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ブッシュ・ドクトリンの提示 (2003/7/22)

2002年9月20日に米国政府は、『米国国防戦略』を発表した。世に言うブッシュ・ドクトリンである。この中で、大統領は、
(1)冷戦時代の方針を放棄
(2)アメリカ国防の新戦略の要点は予防攻撃
(3)米国の得た軍事覇権首位の地位への挑戦を許さない
(4)不拡散主義を優先し、他国の核兵器撤去を積極的に進める
(5)米国は国際支持を求めるが、一方的行動も厭わない
(6)地球温暖化対策に対する戦略もドクトリンに含める
(7)新ドクトリンは京都議定書と無関係、だが、10年間に経済成長18%達成の範囲内において炭酸ガス 発生削減を目標の中に入れる
(8)国際通貨基金IMF、世銀IBRDもアイデアと経済競争に勝利を得るための外交手段として使用する
等と述べた。

米国は必要な場合には国際社会において一方的行動も厭わない(5)等、に対してわが国では感情的な反発も見受けられるが、大統領の発言が我々の常識あるいは予測に沿うものであるかどうかに捕われるべきではない。むしろ、大統領が我々が常識と考えるものと異なる発言をしたことが、我々とどう関わって行くのか、また、なぜ我々の考える常識と大統領の常識が異なっているのかを考察し、今後米国が、地球環境問題においてどのような行動をとるかを予測するべきである。

従って、大統領発言は、米国の真意ではないのでは?、あるいはこのような発言をする大統領の資質に問題があるのではないか?、という観点に関する検討は無意味である。大統領の発言は内部で十分に検討がなされた末に発表されたと考えるべきであり、仮令、ある発言が大統領のスピーチの途中で個人的見解が表れた結果であるとしても、その発言に至る内面的な考えがあるはずである。

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国防戦略と地球温暖化対策 (2003/7/22)

国防戦略の中になぜ地球温暖化対策が、軍事問題と経済競争と同じ扱いを受けて列挙されているのだろうか?というのは、我々からすれば、ごく素朴な疑問であろう。だが、大統領がこのように発言したということは、そこに地球温暖化対策が国防戦略に含まれるという確固とした理由がある筈である。

最も単純な考え方をとれば、大統領自身が述べているように、「米国は戦争状態にある」とすれば、地球温暖化対策が国防戦略に取り入れられていることに矛盾はない。繰り返すが、ここでは「戦争状態にある」との発言が比喩ではなく、大統領を始めとする米国政府が、まさしくそう考え、そう行動していることを認識すべきである。国土を攻撃されて敗戦を受容した後、一切の戦争に参加しなかった我々の「戦争状態」に対する見方は、米国のそれとは全く異なることに注意しなければならない。

米国が「戦争状態にある」とすれば、戦争を支援する経済活動、ならびに経済活動に深刻な影響を与えかねない地球温暖化対策、は国防戦略に重要な柱として取り入れられていることは理解し得る。むしろ、経済競争に勝利するためには金融システムも利用(して攻撃も辞さない)という内容を考えれば、米国の勝利のために地球温暖化対策が利用されるのは当然の帰結と考えるべきではないのか。環境問題が米国の外交政策の一つとして利用された例は既にある。例えば1972年4月、米国はストックホルム国連人間環境会議に、捕鯨モラトリアム(一時停止)を提出、採択された。この人間環境と捕鯨モラトリアムという一見、何の関連もない提言は、特定国に対して政治的圧力をかけるために、準備されたものであることに注意すべきである。

採択に先立つ、米国内の動きを挙げれば以下のようになる。1971年1月 全米における捕鯨全面禁止決定、同時に本件は商務省から大統領府直接管轄へ移管される。4月、ニクソン大統領の海洋哺乳動物保護法が可決。 6月、ワシントンにて IWC 会議開催、民間人のジョーン・ マッキンタイアーが初めてオブザーバーとして出席、 10年間のモラトリアムを提言。同6月、バージニア州シェナンドア国立公園にて鯨をめぐる 大規模なシンポジウム開催される。12月、 ニクソン大統領とキッシンジャー国務長官が、 モーリス・ストロング国連人間環境会議事務局長(後のカナダオンタリオ電力公社のCEO )に 10 年間のモラトリアム採択を要請。以上のような準備を経て1972年4月、米国上・下院は10 年間のモラトリアムを共同決議し、ストックホルム国連人間環境会議においてこれが採択されることになったのである。

しかし、ここから短兵急に米国がどのように地球温暖化対策を考えるか、あるいは政治的にこれを利用するかについて、言及はしない。個々の問題ではなく、既に述べたように(我々とかなり異なっているように思われる)大統領の常識、即ち大統領を選出した米国民の常識とは何か、その行動原理は何か、から話を始めたい。例えば、米国国防戦略にあるように、ブッシュ政権の最大の特徴は「ユニラテラリズム」(一方的外交)なのだが、これに呼応して、米国内には、ユニラテラリズムに懐疑的な論調がほとんどない。我々の常識とはかなり異なるような、この状態はなぜ米国に存在するのだろうか。

