたわね」
ー 女、少し顔を傾け、上目づかいに、
「この話、聞きたい?」
「別に」
「ほら、ダンナって、研究者でしょ。身の回りのものも買ってあげないと、いつまでも同じものを着ていたりするのよ。だから、私がパリに行く度に揃えてあげるの」
ー 男、タバコに火を点けて、顔をそむけてから煙を吐き出す。女、それをじっと見つめる。
「何か、美味しいもの食べた?」
「ふふ、もちろんカキよー。毎日みたいに食べてたわー。シャブリのグラン・クリュ奮発して。まあ、二三日でちょっと飽きちゃったけど」
「そりゃ、結構だね」
ー 女、テーブルの上の男の手を取る。
「あら、妬いてるの。今度、カキ食べに行こうか?日本酒と合わせて飲みたいなー」
「妬いてなんかいないよ。他人のダンナなんだから」
ー 男、ちょっといらいらした風に、タバコを灰皿に押し付けて消す。
「ほら、『愛想笑いや空涙、上手な言い逃れ、どれも恋の手管の第一歩。一度に百人に気を配り、千人に目で話しかけ、皆に気をもたせて。本心は隠して、顔を赤らめ、嘘をつき、女王のようにやりたい放題で男を従わせるのよ』って唄があるでしょ?」
「知らないな」
「ほら、私、声楽科だったじゃない?今のはね、コシ・ファン・トゥッテの、デスピーナのアリアよ」
「二人の姉妹は誘惑されちゃうんだろ。ヨーコさんはどっちなんだ?」
「私はね、侍女のデスピーナよ」
「デスピーナはどうなるんだ?」
「知らなーい」
ー 焼き豚屋にて、初老サラリーマン二人
「じゃ、どうも、お疲れさまー」
「おつかれさんです」
「うぐっ、ぐっ」
「プハー」
「いや、今日は暖かかったなー。もう春だねー」
「そうそう。ランチとってから、珍しく散歩しちゃいました」
「あれですか。いつもは昼ご飯の後、どうしてるんです?」
「大分、以前に、設計部にいた時分はですね。ほら、設計部って田舎にあるじゃないですか。昼休みにテニスなんかしてました」
「ほー、テニスですか。じゃ相当な腕で」
「いやいや、会社入ってから、誘われて始めた程度ですから、五十肩になって、しばらく休んでたら、なんとなくテニスからは離れてね。ヤマダさんは何かやってます?」
「本当に、たまにゴルフ行くくらいかな。グリーンにはあんまり出ないんだけど、家の近くに練習場があって。トクダさん、ゴルフは?」
「私もね、下手の横好きってやつで、誘われたら行きますけど。この頃はちょっと億劫になっちゃって。齢ですかねー」
「そんなことないでしょ。若いんだから。何かたのむ?焼き鳥セットでも」
「そうしますか」
「すいませーん。焼き鳥セット、二つ」
「ゴルフっていや、日本の女子は人気が出てますねー」
「そうそう、しばらくね、スター選手がいなかったから」
「男子はパッとしませんねー。あの若いのはいいんだけど」
「そうですよ。もうちょっと頑張ってもらわないとね。アジアの他の選手に負けちゃうね」
「なんか、中東あたりのトーナメントの賞金がすごいらしいんですよ」
「はー、そうなの」
ー この後、しばらくゴルフ談義が続くので省略。
「ヤマダさん、血圧高いって言ってたけど、どうです?このごろ」
「いやー、この前の定期検診で、医者に脅されちゃって。ヒクッ。まだ、薬、飲む程じゃないんだけど、体重落とせって言われてね。トクダさん、スリムでいいじゃないの」
「いやいや、若い時に胃潰瘍やって、それからあまり太れない体質なんですよ」
「今はいいの?」
「しょっちゅう胃薬のお世話になってますね。酒は飲むけど」
「お互いもうすぐ定年じゃないですか。体大事にしないとね」
