― アパートのドアが開いて
「おーい、オオハシいる?」
「誰?ああ、タエコか。入んなよ」
― ごちゃごちゃとした6畳の部屋。キッチンとユニットバス付き。入って来た女、床に置かれた低いテーブルのそばに座る。部屋の主、テーブルに置かれた資料を前に、座ったまま、腕を上げたり、体をくねらしたりしている
「相変わらずね。掃除しなよ」
「いいんだってば。…何か飲む?」
「うん」
「冷蔵庫にコーラが入ってるからさ、勝手に飲んでよ」
― 女、立ち上がって、冷蔵庫からダイエットコーラのペットボトルを取り出し、コップに注ぐ
「オオハシも飲む?」
「ああ、頼むわ」
「何、やってんの」
「来週の舞台の準備」
「ペプシのダイエット、おいしいのかな」
「飲んだことないなー」
「何、それ」
「これ?ダンス・ノーテーションって言うのよ。振り付けが書いてあるんだ」
「ふーん。こんなんで踊れるんだ」
「だいたいさ。細かいところは、ディレクターから指示、出るのよ。今度のディレクターさ、大物じゃない。だから、あまり細かいことは言わないんだけど、毎回、言っている事が違ったりするのよね。ちょっと困っちゃうんだよね。後で助手さんとかと、打合せするんだけど、いちいち時間がかかって」
― 女、テーブルにコーラの入ったコップを置く
「大変そうねー。…オオハシさ、あの絵っていうかイラスト、壁にかかってるの、買ったの?」
「ああ、あの壁のイラスト?この前ね」
「前、なかったもんね」
「サロメよ。今度、私、サロメ、踊んの。もう、絶対に、監督に認めてもらうんだ」
「気合い、入ってるねー」
「そう、近くに画廊があってさ、この前、誰だったか忘れたけど個展やってたの。普段、画廊なんか入んないんだけど、なんかフラッと入ったら、このサロメがあって、もう、絶対、欲しいって思ったの。お金なかったけど、買った」
「ふーん。偶然ていうか。この絵が呼んでたのよ」
「私もそう思って。なんか、この絵見てるとね、舞台でキマルって思うのよね」
「うん、私もそんな時あるよ」
「私もいい齢だし。キメなきゃー」
「そうだ。そうだー」
「なんか、力、抜けるなー。そうそう、タエコにね、チケットあげるよ。タダで」
「え、悪いよ」
「いいの。この前、もらったし」
「チケット、捌けてる?」
「なかなかだけど。社長さんにも買ってもらっちゃったよ」
「えー、あんたが働いてるとこの、あのハゲとか呼んでる、工場の社長?」
「そう。ちょっとね、言い出しにくかったんだけどね、頼んだら、買ってくれたんだよ」
「普通、モダンダンスなんて観にこないよ」
「観に来るかどうか、判らないけどさ」
「大体、買ってくれないって」
「うん。ちょっと悪いかなって、思ったよ。普段さ、工場の事務、つまんないじゃない。こっちも忙しいし。ハゲ社長に何か言われるとムカつく時、あるし」
「でもいい人なんじゃないの」
「そうかも、って思ったよ。だから、今日は一生懸命仕事してきた。そしたらさ、やれば、オオハシさんできるじゃない、って喜んでたよ。ちょっと、可哀想になった」
「オオハシが事務員なんだからなー」
「いいんだヨー」
「よー、ジョー、元気かい?」
「ご主人様、お呼びでしょうか?」
「まあ、お呼びって程でもないけど。暇だったもんだから」
「まあ、そう言わずに、何でもおっしゃって下さい」
「何、言ってやがる、何もできない癖に」
「そんな、山田さん、これも何かの縁じゃないですか」
「縁、だなんて、ジョー、この頃、ますます日本語がうまくなったんじゃないの」
「いや、どーも。お褒め頂いて光栄でーす。今日、何かあったん?」
「別にないさ」
「そうすか?何か顔色悪いけんね」
「お前ってさ、日本語へんだよ。ところで、喉乾いたんで、ビールでも出してくれない?」
「ビールね。…今、手持ちがアリマセーン」
「チッ、ビールも出ないのか。ビール、ビール」
― 男、起き上がって冷蔵庫の所までいって扉を開け、缶ビールを取り出す
「ご主人様ー。すんませんがー。私の分もー」
「なんだ。飲むのかよ」
「えー、まあ」
― 男と鞄の精、プシュッと缶ビールを開け、ごくごくと飲む
「プッファー」
「旨いねー。つまみありますけど、出します?」
「たまには、気がきくじゃね」
「はい、どーぞー。キュウリのQちゃん」
「…ところでさ、普段、ジョーって、何してんの?こんな風に出てこない時のことだけど」
「いやー、ワシもよくわからんの」
「わからんの、って。何よそれ」
「うーん。どう説明すればよいだか。ご主人眠ってて、夢見ますか?」
「そう言えば、このごろ見た事ないな。学生の頃はよく見たような気がする」
「それ。今、私こうして鞄から体半分出てるね。するとね。さっきまでのことが、夢見てたみたいなのよ。でも、スンゴーク、はっきりした夢」
「じゃ、鞄から出てこない時はどうなのよ」
「それがね。普通に暮らしてて、あっちではね、夢で山田さんと会ってるのよ。鞄の精として」
「なんか面倒だな」
― 男、テレビを点ける。バラエティー番組をやっている
「ご主人様ー、他に御用はないか?」
「ないよー。さっさと消えちまえー」
「まあ、そんなこと言わずにー。聞いて下さいよご主人様ー。コッチ向いてー。それでな、どっちが夢で、どっちが本当なのか、分からないのよ。それでな」