広く存在する概念はまた、広く存在する実質にメタファーとして示されている場合が多いと私は考える。米国民にとって最も親しいものと言えばドルであるが、米国のコインには"In God We Trust."(われら神を信ずるものなり)という標語が使われていることがよく知られている。これは、1864年2セントコインに始まるのであるが、当時の財務長官ソロモン.P.チェイスが、コインには神のご加護が認識されるべきだというたくさんの市民の請願を受けて、これを許可したものである。その後1955年に議会はすべての紙幣とコインにこの標語を使うよう指示し、1963年以降、現在はすべての額面の紙幣コインにこの標語が使われている。この標語が、官製のスローガンでないこと、米国民の大多数が標語通りに考えていることに最初に注意すべきである。

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大統領はテレビ伝道師 (2003/7/23)

元大統領ジョージ・ハーバート・ウォーカー・ブッシュ(George H.W. Bush)の長男であり現大統領のジョージ・W・ブッシュは、家族共々、最初は聖公会(Episcopal Church)派に属していたが、ビリー・グラハム牧師の按手礼(ordination)を受け、1986年に回心(conversion)してメソジスト派となった。ビリー・グラハム牧師は、パプテスト派の著名な大衆伝道者、いわゆるテレビ伝道師で、伝道協会を主宰しており、前大統領George H.W. Bushの就任式の祈祷を行った。また、ビリー・グラハム牧師の息子のフランクリン・グラハム牧師は、現ブッシュ大統領の就任式の祈祷を行った。

各宗派の違いや歴史的な経緯については後に述べる事として、現ブッシュ大統領についての事実を引き続いて述べたい。まず、ジョージ・W・ブッシュが受けた按手礼なのだが、字義から言えばプロテスタント各派においては、牧師が信者の頭に手を置いて教会が牧師の役割をその信者に委託する、牧師の承認式である。ビリー・グラハム牧師は「ビリー・グラハム福音伝道協会(BGEA)」を主催しているから、G.W.ブッシュは、普通に考えればこの時、彼はBGEAの牧師になったことになる。一方、彼はまだこの時点では聖公会に属していたから、別派の牧師になるのはまずいだろうと思われる。かつ、BGEAは教会ではなくて協会(association)であるから、G.W.ブッシュは、ビリー・グラハムのように伝道師になったと考えるべきである。

さて次にG.W.ブッシュが、回心してメソジスト派となったことについてである。回心とは字義的には、宗教的に新生する(生まれ変わる、180度転換する)宗教体験を言うのであるが、彼の内面的変化については言及の範囲を超える。だが、他者が言及の範囲を超えるような変化を自分が感じたとG.W.ブッシュが確信している事実は、我々全てが認識すべきである。G.W.ブッシュがなぜメソジスト派を選んだかについては今後の調査対象であるが、少なくともイラク戦争にあたってメソジスト派との間のやりとりについては知られており、それによれば、ブッシュ大統領がメソジスト派の指導部に従っているとは思えない。例えばメソジスト派教会指導部(The General Board of Church and Society )のロバート・エドガー師は、イラク戦争前の2003年1月末にブッシュ大統領に会談を要請したが拒否されている。このロバート・エドガーは、プロテスタント各派と正教会で構成されている米教会協議会(NCC:National Council of the Churches)の代表でもある。

「パレスチナ紛争の宗教的背景と米キリスト教右翼(桜美林大学大学院国際学研究科長・上坂昇)(2002年10月1日付)」によれば、中道・リベラルの主流プロテスタント諸教派のつくるNCC(全米教会協議会)はパレスチナ側の自爆テロとイスラエル側の占領地での暴力の双方を非難している。これら諸派は概してパレスチナに同情的である。一方、アメリカ国民の6割はイスラエル支持であるという。

米国の福音派の主導グループ『福音派全国協会』(NAE:1942年設立)は、NCCの前身である『連邦教会協議会』(FCC)から、主流派が極端な自由主義と社会活動至上主義に傾斜しているとして分裂したものである。このグループは、聖書の不誤性など保守的な福音主義の基本への信仰に立脚している。一方、NCCとNAE両派の間には和解の動きもある。1996年NCCがシカゴで開催した年次会議において、時のジョウン・ブラウン・キャンベルNCC総幹事は、NAEのドン・アーギュー議長を招待した。また、NCCは他の宗教家との間の交流も試みている。ジョウン・ブラウン・キャンベルは総幹事就任後、ビリー・グラハム牧師をNCCのニューヨーク本部に招き、非公式に会談した。

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テレビ伝道師という宗教者 (2003/7/23)

米国においては、1970年代以降、男女平等憲法修正法案(ERA)に象徴される連邦政府の平等主義政策や人工中絶の合法化に反対する人々、道徳の退廃や家族の崩壊や宗教の衰退に危機感を募らせる人々が増えたと言われている。このような状況下にあって、1970年代後半〜1980年代初頭にテレビ伝道師(TV Evangelist)が登場してきた。例えば1980年代前半に、ジェリー・ファルウェル(Jerry Falwell)は、「モラル・マジョリティMoral Majority」という団体を率いて、活躍を開始した。彼はバプテスト教会の牧師であり、福音派(エヴァンジェリカル)の急進派ファンデメンタリスト(積極的に政治運動を展開する人々)を支援者にしている。また彼は、ホワイトハウスのアドバイザーも務めた。パット・ロバートソン(Pat Robertson)は、1988年にクリスチャン・コアリション(キリスト者連合)を創立し、かつ著名なテレビ伝道師となった。同連合は、草の根レベルの保守派キリスト教組織としては最有力とみなされている。