「そうですよ。・・ところで、ヤマダさん。立ち入ったことお聞きするようだけど、定年の後、どうするんです?会社、再雇用制度始めましたよね。私ももうすぐなんで、お聞きするんですけど」
「ボクはねー、ああいう訳の分からん部長の下にいるのは嫌だねー」
「ああ、あの部長ね、わかってないですよ」
「そう、全然、分かっちゃいないんだ。だいたい、技術を全然知らないのよ」
「そうそう、その通り」
ー この後、しばらく上司の悪口が続くので省略。
「そういえば、この間、テレビ見てたら、東海道を京都まで歩くって番組やってたね、見た?」
「いや、見てません」
「それがね、何て云ったか、昔出ていた俳優で、何て云ったかなー、名前、忘れちゃったけど。その男がね、東海道を歩く番組で」
「ほおー、近頃は歩く人が多いって言いますもんね」
「ああいうのを見ると、私もちょっとやってみようなんて思うじゃないですか」
「歩くのが体に一番いいっていいますからね」
「そうそう。定年になったらね、東海道をずっと歩くのもいいんじゃない?、なんてね、ちょっとは思いますよね?」
「私は、あんまり歩いたことはないですけど、いいかも知れませんよ、それ」
「そう、思う?でも、あれですよ。全く一人で歩くってのもつまらないじゃない?」
「そうですよ。旅は道連れですから」
「そうそう、で、誰か一緒に行こうなんて、云ってくれる人がいないかなんて、思ってるの」
「何日くらいかかるんですかね?」
「まあ、この齢だからゆっくり歩いて二十日くらいかかるんじゃないかねー」
「なかなかいいでしょうな。景色もいいだろうし。テレビじゃ良いとこ映してました?」
「あちこち映してたね。三保の松原だったかな。あんな良いところもあるんだと思って」
「スポンサーが付いて、良いところだけを撮ってるんじゃないですか?それ」
「そうだよね。テレビだから」
「出てるタレントも、あれなんでしょ。歩きっぱなし、じゃなくて、東京に戻るんでしょ」
「まあ、そうでしょ。全部歩くってのは大変だから、撮影終わったら東京に戻るんだろね」
「スポンサーがついてりゃ、旅費なんかいらないんだから」
「そうそう。一般人じゃ、いちいち戻るのも金がかかって大変だよ」
ー おまえらさー、東京に戻らないで、ずっと歩いて京都まで行けよ。(筆者)
ー (注)筆者、京都弁を使う者ではないので、とりあえず、それらしく書こうと思うが、京都の方はいけずよって、口では、まあ、よう書けて、なんて言いながら、腹ん中で笑うとられるかもしれません。後で教えてくれなはれ。直すよってに。
ー 階下からおかみの声が聞こえる。
「先生ー、センセー、ご飯の用意ができました」
「はい、はい、今、降りていきます」
ー 男、六畳の和室にしつらえられた朝の膳に着く。おかみ、おひつの横にぺたりと座る。
「ごはん、よそいましょ」
「お、それはありがとう」
「いいえー、丁度、手が空いたから、せめてごはんぐらいはよそいますー」
「こんなもんで、ええやろか?」
「そのぐらいで。きょうは天気がよさそうだし、朝から美味しそうなお膳だし、おかみは奇麗だし。いいことありそうだなー」
「まあ、お上手」
「ふ。・・おかみ、この煮物なんです?」
「あ、それ、にしんとだいこ、炊いたん」
「大根とにしんね。ほほー、どれ。・・・あ、これ旨いな」
「せんせ、毎日お出かけにならはって、何か小説になりそうな、ええもんありました?」
「京都はいいねー。さっきね、ちょっと散歩してきたら、この近所のお寺で、小坊主さんが掃除してるのに出会って。スケッチしてきました。いやー、京都らしいなー」
「そうですか。そうそう、昨日はどうでした?」