― 男、肘まくらでテレビを見ている
「…」
「夢の世界では、凄い、いい女が」
― 男、パッと起き上がって鞄の精に向き直る
「何ー、いい女」
「いい女もいるのよ。この前、向こうの世界、夢の世界な。浅草行った」
「浅草だー。鞄の精なのにいやにローカルな話してるな」
「まあまあ、それでな。浅草の案内所行ったら、只で浅草、案内してもらった」
「いい女は、どうしたのよ」
「僕のカノジョ、いい女よ」
「なんだそれ。じゃ、その友達紹介しろよ」
「それ、夢の世界なんで、できないと思う」
「何か、いつも要領得ないな。ジョー、それじゃさ、営業できないよ。営業」
「ワタシ、鞄の精」
「だから、要領得ないっての。だいたい、何で鞄の精なのよ」
「いや、ワシもよく分からんのよ。三十位の時、いきなり鞄の精になったのよー。寝てたらね、頭の中で声がして、アンタ、今日から、鞄の精になった、鞄から出るとご主人様が居るので、できるだけのことをするようにー、って」
「だって、何もできんじゃないか、ジョーは」
「いや、そうでもない。鞄の奥には部屋があって、そこに、まにゅある、があるねー。ご主人の願い事を聞いたら、まにゅあるで調べる。冷蔵庫もあって、普通の食べ物が入ってる。入ってない時もあるけどなー」
「ビールはどうしたんだよ。ビールは」
「ビールは、山田さん、なかなか呼ばないので、待機中に飲んだんさー」
「なんだよ。つまらん」
「そんな事言わずに。まにゅあるに書いてある。ご主人の願いをかなえたら、鞄の精の役目終わりって。…こっちもつらいんだよー。山田さん」
「うるせー。こっちだって、営業がつらいんだよー」
「ところで、山田さーん。この鞄ね。ダレスバッグの最高のものなのに、中、汚いよー」
「ほっとけ。俺の持ち物で一番高かったんだから」
「電卓でしょ、手帳、営業日誌、パンフレット、携帯の充電器、この位はいいですねー。でもね、汚れたタオルでしょ。週刊ポスト、道でもらったティッシュ一杯、牛丼やの割引券、ペットボトルのフタね。それから、折れた鉛筆。競馬新聞の切り抜き、キャバクラの割引券ね、これ。それとー、食べかけのチョコ、ハエとクモの死骸、靴下の片割れ、まだまだあるよー」
「うるさい、人の持ち物、覗くな!」
「でもね、私の通り道なんで、きれいにね、してほしいんデス」
「はいはい。わかった、わかった、後でやるから」
「この前も同じ話したネー」
「いいんだよ」
― この後、特にすることもないので、男と鞄の精、二人でビールを飲みながら、バラエティ番組を見る。
― デパートの洋食器売り場、豹柄のミニスカートの、派手な格好をした水商売風の女とその母親
「ね、ね、かあさん、見てよこれ、家にあるのとそっくりよ。カワイー」
「あらほんと、金の馬車だよね。ふーん、おんなじだわー、これ、ほら、馬車の屋根が開いて」
「ほんと、同じだあ、中に女の子と男の子がいるよ」
「結構、高いもんねー。リモージュボックスだってさ」
「へー、フランス製なんだって。知らなかったー。元はこんなに奇麗だったんだ」
― 二人、カフェーに入る
「私、カフェオレ。かあさん、何にする?」
「えーっとね。何にするかね。…このココアオレっていうのをね。それから、この紫芋のケーキっていうのを」
「ケーキ食べるの?じゃ私もね、シブースト」
― コーヒーを飲む二人
「ね、かあさん。あの金の馬車、なんでうちにあるの?今まで、考えた事もなかったけど」
「あれ?そうだったよねー。あんたの父親がフランスのお土産に買ってきたのさ。キョウコが、まだ小さい時で、なんか高過ぎるんじゃなかったの、なんて聞いた覚えがあるよね」
「へー、とうさんって、フランスに行ったことがあるんだ」
「そうよー。エリートサラリーマンだったんだから」
「写真だと、なんかほっそりしてるよね」
「そうねー、背は高かったけど、痩せてたね。ちょっと神経質だったかねー」
「だけどさー、子供の時から不思議だったんだけどー。とうさんってさ、良いところの坊ちゃんだったんでしょ。何で、かあさんと一緒になったのさ」
「なんか、言い方が気に入らないねー。とうさんね、元々関西の人なのよ、仕事も関西で。たまたま、こっちに転勤になったんだって」
「その時はもう、奥さんがいたんでしょ。そこまでは聞いたよ」
「そう。あの時はね。こっちも若くってキレイだったしー」
「まあ、確かに。写真みるとね」
「そうよー。理髪の店に入っていて」
「そこに、お客で来たんでしょ。でも、なんでだろう」
「あんまり、髪の毛が伸びてないのに、すぐに来るの。そしたら、店の主人がね、お前に気があるんじゃないか、なんて言うもんだから、こっちも気にしちゃってさ。うぶだったよねー」
「おとうさん、遊び人って感じでもなかったんでしょ?」
「割と真面目な感じだったね。でもね、奥さんいるとは、思わなかったわ」
「結構、おとーさん、やるじゃん」
「単身赴任してて、溜まってたんじゃないのー。こっちも胸大きかったしー」
「ぎゃはは、やだー、かあさんたらー」
「でね。とうさんが、デイトに誘ってくれてさ」
「へー、ラブラブだったんだ。で、そのうち、私ができたと。…相当大変だったでしょ。周りが」