テレビ伝道師は一時期、非常に大きな影響力を持った。「1995年6月、宗教と社会学会シンポジウム:情報時代は宗教を変えるか?、アメリカにおけるテレバンジェリストの栄光と挫折:生駒孝彰」によれば、そのテレビ伝道は極めて多数の米国家庭で視聴された。

順位伝道師名・番組名放映形態視聴世帯数
パット・ロバートソン「700クラブ」毎日12,000,00
ジミー・スワガート週1回9,254,000
ロバート・シュラー週1回7,461,000
ジム・ベーカー毎日5,773,000
オラル・ロバーツ週1回5,773,000
ジェリー・ファルウェル週1回5,603,000
ケネス・コープランド週1回4,924,000
ジミー・スワガート(上記とは別番組)週1回4,508,000
リチャード・デーハン「発見の日」週1回4,075,000
10レックス・ハンバード週1回3,736,000
(1985年のニュールセン社による報告)

その後、著名なテレビ伝道師ジミー・スワッガートが横領罪と堕落行為で投獄されてしまった事件などを契機として、テレビ伝道師の影響力を近年縮小していると見られているが、依然、その力を無視することはできない。

また、テレビを通じた伝道に力を入れる宗教右派は、しばしばイスラムに対する対決姿勢を表明する。この現象は、アメリカ国民の6割はイスラエル支持であると言われているのに呼応しているものと考えられる。パット・ロバートソン師(Pat Robertson)は、イスラム教は自分たちが支配できるまでは共存を望むだけであり、暴力的な宗教だとしている。ビリー・グラハム師がイスラム教とキリスト教は同じ神を祈っていると公言していたのに反して、その息子フランクリン・グラハム師は、イスラム教は不道徳で邪悪な宗教であると発言してはばからない。「産経新聞 2001,09,17夕刊 」によれば、フランクリン・グラハム師は、「彼らはアメリカを憎んでいる。それはアメリカがイスラエルを支持しているからであり、またアメリカが『キリスト教国家』であるからだ」と語ったという。

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米国は宗教国家である (2003/7/23)

米国について考察する時、歴史の背後や国民共通の暗黙の了解、の類いは必要ないように思われる。むしろ、明文化された文書や代表者の発言をそのまま、文字通り理解すべきであると考えられる。このように考えると、米国が宗教国家であるというのは極めて明快である。既に述べたように、米国民にとって最も親しいものであるドルには、全て、"In God We Trust."(われら神を信ずるものなり)という標語が使われている事実があり、1783年アメリカ独立宣言の冒頭には以下のように述べられている。「われわれは、次のような真理をごく当たり前のことだと考えている。つまりすべての人間は神によって平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その権利のなかにはには、生命、自由、幸福の追求が含まれている」。

これを1789年のフランス革命における人権宣言第1条、「人は自由かつ権利に於いて、平等なものとして生まれ、かつ生存する」と比較すると明らかな違いがある。フランス革命は王権とカトリック教会に対する革命であったから、その宣言には神の文字が含まれていない。七月革命を描いたドラクロワの「民衆を導く自由の女神」は、フランス革命指導者が考えるところの、「理性の女神」であり、米国独立運動の考えた神とは全く異なることに注意するべきである。また、米国の独立宣言はフランスの人権宣言に時間的に先行していて、事実上世界最初の"共和制"の国家であること、フランス革命において人権宣言に「自由の女神」が必要であったように、この時代、神について考慮することなしに大きな事業を推進し、かつ国民を納得させることが困難であったことを考慮しなければならない。米国の独立宣言に「神より与えられた権利」と述べていることを、文字通りに独立の指導者と民衆は考えたに違いないのである。

さて米国では、国教の樹立が禁止されており、それが信教の自由を保障している、とされているが、その事情をよく考えると、我々が考える政教分離とは全く異なっていることが分かる。合衆国憲法・修正一条「連邦議会は、国教の樹立を規定し、もしくは信教上の自由な行為を禁止する法律、また言論および出版の自由を制限し、または人民の平穏に集会をし、また苦痛事の救済に関し政府に対して請願をする権利を侵す法律を制定することはできない。」が米国の政教分離制度と理解されているのであるが、国教の樹立を規定する法律の制定が禁止されているのであって、逆に言えば、規定されていなければ国が主催する宗教活動があり得る、と考えることもできるのである。

独立宣言は、次の様にも述べる。「国王はアメリカで内乱が起こるように扇動し、辺境の地に住む人々や残酷な野蛮人のインディアンを育成しようとしてきた。彼らのよく知られた戦いの掟は、年齢や性別や状態に関わらず無差別に殺すというものである」。この文面をそのまま受け取ると、インディアンは全ての人には含まれていないように見える。即ち、「神と契約していない人」(ヘブライズムを信仰していない人)には「神より与えられた権利」がないと、この文面を読んだ上で結論しても不都合はないように考えられる。これと同じように我々の考えと米国の違いが表れている言葉に裁判における[無罪」があるが、米国における無罪は「not guilty」であって「innocent」ではない。