「ああ、紹介してもらった、そこのバーね。行って来ました、なかなかいいバーで。ママさんが素敵な方で。はは、ちょっと酔ってしまいましたよ」
「そうやろ、有馬はん、遅くにお帰りになって。大丈夫どした?」
「いや、平気、平気、今晩も行こうかと思ってるくらいですよ」
「あら、そりゃ、あそこのママさん、喜ばれるわー。また行って上げてくださいな」
ー で、その昨日のバーでどんなことがあったかと言えば、
ー 昨日、男、晩飯を済ませて、早速、宿のおかみに教えられた、バーに向かう。
ー ごくごく普通の民家。玄関に表札と門灯がある。男、ちょっと首を傾げて表札を確かめた上、引き戸を開け、家にあがりこむ。
「今晩は」
「いらっしゃいませ。さっき、電話頂いた、有馬さん?」
「そう、有馬です。いいかな?」
「どうぞ、どうぞ。お好きなところにお座りになって」
ー 男、カウンターの真ん中に座る
「おしぼり、どうぞー(いややわ、真ん中に座っちゃって、お馴染みさんが来たら困るやろ)」
「ああ、どうも」
「今日は、ひなかお暑うてー。有馬さん小説家なんやて?おかみさん言ってなはったけど」
「はは、小説家って言ってもね、なかなか売れないんだけどね。ただ、声はかかってんのよ」
「いやー、すごいわー、小説家なんて(ほんまかいな。小説書いてるなんて青二才はようけ見てきたけど)。どんな小説書いてらはるのです?」
「そうだね。歴史小説なんか目指してるんだけどね。ほら、津本陽とか宮城谷昌光なんかいいね。ママさん知ってる?」
「うーん、なんや、聞いたことあるのんどすけど」
「ほら、信長を書いた、『下天は夢か』なんかさ。宮城谷はさ、ジュウジなんか好きだな」
「そうどすか?(ジュウジじゃないだろ。チョウジって読むんよ、重なる耳なんだから。この人、ホンマもんなんやろか?)それ、どんなお話なん?」
「そうだね、まあ、昔の中国の話だからさ。ママさんには興味がないんじゃないの?」
「いーえー、小説家はんから、直接お話聞くなんて、そうそう、あるもんやないさかい、聞きとうおす(ヒマつぶしにはなるわよね)」
「貧乏な青年が、栄耀栄華を極める話なんだよ。出世を求めて旅の途中なんだ。ある茶店で粟の炊けるのを待って、茶店の老人に枕を借りて一眠りするんだ」
「はあ、それ、聞いたことおますなー(重耳じゃないやん。それ邯鄲の夢やん)。それで、その青年、どうなるんどす?」
「その眠っている間に、大国の王になるまでの長い長い夢をみて、目が覚めたら、粟の炊ける短い時間だった、という話さ。一生なんて、長いようで短いってことなのかなー」
「そうえー。短いもんですえ(あんたはん、ほんまに、小説家なんて言ってだいじょうぶなん?)。でも、有馬さんの書いた小説、読みたいわー」
「いや、まだ、業界紙にね、連載してる程度なんだけどね。ま、業界紙ってのは、あまり、普通の人には知られてないからねー。業界の人は皆知ってるのはもちろんなんだが」
「そうどすかー。ぎょうかいしー(一般紙じゃないのね、あまり興味あるように、こっちが言うたら、くどそうやし、この客)。ところで、あそこの旅館はどうどす。朝ごはん美味しおまっしゃろ?」
「ああ、朝ごはん美味しいね。今朝もごはんをお代わりしちゃいましたよ。ところで、その業界紙なんだけどね。編集長がね、ちょっと古くってね。どうも僕のセンスと合わないんだな」
「(ほーら、きた。こういうタイプはくどいんよね。早いとこ酔っぱらわしたろ)そうどすか。大変なんやろね。でも有馬さんてお強いんやろ?どうです?もう一杯」
「いや、はは、そうでもないけどね、じゃもう一杯いただこうか」