「そうよー。大体、奥さんがいたんだから」
「そーかー」
「でも、とーさん偉かったよ。その理髪店の主人ね、横山さんって言うんだけど、怒ってね、とうさんを怒鳴りつけたのよ。うちの子に手を出してー、って」
「へー、そしたら」
「真っ青になってたけどね。きちんと責任を取りますって言ったの。…それから、ちょっとの間、大変だったね。まず、向こうの奥さんがやって来て、良い着物着てるんだけど、もの凄く冷たい感じの人で。その頃、もうお腹大きくなってたんだけどさ。睨まれただけで、私、脚がふるえちゃったよ」
「そうだったんだー。ちゃんと責任とるところが偉いよね」
「でもー、慰謝料であらいざらい取られちゃうし、もう大変よー。会社でも色々あったみたいだけど、結局、関連会社に移って」
「そうなの」
「そうさ、でも、とうさん偉かったよ。いつも一生懸命勉強してたし。勉強好きだったのね」
「おかあさん、嫌いだよね」
「まあね。それで、とうさん、海外出張にまで行ったのよ」
「でも、私もリョウコもさ、おとうさんの頭の良さは受け継がなかったよね」
「何、言ってんのよ、私のせいじゃないからね。そんなことより、あんたさ、リョウコもそうだけど、ちゃんと美容師の勉強して、かあさんの美容院手伝ってよ」
「うーん、そうだなー。バイトばかりじゃさ、死んだおとうさんに悪いよね」
「テンチョー、髪型変えたの」
「へへ、ちょっとパンチにしてみたんだ。どうすかね?」
「パンチって、流行ってるのかい?」
「流行ってますよー。若いのにニラミ効かせるのにもいいと思って」
「そうだよな、テンチョー、忙しいようだから」
「まあねー。なかなか、若いのが飲み込み悪くってー。あんま強く出ると、バイトだから、出てこなくなっちゃうんですよ。そしたら、また手配しなくっちゃいけないし」
「大変そうだものなあ」
「そうなんですよ。この前なんか、本部から地区担当部長が来て。いやー、緊張しちゃいましたよ。売り上げは結構立ってたんですけどね。仕入れの具合とか、アルバイトの教育だとか、色々言われちゃってー」
「そうなのー」
「そうなんですよー」
― カランとドアのベルが鳴って、女が入ってくる
「いらっしゃい」
「おはよございます」
「おはよう」
― マスター、水のコップをカウンターに座った女に出しながら
「タカノさん、今日は元気そうだね。何にしますか?」
「いやだ、マスター、私いつも元気だってば、いつものモカね」
「はいよ」
― マスター、ドリッパーをセットして、ゆっくりと湯を注ぎ始める
「おはよっす」
「おはようございます」
「タカノさん、今日はゆっくりなんですね」
「昨日、遅かったもんだから」
「いや、僕もね、ほら、店の店長やってるでしょ。売り上げのチェックとかして、遅くなっちゃって、誰も手伝ってくれないんで」
「あら、大変なのね」
「そう、大変なんすよ、もう」
― マスター、コーヒーカップを女の前に置く
「はい、カフェモカ、お待ちどう」
「どうもー」
― BGMはブラームス。テンチョーちらちらと女を見るが、女しらんぷり
「マスターさ、経験があると思うけど、人使うって大変だよねー」
「そりゃ大変だよ。でもテンチョー、よくやってると思うよ。バイトの子だとなかなか、思うようには行かないでしょ」
「そうなのよ。休まれるのが一番困るよな。大抵、ぎりぎりに電話してきて。店が空いている日はいいんだけど」
「でも、客が少ないと本部から言われんでしょ」
「そうなの、さ、昨日は、まあ、一杯で。近くの劇団の打ち上げらしくって、すごく混んじゃって。ああいうの猫の手も借りたいって言うのかなー。売り上げは立ったからよかったんだけど」
「劇団ね。そういやタカノさん、劇団もやってるって言わなかったっけ?」
「ええ、まあ。でもちょっとだけだから」
「えっ、そうなんですか、タカノさん、劇団もやってるんですかー。何やってるんですかー。やっぱ女優っすか」
「違うわよ」
「えっと、女優でしょ」
「団員って言うの。でも、舞台じゃないんだ」
「へー、そうなんだ」
「…」
「なんたっけかな、あの連中、えー、何とかサンデーとか言ってたかなー」
「××サンデーズね、知ってる」
「へー、そこなんですか?タカノさんの劇団」
「違うよ。知ってる人がいるだけ。でも、店に何人くらい来てた?昨日」
「いや、結構いたな。十二、三人くらいかなー。酎ハイが随分出たと思うんだけど」
「ふーん」
「そうそう。タカノさんの劇団も今度、店に来て下さいよ。サービスするから。そうそう、メアド教えてくれる?」
「いいよ」
― 二人、メールアドレスを交換しているらしい
「じゃ、マスターごちそうさまー」
「はいー、毎度どうもー」
― カラン、とベルの音がして女、出て行く
「テンチョー、良かったじゃん、メアドもらって」
「へへー。やっぱあれかね、パンチパーマが効いたかな、パンチだけにー」
「寒いよー」
「おじいちゃん、大丈夫ー」
「大丈夫だよ。ヨリちゃんに心配されるようじゃ、こっちも終わりか」
― 男、孫娘と川沿いの土手の上の道を自転車で走っている。夏の始め、まだ陽は高くないが、十分に暑い
「ヨリちゃん、じゃ、あそこの木のところまで行って、休もうよ」
「いいよー、おじいちゃん、先、行ってるねー」