他にも米国民が宗教的であることの事実は、統計データにも表れている。「アメリカにおける政教分離の歴史的変遷8(1)─初期アメリカの植民地法制度を中心として─(上)、松村比奈子、駒澤大学公法学研究.・第17・18合併号掲載論文、1991年」 によれば、市民の95%が神の存在を信じ、60%が何らかの宗教団体に所属し、また週に一度は教会の礼拝ないしミサに出席しているという(1985年の the Gallup Report )。その宗教別内訳は、プロテスタント55%、カソリック45%、ユダヤ教4%、その他1%となっている。

米国のカソリックについては、これを米国独自のカソリックであるとする見方がある。「アメリカと『神』、森孝一、英語教育、2002年10月増刊号、27−30頁」によれば、カソリックの”アメリカ化”とは具体的には、共和制(民主制)原理と共存できる宗教への自己変革(バチカンからある程度独立したアメリカン・カソリック)であり、また米国の国家統合と使命感に宗教的意味を与える宗教への変身であった、という。米国のカソリックについては、米国の宗教、の上部構造としてカソリックの変質、を考察する必要があり、本報告書内では言及しないものとする。ただし、バチカン(ローマ教皇庁)教理省長官のヨーゼフ・ラツィンガー枢機卿が2003年3月21日、イラクのフセイン大統領やブッシュ米大統領が演説で、神の名を引き合いに出し、戦争を正当化していることを「まさに悲しむべきこと」と批判した「世界キリスト教情報2003年3月24日(月)第640信」のに対して、米国のカソリックがこれに同意して、大統領の行動に反対した事実はないことを示すにとどめる。

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繰り返される福音主義への回帰 (2003/7/24)

米国の発祥は勿論ピューリタンの移住から始まるのであるが、米国において特徴的なのは、社会の変動に対抗してピューリタニズムの原点に戻ろうとする運動が何度も起こることである。その歴史を概括する。

そもそもピューリタンとは、女王エリザベス1世のアングリカニズム(英国国教会中心主義)による宗教政策を、不徹底な宗教改革とみなして、国教会を宗教改革者カルヴァンに従って徹底的に改革しようとしたプロテスタントにつけられた総称である。即ち、ピューリタンそのものが、より徹底的な改革、あるいは純粋な信仰と自ら呼ぶものに宗教を改革する運動の現れであり、この運動傾向はその後も失われていない。ピューリタンには、穏健派である国教会からの非分離派のカルヴィニスト(後の長老派) から、より急進的な、分離派の非カルヴィニスト(後の諸セクト)およびカルヴィニスト(後の独立派)などの多くのグループが含まれている。その後英国においては、ジェームズ1世による国教会体制のひきしめ、さらにはチャールズ1世によるピューリタンへの弾圧が行われた。

このような環境の中で1620年メーフラワー号の人々の移住が行われたのである。その後、ピューリタンの移住はより活発となり、1630年以降はボストン周辺へ大移住を行った。ピューリタンは英国王からの圧政を逃れてアメリカ大陸に移住するという契機を、聖書にのっとって地上に理想社会「神の国、キリストの王国、新しいエルサレム、などと呼ばれる」を実現することとして捉えた。彼らの信仰の教義は、「契約神学」と呼ばれる独自なものとされ、神人関係も社会関係(家庭や国家)も契約で考え、神に対し責任をもつ生活をすることを目標としていた。このように改革の理想を〈神政政治〉として実現しようとする運動は、ニューイングランド・ピューリタニズムと呼ばれていた。

ピューリンタンの初期の移住後も、ヨーロッパからの移民は増大し、これに伴って、英国国教会、カルビン主義の会衆派清教徒教会、バプテスト教会、クェーカー教徒の教会、ドイツ系メンノ派教会、モラビア派教会、長老派教会、改革派教会、アメリカ・ルター派教会などが生まれた。一方、英国の植民地下にある開拓者の間の騒乱、道徳的退廃などに対して、ピューリタンの原点に戻ろうとする運動も起こる。ジョナサン・エドワーズ は「予定説」の強調を下敷きとして、「恐怖の説教」として知られる宗教活動を行い、「大覚醒運動 (The Great Awakening)」を指導した。 「ジョナサン・エドワーズの終末論、村上良夫」によれば、ニューイングランドの宗教的な状況に対して、 「ニューイングランドにおける信仰復興に関する若干の考察:Some Thoughts Concerning the Revival in New England」などの説教を行い、大きな影響を与えた。予定説に強く傾斜した、ジョナサン・エドワーズの説教には反発も生まれ、彼は1750年にノーザンプトン町から追放されている。しかしこの大覚醒運動は、ニューイングランド州を中心として活動したジョナサン・エドワーズだけに留まらず、ジョージ・ホィットフィールド(ジョージア州、ケンタッキー州など全植民地を巡回)、シューバル・スターンズやダニエル・マーシャルなどによる南部バプテスト派へと拡大した。特に南部バプテスト派においては、リバイバル(信仰復興)運動が起こり、バプテスト派が大教派になるきっかけを与えた。

ニューイングランド・ピューリタニズムが地上に理想社会を作ろうとする運動であったように、ピューリタンは政治的活動に無関係とは言えず、むしろ積極的にこれに係わっていく。1783年の米国独立に先立つ独立戦争にあたっては、クェカー派、メンノ派、モラビア派などのグループが戦争参加を拒否したものの、大教派である、会衆派、バプテスト派、長老派等はこれを熱烈に支持した。