「有馬はん。小説家かー、あこがれるわー」
「へへ、そう?」
ー 地下にあるバー。なじみの客が一人だけカウンターに座っている。
「サブちゃんさ。キューバに行ったことある人、誰か知ってる?」
「キューバですか。そうですねー、ンー、そう言えば、葉巻を仕入れている店のあの人なんかは、キューバに行ったことがあるかも知れないなー。大野さん、キューバに行かれるんです?」
「いや、ちょっと思っただけさ。どんなとこなんだろうと思って」
「どんなとこなんでしょうねー?サルサ聞きながら、モヒート飲んで、葉巻くわえてるんですかねー」
「きっと、ものすごく、のんびりしてるんだろうな」
「そうでしょうねー。夕方になったら、バーの灯りがみえてきて、音楽が聞こえて来て。そう、サルサかけてみましょうか?確かそれらしいCDがあったと思うんで」
「へー、そういや、このバーでかけてるCDって、どんなのだったかな?いつもきてる割に、覚えがないよね」
「ああ、ありましたよ」
「葉巻の話したら、たまには葉巻でも吸いたくなったな。葉巻おいてあるよね?」
「ありますよ。この前入れたばっかりだから。ヒュミドールお持ちしましょ」
「お願いするよ」
ー バーテンダー、葉巻の入ったヒュミドールを持ってくる。
「えーっとですね。この前入れたのはですね。このロミオ・ジュリエッタと、コイーバと、それからこいつ、ボリバーですね。このボリバー、フレッシュでなかなかいけますよ」
「ふーん、どうしようかな。これさ、スペイン語でロミオ・イ・ホリエタって言うんだってさ。また聞きだけど。じゃそのボリバーもらおうかな」
「はい、どうぞ」
「あ、本当だな。このボリバーの葉、手触りがいいね」
「ね、そうでしょ」
ー 客の男。ゆっくりと葉巻に火をつけ、静かに煙をはきだす。
「もう一杯、おつくりしましょうか?」
「そうだな。話のついでにモヒートもらおうかな」
「レモンハートとバカルディがあるんですが、どっちのラム使います」
「そう言えばラムを使い分けたことはないな。どっちでもいいよ」
「そうですか。じゃバカルディで行ってみますか。大野さんのお店では、ラムは使わないんですか?」
「そうね。カクテルがでるってことは、殆どないからね。カクテルどころか、ワイン飲まないでミネラルウォーターって客も居るんだよね、このごろ。フレンチなんだから、ワインくらいは飲んで欲しいよ」
ー 客の男、大きく息をはいて。
「大野さんはソムリエされてるんですよね?確か」
「そのうち試験は受けようと思ってるんだけど。まあ、うちの店、小さいからさ、ソムリエ兼メートル、兼ギャルソンだな。コミドランが一人しかいないし」
「なかなか大変そうですねー」
「ま、どこでも大変なんだけどね。それでさ、キューバに行ったらどうなんだろって夢想してるわけ。・・このモヒートおいしいな」
「そうですか。どうも。・・でもキューバもいいんでしょうねー」
「いいんだろうな。葉巻工場じゃ、若い女の子が太ももの上で葉っぱを巻いてるんだってな。・・・むっとするくらい暑くて。早く暖かくならないかな」
「もう少しで暖かくなるんじゃないですか」
「そうだよな。まだ雪、降ってるけどな」
「あれ、雪、降ってました?」
「ああ、ちらっとだけど。・・・じゃ、お勘定。ちょっとは夏の気分になったよ」
「そうですか。ありがとうございました」
ー 男、コートを着てドアを開ける。
「そういやさ、俺さ、来週は温泉に行くんだー」
「やー、いいですねー温泉。僕も行こうかなー。・・どうも。ありがとうございましたー」