「はは、元気だなー」
― 川沿いの土手は上流に向かってゆるく左に弧を描いている。対岸の土手までは二十米程度、水量は少ないが清流。行く手に大きな柳の木が二三本、下草は手入れが行き届いている。
「おじいちゃん、遅いなー」
「ヨリちゃん、速いなー。新しい自転車だからかな」
「先週、新しく買ってもらったばかりだからね、おとうさんに」
「ちょっと汗かいちゃったよ。でも、風が爽やか」
― 男、どっこいしょと言って、柳の陰の下草に座る
「ねえ、あそこにお店があるよ。飲み物買ってこようか」
「お、気が利くね。じゃあ」
「大丈夫だよ。ママがね、飲み物でも買いなさいって。お金もらってきたの」
「そうかい。じゃ、頼むかな」
「何がいい?」
「ウーロン茶かなー?」
「アイスとか食べないの?」
「あは、そうか、じゃアイスね、ヨリちゃんの好きなの」
― 孫娘、土手を駆け下りて近くにある、雑貨屋へ入っていく。やがて、両手にアイスのコーンを持って、戻ってくる。立ち上がって、それをずっと見守っていた男、また座る
「はーい、買ってきたよ」
「おー、ありがとう」
― 孫娘も男の横に座り、二人で対岸を眺めながら、アイスを食べる
「冷たくって、おいしいね」
「そうだね、はは」
「おじいちゃん、何が可笑しいの?」
「可笑しいんじゃなくて、楽しいんだよ。天気は良いし、風は涼しいし」
「でも、なんか、ハハ、本当に可笑しくなっちゃったー」
「そうだろー」
「…ね、おじいちゃん」
「なんだい」
「これね、秘密なんだけど、黙っててくれる?」
「いいよ。ヨリちゃんの秘密は守るからね。この前のタバコの時みたいにね」
「私ね、カオリンって友達がいるんだけど」
「カオリンね、可愛い名前だな、学校の友達かい?」
「そう、カオリンと私でね、秘密結社を作ってるの」
「ほー、秘密結社ね、何て名前なんだい」
「それは、絶対に秘密。喋ったらね、どんな不幸が起きても構わないって誓いがあるの」
「ほほー、そりゃ大変だね。でもおじいちゃんに話していいのかい?」
「まあ、それはね。あまり黙ってると苦しいでしょ」
「そうかも。で、その秘密結社は何するんだい?」
「全部は秘密なんだけどね、例えばカオリンと秘密の旅行をするとかね、色々考えてんのよ。今はね、何か変わった事がおきるでしょ。その週の秘密の鍵言葉とどんな関係があるのかしらって、カオリンと話合うのよ」
「今時の小学生ってのは、複雑な遊びをするんだなー」
「小学生って馬鹿にしないでね」
「いや、そうだな、ハハ、おじいちゃんが悪かったよ」
「…一週間に一度ね、今週の秘密の鍵言葉を決めておくの。とっても怖いこともあるの」
「大丈夫?」
「解釈によるけどね」
「解釈ねー」
― 爽やかな風が柳の葉を揺らしている。二人、アイスを食べ終わって、座って対岸を眺める
「あ、なんだろ、真っ青な、鳥、鳥だよ、こっちに来たよ。ほら、おじいちゃん!あそこ、あそこ」
「え、なんだい?」
「あ、見えなくなっちゃった。鳥よ、真っ青な鳥」
「どこ?」
「あそこ。あそこの葉っぱの陰あたりー」
「うーん。…お、いたね。青い鳥」
「ね、ね、おじいちゃん、あの鳥、何?」
「あれはね、かわせみだよ。奇麗な色だろ。飛ぶ姿がね、どういう訳かセミに似てるんだよ」
「あ、飛んでっちゃった。本当、セミみたいな感じ。でも、真っ青だったよ、おじいちゃん。なんて奇麗なんだろ」
「この川にも、かわせみが、居るんだねー。おじいちゃんも初めて見たよ」
「真っ青だったよ。おじいちゃん。真っ青。カオリンとね、決めた秘密の言葉がね、青だったのー。すごい、すごいわ」
― 暫く、孫娘、興奮して飛び跳ねている。それを座って見ている男
「ヨリちゃん、まあ、まあ、落ち着いて」
― 男、ポケットからタバコを取り出して火をつける
「ヨリちゃんも吸うか?」
「吸わないよ。もう、卒業したの。タバコ吸うなんて子供だよ」
「はは、偉いなヨリちゃん。おじいちゃんの方が子供か」
― 地域を活性化する企業合同会議後の懇親会において、山本社長と秦野社長がコップ片手に情報交換している。山本社長はもう顔が真っ赤
「秦野さん、どですか?景気は」
「そんな。お互いに、もう真っ暗ですって」
「その割には秦野さん、顔色いいじゃないですか」
「ま、うちはね、山本さんとこみたいに、ハイテクじゃないんで、逆にね、ハハ、手間がかからないってのか、溶接して穴あけるだけだから。そんなもんですよ」
「そうですかねー。ハァー。うちはね、新しい工作機械がどうも必要になってきそうで、どうしようかと」
「山本さんとこ、大学とつき合ってるから、カタイじゃないですか。うちなんか結構、アブナイ取引先ありますから」
「大学の先生もね、五月蝿いこと言う割には、金の払いが悪いんですよ。機械もいるし。どうしようかと」
「そうでしょうねー。そうそう、そういや、信金の、えー誰だったかな、そういう機械の中古情報のネットワーク知ってるらしいですよ。山本さん、聞いてみたら」
「あ、成る程、その手があったですよね。いや、良い事聞いた。あの信用金庫ね、早速聞いてみますわ」
― 山本社長の自宅、奥さんが晩ご飯の支度中。社長は焼酎割りを飲んでいる
「でさ、探してた工作機械が中古であってさ、出物みたいだけど、明日、吉田君と確認に行ってくるよ」