ヨーロッパにおけるプロテスタントの活動と米国のプロテスタントの間の違いにも注意する必要があろう。現在、プロテスタントの各派を大きく分類すれば、
(1) 主流派:ルーテル/聖公会といった16世紀頃からの経歴を継承し、リベラル派とも言われるようにより自由な傾向を持つ
(2) 福音派:より福音主義を追求し、聖書の直感理解、積極的な宣教を行なう傾向を持つ。原理主義的な右派も含む
(3) 聖霊派:聖霊による目に見えるしるし(異言や奇跡、その体験)を前面に強調する。ペンテコステ・カリスマ運動を含む

上記の分類は過去の経緯を重視する点で、ヨーロッパの側からみたプロテスタントの分類であるが、米国のプロテスタントのこれまでに上げて来た特徴から言えば、(1)のグループを主流派と呼ぶのは不適切であるかも知れない。20世紀初頭、歴史的な経緯から多くの諸教派に分かれているプロテスタント教会が、一致を目指そうという運動が起きた。エキュメニカル(世界教会一致運動)である。1910年、この運動に共鳴するプロテスタント各派の指導者らはエディンバラにおいて世界宣教会議を開催、1948年には世界教会協議会(WCC)が創立された。米国では、この動きを受けて連邦教会協議会(FCC)、後の米教会協議会(NCC:National Council of the Churches)が創立された。しかし、この動きに対し、主流派が極端な自由主義と社会活動至上主義に傾斜しているとして反対する米福音派の主導グループは、1942年、福音派全国協会(NAE)を設立し、聖書の不誤性など保守的な福音主義の基本への信仰への回帰を唱えた。NAEには、20世紀初頭にアメリカに始まった聖霊体験(異言を伴う聖霊のバプテスマ)を主張するペンテコステ派も加わっており、ヨーロッパのプロテスタントとの違いを際立たせている。

近年に至っては、既に述べたテレビ伝道師の出現も、カウンター・カルチャーへの反発という点において、このピューリタニズムへの回帰という運動に属するとみなすことができよう。

以上の概括的な歴史に見られるように、米国におけるプロテスタントは、カルヴィニズムの基に、フランス革命に定義された自由主義の影響を受けては、これに対抗して福音主義への回帰、という繰り返しが幾度となく繰り返されているとみることができる。

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米国のプロテスタント諸派 (2003/7/25)

2002年米国におけるキリスト教徒の、信者数の、上位25の教会から、会派別の割合をみたものが以下の図である。ratio

このうち、プロテスタント各宗派について、その起原や教義、行動規範などについて概略したものが下表である。ただし、ペンテコステ派については、プロテスタントに含まれないとする考え方もある。

教派 ルター派(ルーテル教会) Lutheran Churches ペンテコステ派 改革派/長老派 Reformed Churches; Presbyterian Churches 会衆派/組合派 Congregational Churches バプテスト Baptist Churches メソジスト Methodist Churches
起源 ローマ・カトリックの修道司祭だったマルティン・ルターによる宗教改革(ドイツ、1517年以降) ジョン・アレクサンダー・ドウイ(1847-1907)により建てられた「シオンの町」を起原とする 神学者ツヴィングリ、カルヴァンらによる宗教改革(スイス、16世紀後半) イングランド国教会からの分離派(イングランド、16世紀後半) 宗教改革期のスイスやドイツのアナバプテスト、およびイングランド国教会からの分離派(オランダ、イングランド、17世紀前半) イングランド国教会司祭ジョン・ウェスリー(ウェスレー)による国教会内部の信仰覚醒運動(イングランド、18世紀半ば)
教義(Dogma) 聖書主義。職業召命観(世俗の職業も神の召命によるものとして司祭職と同じく尊重 聖霊体験(使徒行伝に書かれている異言を伴う聖霊のバプテスマ)を主張する カルヴァン神学に基づく「選び( 予定説 predestination)」。ルター派よりも徹底した聖書主義。勤勉・倹約・禁欲による資本主義的営利活動の肯定 かつてはカルヴァンの予定説を重視。各個協会独立自治 基本はカルヴァン神学。 成人の自覚的信仰に基づく 浸礼(totalimmerision)によるバプテスマ。各個教会独立自治。万人祭司による信徒伝道の強調。 アルミニウスに由来する万人救済主義。聖霊の働きを重視。
一般的な信徒の行動規範 全体的に保守的だが、飲酒喫煙は罪悪視しないし、離婚も可能 聖書の文字どおりの実行を標榜するが、信者各人の体験には柔軟に対応する。 伝統的には教会規律を重んじ、自制心が強い。禁酒禁煙が基本だが、比較的寛容な人も ピューリタンと呼ばれた時代の生活様式は禁欲的で、厳格そのもの。現代ではリベラルなところが多い 禁酒禁煙が基本で、しばしば保守的な価値観をもつ 敬虔。聖潔を旨とする。厳格な禁酒禁煙。社会事業への関心が高い
くりホン キリスト教教派の森より抜粋。ペンテコステ派については追加して記述。

ペンテコステ派(あるいはペンテコステ・カリスマ派)は20世紀初頭に創立されたとするのが一般的である。その歴史の短いこともあって、近年のアフリカ諸国における活動や南米における活動などについてはヨーロッパキリスト教国からは懐疑的な目でみられている(ペンテコステ派という繁栄の神学ール・モンド・ディプロマティーク(2001年12月))。

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カルヴァン主義という底流 (2003/7/25)