「大野さん、独りもんじゃなかったっけ。なんか最後ににやにやしてたから、誰かと一緒にいくのかー。それが言いたかったのかも。・・こっちも、たまには、あいつと温泉でも一緒に行くか」
ー バーテンダー。携帯を取り出して電話をかける
「ああ、俺だ。今度の月曜日って何か用事入っていたっけ?」
top
「うー、やっと着いた・・・」
「お前、大丈夫か?顔色まだ悪いぞ」
「だってさ、二時間半も乗って、結構揺れるんだもの。帰りは絶対にジェットフォイルにしてね」
「してねって。往復切符だぞ」
「だって、いやなんだもの。秀一はいいわよね。平気な顔して」
「俺もちょっと気持ち悪くなりそうだったけど、甲板にいたから大丈夫だったんだよ。幸子もそうすりゃ良かったのに」
「いやよ。あんな寒いとこ。私、嫌だからね。ジェットフォイルにしてよね」
「だけど、もう切符、買ってあるし」
「何よ!私より切符が大事なの!」
「そんなこと言ってないだろ!・・・ま、着いたからいいだろ・・・宿に電話するからな」
「あ、どうもー。予約していた兵藤です。・・はい、今、フェリーの待合室から出たとこです。・・はい、・・はい、・・わかりました。・・すぐ迎えに来るってよ」
― 旅館に着いて、部屋に通された二人。男、窓を開ける
「窓開けないでよ!寒いじゃない」
「いいじゃないか。ほら、カモメがきたぞ。なんか、いやに人に慣れてるな。こいつら」
「カモメなんか、どうだっていいわよ」
「・・・」
― 男、窓を閉める
「夕飯、どうしようか。何か食べたいものあるか?」
「なんでも、いいわよ」
「なんでもいいってこたあ、ないだろ!」
― 女、返事をしない。男、テレビのスイッチを入れ眺める。暫く経って
「じゃ、炉端焼きでも行くか」
「・・・」
「用意しろよ。行くぞ」
― 炉端焼きののれんをくぐる二人。中は暖かい。ほっと息をつく二人
「寒いからお燗からだな。えーっとね。おっ、地酒がいっぱいあるね。天領盃、お燗にして。猪口ふたつね。幸子、飲むだろ?」
「・・・」
「いやー、いい魚がいっぱいあるよ。さすが佐渡だな」
― 壁一面にメニューが貼ってある。その一部は以下の通り
カサゴ
ヤナギ:一夜干し
ノド黒:一夜干し
カンパチ
メジ
タイ
ブリ
イカ
ハマチ
イナダ
黒ダイ
助宋
平目
活タコ
サケ子
ツブ貝:バター焼き
バイ貝:煮付け
ダラミ:てんぷら、ポン酢
タイ子
アンコウ
ヤリイカ
南蛮
ズワイガニ
「何にするか?」
「・・・」
「じゃね。えー、ノド黒とイカ焼いて、それから、うーん、カンパチと黒ダイの刺身ね。ダラミって何?ふーん、白子か。じゃそれポン酢で」
― お待ち、の声で酒がくる
「あちっ。まあ、飲めよ」
― 女、黙って杯を出す
「この酒、旨いな」
― 二人、暫く黙ったまま酒を飲む。焼き物が出てくる
「おいしいー」
「本当だ。おやじさん、このノド黒、うまいね。でかいし」
「私、初めて食べた」
「そうだったか?このイカもうまいな。なんかしばらくぶりに焼いたイカ、食べた気がする。おい、これも旨いぞ」
「あ、本当だ。普段のイカと違うね」
「な、そうだろ」
― 二人とも腹が空いていたと見えて、暫く飲みかつ食う
「幸子、機嫌直ったじゃないか。腹減ってたのか」
「いいじゃないのよ」
「じゃ、帰りはジェットフォイルにするか。電話すれば取れると思うから」
「いいわよ、別に取らなくても」
― 横に並んで座っている二人、膝同士が触れて、どちらともなく寄り添うように座り直す
「あのさ、来年、何植え付けるの?」
「そうだな。やっぱり野菜だろうな。トマトとか、ナスとかインゲンとか」
「えー、またインゲン?