「でも、随分遠いわよね。車で日帰りできるの?」
「うん、ちょっと遅くなるかも知れないけど、何とかなるだろ」
― 高速を走る山本社長と吉田君。山本社長が運転している
「いや、予想以上に状態、良かったよね。付属品やマニュアルも全部揃っていて」
「普通ですよ」
「どのくらいで、動かせるかな?」
「一週間くらい」
「もうちょっと、早くできるかな。ほら、あの大学の先生さ、試作品を急いでるんだよ」
「こっちも、手が一杯なんですよね」
「…そういえばさ、吉田君、車持ってないよね。免許持ってるんでしょ」
「あったりまえですよ。車は都会じゃいらないから、持ってないだけ」
― サービスエリアの表示が現れる
「おっと、ちょっと休憩しようか。いや、随分走ったよね。肩が凝っちゃったよ」
「…」
「吉田君、疲れてない?」
「私、座っていただけですから」
― サービスエリアにて二人、用を足したり、飲み物を買って飲んだりする。そろそろ時刻は黄昏時
「あのさ、吉田君、悪いんだけど、運転代わってくれるかな。運転しっぱなしなんで、肩、凝っちゃって」
「私ですか?」
「そう。頼むよ。君しかいないんだからさ」
「じゃ、しょうがないです」
「頼むよ」
― 吉田君、運転席に座る。神経質そうに、何度も座席の調節や、ミラーの調節をする。眼鏡入れから、眼鏡拭きを取り出し、眼鏡も拭く。吉田君、肩に力が入っていて、ハンドルにしがみついている、という格好
「あのさ、吉田君、…」
「何ですか!」
「あ、いや、何でもないよ。さあ、行くか」
― 車、サービスエリアを出て、本線に入る加速区間へ。吉田君、横を見たり、ミラーを見たり、なかなか、スピードを上げられない
「吉田君、大丈夫だからさ、アクセル踏んで」
「踏んでます!」
― もうすぐ、加速車線が終わる。斜め後ろからダンプがやってくる
― パオーン、パオーン、というクラクション
「うっうぉー、ひゃー」
― ダンプと危うく接触しそうになり、車、蛇行した上、加速車線の終わりで停車
「よ、吉田君、大丈夫だからね、お、落ち着いてね」
「お、落ち着いてます。落ち着いてますってば」
「じゃ、行くよ。ほら、ちょっと車が空くまで待ってね」
「分ってるってば」
「よし、今だ!」
― 車、もの凄い急加速。今度は、追い越し車線の車と接触しそうになる。また蛇行する
「うっわー、おっおー」
― 接触しそうになった車の助手席の窓が開いて、男がこっちに向かって叫びながら腕を振り回しているのが見える
「お、落ち着いてね、吉田君、だ、大丈夫だからね」
「だ、だっ、い、ぶ、よ」
― やっと、普通に高速の流れに乗る
「はー、いいよ。その調子、はー、暗くなってきたからね、ライト点けて」
「ライト、ライト、カチッ」
「点いた、点いた。吉田君、点いたよ」
― 両者無言のまま、緊張を維持しつつ、一時間後、料金所をくぐり抜ける
「ああ、そこで停まろうよ」
「はい、社長」
― 社長、助手席のドアを開けて這うように運転席へ。運転席のドアを開ける
「いや、着いた着いた。交代しよう」
― 吉田君、のろのろと、運転席を出る。社長、背を伸ばし、首をぐるぐると回す。ついでに、ラジオ体操をする
「…社長、すみませんでした」
「いや、いいんだよ。気にするなって」
― 山本社長の自宅、奥さんが晩ご飯の支度中。社長は焼酎割りを飲んでいる
「でさー、吉田君がさ、初めて素直になったよ」
「でも、あんた、死ぬところだったんでしょ」
「まあ、そうだけど」
― 電話が鳴る。受話器を取り上げる女
「あら、タカちゃん、元気にしてた?」
「ええ、まあ」
「あら、何か元気ないわね。どうかした?」
「いーえー、そんな事ないです、おばさま。この頃、伺ってないから、お元気かなと思って」
「元気、元気。この前ね。お友達と名古屋まで歌舞伎、観に行ったのよー」
「ま、名古屋まで。どうでした?」
「良かったわ。お友達にね、三津五郎の追っかけがいてね、行こう行こうって言うのよ。で、出かけたわけ。お昼に櫃まぶしを食べて。あれ、おいしいわよね。私、初めて」
「そうでしたか」
「あら、やっぱり、なんか元気ないわね。何かあったんじゃないの、旦那さんお元気?」
「いえ、それがね」
「まあ、どうしたの」
「伺った方が良いかな、とも思ったんですけど。おばさまにご心配かけるのも、どうかなと思ったりして」
「いつでも、大丈夫なのよ。どうせ暇なんだから」
「それで。恥ずかしいんですけど、電話したんです。他に相談できる人もいなくって」
「まあ、まあ、いつでも相談にのるわよ。タカちゃんなんだから」
「実は、敬三さんの事なんです。…いえ、あまり大した事はないんですけど」
「あら、敬三さん、この前元気にしてたじゃない」
「それが、昨日」
「けんかでもしたの?」
「けんかじゃないんです。…昨日、夜遅く帰ってきて」
「敬三さん、仕事が忙しいんじゃないの」
「それが、…ワイシャツのエリに口紅が付いていたんです。ワタシ、ドキッとしちゃって。…すぐに敬三さんに聞けば良かったのに、何か頭が冷たくなってしまって。…昨日の夜は眠れませんでした」
「まあ。敬三さんに限って、そんな事ないんじゃない。電車の中で付けられたとか」