米国のプロテスタントの宗派別信者数からみて、その主流を占める位置にあるバプテスト、会衆派/組合派、改革派/長老派がカルヴァン主義を基本としているのは注目に値する。なぜなら、カルヴァン主義において我々が考える西欧キリスト教と米国における宗教的理解に最も異なる点が現れていると考えられるからである。

カルヴァンに至る以前に、非キリスト教徒はその当初からのキリスト教の歴史を概括する必要がある。東京国際大学国際関係学部の関岡正弘はそのノート「西欧資本主義思想の根源に遡る」に以下のように分かりやすく述べているる。まず一神教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の教えとは、
・神は唯一であること
・この世には必ず最後の日が訪れるが、その最後の日には神による最後の審判を受けなければならないこと
の二つを信じることを信者に要求している。問題は、その最後の審判には、天国行きか地獄行きか二つの可能性しかないことである。そこでユダヤ教の場合、地獄へ行かないで済む唯一の選択肢は、神の命令どおり生きることである。しかし一般の人間は、その肝心の神の命令を直接聞くことができない。そこで、預言者が神の命令(言葉)を記録したとされる聖書が尊重されているのである。

一方、キリスト教は、信仰の根幹に 「救い」という概念 を持ち込んだ。「救い」とは、一神教徒なら誰もが避けて通れない最後の審判の際、確実に天国へ行ける保証である。ところが、キリストが、最後の審判より遥か以前に、人間に天国行きを保証したとすると、最後の審判者、絶対神の立場は奇妙なものとなる。絶対神がキリストの決定に拘束されるのだとすると、もはや絶対神ではなくなってしまう。反対に、拘束されないとすれば、キリストは人間を騙したことになってしまう。原始キリスト教会は、この論理的絶対矛盾に悩むことになったが、最終的に、三位一体説により矛盾を解決した。即ち、絶対神を父、キリストを子とし、それに聖霊という神秘的要素を加味して、それぞれは位格としては三つだが、存在としては一つとする教義である。この教義は4世紀末、アウグスティヌスが現れて、新プラトン主義を基礎にキリスト教神学として確立した。以後、キリスト教の中核に神学が座ることになった。

ここでいう、新プラトン主義とはキリスト教設立以前のギリシア「哲学」に由来する考え方であり、簡単に言えば、世界には人間の論理を超えた超越的な論理があるとするものである。新プラトン主義は、プラトンのイデア思想にオリエントの神秘主義が混入された思想であるとされる。

その後、12世紀にアラブの世界から先進的な学問体系がヨ−ロッパに入ってくると(12世紀のルネッサンス)、長らくスコラ哲学として凍結されてきた学問ないし思想体系が、大きく揺らぐ。中でもアラブから入ってきたアリストテレスの思想は、プラトンのイデア思想とは対立するものだったが故に、新プラトン主義で固められたスコラ哲学にひびを入らせることになる。これを受けて、13世紀の初め相次いで、二つの托鉢修道会が誕生した。プラトン・アウグスティヌス主義(イデアといった超人間的要素を認める立場)、のフランシスコ会と、アリストテレス哲学(人間中心の哲学である。その論理学は近代思想のバックボ−ンとなった)に立脚したドミニコ会である。

ドミニコ会のトマス・アクィナスはここで、人間のために神があるのではない。神のために人間が存在すると主張した。 そして、神の栄光を増すことが人間の務めとした。この流れの中、カルヴァンはその上さらに、「救い」に関する決定論とも言うべき予定説 をとなえた。カルヴィンによれば、人間は生まれながらに二種類に分かれている。最初から救われることが決まっている一部の選ばれた人間とどんなに善行を積もうが救われないことが前もって決められている人間の二種類である。その区別は神のみが決定する。カルヴァンが建てた「ジュネ−ヴ教会」はこの後、ピューリタンのモデルとなった。

さて、自分が最後の審判にあたってどりたに分類されるかを知るすべがないピューリタンは、当然のようにその内面に苦悩を抱えることになる。このような苦悩から脱出するには、第一は、誰もが自分は選ばれている信じること。そして疑惑を感じたときは、それを悪魔の誘惑として斥けよと説得すること。資本主義勃興期のピュ−リタンの起業家たちは、皆、この自己確信の持ち主だった。第二は、そうした自己確信を揺るぎないものとするために、もっとも優れた方法として、絶え間ない職業労働を行うこと。それぞれが従事する世俗的職業労働をBeruf(天職)と考え、それに全力を尽くすことが、神がつくりたもうた「この世」をより良くすることであり、神の栄光を増すことだと考える思想である(マックス・ウェ−バ−の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」)。

以上が、ピューリタンにおいて、如何にカルヴァン主義がその底流となったか、ピューリタンはこれをどのように考えているかについての関岡の概括である。

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米国の力による予定論からの脱出 (2003/7/28)

ピューリタンを祖とする米国のプロテスタントは、これまで、カルヴァン主義の下に、誰もが自分は神に選ばれている信じ、そうした自己確信を揺るぎないものとするために、それぞれが従事する世俗的職業労働を天職と考え、それに全力を尽くしてきた。その結果、世界で最も豊かで、かつ強力な国家を作り上げた。それは、少なくとも物理的には初期のピューリタニズムの理想を実現したかに見える。また、プロテスタントがその独立宣言で述べた英国国王からの独立も既に成し遂げ、またカソリックも米国のカソリックとしてバチカンの直接的支配の範囲外にあるように見える。