」
「いいじゃないか。でもさ。来年はズッキーニとかイタリアン用のハーブ作ろうと思ってるんだ。あのイタリアンのシェフいただろ。あれから、何回か一緒に酒のんでさ。話が合っちゃったのよ」
「えー、その話、初めて聞いた」
「いやさ。今度はきちんとやろうと思ってさ。口だけじゃなくて、栽培契約まで結ぼうと思って、駄目になる可能性もあったし」
「秀一さん、本当に農業やる気になったのねー。会社辞めてから、悩んでたのは分かってたんだけど」
「当たり前だよ。気持は、変ってないんだからな。だけど、幸子、本当に農家になっていいのか」
「いいのよ」
― 女、男の腕に縋り付く
「やめろよー」
「フーッ、おい、ヨシエ、暑くないのか?」
「ハアー、私だって暑いよ。ケイさんはー?」
「おーよ。しかし、こんな暑いとは思わなかったよ」
「だって、ケイさん、登るんだって言うんだもの」
「お前が、行きたいなんて言うからじゃねーか」
「まあまあ、おいといてー。ケイさん、水飲む?飴玉もあるよ。」
「おう。ヨシエ、お前、だんどりが良いな。どっこいしょっと」
ー 男、立ち止まって女から水の入ったペットボトルを受け取る。
「ヨシエ、お前体力あるよな。でかいケツして。こっちがへばりそうだぜ」
「何、言ってんのよー。ケイさんが、運動不足なんじゃないの」
「・・・しかし、ものすごい好い天気だよなー。地面が真っ赤だからか。日本じゃ考えられないよなー」
「そう、そう。でも私ね、ここに来てみたかったの。テッちゃんがね、あの子、学生の時にここに来たんだってさ。どういう訳か、テッちゃん、オーストラリアが好きで、何度も来てるのよ」
「ああ、哲郎君な。ケアンズで会うんだよな。ホテルに来てくれるって言ってたけど」
「そう、エアーズロックがイイ、イイって言うもんだからさ。何でだろうね。新潟の生まれだからかなー。全然、もう違うじゃない」
「そうか。冬に行ったら全部雪だったからな。そうかも知れないな。・・・じゃ、行くか。もう少しだぞ」
ー ふたり、鎖を伝って登り始める。頂上はもう少し。
「きゃー。着いた着いた。ケイさん。ここだよー。ほら頂上の印」
「やー、着いたかー。いや、ほんと周り全部、何もないよな。砂漠っていうのかー。何にもない」
「地球のヘソって言ってたけど。何か、地球の中心で愛を叫ぶーって、感じ。ふふ」
「お前、何、にやにやしてるんだ。おい、水くれや」
「はい。だって嬉しいんだもん。ケイさんとここに来れて」
― 風が強い。男、女の声が聞こえなかったらしい
「何だって。いや、景色もすごいけど、風もすごいよな。なんか、タアーッて吹いてる」
― 女、男の腕にだきつく
「何だよ。急に」
「いいじゃないのよ。皆そうしてるし」
「・・・ま、いいか」
「だって、お店じゃ、ケイさんいつも冷たい感じだし」
「ばっきゃろ。店は店できちんとするのが、当たり前だろ。日本料理なんだからな」
「でも、新婚旅行にも行かなかったしさ」
「熱海に行ったじゃねーか」
「うふふ、でもいいの。こうしてケイさんと一緒で。懸賞に当たって、ホントに良かったー」
「よせやい」
― ケアンズのレストランにて
「それで、姉さん、どうだった。メシとか」
「そりゃ、オーストラリアだからさ。でも、あんたが言ってた通り、景色がすごかったわー。ほんとに、世界の中心って感じ」
「ヨシエ、お前、日に焼けて、帰ってから可笑しくないか」
「そうね。あんだけ日焼け止め塗ったのに、焼けちゃったよー」
「ちっ、おたふくで不細工なのに、黒くっちゃ客が嫌がるんじゃねーか」
「大丈夫よー」
「しかし、オーストラリアの料理ってのも、何だよな。ビールも。ちょっとトイレ行って来る」
― 男、トイレへ
「姉ちゃんさ、圭造さんと一緒になって、それから店持って、何年だっけ。三年か?」
「二年と十ヶ月よー」
「俺さ、本当はさ、心配してたんだよな。姉ちゃんのこと。圭造さんて、イイ男だろ。そんなに大きい方じゃないけど」
「大きい方じゃないってのが、余計よー」
「だってさ、姉ちゃんさ」
「何だってのよー」