「そうかも知れないんですが、敬三さんも何も言わないし。…でも、ディオールのなんです。あんなに紅いのはあまりないし、匂いも」
「そうね。普通の女性は使わないかも、(ちょっと慌てて)あら、そんなことないわよ。紅いのが好きな人もいるから売ってるのよ」
「私もそう思ったんですけど。でも、今時、あの色を使ってる人なんて、あまり見ないし。…敬三さん、何も言ってくれないし…うっ、うっ…すいません、おばさま、取り乱しちゃって…」
「まあ、夫婦なんて、いろいろあるわよ」
「敬三さん、この頃、帰りが遅いんです。お酒くさい時もあるし。口紅をワイシャツに付けてくるなんて…誰に相談していいか分からなくなって」
「まあ、まあ、まだ確かなことは解らないんだし。そうねー。でも、やっぱりね、こういうことは、一人に悩んでなくて、きちんと口に出して聞いた方がいいと思うわよ。最終的にはね。黙ってると行き違いになっちゃうでしょ。だから、今日、敬三さんが帰って来たら、ちゃんと聞いてごらんなさい」
「はい、そうします。…ごめんなさいね、おばさま、変な事、相談しちゃって。聞いてみます」
― 次の日、叔母の家、がらがらと玄関を開ける音
「あら、タカちゃん、いらっしゃい。おやー、元気そうねー」
「えへ、スイマせんでした。昨日は」
「まあ、まあ、お上がんなさい」
― 二人、庭の見える座敷へ
「一緒に食べようと思って、空也の最中、買ってきました」
「おいしいのよね。なかなか買えないのに。朝から行ってきたの?」
「ええ、おばさま、最中お好きだから」
「まあ、ありがとう。お茶いれるわね」
― 二人、最中を食べながら
「もう、大丈夫みたいね」
「ええ、あれから、おばさまに言われた通り、聞いてみたんです。ふふ、後で聞いたら、相当こわい顔をしていたみたいだけど」
「まあ、タカちゃんでも、恐い顔するのね」
「聞いたら、敬三さんも、付いたのに気付いたけど、切り出しづらかったんですって。変に言い訳みたいになるからって。いえね。電車の中でおばさん、いえ、中年の方、派手な人だったんですって。その方がね、電車の揺れた拍子に、敬三さんのエリに口紅を付けちゃったんですって。謝って下さったらしいんだけど」
「やっぱり、そうだったの」
「それでね、敬三さんも、真っ赤な口紅だったけど、少ししか付かなかったので、わざわざ私に言うとね、あの晩、お酒飲んで帰ってきたでしょう。ますます、言い訳がましくなるので、黙っていたって、言うんです」
「男の人って、そういうところあるわよね」
「でも、女性のいるバーには行ったらしいんです。同僚の方と。怒ってやったわ」
「まあ、まあ。怒ったの」
「なんか、一日暗くなっていたのが悔しくて。ちょっと怒ったふり」
「そんなものよ。…でも、空也の最中、やっぱりおいしいわね。お茶、もう一杯どう?」
「ありがとうございます。そうですよね。おばさまお一人なんで、少ししか持ってこなかったんですけど。今度、ランチに行きましょう。私がごちそうするから」
「そう。楽しみだわね」
― 玄関にて
「じゃあね、気をつけて」
― 女主(おんなあるじ)、座敷に戻って
「あんなものかしらね。敬三さんねー。本当に電車で付けられたのかしらね。まあ、敬三さん、そこまで策士じゃなさそうだから、ふふ」
― 日曜の昼、カフェでお茶してる太った女二人
「ね、めぐみさ、ちょっと痩せた?」
「えー、そう見える?ほんと?ほんとに痩せてみえる?」
「ダイエットしてるの?私さバナナダイエット始めたんだけど、あまり減らないのよねー」
「私さ、レコーディングダイエット。痩せたかなー。自分でも痩せたと思ったのよー」
「ところでさ、仕事はどーよ。めぐみ、何やってんの」
「それがさ、毎日、布に糊付け」
「なにそれ」
「私の会社ね。江戸小紋って言うんだけど、型染めやってんの。その一部分よ。私、まだ入ったばっかりでしょ。毎日、そればっか。手ぬぐいなんかはね、この間、作らせてもらったけど」
「ふーん。大変なの?それ。染めは大変そうだってのは知ってるけどー」
「まあ、大変だよ。むらがあったりすると怒られるし。はーっ、てため息でちゃうし」
「そうなの。でも、まあ、好きで行ったんだからー」
「まあね。おじさんばっかりだけど。江戸小紋って凄いのよ。昔の型紙があるんだけど。知ってる?型紙」
「習ったような。あれでしょ。厚手の紙を切り抜いたのでしょ」
「まあ、そうなんだけど。チョー、凄いよ。細かくて、もう人間業じゃないね」
「へー、そうなんだー」
「でも、オジサンばっかりで、これがずーっと続くと思うとね。…一緒に入った、若い男の子がね、もう、辞めちゃったのよ。お互い頑張ろうねなんて、言ってたのに。何かショックでさ。私も他の仕事探すかなー」
「そうなの。でも、めぐみさ、辞めない方がいいと思うよ。なかなか良い仕事なんかないんだから」
「そうなんだよねー。独立するっても、染めの仕事なんかないし」
「いい男なんかいないの?」
「へへ、それがね、一人いるのよ」
「えっ、めぐみってばー」
「それがね。違うのよ。社長の息子でね。まだ仕事継いでないらしいんだけど。ちょくちょく来るんだけどね」
「ふんふん。それで?いい男?」
「それだけよ。その息子さ、スーツ着て来るのよ」
「染め、やってるんじゃないの?」