9.11はこのような宗教的状況にある米国の歴史的な転回点と言えるのではないだろうか。即ち、それまで、神に選ばれているという自己確信を確認するために職業労働に全力を尽くして国家を建設する、というテーゼの、世界最高の国家を建設した米国民は、神に選ばれているというテーゼへの転換である。例えば草の根レベルの「ユニラテラリズム」に対する全くの同意は、米国の力への信頼ゆえに自分は神に選ばれているという確信の表明であるとみなすことができる。大統領が敵を「悪」と言明した瞬間に、その言明は同時に「我々は神に選ばれている」ということを宣言したものと考えることができる。

2002年11月24日の日曜日、テキサス州南部サンアントニオのキリスト教会において、テレビ伝道師のジョン・ヘイギー師(62)による(主催した教団「コーナーストーン教会」は信者数1万7000人と小規模)「イスラエルをたたえる夜」と題した集会が開かれ、その模様が全米110のテレビ局で放送された。同教団はイスラエルの右派政党リクードとの関係が深く、聖書を厳密に解釈する福音主義派(キリスト教原理主義)に属する。同党のネタニヤフ外相(元首相)は過去2回、集会に出席している(毎日新聞2003年1月6日東京朝刊から)。また、2003年5月グラハム氏の伝道集会「ミッション・サンジエゴ」、に記録的な群衆が集まった事実がある。「ミッション・サンジエゴ」は軍関係者への訴えに特に力を入れていた。伝道集会は軍放送局AFRTNを通じ全世界の米軍人とその家族80万人に向け中継された。(世界キリスト教情報、2003年6月2日、第650信(週刊総合版))

政治に積極的にコミットすることを厭わないテレビ伝道師が代表して述べていた、米国民の宗教意識のこのような転換は、世界最高の国家の国民としての自負としてこれまでに表明されてきたが、9.11を境にその自負とテーゼの転換の自己確認が、米国政治の最上面に現れてきたのではないか。

「アメリカ新世紀プロジェクト」(PNAC)は注目すべき論文「力と弱さ(Power and Weakness)」を発表した。「米『新帝国主義』を演出する男たち、高畑昭男、エコノミスト、2003年9月3日号」はこの論文を以下のように解説する。
国際政治の「力の効用、力の道義、力の望ましさ」をめぐって、欧州と米国の違いが修復不能な状態に達し、米国の新世界秩序建設にとって欧州はいわば「用なし」になったと断じた。筆者のロバート・ケーガン(Robert Kagan)はワシントンで活動する多彩な肩書を持つ言論人で、ブッシュ政権の外交安全保障チームに多大な影響力を持つ新保守主義系シンクタンク「アメリカ新世紀プロジェクト」(PNAC)の共同設立者だ。欧州側の衝撃の深さは、欧州連合(EU)のソラナ共通外交・安全保障上級代表がEU幹部らに「必読論文」と指定してコピーを配布した事実からもうかがえる。ブッシュ政権下で、米欧間では単独行動主義(ユニラテラリズム)と国際協調主義(マルチラテラリズム)をめぐる差が際立ち、京都議定書、国際司法裁判所、軍縮、対テロ戦争など論争と対立の局面は広がりと深さを増してきた。それでも、第2次大戦や冷戦を大西洋同盟として共に戦ってきた米欧の相互依存・相互補完の関係の本質はおおむね変わらないものと信じられてきた。ところが、ケーガン論文はそうした米欧関係を「虚構」と決めつけ、「互いに道が分かれたことを認め合おう」と呼びかけた離縁状ともとれる。

ここにもまた、これまでの歴史において、神の国であるということを米国自身が確認するために、米国の全力を尽くして世界平和を建設するという、個人における宗教テーゼと瓜二つの、旧来のテーゼは逆転した、との主張を汲み取ることができる。世界史上に類のない強大な国家となった米国は、既にして神の国であるというテーゼが確立したという主張である。

これまで述べてきたように、「米国が宗教国家であり」、その主流である「米国のプロテスタント」は「繰り返される福音主義への回帰」をその基本傾向とする中、「カルヴァン主義という底流」に苦悩してきた米国民が「米国の力による予定論からの脱出」を達成して、「テレビ伝道師たる大統領」のもとに結集しているのが現在の米国であるとすれば、ブッシュ・ドクトリンはまぎれもない、米国民の真実の声であると結論づけることができる。

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ユニラテラリズムと地球温暖化問題 (2003/7/29)

自国が他の国家との国際的関係の中で位置づけられるとすれば、たとえその国力が世界の中で比類ないものとしても、その国力が他国との相対的関係により決定されている以上、その国家の政策がユニラテラリズムであり続けることはないと考えられる。しかし、自国が他国との関係の中には位置づけられない、つまり、米国が自身を神の選民により構成された国家と看做すとき、米国は自身に対する確信の故に絶対化される。米国が世界で唯一、ピューリタンの理想が確立された国家であるとすれば、その理想を実現した神に対してのみ自らの責任を持つのは当然であり、その国家政策はユニラテラリズムの元に決定されるであろう。