「ほら、母さんがさ、不釣り合いじゃないかなんて、あの時心配してさ。いや、今は、ほら、何となく似合いだけどさ」
「おっきなお世話よー。ふふ、今だから言うけどさ。私、イイ男には不自由したことないんだよ」
「えっ。・・・」
「テッちゃん、まだ若いよねー」
「・・・」
― 注 トラバースとは、山の斜面や岩壁を横断すること
― 時間は午後遅く。紅葉が足下に見える、高山の峠。赤い車が大破して、道路から飛び出している。車の陰に男が二人。一人は頭から血を流して横たわっている。もう一人は車のねじ曲がったドアに背をもたれ、足を投げ出して座っている
「もしもし、・・・えー。峠の所です。二人です。・・・車はもう、全然だめです。・・・えー。一人は頭を怪我して、意識が朦朧としてるみたいです。・・・えー。ドッちゃんです。・・・はい、土井です。土井常男。・・・はい。私、太田です。太田洋一。・・・えー。なんか足に感覚がなくなってますね。・・・はい。わかりました」
「ドッちゃん。大丈夫か?もうすぐ救急車来るからな。下からだからちょっと時間がかかるらしいけど」
「ドッちゃん?聞こえる。うん。わかった。もうすぐだからな」
「いつの間にか、雲海になってきてるな。下は天気が悪いのかも。だけど、あのバイク、ひどい奴だよな。あいつのおかげでこんなになっちまったのに、逃げちまうんだからな。なあ、ドッちゃん」
― しばらく無言
「ドッちゃん。寒くないか?俺、なんか震えが来るな。もう何時、雪が降ってもおかしくないからな。積ったら、またスキーに一緒に行こうや。なあ、ドッちゃん」
― 雪がひらりと降ってくる
「あれ、やっぱり雪だ。・・・そういやさ、ドッちゃん、オートルートに行った時のこと覚えてる?あれ楽しかったよな。シャモニーでチーズフォンデュ食べたよな。でも、なんか今思い出すとさ。変なことしか覚えてないな。なあ、あの長いトラバースを覚えてる?雪峰が続いてる場所で、何ていったけかな、あそこ。思い出せないな。・・・思い出した。モンジュレーのスキー場のてっぺんから、モンフォーの小屋までだ。よく覚えてたな俺って。ハハ。あんまりトラバースが長いんでさ。山足が疲れちゃって。・・・谷足で滑っていて、山足のスキーをぶらぶらさせてたら、ひっ転びそうになっちゃってさ。三十分くらいトラバースしたんじゃなかった?もっとか?あの時は好い天気だったよな。空が真っ青で」
― 空は、あいかわらず鉛色
「何か眠たくなってきたな。おいドッちゃん。大丈夫か?」
― 横たわっている男、目をあけて、低いうなり声を上げる。しかし、何を言っているのかは、よく分からない
「オートルートってさ、結構、トラバースが多いよな。あまり登らないから楽なんだけど、斜面を滑り降りるのって少なかったよな。そういえば、あの長いトラバースの時って、どんな雪面だったかな?・・・ドッちゃん、覚えてる?最初は、さらさらで気持ち良かったんだよな。そのうちアイスバーン混じりのかた雪になったんだよな。ああ、そうか。そこでスキーが引っかかって転びそうになったんだ。それからしばらくしまり雪になって。それから、飽きるぐらいトラバース続けたんだよな」
― あたりはだんだんに薄暗くなってくる
「ドッちゃん、寒くないか?」
― 横たわる男、何も言わない。息はしているようだ
「ドッちゃん、あれから考えるとさ。何年前だっけ。俺さ、人生ずっとトラバースしているような気がするんだよな。上目指して登ることもなかったし、えーとさ。下に向かってさ、楽したこともなかったし。・・・良かったのかな。こんなんで」
― 風が強くなってきた。小雪が飛んでいる。かすかなゴーッといううなり
「ドッちゃん。あれ、車の音じゃないか。もうすぐだからな。でも、なんだか、周りがよく見えないな。暗くなってきた。脚が冷たいな。・・・あれ、ドッちゃん。ドッちゃんさ、俺の脚元、何か血だらけだよ。・・・何か暗いな。ドッちゃん。俺、よく見えないんだよ」
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