「社長の知り合いの、別の会社にいるみたいなのよ。それで、たまに工場にくるの」
「はあ、あれね、会社経営の修行してるのね」
「たぶん。でも、来たときにさ、こっちは作業着でしょ。もう、やんなっちゃう、最初に挨拶した時よ、作業着」
「それじゃねー」
「そう。その息子ね。どうもー、って言って、それっきり」
「まあまあ、めぐみ自身はどうなのよ」
「社長の息子と社員よ。しかも糊付け係」
「あはっ、受けるー」
― なんとなく白けて、二人だまってストローに口をつける
「トモミはどうなのよ」
「狙ってるんだけどねー。暫く派遣で頑張るしかないかなー」
「そうなの。頑張って、探しなよ」
「でもさー。面接まで行くんだけどなー。ねえ、美人さんは得だと思わない?」
「そうねー。やっぱ美人さんは採用されやすいんだろうなー。うちの会社は関係ないけど」
「そうよ。仕事に関係ないわよねー」
「ダイエットしようよ」
「お互い、ガンバロー」
「ミドリちゃんが鉄子とは思わなかったよ」
「鉄子を、どう思ってたのよ。バカな女もいるもんだって思ってた?」
「あ、いや、そんなことないさ。でもこのセット、ミドリちゃん、自分で買ったのかい?」
「そうよ」
「ふーん。これ随分と小さいね。あ、いや、可愛いよね」
「Nゲージって言うのよ」
「こんな小さくて動くの?」
「あたりまえよ。これね、コントローラって言うのよ。それで、この先をね、レールに差し込むわけ」
「なるほどね。それで、電気が通じるんだ」
「そう、それからね、これが、ラレーリって言って、電車をレールに載せる道具なのよ。ラレーリじゃなくって、えーっと、リレーラだった」
― ミドリ、ちょっと赤くなるが、男、気がつかない
「電車がね、名古屋電鉄の7000系」
「へー、なんで名古屋なの」
「子供の頃、名古屋にいたのよ」
「へー、そうだったんだー。名古屋に住んでたのー」
「小さい頃だけどね。で、こうやると動き出すのよ」
― 小さな2輛編成の電車が動き出す。楕円形のレールの上を電車がぐるぐる廻る
「へー、ぐるぐる廻ってるね」
「室内灯も点くの」
「へー、そうなんだ。あ、点いたね」
― 男、部屋をきょろきょろと見回す
「ミドリちゃんの部屋って、さっぱりしてるね」
「どんな風だと思ってた?」
「いや、あの、何か女の子らしいって言うか、そのぬいぐるみとか」
「女の子らしい、ね。ぬいぐるみとか、あった方がいい?」
「いや、その、そんな事ないよ。えーと、ほら、人それぞれだしー」
― レールの上を小さな音をたてて、小さな電車がぐるぐると廻って、女、それをじっと見つめている
「あのさ、ミドリちゃん、マンガとか読まないの」
「どうしてさ」
「え、あの、本棚にそういうのないしー」
「女の子の部屋って、マンガとかぬいぐるみとか、あるって思ってた?他の女の子の部屋とか知ってるの?」
「いや、あの、ほらー、親戚の家に行った時、いとこの子の部屋とか見たことがあって」
「そう」
― レールの上をぐるぐる廻る赤い電車を女、じっと見つめている
「あのさ、この部屋いい部屋だね、窓からの景色がいいし」
「そう?そういえば少し暗くなってきたわね。・・おかあさーん。タカシ君、帰るって」
「え、ああ、そうだね。暗くなってきたし。帰るか」
― 男を、女とその母親、見送る
「じゃ、またね」
「どうも、おじゃましました」
― ドアが閉まって
「ミドリちゃん、お茶も出さなくて、よかったの?」
「いいのよ、別に」
「そう?なんか、タカシ君だっけ?なんか、肩落としてたわよねー」
「いいのよ、別に」
「ちょっとねー、いいのかしらー、なんか言ったの?」
「別に。いいのよ」
― 女、自分の部屋に戻る。部屋が暗くなって、室内灯をつけた赤い2輛編成の電車がぐるぐる廻っている。電車の室内灯の明かりが小さな電車の中から漏れて、走る電車が滲んで見える
『きっと私、この電車に乗ってるんだ・・この最後尾のパノラマカーの一番後ろ・・夕暮れで、景色がどんどん後に消えていくのよね・・横に座ってるのが・・まだ、顔は見えないけれど、きっとあの人に似ている人で、さっきまで言い争ってたんだ・・その人は、私の気持ちがわかっていて。・・こっちが、わざと冷たくしてるのを知ってて・・知らないふりしてて。・・私の方から・・きっと・・』
「みどりー!晩ご飯できたわよー!早くおいでー」
― 女、母親の声を聞いた途端に、腹が鳴って、一人で赤くなる
「今、行くったらー」
「オハヨゴザイマース。ヨン様ツアーの方、イラッシャイマスカー」
「あ、来た来た。フミコさーん、ほらー、来たわよー」
「あら、おはようございます」
「オハヨゴザイマース。エー、ハヤシさんとタカダさんデスネー。ヨロシク、私、パクです。オネガイシマース」
「パクさんて言うのね。よろしくね」
「コチラノバス、ドーゾー。コッチデース」
― ツアー・コンダクター、二人をバスに案内する。バスの中には二十人程の日本人。夫婦連れらしいのもいるが、中年女性が殆ど
「ハーイ、ミナサン、オハヨゴザイマース」
― バスの中、わいわい言っていて、よく聞こえない
「エー、ワタシ、今日一日、皆さんをご案内するパクでーす。ヨロシクー」
― 中年女性連、声を揃えて
「よろしくー」