このような文脈の中で、ブッシュ・ドクトリンをどのように読み解くべきであろうか。ブッシュは述べる。新ドクトリンは京都議定書と無関係、だが、10年間に経済成長18%達成の範囲内において炭酸ガス発生削減を目標の中に入れる、と。第一に、米国が京都議定書の枠組みに戻ることはないであろう。一方、米国は科学的事実として、炭酸ガス増加が将来の気候に重大な影響を与える可能性は認めている、と読むことができる。このような状況下にあって米国のとる施策方針はどのようなものになるであろうか。現在からおよそ数年間の短期的将来、10年程度の中期的将来、石油枯渇が始まる数10年先の長期的な将来予測に分けて考えてみる。

短期的には、米国が取る方策は自身の述べているように、経済成長に負の要因となるような炭酸ガス削減は実行しない。しかしながら、炭酸ガス増加の影響を認識している、という立場から、炭酸ガス削減技術開発は継続するであろう。また、米国の政策に影響を与えない限り、諸国家による炭酸ガス削減活動は許容されるであろう。

炭酸ガス増加による地球温暖化影響を最も強く受けるのが、極地域の生態であることは気候モデル計算により予測されている。また、人道的文脈において地球温暖化影響を受けるのは太平洋のサンゴ礁を基盤とする諸国である。中期的にみてこのような温暖化影響は、米国の経済と競争力に対し、何らの影響を与えないであろう。従って、中期的には、地球温暖化が米国の国力に大きな影響を及ぼすとする科学的予測結果が提出されない限り、短期の場合と同じく、米国は炭酸ガス削減を実施しないであろう。

長期的に世界全体が地球温暖化影響を強く受けるようになり、米国の国力に間接的にせよ大きな影響を与えるようになると予測された時点で、米国はどのような方策を取るであろうか。地球温暖化対策を戦略的に捉えるというブッシュ・ドクトリンから読み解けば、米国は、京都議定書の基礎となったような、各国が各々経済的には負となる炭酸ガス削減を諸国家が共同して実施しようとする動きに対して、反対するであろう。さらに米国の覇権への挑戦を許さない、というドクトリンからは、他国に対して炭酸ガス削減を求めるようになるであろう。このとき、国際通貨基金IMF、世銀IBRDも、ドクトリンの述べるように、その外交手段として活用されるであろう。

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進歩する米国 (2003/7/31)

米国には、我々からみて宗教的と感じられる習慣が何らの抵抗なく行われていると考えざるを得ない。「アメリカにおける政教分離の歴史的変遷、松村比奈子、駒澤大学公法学研究、第17.18合併号、1991」はそれ例を挙げる。例えば、大統領が、その就任演説に際し聖書に手を置いて宣誓する儀式や、法廷や公の演説でしばしば言及される神の恩恵、コインに刻まれている”In GodWe Trust”の文言、議会に専属する宣教師(チャプレン)の存在などである。憲法上に政教分離原則があるとされているにもかかわらず、コインや議会専属チャプレン制度は「ユダヤ・キリスト教的伝統 (Judio-Christian Tradition)」であるという理由で、合憲とされている。これらの現象について、松村は述べる。米国には、ユダヤ・キリスト教共通の聖書の中から生まれ、教派を超えてアメリカ市民に共有されている、アメリカの民俗宗教あるいは市民宗教(Civil Religion)とでも呼ぶべき独特の宗教的信念がある。

このような「市民宗教」は今や、「見えざる国教」として成立しているとする考えもある。「『ジョージ・ブッシュ』のアタマの中身、森孝一、講談社文庫、2003」に述べられているように、例えば、2001.9.14、ワシントン大聖堂(聖公会の教会)において開かれた大統領主催による追悼礼拝が開催された。礼拝においてはビリー・グラハムが説教を行い、プロテスタントの牧師、北米イスラム協会の聖職者、ユダヤ教の聖職者が祈祷を行った。森公一によれば、この三つの宗教の集まりにより、追悼礼拝の神はヘブライズムの神であること暗に示したものと看做し得る。米国外では独立であるキリスト教、ユダヤ教、イスラム教等が、米国内において「見えざる国教」の下に結集しつつあることは、米国の自信をさらに進歩させるものであろう。

以上において、米国の地球温暖化政策に係わる考察を行ったが、地球温暖化問題以外の、米国政府の内外に発する環境政策もこれに追随することは、明らかである。ここにおいてもまた、米国の環境政策がその基盤において、宗教と無縁ではないことに、我々は注意すべきであろう。例えば、米国では各種環境関係法令の基盤である国家環境政策法(National Environmental Policy Act; NEPA)が1970年1月に発効した。この法律は立法過程において「すべての人は健康的な環境に対する基本的かつ譲渡できない権利を有する」といういわゆる『環境権」条項が含まれていた。これは反対論との妥協により不明確な規定となっているという(「環境学概論、岡本眞一ら、産業図書、1996、125p」)。これは明らかに、米国独立宣言にある「全ての人間は神により平等に造られ、一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており云々」と共鳴している。

米国において見えざる国教となりつつあるヘブライズムが、わが国における自然環境に対する考え方と同値であるとは言えず、その宗教観に立った環境政策がわが国の一般的理解と大きな摩擦を生む可能性がある。例えば遺伝子改良作物や家畜、医療技術等にその萌芽が見える。我々はこれまで、米国発の最新技術成果を便利に採用してきたが、今後も引き続きその成果を受け取るためには、その根本もまた受容しなければならなくなるであろう。

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