「ハイ、ミナサン、お元気ですネー。私の奥さんもネー、みなさんと同じ位のトシですが、お元気ですヨー」
― ギャハハという笑い声。続いて『ホテルで、買ったの食べるー?』『何?これ』『キムチセンベイだって』『えー』『どれ?』『ぎゃは』『辛ーい』『おいしいわよ、意外と』『そう?』『キムチチョコもあるわよー』『うそー』『アハハ』『結構イケルー』『そうなんだー』等々、笑い声と袋をばりばい開ける音で、もうツアーコンダクターの声は聞こえない
「最初はどこだったかしら」
「えーっとね」
― 女、パンフレットを広げてみる
「最初はね、春川市。あ、チュンチョンね。そこのナミソム島。それからヨン様の出た高校で、春川高校」
「ヨン様みたいな、可愛い高校生がいたりして」
「学校って、今、夏休みじゃないの」
「夏休みって、日本と同じかしらね」
「どうなんだろ」
― ツアーバスは走る。ツアー客、ひたすら喋る。ツアーバスもひたすら走って、春川市に到着
「ハーイ、ミナサン、オツカレさまでーす。チュンチョンに到着でーす。これから、ミナサンに船に乗っていただいて、ナミソムに行きまーすよー」
「ここも、緑がきれいねー」
「そうね、空気もオイシイみたい」
― ツアー客、バスを降りてぞろぞろと歩いて近くの桟橋へ、桟橋から船に乗ってナミソム島へ
「キャー、ここがナミソム。スッテキー」
「ドラマと同じよー。キャー。あそこー」
「クーッ、あのベンチよ」
「キャー、ヤダー、ヨン様のファーストキス」
「あ、りすよ。カワイー」
「えー、みなさん、あちらが、あのメタセコイヤの並木道ですよー」
「ね、早く、撮って、撮って」
「キャー、ウソー」
― ツアー客、興奮状態。ツアコンの話など、耳に入らず、携帯カメラで乱写。この後、昼食。昼食後に春川高校、等々。ツアー客のおしゃべりは止まるところを知らない。
― ツアーのバス、ようやくソウルへ戻り、仁寺洞パークBOFにて解散。ハヤシさんとタカダさん、その後も精力的にヨン様の足跡を辿り、シェラトンウォーカーヒルホテルに到着。あたりはもう暗い。ホテルのヨン様スポットを一応廻って、レストランに落ち着いた二人
「じゃ、フミちゃん、おつかれさまー、乾杯」
「おつかれさまー、乾杯」
「あー、もう目一杯、楽しんだわよね」
「きゃーきゃー、言いっぱなしだったし」
「あら、私が?」
「私もだけど」
「はは、そうよねー」
「ホントに、今日は歩きまわったわ。林さん、足とか、大丈夫?」
か「あら、大丈夫よー。それよりもう、林さん、はよしてね。どこかの別人みたいだから、カナコって呼んで」
「じゃ、カナさんでいいかしら?」
「いいわよ、フミちゃん」
「でも、林さん、あ、カナコさんか。カナさん。このホテルのレストラン、素敵よね」
「そうよー。ヨン様のホテリアーが素敵だったからよ」
「このマルガリータも、ヨン様が好きだったっていうのよね」
「はー、なんかため息でちゃうわねー」
「あら、ため息だなんて」
「なにか、力が抜けちゃって。・・・そういえば、フミちゃんってご両親、お元気なの」
「旦那さまの両親はまだ元気よ。私の方は両方とも早くに亡くなっちゃって」
「あら、そうなの。…私ね…この冬に旦那の母親が亡くなって」
「あら…」
「ずーっと、介護してたのよねー。永かったわー」
「介護。大変だったでしょう?」
「そうね。かれこれ十年くらいかしらねー」
「長かったわね、それじゃ。旦那さんって、ご長男?」
「それが違うのよ、三男。三男なのよ」
「ご事情があるのよね」
「別に何もないのよね。でも永かったわ」
「そうでしょうね。よく頑張ったと思うわ」
「最初はね、何で三男なのにって思ったわけよ。また、旦那がマザコンでね」
「あら、まあ…」
「それでも、子供の大きくなる頃まではね、喧嘩もしたけど。まあ、それなりに何とかなるじゃない。でも、子供達が成人して、家を出たころかしらね、最初、どうしたんだろうって思ったわけよ。気の強い人だったから。それで、惚けが始まって。長男のおヨメさんにもそれとなく言ったのにね、結局、押し付けられたのよね。次男夫婦もなんだかのらりくらりで。うちの旦那がね一番、おかあさんに可愛がられていたのよね、とか何とか言われて。また、旦那が何も言えないのよね、もう。…惚けもまだらでね、おかあさんも体が丈夫で。こっちばかりしわ寄せが来てね。最初の頃はもう、円形脱毛症まで出ちゃって。それから、寝付くようになって。結局はね、意地よね。女の意地よ」
「大変な思いしたのね」
「まあね。本当に大変だったわー。でも最後の方はね、ちゃんとしてあげなくちゃと思うようになって。…自分で言うのもおかしいんだけれど…おかあさんにね、もっと長生きしてね…って…言えるように…なったわ…」
「…そう」
「まあ、そう思ったのは、ほんとに最後だったけどね。実は。でも、女の意地を通したから。で、もう大手を振ってヨン様のおっかけできるわけ」
「あら。でもそうよね。男は意気地がないわよね。私だって…」
「飲もう飲もう」
「ボーイさーん。あら、日本語、通じるかしらね」
「だいじょぶよー。もう、イケイケよー」
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